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明治・大正・昭和政界秘史 古風庵回顧録 <若槻礼次郎>

■明治・大正・昭和政界秘史 古風庵回顧録 <若槻礼次郎> 20100627

 柔軟で優秀だった明治のリーダーたち。外国に学び、なんとか新しい日本をつくろうとした。民法や税制度整備、財政基盤を確立するための地租改正……、若いリーダーたちが捨て身でつくっていった。その柔軟さと発想の自由さよ。
 若槻自身は貧しい足軽の出だ。中学に進学するも貧しくて中退し、16歳で小学校の代用教員をつとめる。養父の援助で帝国大学に入った。
 大蔵省に就職し、財政基盤を確立するために地租の増税をしようとして議会と紛糾する。10年に及ぶ紛糾状態は日露戦争による「挙国一致体制」によって増税という結論でまとまった。
 加藤内閣では内相になり、普通選挙実現に注力する。貴族院や枢密院は、親の援助を受ける学生や、生活力のないものに選挙権を与えることに反対だった。ねばり強く交渉し、親の仕送りを受ける学生も有権者と認めさせた。だが、生活保護者のような立場の者は排除された。
 治安維持法は、共産主義者を取り締まる法律が必要だという議論から生まれた。普通選挙を通すかわりに共産主義者を取り締まる法律をと枢密院が求めたと木戸日記は書いているが、その以前から、そうした議論はあったという。言論の自由を奪うものだと新聞関係者や衆議院からは猛反対が起きたが、「共産主義者だけを対象にしたものだ」と説得することで通したという。だが一度つくられた法律は一人歩きする。時代がすすむにつれて最高刑は死刑に引き上げられ、共産主義主義者以外の民主的な人々を弾圧する道具になった。「形」やタテマエは大事なのだ。
 ロンドン条約の全権大使も務めた。米英日の駆逐艦の比率を、数カ月にわたる必死の交渉で締結にこぎつけた。これが「外交」なのだと思う。米国の言うことを唯々諾々ときく普天間基地を巡る外交とはレベルがちがう。条約を成立させたら国内の軍部からにらまれる。外とたたかうことは、内とのたたかいも意味するのである。その言葉は今も普遍性をもっている。ロンドン軍縮によって浜口首相は銃撃される。交渉に携わった海軍軍人はその後冷や飯を食うことになる。
 陸海相は現役軍人に限るという規定は、実は一度撤廃されていたのに、広田内閣のときに復活し、それが政治の軍事化をすすめる大きな要因となった。「統帥権」が幅を効かし、軍部をおさえられなくなる。満州事変が起きると若槻内閣は不拡大方針を示し、天皇もその方針を支持する。だが現場は言うことを聞かない。それどころか「陛下に悪知恵を吹き込んだ」として側近を逆恨みする。最高権力者である天皇でさえも抑えられなくなってしまった。
 対米開戦にも若槻らは反対したが、「外交が行き詰まってどうしうようもない……」などと、先の展望もないままに戦争に突っ走った。戦争中、重臣たちに対する戦況報告も、国民に対するものとほとんど同じで、楽観論ばかりだった。軍による嘘が、内閣をだまし、重臣をもだまし、天皇をもだました。軍のトップもいつしかその「嘘」をもとに動くようになった。もはやだれも責任ある決断をくだせない状況に陥っていた。

 明治初期、あれだけ柔軟で優秀だった日本のリーダーたちが、なぜそんな愚かな判断をくり返すようになるのか……。統帥権、現役軍人制……さまざまな要因があるが、基本は民主主義の欠如、あるいは天皇制という制度設計に問題があったのだろう。久野収や鶴見俊輔の唱えた「顕教と密教」の説明がもっとも当を得ているような気がする。
 天皇という表の権威(顕教)をタテマエとして利用して、近代化をはかる意志(密教)を実現しようとしてきたが、いつしか顕教が国民を覆い、元老たちが求めた「近代化」への意志を屈服していった。
 そんな過程がよくわかった。
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 ▽25 「万歳」の発祥。英語なら王に対して「セーブ・ザ・キング」、フランスなら「ブラボー」という唱和する言葉があるが、日本には天皇を歓呼する言葉がなく、ただ最敬礼するばかりだった。経済学教授の和田垣謙三博士が「万歳、万歳、万々歳」を提議した。が、突然の歓呼で馬車の馬が棒立ちになり、第2声は小さくなり、第3声の「万々歳」は唱えないままになってしまった。
 ▽33 松江の奥村という貧乏な足軽の家に生まれた。実母は3歳で亡くなる。養子になった若槻家の当主は実母の弟だった。だから家内とは従兄妹同士。

 ▽36 小学校を出て、漢学塾へ。中学に入ったが学資がなく、退学。16歳で大谷の代用教員に。校長先生は私のことを「旦那さん」という。田舎の人は、貧富を問わず、松江から来た人を旦那旦那と呼んでいた。給料の高い簸川郡の今市の大津小学校へ。
 ▽44 学生時代はひたすら歩いて旅。宮本常一のよう。
 ▽66 日露戦争までの10年間、地租の増税をするとかしないとか、内閣と議会がやりあっていた。だが戦争が起こり、挙国一致ということ増税。年貢は、生産量を毎年調べて決まる。こうした検見で税を取るのでは、租税が確立しない。田地の値段の見積もりを立てて地価をきめ、それに対して一定の率の租税を金納とすることに。実地に反別を確かめ、米の出来高を調べ、周辺の金利、その地方の米価……を調べ、地価を決める。5,6年かかった。地価の100分の1が地租とされたが、しだいにあがり、100分の2.5に。明治政府の財政の基礎は、地租改正によって確立された。
 ▽77 西園寺首相の満州旅行。当時の満州は戦勝の余威をかって、軍人も在留邦人も威張り散らすので、満州の官民は弱っていた。……西園寺公は相当な礼遇を与えたから、印象が非常によかった。
 ▽98 鉄道国有案 日露戦争後、西園寺内閣が、国有にして全国の交通網を統一することに。加藤高明は閣議で反対して外務大臣をやめた。……イギリスでさえも、労働党内閣でとうとう鉄道を国有にした。フランスも国有にした。社会政策を実行するとなれば、国有にすべきである。しかし、弊害も。政友会が鉄道の敷設を利用して党勢の拡張を図った。山の中などへどんどん鉄道をかける……こういうやり方はいけない。(〓)

 ▽129 井上侯の病気が治り、園遊会。伊藤公と井上侯とが抱き合って泣いている。伊藤公は「お前死んじゃ困るから、大事にしてくれよ」と言うと、井上侯は「お前こそ大事にしてくれ」といって、抱き合ったまま2人でおいおい泣いておられる。両元老の切々たる友情!
 ▽149 河川改修の15年計画。財源たる預金部の金に政府が手をつけたのは、この時がはじめて。預金部からの借金であって、都合のつき次第、これを返した。唱和17、8年ごろから、この預金部の金を、返す見込みもなしに、方々で使い出した。そのため預金部が破綻を来すようになった(〓財政投融資のはじまり?)
 ▽153 幸徳一派の大逆事件。今までの政治は、社会の上層や中層に偏していて、下層にまで注意が行き届かない。それが不祥事の一因であるに相違ない。貧乏人でも病院に行けるようにしようと、下賜された御手元金を基にして、恩賜財団済生会ができた。
 ▽163 
 ▽167 桂公の訪ロ。
 ▽190 大隈内閣 海相に八代大将。そのとき八代は、秋山真之という少将をつれてきた。次官をやれ、と、八代は秋山に言ったが、秋山は固辞して「鈴木貫太郎がいい」。
 ▽195 立憲同志会は「軍事費に手をつけなければ、財政整理はできない」と唱えていた。そのため大隈内閣は国防会議を開いてその調査をしようとした。ところが陸軍大臣の岡市之助は、国防ということは統帥権で、これは軍人がやることだ。文官などが参加して容喙すべきことじゃないという。……
 ▽223 大隈が内閣を退いたのを機会として、立憲同志会と大隈侯後援会とが合併して憲政会を組織し、加藤伯が総裁となった。
 ▽229 シベリア出兵 ロシアにいたチェコ人をシベリアから助け出すため、米国が義兵を出すことに。米国も7千人ほど出すから、日本も……と要求してきた。寺内はこれに応じて3個師団7万人くらい出した。米国兵はその目的を果たし、帰国したのに、日本軍は、独立軍のようなものを助けるといって、遠くオムスクまで行った。シベリアの東半分ぐらいを取ろうという下心があったのであろう。それでは救援ではなく侵略である。
 ▽235 普通選挙 加藤総裁の意見は、納税の制限を取ることはいいが、独立の生計を営むということが必要であるということだった。独立生計論を巡ってごたごたした。2,3年かけて加藤を説得。
 ▽239 政友会の原内閣は陪審法案を議会に出した。若槻は反対した。
 ▽241 ロンドンでは、事務所で隣に座っている人とも口をきかない。日本人なら毎日あえば「おはよう」とか話しかける。フランス人でも親しくなる。だがイギリス人は、だれかが紹介して、「どうぞ交際してください」というと、親しくなるが、それがなかったら、1年中顔を見合わせていても、親しくならない。だがイギリス人のいっぺんつきあうと、とても親切である。
 ▽247 陪審法案は成立したが、陪審を請求する者が案外少ない。陪審員の名簿づくりや届け出や呼び出し……いろいろと面倒と費用をかける。戦時になって、これを停止することに。
 ▽260 普通選挙法案議会へ。枢密院と貴族院が難関だった。枢密院は「他人の救助」を受ける者はいけないと言い出した。その裏には、学生なぞに選挙権を与えるのはいかんという頭がある。妥協で「救助」を「救恤」に。今度は貴族院が、「他の救助を受くる者」はいかんという修正案が通過した。元へ戻された。貴族院の修正の上に「貧困のため」と書き入れるよう提案。これで救恤と同じ意味になる。
(学生の選挙権を認めようと努力。一方で、保護世帯には選挙権がないという発想〓)
 ▽267 治安維持法も内務大臣の時に出来た。もともとからの課題で、朝憲紊乱とか国体変更とかを企てたものは懲役に処すというようなものだった。これに対して、新聞社が反対した。朝憲紊乱というようなことでは、新聞で枢密院の廃止とか、貴族院の廃止とかいうことを書いても罰せられることになる。……ということで、不成立に。だが、社会主義が世界に広がる恐れがあるため、取り締まる法律が必要だということになっていた。私もやむを得ないと思ったから、名前を治安維持法とし、朝憲紊乱などという、解釈のどうでも出来るような字句を除いて議会に出した。それでも不安が強いから衆議院が容易に可決しようとしない。「共産主義と新聞の自由な意見とが混同されやすいからいかん」という。国体を変更すること、私有財産制度を否認することの2つさえ取り締まれば、その他は取り締まる意志はないと説明した。それで異論がなくなった。治安維持法は田中内閣になって改正された。条項には手を触れなかったと思うが、罰則を重くした。
 ▽315 ロンドン条約 首席全権。山場を迎えて英米の代表とじかに話す。「自分の生命と名誉を犠牲にして顧みないという覚悟を決め、この会議に臨んでいる。なんとかまとまりがつくならば、自分の生命と名誉のごときは、なんとも思わない……」マクドナルドはよほど感動したらしく、私の言葉に対して可否を言わず、黙って握手して帰っていった。
 ▽320 条約調印の晩、70人で慰労の晩餐会。条約に不満の軍人たちが「こんな条約で、どうして国家を護ることが出来るか」という。激昂して鼻血を流している者もいる。……とにかく、なんでもそうであるが、外へ向かって戦うことは、同時に内に向かって戦うことであり、それでなければ、事はまとまらんものである。
 ▽324 海軍次官の山梨勝之進は、海軍内をまとめるのに尽力。それらはみな後に外に出され、不遇だった。軍縮会議にかかわったという理由で海軍がその人たちを冷遇したということを聞くと心中不愉快にたえなかった。山梨は「軍縮のような大問題は、犠牲なしには決まりません。だれか犠牲者がなければならん。自分がその犠牲になるつもりでやったのですから、今日の境遇になったことは、少しも怪しむべきではありません」と言った。(外交は「人間」がするということ。身を擲つ覚悟のある人間がいてはじめて外交は成り立つということ)
 ▽334 満州事変の時、再び首相に。事態を拡大せしめないという方針を定めた。毎日のように閣議を開き、陸軍大臣を促し、命令の不徹底を責めたが、満州軍の行動はどんどん進展する。「そのままにしておくと、居留民が危害を被る恐れがあるから、やむを得ず進撃するのだ」と弁解する。満州軍が鉄道線路の西側に進出したのは、○○の鉄橋を護らなければならないからだという。そおで止まるかと思えば、敵が近くにあって安心できんといって、更に進出する……
 ▽338 錦州に軍が近づく。もし我が軍が錦州を陥れるような事があれば、日米の関係は緊迫を加え、日本はどういう運命になるかわからん、と申し入れた。……幣原のこの言を聴いて、事態の容易ならざるうことを知ったとみえ、軍令を出して、満州軍は現に留まっている所から一歩も進んではならんと命令した。私の内閣の続いている間は、錦州に入らなかった。入ったのは、犬養内閣になってからである。
 ▽348 斉藤内閣の下で、満州軍は北支へ。民政党の午餐会で、「財政との調和を無視し、国民の負担を顧みないで軍備を拡張すれば、大砲はできるだろうが、その大砲を牽く者は骸骨であるということになる」と演説した。元来今日は、日本より進んで戦争をしかけなければ、いずれの国からも、日本は攻撃されることはないのである。……と演説した。翌日、東京の各新聞は「国防の充実を妨げる者は、いかなる地位にある者でも、容赦なくひっくくってしまう」という陸軍大臣の談話を掲載した。
 ▽355 岡田内閣。このころから、軍部の勢力が次第に増大し、国策は、軍部の意向に添うものでなければ多くは行われない。政党員の中においても、軍部の意を迎えて政権に近づく機会を得ようとするような空気がみなぎってきた。〓……私が強いて総裁の地位に留まるべき理由は全然消滅したといってよおい。
 岡田内閣の2・26事件。それ以来、しばしば内閣が変わったが、政治はますます非となり、民権の圧迫、対外関係では冒険政策、ことごとく私の意見に反するものばかり。懊悩煩悶。私と同様の憂いを抱いていていた松村義一、鳩山一郎、殖田俊吉、吉田茂、芦田均の諸君と意見を交換し、私どもの意見を世間に知らしめるよう心がけた。……殖田が憲兵に捕らえられ、吉田も憲兵にやられた。もう一歩行くと、今度は私の所へ来るだろうと覚悟した。
 ▽361 いかに卓越した政治家も、軍部の支持がなかったら、1日も地位を保つことができないという状態だった。軍部の信用が比較的厚い近衛公を首相にと、昭和15年の重臣会議で発議した。
 ▽368 近衛公の進歩的思想には敬服していた。しかし、内閣に立って、「蒋介石を相手にせず」と宣言して平和の回復を困難ならしめ、大政翼賛を呼号して思想の自由を束縛したことは、私の最も反対したところだった。
 戦局を拡げておいて、中国の主権者の蒋介石を相手にせずなどと言えば、平和を求める端緒がない。東洋の新秩序を定めるとかいう。まるで子供の戦争ごっこをしているような話で、政治にも外交にもなっておらん。
 大政翼賛会や翼賛政治会など言語道断。各政党が解答し、翼賛政治会となった時、「貴族院議員で翼賛政治会に入る希望があれば申し出てもらいたい」と言ってきたから、「希望仕らず候」と書いてやった。
 衆議院の総選挙が行われると、軍人の内務大臣が采配をふり、県知事などが調子を合わせて非常な選挙干渉をやった。
 ▽374 東条首相は毎月1回、重臣を招いて戦況を報告したが、その内容は新聞に公表されたものと大差ないものだった。私どもは国民と共に、政府の欺瞞するところとなっていた。報告によれば、ミッドウェー海戦は勝ったようになっていたし……(〓国のトップの重臣にさえも嘘しか入らない。嘘をついたつもりが、リーダーが嘘にしばられていく)
 東条首相を華族会館に招待。「制海権、制空権を持たないで、英米撃滅などできるか」今回の戦争は勝負なしで終われば上々だ。それには平和回復の糸口を見つけることが大事だ。糸口の発見のためには、中立国人も対戦国日も自由に往来しうる所へ、有能な人物を派遣しておいて、その交遊を通して、なんかの話の間に、ぽいと機会を捕らえるよう試みなければならない。……と話すと、東条は「それはその通りだが、今日となってはすでに交通が途絶し、策の施しようがない」と苦笑しておいった。要するに政府は、戦う一方で、ちっともそういう方面のことに考え及ばず、考えたころには既に手遅れということ。
 ▽385 宇垣一成は、加藤内閣のとき、軍縮をおこなったから陸軍部内から反対されていた。4個師団を縮小するかわりに、飛行機部隊とか戦車部隊とか、機械化の特別部隊を増やすことにした。……軍部の反抗のため総理大臣にならなかったが、私は彼に尊敬を払う。宇垣・岡田・米内と私がキーナン検事に招待されたとき、キーナン検事は「平和の愛好者というのは、本当にあなた方4人だ」といった。
 ▽387 山県公が内閣に立ったとき、文官任用令をつくって、試験を受けた者でなければ役人になれないことにして、政党員の締め出しをはかった。また、懲戒委員の議にかけなければ、役人は容易に辞めさせないということにした。管制も改正した。そのなかに、陸海軍大臣は現役の陸海軍大将または中将に限るとちょっと書いてある。これが物を言う。この陸海軍大臣の現役制は、大正の初年、山本権兵衛伯は、組閣の障害になる制度はよくないと感じて、「現役の」の3字を削るよう枢密院に諮詢した。枢密院議長だった山県公は大反対だったが、山本は猛然と立ち向かい、実現させた。軍部の反対がないから内閣の組織がすらすらできることになった。
 ところが昭和になって、広田内閣ができるとき、寺内が陸相になるにあたって「現役でなければんらなうことにしてもらいたい」と求め、広田は認めてしまった。それ以来、陸軍がまた暴威をふるうようになった。
 ▽392 当局が戦争の前途を奏上するにあたって、常に楽観的に申し上げる傾きがあることを恐れ、政府と、陸軍と、海軍とを別々にお召しになって、腹蔵ない意見をお聞き遊ばされたい旨を言上した。……
 ▽396 愚かな本土決戦。大砲や機関銃や戦車や飛行機に向かって、猟銃や竹槍で対抗しようとするのは、いわゆる蟷螂の竜車に向かうの類である。休戦はもはや焦眉の急といわなければならない。
 ▽448 解説 平沼の回顧録で、普選についての枢密院の審議の際に「共産党の結社禁止をやらねば普選に同意せぬと言ったので、遂に若槻が同意した」とのべている。
 ▽451 大正15年の朴烈事件。これが大問題となったのは、若槻はふれていないが、北一輝が朴烈と文子の抱擁写真を手に入れ、それを付した怪文書を頒布したからだった。
 ▽461 ロンドン条約がきっかけになって、浜口首相が狙撃されて重傷を負い、第2次若槻内閣に。最大の問題は満州事変。「木戸日記」が若槻が責任を回避して元老らに援助を求めたとしていることについて、若槻は、「誤りだ。事件の真相を報告しただけ」。
 ▽462 天皇が不拡大方針を「結構」と言うと、側近の入れ知恵だと軍部は憤慨する。……軍の反感から天皇側近を守るため、側近が内閣の不拡大方針を支持するような行動をとるべきではないとしている。その意味で、満州事変とそれをめぐる国内の危険な状況の解決を、不拡大方針の再検討をも含めて、内閣が独自の責任において行うよう求めたのである。この点からも、若槻が不拡大方針を多少は譲歩するとしても、それを守っていくことは困難だった。そして若槻は次第に弱気になり、この前後に辞意をもちはじめたのだろう。
 ▽470 日米開戦をめぐっての近衛と東条陸相の対立で10月総辞職のあとの元老会議。若槻は、日米戦争について、「所謂じり貧論を聞くが、これ程危険な話はない。……外交交渉の目途がなくなったからとて、直ちに開戦というがごときはいかなるものだろうか。もう少し政治的の考慮があってよいのではないか……シナ事変も既に4年を費やしているのだが、一体、対米戦争は何年位かかると思っているのだろうか」「東条陸相(が首相)ということになれば、外に対する印象は悪いと思う。外国に与える影響も余程悪いと思わねばならん」と東条反対論も展開。……はっきりした日米開戦反対論だった。

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