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村上春樹にご用心 <内田樹>

アルテス 20090729
筆者独特の「他者」論を駆使して村上文学の秘密を解き明かしていく。
なぜ村上文学は世界的になったか。
「父」(=私たちの無能のありようを規定する原理)が登場しないからという。すべての社会集団は、神や予言者や資本主義体制……といったそれぞれ固有の「父」を有している。「父」は集団の内部の人間には感知されないが、外の人間には臭気として感知される。「父」抜きでは、普通の人間は、自分の世界での位置づけをマップすることができないが、村上やカフカは「父のいない世界において、地図がない状態から、『なにかよきもの』を達成できるか」と考える数少ない作家だという。それぞれの社会固有の「父」を捨て去ることによって、村上文学は普遍性を持ち得たという。
封建制や家との葛藤が村上文学にはない。それが軽い印象を与える原因なのだろうが、だからこ世界的になりえたという論は説得力がある。

村上文学のもうひとつの特徴は「死者」を描いていることだ。
フッサールもハイデガーも、漱石の作品も村上文学も「冬ソナ」も……有名な文学や哲学の多くは、「死者から受ける影響」を扱っているという。「死者論」「幽霊論」をもたない社会集団が存在しない以上、普遍的な学を求める哲学は死者を論じることになるし、普遍的な文学も「死者」との交換をあつかうことになる。村上は、「こっち」と「あっち(死者)」の「あわい」でのふるまい方を描き、死者が生者の生き方を支配することについて書きつづけてきた--。「他者論」は、文学の普遍性までも説明してしまう。

「北の国から」の一家は回想シーン以外では家族が全員そろうことがなく、「残りの全員」が顔を合わすのは葬式の場面だけだということを示し、「家族の一員であることの幸福というのは、失われたあとになって事後的に回想されるだけだ」と説く。そして、「失われることでしか機能しないものに価値がある、というのが人間社会のルールだ」と言う。モースの贈与論から生まれた哲学で、「幸福とはなにか」まで説明してしまう。明るく笑う日々ではなく、しみじみとした寂しさのなかにこそ、人間の幸福の本質があるのだと納得させられる。

=================抜き書き・メモ===================
▽10 だれもやりたがらないけど、誰かがやらないと後で他の人たちが困るような仕事を、黙って引き受けること。「センチネル(歩哨)」の仕事を描くのが村上文学の重要なモチーフ。
▽24 キャッチャーインザライ 「死ぬ」というのが「隣の家に行く」ような感じになることが、武道においてはとてもたいせつ。死ぬというのが「ちょっと隣の家に行くような」感じになることは子どもにもおこる。そういう子は危険だから、子どもにはまず死を怖れさせる必要がある。でも、成熟のある段階に来たら、死とのかかわり方を「元の」戻さないといけない。死者は「すぐそばにいる」という感覚を取りもどし、死者と交感することが可能という、人間の黎明期における「常識」を回復することだ。
社会学者の書いたものがつまらないのは「生きている人間」の世界にしか興味がないから。霊能者の書いたものがつまらないのは、平気で「あっち側」のことを実体めかして語るから。「こっち」と「あっち」の「あわい」でどうふるまうのが適切なのか、ということを正しく主題化する人は少ない。村上春樹はその数少ない1人である。
▽37 村上文学には「父」が登場しないから、世界的になった。「父」とは、神であったり予言者だったり、資本主義体制だったり、父権制だったり、前衛党だったりする。せかいのすべての社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。「父」は集団の内部の人間には感知されないが、「違う家」の人間には臭気として感知される。……「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは陥りやすい推論上のピットフォールだ。実は「私たちが知らないことは他者も知らない」ことの方が多い。私たちが「それから必死で目をそらそうとしていること」は社会集団が変わっても変わらない。「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか「自己実現できないのは、単に私が無能だからである」とかいうことは知りたくないから目をそらそうとする。そのことを知りたくないので目をそらすということは、自分が何を知りたくないかを知っているからできること。……人間たちは多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく「知らないこと」「できないこと」において深く結ばれる。
「父」は私たちの無能のありようを規定している原理だから、「父」に出会うことはできない。現実に出会えるのは「無能な神」「機能しない神の見えざる手」「抑圧的な革命党派」「弱い父」といった「父のパロディ」だけである。それでも私たちはそれにすがりつく。「父」抜きでは、自分の世界での位置づけをマップすることができないからだ。でも、地図がなくてもなんとかなるんじゃないか、と考える数少ない人が村上春樹やカフカ。「父のいない世界において、地図も綱領もマニュアルもない状態から、『なにかよきもの』を達成できるか」。これが村上文学に伏流する「問い」である。
善悪の基準がない世界で「善」をなすこと。正否の基準がない世界で「正義」を行うこと。この絶望的に困難な仕事に今自分は直面しているという感覚は世界の多くの人に共有されていると信じたい。
▽47 (冬ソナも羊……も)正しい儀礼をすれば、死者たちのメッセージを過たずに聴くことができる。そう信じたことで人間の始祖は他の霊長類と分岐した。正しい儀礼とは死者と言葉を交わすことができると信じることである。そのとき死者たちは彼らだけの世界に立ち去る。
▽57 フッサール幽霊学 ハイデガー死者論
他者=「存在しないけど影響を与える存在」=死者
有名な文学の過半は「死者から受ける影響」を扱っている。村上春樹も。漱石の「吾輩は猫である」も猫は執筆時点ではすでに死んでいる。「こころ」も、第3部は死者からのメッセージ。
「存在論」「他者論」のような名前のついた理説を持たない社会集団は無数に存在するが、「死者論」「幽霊論」をもたない社会集団は存在しない。もし哲学が普遍的な学であろうと望んでいるとすれば、「すべての」人間社会に妥当する知見を語っているはず。
▽81 「もしもし」など、メッセージが成立していることを確認するメッセージ「交話的メッセージ」。物語が始まってからどれくらい早くこのメッセージを記述的文章のなかに滑り込ませるかに作家の技量はかかっている。
▽108 倍音を聞き取れる人と取れない人。「天使」という概念をもたない人間は「天使の声」を聴き取ることはできない。だから倍音経験の質は、個々人がどのような「霊的成熟」を果たしているかによって決定される。
あらゆる芸術的感動は倍音経験がもたらすのではないか。文学も。村上は倍音を出す技術を知っている作家では。「基音」に相当する「平凡な現実」の描写にかなり力をさく。……
▽127 同じものを繰り返し食べることで、……同じような体臭を発するようになり幻想的な共身体のうちに統合される。食事は、……「同時に食べ終わる」ことが大事。そのときささやかな達成感を得る……食事の提供は「友愛のみぶり」であり、共食は生理的「共身体」の形成を目指している。食事を一緒に食べることは一種の舞踊であり、同期的共生感をめざしていること。村上文学は食事をする場面が異常に多い。
▽137 「比較文学」とはなにか、という問題を論じるため、「比較文学とは何か」というようなタイトルの本を探すようでは、修行が足りない。ある学術の提供するフレームワークが、どのような知的「欲望」や「欠落感」に呼応して生まれたのか、を考える。
なぜ「比較言語学」「比較社会学」「比較経済学」とは言われないのに「比較文学」があるのか? と
▽143 数学などの非文学的テキストが「国語の特殊性による世界経験の違和の解明」に役立たないのは、それらのテキストが「世界経験の違和」そのものを抑圧しているから。「違和」を探り当てる手がかりが隠蔽さrているからこそ、それを素材としては放棄せざるを得ない。これらに比べると文学は、特殊な価値観がべっとり張りついた「内輪の言語」。読者選択的。文学テキストの条件は「私たちは選ばれた読者であり、社会のマジョリティとは別種なのだ」というアイデンティフィケーションの「効果」のうちにある。だから世界でもっとも古い文学テキストは「旧約聖書」。「独自性ゆえの受難、神による選びと救い」という説話元型だから。
ロシアの勅令集は「ロシア社会は何を許容するか」を論じており、ドストエフスキーのテキストは「ロシア社会は何を排除するか」を主題的に論じている。読者は「ロシア社会は何でなかったのか」を知ることができる。「比較」するとは、それが「何であるか」ではなく、「何でないか」を比較する。
▽153 比較文学とは、「ある共同体が集団的に抑圧したもの」を「資料」とし、そこから「ある国語共同体に固有の世界経験の仕方」を抽出してくる学術方法。
▽157 食欲をそそる批評とは。筋を結末まで書いてしまう批評はダメ。「謎」を軸としたプレゼンであるべき。ありとあらゆるところに文学的感興の手がかりを見出す読み手こそが「食欲をそそる批評」を書ける書き手。
▽183 加藤典洋 彼の小説に「激しく欠けていた」ものが、世界全体に欠けているものだった。……私たちが世界のすべての人々と「共有」しているものは、「共有されているもの」ではなく、実は「共に欠いているもの」である。その「逆説」に批評家たちは気づかなかった。……「共に欠いていたもの」とは何か。それは「存在しないもの」であるにもかかわらず私たち生者のふるまいや判断のひとつひとつに深く強くかかわってくるもの、「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティ。生者が生者にかかわる仕方は世界中で違う。けれども死者が「存在するとは別の仕方で」生者にかかわる仕方は世界のどこでも同じである。「存在しないもの」は「存在の語法」つまりそれぞれのコンテクストや「国語」によっては決して冒されることがないからだ。村上は、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書きつづけてきた。加藤は最初の村上論でここには「人間は生きていない」と書いた。
▽190 作家は、まず技術があり、材料は「ありあわせ」である。(ブリコラージュ〓)自分で注文するわけではなく「あっちから来る」材料をかたはしからさばく。だからこそ、誰も見たことのない、想像を絶した料理が出来ることもある。(批評家と作家のちがい)
▽209 私たちの精神は「意味がない」ことに耐えられない。「城」のカフカも、「異邦人」のカミュも、「グレートギャッツビー」も、「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」ヘミングウェイも村上も、「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」「邪悪なものに無意味に傷つけられ、そこの何の意味もない」ということを執拗に語っている。……ネガティブな経験を、私たちは必ず「合理化」しようとする。自分たちが受けた損害がまったく「無意味」であるという事実を直視できない。
「無意味でひどすぎる」経験が次の曲がり角で私たちを待っているかもしれない。だから、角を曲がるときは注意したほうがよい。そのような危機の予感のうちに生きている人間だけが「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事の大切さを知っており、「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」のうちにかけがえのない快楽を見出すことができるのだろう。
▽230 失われるものにだけ私たちは美を感じる。およそ私たちが「価値あり」と思うすべてのものは、その本質的な「無常」性に担保されている。お金も使って失わないとお金として機能しない。権力は「すべての人が権力者の死を願う」までに濫用されないと畏怖されない。情報は「私は誰も知らないことを知っている」とショウオフしない限り情報として承認されない。「失われることでしか機能しないもの」に価値がある、というのが人間社会のルール。家族もまた、失われるもの、を軸として構造化される。印象深いすべての出来事は「あのときはまだ……がいたんだ」というメンバーの欠落とともに回想される。「北の国から」は、黒板家は回想シーン以外では家族が全員そろうことが一度もない。「残りの全員」が顔を合わすのは葬式の場面だけ。
▽233 家族の一員であることの「幸福」というのは、失われたあとになって事後的に回想されるだけ。何かが存在したことを人に信じさせる最良の方法とは「それはもう失われた」と歌うこと。家族とは誰かの不在を悲しみのうちに回想する人々を結びつける制度。遠くから悲しく歌うもの。その歌に唱和する人たちを固く深く結びつける制度。(他者=死者の役割)

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