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自壊する帝国 <佐藤優>

 新潮文庫 20090721

 同志社の神学部をでて、博士課程に進もうと思ったが、あご足つきで海外に行けると聞いて外務省の専門調査員になってモスクワに留学する。普通のういういしい若者でしかない。
 モスクワ大でサーシャというおそろしく頭の切れる男に出会い、まずは反体制側に人脈ができ、共産党の側にもじわじわと知り合いをつくる。キャビアなどをつまみに、ひたすらウオトカを飲む。高いレストランで思いっきりおごる。ホテルのボーイらも味方につける……。料理や酒などを事細かに描写しながら、情報収集活動の現場を紹介する。そうしたノウハウ以上に大切なのは、誠実さと知的な能力だ。
 神学が実社会に役立つとはとても思えないのだが、神学で培った分析力が彼の仕事を助ける。ロシアの人々のメンタリティや権力構造のありかたが神学の知識によって理解していった。カトリックとスターリン体制が似ている部分を指摘したりするなど、独特の分析枠組みが興味深い。マルクス主義者ではこんな発想できないだろう。彼の真の意味での教養の奥深さが諜報活動を助けていることがわかる。今はやりの「実学」志向の大学からはこうした人材が出てくることはあるまい。

 ひとつの国や民族を維持するには、何らかの神話が必要だという指摘も考えさせられる。
 ソ連の共産党守旧派はマルクス・レーニン主義が人々の心をつかめないと認識し、それに代わる理念としてロシア正教をつかえないか検討していたという。
 友人のサーシャは、ロシア人の連帯性を回復するには「生産の哲学」が必要で、そのためには過去の伝統から何らかの保守的シンボルをつくり、生産に向けて国民を動員することが必要だと考えたという。(怖いのはユダヤ人などの敵をつくってまとまる方向)
 じゃあ日本はどうなのか? 戦後は経済成長という「神話」が国をまとめるシンボルだった。そのシンボルが色あせた、「ふるさと」というよりどころを提供していた農村社会が崩壊したから、「敵」をつくることでナショナリズムを喧伝する動きが力をもってきた。そういう危険な方向を避けるためにも、新たな「神話」をつくらなければならない。たぶんそれは、過去の民俗文化などに求められるべきなのだろう。
 ナショナリズムではなく健全なパトリアティズムを育てる必要性を説くカンサンジュンの考え方がこの本を読むとよく理解できた。
========メモ・覚え書き=======
▽34 佐藤の疑惑の調査を仲が良かった武藤がすることに、ロシア人は「ソ連時代の共産党中央委員会やKGBにそっくりですね。誰かを断罪するとき、その人と親しかった人物にその作業をやらせるんですよ」
▽35 モスクワ国立大には、資本主義国の外交官のため、わざとロシア語を上達させない特別コースがある。だからイギリス陸軍語学学校で学ぶ。
「イギリスは帝国だよ。僕らに本気で英語をたたき込もうとしているわけじゃない。イギリス生活を楽しく送らせ、アラブ世界に時間をかけて人脈を築いていく。カダフィもこの学校で学んでいるんだぜ」
▽76 経済学部には、資本主義経済学科と社会主義経済学科がある。資本主義経済学とはマルクス経済学のことで、社会主義経済学とは近代経済学のこと。社会主義社会では、経済をいかに発展させるかが研究課題になるため、ブルジョア経済学の成果を批判的かつ弁証法的に活用する。
▽77 哲学でも、論文の結論はレーニンの引用がつづき、紋切り型に終わっている。だが、序文と最後はそうだが、実は中身で、欧米の言説をていねいに紹介している。最後にそれらがいかにけしからんかを、説得力がない形で書く。

▽86 ロシアのインテリは酒を飲みながら、しらふのときと酔ったときで言うことがぶれないかをよく監察している。
▽93 週16回のセックスのノルマ。最低1日1回のセックスをしていれば、大目に見てくれるが、それをこなせなくなると、恋人や妻には浮気をする権利が生まれる。2カ月の夏休みに、保養地でセックスパートナーを見つける。「3つ川を越えれば誰も浮気をとがめない」。ただし、保養地での関係をモスクワに持ち込むと血の雨がふる。
▽157 スキャンダルやトラブルのメモ。ソ連課長になるとそのメモをみて、いざとなると脅す。自分のメモは消し去る。これがあいつらの力の源泉なのさ。

▽189 外交や情報の世界では、できるだけ高いレストランで「浪費」することに意味がある。「あなたをこんなに大切にしています」「私はこれだけのカネを使う権限をもっている」というメッセージになる。……おごり返さないと「協力者」とされてしまう。
▽198 アメリカにあるラトビアの亡命政府。ラトビア系の学生らがつどうようになり、彼らが観光客としてラトビアに入り、人民戦線活動家にカネを渡す。アメリカでは平凡な若者がリガでは民族英雄になる。こうして舞い上がった青年を、CIAは情報収集と工作で利用した。
▽245 「典型的なKGBの情報操作だよ。あいつらは嘘は言わない。ただし、2%しかない要因を誇張し、あたかもそれが真相の9割と信じこませる」
▽247 「反ユダヤ主義は、ユダヤ人の側の問題ではなく、それを唱える非ユダヤ人の心理状態がどうなっているかを占うのにとても重要だ。人民戦線のなかに反ユダヤ主義的機運が強まっている。それと同時にロシア人に対する排外主義も強まっている」。
▽251 これまでのソ連はパルトクラシー(共産党支配)とビューロクラシー(官僚支配)だったが、それが、少数民族の文化エリートが民族というキーワードを旗印にして、自分たちがあたたかいいすを獲得するために民族運動は起きているというのだ。その結果は、民族対立の激化と官僚の質の低下をもたらすだけ……。ラトビア政府は、ラトビア語の修得度で国民を3カテゴリーに分けて、就官権のみながら、民間企業で管理職につく権限ですら制限しようとした。
▽254 ラトビア人をまとめるために、敵のイメージを作る必要がある。そこでロシア人とユダヤ人を敵にしている。
▽279 
▽290 カトリックの聖職者は独身。富を子に継承することを望み、家族という要素が教会の意思決定に影響を与えることをおそれているのだ。中国やオスマンでは、宦官制度を設けて、権力が集中する官僚が後継者をもてないようにした。
▽332 守旧派共産党と人脈をつくるには? 「大使館の名前が書いてある便せんにタイプ打ちで手紙をつくる。そこにサインをして大使館の判を押しておく。そうすれば、そういう要請に応えなくてはならないという気持ちに共産党幹部はなる」
▽338 共産党守旧派は、マルクス・レーニン主義が人々の心をつかめないと認識し、それに代わる理念としてロシア正教をつかえないか考えていた。守旧派幹部は、国家も民族もその基礎に神話がなくては維持できないことをよく理解していた。
 ……酒飲み政治家は、酒を飲まない人を信用しない。
▽411 
▽425 ロシア・ナショナリズムを共産党に取り込もうとしている。その鍵になるのがロシア正教会。近未来に共産党は科学的共産主義から科学的無神論を放棄する。無神論に代わって宗教学や神学がモスクワ大学で教えられる時代になるよ……その予測は正しかった。、
▽428 コルホーズにしても、みんなで一緒に仕事をするのが好きだというのがロシア農民の伝統なのです。拝金主義を憎み、カネ以外に人生の価値を置くことを尊ぶのもロシアの伝統なのです。この伝統があるから、ロシア人は共産主義を受け入れたのです。……進歩という幻想から離れなくてはなりません(ツベトコフ部長)
  (フランスの人類学者トッドのよう。大家族制のロシアで共産主義が生まれる)
▽435 
▽442 情報源である高官だけでなく、電話交換手やタイピストと親しくするのも重要だ。秘書官や電話交換手の誕生日には必ずシャンペンを届け、高官の事務所の女性職員に対しては、国際婦人デーに必ずバラと口紅を贈った。
▽537 ロシア正教の異端者は、人が神になるために、地上に革命を起こそうとした。19世紀ロシアの革命家は、神を失ったが、人間を救済したい、社会を変容したいという気持ちは残った。この伝統に立って、レーニンたちはロシア革命を起こしたとベルジャーエフは考えた。要は、ロシア共産主義は「裏返されたロシア正教」なのである。
 ベルジャーエフは、マルクスとレーニンを切り離し、レーニン主義をロシア正教の異端と位置づける。ここでロシア人が神を再発見して、ロシア正教に回帰するならば、ソ連には別の発展可能性が生まれる。このことにロシア知識人は魅力を感じていた。

▽541
▽556 共産主義ソ連では、国民は分配にしか関心がない。ロシア人の連帯性を回復するには「生産の哲学」が必要で、そのためには国家が適切なシンボル操作を行って、生産に向けて国民を動員することが必要とサーシャは考えた。そのシンボル操作には、過去の伝統からなにかを持ち出さなければならない。保守主義的表象が必要になる。
〓〓日本も?

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