NTT出版 20061025
歴史を一直線の流れとみる「歴史主義」ではない。「今」の時点から未来をみると多くの選択肢があるように、過去のある1点においても多くの選択肢のなかから1つを選択した。歴史が一直線だとしたら運命論的になるが、複雑系だと考えると、個人が歴史に思わぬ影響を及ぼすこともありうる。そう思えたから明治の青年は身命を賭したし、現在においても希望を抱くことができる、と説く。
ちなみに、明治の青年たちを持ち上げる人々は、「歴史に『もしも』はない」という言い方をするが、これは矛盾しているという。
筆者独特の構造主義的な視点から、「あのときもしもこうだったら」と問いかけ、アメリカと日本の関係を切っていく。
アメリカンヒーローと、日本のロボットヒーローの比較。スローフード運動が実はファシズムと親和性があること……といった意外な指摘を加える。
アメリカは建国当初に「理想」を実現していたから、「今よりよい国になる」ための制度を整備することより「今より悪い国にならない」ための制度を整備することに腐心した結果、なんやかんやいっても現在まで繁栄を継続できているという指摘も新鮮だった。
こういうアメリカ論を読むと、構造主義を勉強しなきゃな、世界史を知っておかなきゃな、と思わせられる。
———–以下 抜粋など————
▽「ナショナリズムは国民意識の覚醒ではない。もともと存在していないところに国民を発明することだ」幕末の危機とは、「日本らしさ」が脅かされたということではなく、「日本らしさ」とういそれまで考えずにすんだ主題が浮上してきたということである。
「ロール・モデルとしての清朝」の没落に際して、ナショナル・アイデンティティをどう基礎づけたらよいのかがわからなくなった。まさにそのときペリー提督の砲艦が来航する。この瞬間に、千年来の「ロール・モデル」であった清を見限り、「私たちが『それではない』ことをアイデンティティの基礎づけとする他者」として、、太平洋の彼方の国を選んだ。「国民的欲望の対象」を中国からアメリカにシフトした。……という仮説
▽本来、靖国参拝はアメリカの逆鱗にふれてもおかしくないのに、そうならない。それは、靖国参拝がアメリカの国益にかなっているからという以外に理由を見いだすことはむずかしい。「日中韓の接近を阻止する」というのがアメリカの極東戦略の要諦である。アメリカが東アジア政局にコミットできるのは、日・中・韓・台湾・北朝鮮の間に不協和音が響いている限りのことである。
アメリカが日本に期待しているのは、他の東アジアの国々と信頼関係が築けず、外向的・軍事的につねに不安を抱えているせいで、アメリカにすがりつくしかない国でありつづけることである。日本は強くなってもならないし、弱くなってもならない。
アメリカは同時に平和国家であることと軍事国家であることを日本に要求した。
▽「すでに起きたこと」を「まだ起きていないこと」として「かっこに入れる」想像力の使い方:「系譜学的思考」。 歴史学的思考が、過去から未来に向かって、一直線に進む「鉄の法則性に貫徹された」歴史の流れを想定するとしたら、系譜学的思考はその逆に、現在から過去に向かって遡行しながら、そのつどの「分岐点」をチェックして、「どうしてこの出来事は起きなかったのだろう」というふうに考えてみることです。「選ばれなかったオプション」について歴史の教科書は決して言及しません。
「もしも南北戦争で南軍が勝っていたら?」 北と南の闘いには、民主制対貴族制、工業社会対農業社会、近代対前近代……といったいくつもの層があった。都市型の近代資本主義陣営が圧勝して、アメリカ全体が一気に「北部化」する。
今、未来を見るとそこに無数の選択可能性が見えるということは、過去における未来もそのように見えていたということです。
▽明治初年の青年たちのことをほめあげる保守系の政論家や歴史家はたくさんいます。でも、その青年たちが政治や外交に命がけでコミットできたのは、「1人の人間の決断が国の運命を変えることもある」と思ったから。でも、明治の青年を賛美する人たちは、同時代の若者に向かっては「歴史に『もしも』はない」と言う。「人間は結局決められた台詞を読み上げる以上のことはできないのである」と説教している。それって、なんか話のつじつまが合っていないと思いませんか。
歴史は、わずかな入力の差で劇的に変わることがありうる複雑系です。歴史に「もしも」を導入するというのは、1人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるかについて考えることであって、それは自分が今投じられている世界の構造について好奇心をもって観察することに、さらにはこの自分自身の一挙手一投足がそのまま未来に対して決定的な影響力を及ぼすこともあるのだという希望を持つことに通じると思うのです。
▽イタリアのスローフード運動は、マクドのローマ出店に対する批判の運動として、伝統食文化を守れ、というスローガンのもとにピエモンテで始まった。ピエモンテは、北部同盟の拠点の一つであり、地域主義的、伝統主義的傾向をもち、ムッソリーニのファシズム運動が生まれた都市でもある。スローフード運動は、ファシズムと北部同盟が生まれたのと同じ土地から発祥していることは見すごすことができない。
「伝統食文化の固持」というスローガンは、1920年代のドイツでも唱えられた。美しいドイツ固有の伝統食に帰ろうという運動はそののち「ユダヤ的都市文化からゲルマン的自然へ」を呼号するヒットラー・ユーゲントの自然回帰運動に流れこんだ。
自然食運動は、例外なしに反近代、反都市、反資本主義、反市場主義的なメンタリティを惹きつけ、ある種の「大地信仰」に結びつく。その土地に生きる人間は、その土地で生育された固有の食物を、固有のレシピで食べるべきである。その土地に生きる人間が必要とするすべてのものは、その土地の自然な食物のうちに含まれているから……というもの。(身土不二) ひどい排外主義をもたらしかねない。
私たちが「伝統」とか「固有の」とか思っているもののかなりの部分は伝統的でもオリジナルでもなく、ちょっと前にどこかから入ってきたもの。
スローフード運動では、伝統的食材を提供する小規模生産者、そのような伝統的な生産形態を変えるな守れ、という発想が透けて見える。この発想は、家族形態、宗教、文化などのあらゆるものの固有の伝統を守れという思想へリンクする。
フランスの反ジャンク・フード運動も、ルペン率いる極右の国民戦線とその支持層が一部分かぶっている。
「玄米正食」をして、身体はクリーンになり、精神もクリーンになった。そうすると、肉や添加物が入っているものを食べている人間を見ると、「ゴミを食べている」ように見えてきた。友人を失い……わが身の健康を棄てて、ジャンクな食物と友情を選ぶことにした。爾来、他者の食習慣を批判し、「これが正しい食事だ」と主張する人々に対してわりと懐疑的……。
▽アメコミ 出版社がコピーライツをもち、描かせるから、スーパーマンとかスパイダーマンとかバットマンは何十年も連載がつづく。これは「アート」ではなく「商品」。作画技術はまったく進歩がない。それは、画家にオリジナルの画風を改編することが許されないから。会社には芸術的創造はできない。
日本の一流漫画家たちの多くが「物語」としての漫画と、「物語を創造しつつある漫画家」自身についての「バックステージ」漫画の二種類を描き分けている。これに類することを自分に課している小説家がどれだけいるか? (私が知る限りでは高橋源一郎あるのみ)作家自身が物語を生み出しつつ、そのような物語を生み出しつつある自分をも見つめるという複眼的な視座をビルトインしているということが日本の漫画の絶えざるブレークスルーを可能にしているのでは。
▽アメリカンヒーローは、国際社会におけるアメリカのセルフ・イメージを投射したもの。日本のヒーローは、ほとんど同じ説話原型をくりかえす。「無垢な子供しか操縦できない巨大ロボット」という物語。鉄人28号、魔神ガロンから始まり、マジンガーZ、ガンダム、エヴァンゲリオン……。巨大でメカニカルなモンスターは、無垢な「心」が入っているときだけ正しく機能し、「心」を失うと暴走してしまう。ここには日本人の二つのねじれが入りまじっている。
自衛隊と憲法9条。「モンスター」は軍国主義の記号で、「少年」は戦後民主主義の記号。「子供」に巨大な暴力装置の操縦が委ねられたのは、子供が軍国主義イデオロギーの汚染をまぬがれていると信じられていたから。50年代の日本社会がどれほど「子供の無垢」を理想化していたか、「子供の判断」の確かさに過剰な期待をよせていたか。「君たち戦後生まれの子供たちが日本の未来を担うんだ」というようなことばが、本気で口にされていた。
▽アメリカは理想の国をすでに達成した状態からスタートしたから、アメリカの建国の父たちは「今よりよい国になる」ための制度を整備することより「アメリカが今より悪い国にならない」ための制度を整備することに腐心した。前提には「人間はしばしば選択を誤る」というリアルな人間観であり、その上に「誤った選択がもたらす災禍を最小化する政治システム」を築いた。「多数の愚者が支配するシステム」の方が「少数の賢者が支配するシステム」よりも建国時の初期条件を保持し続けるためには有効だと判断した。
▽戦争の物語化 アメリカは戦死者数が相対的には少ない国。第二次大戦でも29万人。……戦況が確定した時期に、なお原爆投下に踏み切ったのはアメリカ将兵の戦死者をこれ以上増やすことに世論から強い不満があったからだと言われている。が、2発の原爆で、太平洋戦争でのアメリカの全戦死者数より多い30万人の日本人が殺された。
戦争によって生身の非戦闘員が殺傷され、都市が焼尽しというリアルな事実を自分自身の国土の中では一度も経験したことがないという歴史的事実が関与しているように思われる。
アメリカ正規軍が自国領土内で他国の軍隊に攻撃されて死傷者を出したのは歴史上たった2回しかない。1回目はスー族がカスター将軍率いる第七騎兵隊を全滅させたとき、二回目は真珠湾。いずれも徹底した「復讐」がなされた。……自国民の死者のためには必ず報復をするし、つねに実際の損害に比べても強い被害者意識を持つ傾向にある。でも、自国軍が殺傷する他国民については気にならない。
▽ヨーロッパでは、「子供は無垢で愛すべき存在である」とみなす心性の伝統そのものが存在しなかった。
▽連続殺人 基本的に先行する同じタイプのシリアル・キラーの殺害方法、死体処理方法などをそのまま模倣する。だから、手口から犯人のタイプの特定が可能となる(プロファイル)。犯罪自体の異常性にかかわらず、行動が驚くほど標準化されている。アメリカの場合、エド・ゲインが原点。殺意が「外から」到来した、というのも共通点。「悪霊」による連続殺人は、個人的な怨恨や憎悪に基づいた殺人よりも無個性的でマニュアル化されたものになっていく。殺人を重ねるごとに、具体的な個人の生活の水準を離れる。殺せば殺すほど自責の念を免れる。(殺しているのはもはや「私」ではないから)
▽清教徒たちは理想の「聖書国家」をつくろうとした。ハーバードの初期の卒業生の5割は牧師になった。知性と信仰のバランス。
これがフロンティア拡大期に一気に崩れ去る。開拓時代に、急激なモラルハザードがおき、無法の時代が到来する。そこに「大覚醒運動」という宗教復興運動が起き、伝統的な学識ある牧師が駆逐され、無学であるが宗教的熱情に駆られた人々が布教の前衛となる。 清教徒の時代がおわり、福音主義の時代が始まる。
▽訴訟社会 マクドナルド・コーヒー訴訟 コーヒーをまたにはさんでふたをとろうとしたところひっくり返し、やけどを負った。賠償290万$の判決。……陪審員のなかに議論で巧みなリードをする人間がいれば、評決がかなりコントロールできるという致命的な問題点。
▽時代を超える文章 トクヴィル
彼がアメリカ論を、アメリカのことをほとんど何も知らない読者を想定して書いたから。トクビルの「アメリカにおけるデモクラシーについて」