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対論異色昭和史 <鶴見俊輔、上坂冬子>

 PHP新書 1090723

 鶴見俊輔が、右派の上坂と接点を持っているとは意外だった。
 戦争の評価ひとつとっても正反対。上坂は中国との戦争を日本だけが悪いという意見はおかしい、といい、アメリカに押しつけられた憲法なんて改正するべきだ、と述べている。でも実は、トヨタの社員だった上坂がつづっていた日記が、「思想の科学」の鶴見たちの目にとまったのが彼女の文壇デビューのきっかけだったという。
 この本を読んでいると、一見正反対の2人の間にある共通点がちらりちらりと見える。日常の細かな部分を大切にするところ、敵対する人や思想であっても長所を素直に評価するところ、日本の歴史や民衆の知恵を肯定的に評価しているところ……だろうか。プラグマティストとしての柔軟性だろうか。
 たとえば鶴見は、教育勅語は評価しないが、軍人勅諭には評価するべき点があるという。軍人勅諭には、天皇が「私を助けてほしい」といった主旨を述べる文章があるからだという。軍人勅諭には「朕」が誤ったときはそれを諫めてほしい、という思想がある。教育勅語の「朕」は絶対的な存在であり、「戦陣訓」に一直線につながってしまう--。そういう読み方、評価のしかたができるのかと、驚かされる。
 吉田茂を人間として評価していたから、デモでも「吉田を倒せ」という部分は口をつぐんだというエピソードもおもしろい。
 そういう柔軟さと、マザコンだったことや父への反発をひきずっていることなど自分の弱さを弱さと認める態度が、「かわいいおじいさん」である鶴見俊輔をつくりだしているのかもしれない。
 鶴見は、欧米の魔女裁判と日本の村八分を比較して、決して殺すことなく、二分だけは助けるという日本の伝統的な社会を積極的に評価する。日本の伝統のなかに、欧米由来の思想を超えるなにかを見つける。そんな考え方に上坂は共感している。
 天皇制に対しても、鶴見は同様の態度で接する。美智子皇后が鶴見和子の本を読み、慰安婦問題について自ら発言したことなどを高く評価している。

=========抜粋・覚え書き=========

▽36 (二二六事件)山本五十六なんかは、海軍には36センチ砲がある、これが議会を守っていると思ってください、陸軍が議会を占拠すれば海軍が36センチ砲を撃ちますと言ったんだよ。親父はそれを聞いているんだ。
(上坂)私は日本陸軍の荒れくれ者が一方的に支那事変を起こしたと言わんばかりの見解には反対です。
▽53 斉藤隆夫を兵庫で当選させたのは、河合隼雄の親父たちです。丹波篠山にいてこの戦争はまずいとわかっていた。斉藤は非翼賛でもう1回這い上がることができた。三木武夫は、金持ちの息子だから親父のカネを使って非翼賛で出てくる。その意味では三木にも何かがある。翼賛議会というのは、いまの国会よりずっと立派なんだ。というより、いまよりまっとうな人間がいたんです。根性のある人間が。
 尾崎萼堂も。そのへんを見ると、ナチスドイツと日本とは一味違う気がしてならないんですよ。その違いがいまの日本国民にわからなくなっているのが情けない。
▽57 (鶴見)いや!断じて愛国心なんかじゃないっ。(上坂)耳まで赤くして、怒ることじゃないわ(笑)。80代も半ばになって愛国心をそれほど毛嫌いする人にお会いしたのは、初めてです。へんな人ねぇ。
▽65 尾崎秀実 後藤新平に「一番尊敬している先生は誰かね」と聞かれ「上杉慎吉先生です」。後藤はびっくりして、「そんな古い、保守的な人を尊敬するんじゃ困るね」と言った。後藤は吉野作造とか美濃部達吉とかの名前を挙げてほしかったわけ。尾崎は獄中でも「自分は上杉先生が今でも好きだ」と言っている。……歴史の事実ってそういうものだよ。私はそういう人間が好きだ。
 獄中から娘にあてて、スメドレーの小説を改訳してほしいと頼んでいるんだよ。スメドレーは上海時代の尾崎の愛人で、愛人の作品の改訳を娘に頼むなんていい話じゃないか。私はそういう人間が好きなんだ。……ゾルゲ事件の時の法相風見章は、「尾崎は立派だ」と考えていた。私は風見も認めましたね。
▽76 (上坂)戦争を語る時に、あの時の快感をはずしたら戦時体制の真実を見誤る気がします。(鶴見)その快感は私も感じた。東京大空襲で焼け出される人たちの陽気さね。あのときは、民族の力というのを感じました。詩人の宮しゅう二。中国で人を刺し殺した体験を歌に詠んでいる。記憶をごまかさない。「ひきよせて 寄り添うごとく 刺ししかば 声も立てなく くづをれて伏す」
(上坂)戦争反対を叫んで投獄された人よりも、戦争に参加した人のほうに私は心惹かれるんです。(鶴見)戦争反対を唱えて獄へ入るのも難しいですよ。(難しいけど、単純だと思うわ)単純ではないです。……獄中に残った河上肇は、最後はグラグラするんですよ。すると、細君がこう言った。「それでよろしいのですか」って。
▽80(慰安所づくり)私の役目は敷地の交渉ですよ。……短波放送のラジオを聞いて、朝になったら事務所に出て、敵が読むのと同じ新聞を作れと命令された。上司は大本営発表を信じていないのね。大本営発表とは内容が全然違う。そうしないと実際に戦争ができない。そこは海軍と陸軍の違いだね。
▽83 慰安婦問題 私は慰安所の存在を知っている。だから、補償はすべきだと思ったし、和田春樹に誘われてメンバーに加わった。そうすると、わからない奴らが、慰安婦は国家が補償すべきなのに、なぜ民間団体がごまかすようなことをするのかと、和田春樹を袋だたきにしたんだよ。進歩的知識人。
(上坂)被爆者の認定にあれほど厳しくしながら、慰安婦は自己申請だけでいいとされて戦後補償を行われるのが納得いかないですね。
▽106 美智子皇后は、鶴見和子の書くものもよく読んでくださったようです。そうでなきゃ慰安婦問題のコメントは出てこない。和子とお会いになったとき「あなたが講演で慰安婦問題に触れてくださって有り難かった」とも言われたそうです。私は、これを聞いて好感をもったねえ。
▽123 参議院の補欠選挙での村ぐるみでの不正投票を、朝日新聞に投書して暴露した石川皐月さんが昭和27年に、村八分にあって家族ごと追放される。
 150年の視野にたてば、村八分というギリギリの知恵を、舶来の原理主義的なデモクラシーがつぶそうとした事件と見ることも可能です。アメリカのデモクラシーのもとには、アメリカの魔女裁判がある。あの残酷さに比べれば、村八分は相対的に正しい。あくまで2分の余裕を残すという点で。二分とは、水と葬式の手伝い。その二分を残すところが、西洋の魔女裁判よりすごい。日本の知識人は、千年来の村の日本の知恵を見逃している。〓
▽138 「庶民列伝の会」 大学院の学生だった梅棹と、進々堂を根城に話をする。……引き揚げてくるLSTの甲板は、赤ん坊のおむつで満艦飾。それを見た梅棹はこれからの日本は旭日昇天だと、京都で言いふらして歩いた。当時の京大はマルクス主義の天下ですから、誰も梅棹の言うことなんか聴かない。干されていた。私もマルクス主義者じゃないから、2人は話が合うわけ。
▽141 (上坂は)「庶民列伝の会」で、自分は日記をつけていると言い出した。鶴見と永井と嶋中と粕谷が東大前のルオーという喫茶店で日記の聞き手になった。……ストの指導者がみんな大学出だから、理論はある。でも、状況が悪くなると簡単に崩れちゃう。その経緯を同時進行で日記に書いていた。
▽143 嶋中、永井、中井英夫は6つの時から死ぬまで仲間だった。そういうつきあいは、明治維新以前なら当たり前でしたけど、いまはもうない。〓昔はみんなが一生、同じ藩や同じ村にいたわけだけど、明治維新以後は日本全国がひとまとまりの社会になっちゃったから。この欠陥を指摘したのが、民俗学者の柳田国男です。藩は人を一望のもとに見渡せる。頼りになる奴とならない奴が一目瞭然。明治以後はそこが見えなくなりました。柳田はその欠落に気づいたわけ。
▽198 (上坂)先生と私との間では小学唱歌、小学校の国定教科書ですぐに話が通じる。戦後に国定教科書が廃止されて、国民が共通の思い出がもてないってほんと不便です。
▽206 価値の感覚が明治初年の頃と違ってる。軍国主義の時代とも違っている。いまはまず金、もう一つは学校の成績で見る。そういう価値判断から離れる人が大変に少なくなっている。そういう面で考えると、日本は明治元年に比べて相当貧しくなっている。
▽210 (福田ありつね)感じがいいね。
▽221 林竹二 50歳までソクラテスについての原稿1本しか論文がなかった。膨大な論文は50以後に書いたものばかり。旧帝大には、本も書かずにただ勉強している時間があった。宮城教育大は、学生が自発的に封鎖を解いた日本で唯一の大学。学長の林が封鎖している学生相手に毎日話をしたからです。学生の求めに応じて、いつもバリケードの中に入って問題を話し合った。林さんの言葉というより態度が伝わった。外人部隊が入っていなかったのもよかった。
▽224 若槻礼次郎 訪ねると、老妻と彼と2人だけで住んでいる。それが何十年か前の日本の総理大臣だった。「私は捨て子です。父の名も母の名も知りません」。そういう総理大臣がいた。
 若槻や浜口、伊藤、桂太郎くらいまではものすごくできた。若槻は敗戦まで生きて、天皇のそばにいて敗戦の結果を一緒に受け止めた。そういう老人の知恵が日本を救った。日本の歴史を150年前までさかのぼって考える。もっとさかのぼれば、もっと偉い奴もいたんだよ。
▽226 「木口小平は死んでもラッパを離しませんでした」という話……あれはあれで偉いものだと思います。大学を首席で卒業した人にあの根性はない。
 唱歌の教科書も面白いよ。日本の歴史を教えるでしょ。「仰げば尊し」もいい歌です。「いかにおわす父母」「つつがなきや友がき」。いい線行ってるんだ。あれは自分の中に生きてるね。
▽229 (教育勅語)元田永ざねが書いたが、先生の横井小楠の論文を読み間違えた。臣下には諫争の義務があるということが抜け落ちている。臣下の義務としての諫争という考え方は教育勅語にはない。教育勅語は戦陣訓まで一直線なんですよ。
 「軍人に賜りたる勅諭」には「もし朕自らふるわないことがあったら、その時は助けてくれ」という趣旨の言葉がある。これは素晴らしいんですよ。
 天皇制を含めて、だいたい1500年の日本を見れば、いいものはある。他国に恥じることはない。

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