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敗戦後論 <加藤典洋>

 ちくま文庫 20061008

■敗戦後論

護憲派は、押しつけ憲法、という「汚れ」をなかったこととして、戦後民主主義をピュアであることを主張しつづける。大江健三郎がその代表だ。
改憲派は天皇の戦争責任という自明な事実を無視して、同じくピュアであるという幻想に生きている。江藤淳がその代表とする。

前者は本来、「押しつけられた」という汚点を真っ正面から受け止め、もう一度憲法を選び直すこともできたはずだ。
後者は、天皇の戦争責任をきちんと指摘したうえで、「責めはしないが正しくない」という態度をとりながら天皇を敬うこともできたはずだ。なのにどちらも、「ピュア」で無垢であうると思いこもうとしてきた。
「アジアの犠牲者に謝罪を」と訴えて加害の歴史を見つめる護憲派は、被爆者を清いものとするが、自国の戦没兵士たちをないがしろにする。
自国の英霊を「清いもの」としてまつりあげる人たちはアジアの犠牲者を無視する。
双方とも、死者を「清い」無垢な存在として祀ろうとしている点が似ている。そうした戦後日本のあり方を、ジキルとハイドのように人格が分裂している、と筆者は見る。

そんななか、ほとんど唯一、両者の枠にはまらななかったのが大岡昇平だという。
彼は「敗戦」という「汚点」を背負いつづけた。特攻隊の若者の意志の力を評価し、同時に愚かな指導者たちを糾弾する。「英霊」というとき、ピュアで無垢な存在となってしまうが、それに対して個別具体的な戦没兵士たちの悲惨な生き様を「レイテ戦記」で描くことで抗する。その結果、「フィリピン人はもっと苦しい思いをしたのではないか」という考えに近づいていく。
死んでいった兵士たちの気持ちに寄り添うことからまずはじめ、アジアの犠牲者に思いを馳せていくという道筋である。敗戦という「汚れ」を正面から受け止めることで可能になる、とみている。

■戦後後論

石川淳も坂口安吾も、戦争を戦後になってえがいている。戦後への時局迎合に近いものがある。「戦前に書かれていたらもっとすばらしかったのに」という感想が入る余地がある。
だが、太宰治だけは、戦時下こそ戦争中の話を書いているが、戦後になると、戦争中の話は書いていない。戦前と戦後のあいだの水門が開かれても、ぴくりとも水が動かない。太宰にとって文学とは、自分以外のものに動かされないことだった。
「敗戦後論」の後編。敗戦後論は政治に焦点をあてているが、こちらは文学、とりわけ太宰治に焦点をあてている。

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【敗戦後論の抜粋・要約】
▽大岡 「僕はひそかに誓いを立てている。外国の軍隊が日本の領土上にあるかぎり、絶対に日の丸をあげないということである。われわれを負かした兵隊が、そこらにちらちらしている間は、日の丸を上げない。これが元兵隊の心意気というものである」「……復員船になり下がった信濃丸で、船尾に日の丸が下がっていた。海風でよごれたしょぼたれた日の丸だった。私が愛する日の丸は、こういうよごれた日の丸で、『建国記念日復活促進国民大会』なんかでふりまわされるおもちゃの日の丸なんか、クソ食らえなのだ」
……なぜテレビに映る日の丸が彼を「いやな気」にするのか。それは清潔で潔白だ。それは戦争を通過していない。
▽戦後の改憲派、保守陣営と護憲派、革新陣営の対立。ここにあるのは「清く潔白な」日の丸と赤旗の対立なのだ。(大江健三郎と江藤淳)。ところが大岡は、建国記念日の復活をとなえる日の丸に、「逆コース」にたいする憤慨とは違う、「いやな気持ち」を置く。日の丸に対するに「汚れたしょぼたれた日の丸」を置くという、別種の対置なのである。
▽彼は、「英霊」と呼ばれるものに膨大な地名と人名と部隊名を対置する。彼は、死者を名前のある兵士として取りだすことであの「英霊」なるものの虚妄をついている。「英霊」なる観念から一人一人の兵士の死を奪回している。それだけではない。……「レイテ島の戦闘の記録を書き終わった時」、最後、「結局一番ひどい目にあったのは、フィリピン人ではないか」と感じるのである。

【戦後後論の抜粋・要約】

▽「戦艦大和ノ最期」の大尉が示唆するように、無意味であるがゆえに、無意味さゆえに、深く哀悼することは可能である。それがなされなければならないにもかかわらず、なされていない。自国の300万の無意味な死者を無意味ゆえに深く哀悼することが、そのまま2000万人のアジアの他者たる死者の前にわたし達を立たせる、その踏み込み板になる。そうならない限り、日本社会総体がアジアの死者に謝罪するという形は、論理的に、追求不可能である--
▽高橋は、自己を作るのは他者との出会いだ、といっており、わたしは、自己がなければ他者に会えない、といっている。
▽政治と文学 先の回に「文学」を代表して「政治」の側を批判したものが、必ず次の回には「政治」代表に立場を変えている。最初は文学代表としてプロレタリア文学のなかの少数派だった中野が、次の回では戦前のプロレタリア文学を背負って「政治」代表となり、「近代文学」の荒らの攻撃を受ける。第3回になると、「近代文学」が「左翼性がいまや古い」と奥野健男の攻撃にさらされる。80年代になると反核運動がおこり、奥野を含む大半の文学者がこれに参加し、吉本隆明の攻撃を受ける。市民主義的ヒューマニズムがソフト・スターリニズムの相関物になっている、と、「ヒューマニズムの政治性」を批判される。
「芸術に政治的価値なんてものはない」→「文学にプロレタリア文学(党優位の文学)なんてものはない」→「『政治と文学』なんてものはない」→「政治なんてものはない」
吉本のいる第5の円の外にもう一つの円ができようとしている。マルクス主義という名の他者の思想-正しさの思想-とそれに抵抗する文学という……

▽転機とは、果たしてそうドラマチックなものだろうか。それはむしろ、自分は時代の転変に影響された、と率直に自分の弱さを認められないばかりに人が考案する、自己劇化の産物なのではないだろうか。太宰は転機を疑う。8月15日は、誰とも違う仕方で通過される。
彼は8月15日に影響されることに自分の文学ほ敗北を見る。
▽「巨きすぎてつかまえどころのない動静」を前にして、ひとは一つの盲目状態におわれる。そこで語られることは誤っているかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、その誤っているかもわからない考えを、必ず、後でではなく、その場で、公言する。……小林秀雄が1937年に書いた「戦争について」は、知的な西欧派知識人の立場から、一転、はっきり戦争肯定にふみだした文章として知られる。……わたしはこの文章を批判したが、書きながら、なにか、この批判の文章が、小林の文に負けている、という感じを否めなかった。
▽太宰の「お伽草紙」は1945年2月から7月にかけて執筆。ここにある強度が「誤りうる、だから、かけがえのない」思想なのだ。

【語り口の問題の抜粋・要約】■語り口の問題

ドイツとユダヤ人問題と、日本の戦後問題の比較。
▽なぜ人は、たとえば南京大虐殺、朝鮮人元慰安婦といったようなことがらに関し、「無限に恥じ入り、責任を忘れない」というような語り口に接すると、そこに「鳥肌が立つ」ような違和感を生じるのか。
こうした語り口の特徴は、それが公共性に達しておらず、共同的だということである。旧護憲派は2千万の他国の死者の前で「無限に恥じ入り…」といい、旧改憲派は、三百万の自国の死者を哀悼するため、侵略戦争をそうではない義のある戦争だといいつのり、「国家国民は汚辱を捨て栄光を求めて進む」といった。この語り口が相似的なのは、共同的だからであり、死者との関係がともに共同的だからである。両者が共同的であることが、彼等を一国内で分裂させている。かつては、死者に対して共同的であることが国民国家に基礎を提供した。第二次世界大戦は、この共同性の器を壊したのである。以後、悲しみはわたし達を一つにしない。悲しむと、それはわたし達を分裂者にするのである。
……敗戦のねじれの抑圧に起因する共同性をどう解体し、公共的空間に変えることができるかが、日本の「受難」からの回復の糸口だと考えている……

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