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差別と日本人 <野中広務 辛淑玉>

 角川oneテーマ21 20090713

 切ない。差別の底からたたかいつづけ、寝業師として、想いを通す。それでも親類からはうとまれ、娘や婿に「野中」を名乗らせない。孫はDAIGOにはならない。「寂しいですよ」と言い合うところ。ぐっとくる。
 やさしさ。共感力
 麻生との対比。

 国鉄に入り、世話をした地元の後輩が「野中は大阪では飛ぶ鳥を落とす勢いだけど、地元では部落だから」。七転八倒の思いで苦しみ、ふるさとにもどって政治をかえることに。
 部落出身者の特権化を廃する。一生懸命にやれ、それでもダメなら立ち上がれ、と。辛はその思いに共感しながら「〓清い人はいない。どんな汚いことをやってでも生き延びようとするものだ」と批判する。

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 ▽4 25歳で園部町議に。
 ▽9 71年に南京へ。後援者の1人が雑踏で倒れたまま起きあがれなくなった。歩兵20連帯の第3中隊に属しており、南京の作戦に参加した。¥という。……女性と子どもしかいない施設を確認し、上官に報告すると「便衣隊がまぎれこんでるかもしれん。全員やっちまえ」。何の罪もない女性や子ども百数十人を殺してしまった。
 「30万人」という数字を建物に記していることを知った私は、そこで献花しないと申し出た。30万人という数字が正当か否かを立証する材料を持ち合わせていないからだ。(〓独特のバランス感覚)
 私が中国や北朝鮮と接するとき、妙にへりくだったりはしない。言うべきことを率直に言いながら交渉するという姿勢を貫いている。喧嘩もするが、何度も足を運びながら交渉する。
 ▽39 地区外から「妻」を迎える男性の3つの特徴的パターン。1)部落内部の疎外から徹底的に妻を守るという少数の例外。2)何も語らない、語る術を持たない。3)まともに働かず、差別され抑圧されたその思いを妻にぶつけて解消する。
 母は今なお父の話となると険しい顔になる。出産にも育児にも家事も分担しない。カネも持ってこない、家には帰らず会話もない。そのくせ問題が起きれば家族が動員される。私は、母の世代で、結婚して幸せだったという女性に、まだ一度も会ったことがない。
 ▽53 関東大震災 迫害されたのは朝鮮人だけではない。被差別部落から行商で千葉を訪れた10人が自警団に組織された普通の人々によって殺され、利根川に沈められた。福田村と隣接する田中村(現柏市)の自警団。8人が殺人罪に問われたが、検事は「彼らに悪意はない」といい、加害者は村のヒーローのように扱われた。虐殺の中心人物の1人は、出所後、村長になり、合併後も市議として要職にとどまりつづけた。どんな非道な行いであっても、共同体のためという大義名分で、外部の「忌まわしい者」とみなされた人々に対して行われたときは、その是非を自動的に不問にし、身内を守り通す。
 ▽70 
 ▽76 (野中の妻、結婚するとき)「私1人が知っていればいい」ということばは、優しさでもあり、決意でもあったろう。同時に「隠さなければならない存在、知られても得しない存在なのだ」と野中に伝えることでもあった。
 (2人の子を亡くしている)
 ▽82 日本ではじめて教科書の無償化を実施したのは野中氏が町長のときだ。その後、教科書無償化が解放運動と共に全国化していった。
 ▽86 周辺から「逆差別」と避難を受けないよう、広島などでは、周辺の部落外の地域も都市環境が改善されるよう、同和対策事業と街づくり事業を一体化させるやり方をとった。運動として差別を作らないために、解放運動を核とした街づくりへと運動を進化させた。
 ▽97 何か新しい制度ができると、いつも在日は排除される。1999年の商品券、のちの地域振興券、最初はこの国に住む人すべてに配ると言っていたのが、範囲がどんどん狭まって、永住権をもつ人までは入ったけど、日系ブラジル人などに多い定住者といった最も苦しい人たちには行き渡らなかった。
(知らなんだ。僕は
 ▽107 阪神大震災 在日の死亡率は日本人の1.35倍以上。戦後の復興の際の差別によってあそこに取り残された人、被差別部落の指定を拒んだところの人たちから、たくさんの死者が出た。「差別が人を殺した」という観点から見た番組には出会わなかった。どこのテレビもやらなかった。
 ▽118 ガード下で物乞いをする傷痍軍人。実は朝鮮人だった。元軍人であっても朝鮮人だから、一銭も日本からもらえなくて生活することもできず、しかも国籍条項によって福祉からも排除されている。だから物乞いするしかなかった。
 ▽143 アメリカが劣化ウラン弾を訓練で使ったあと、射爆場にしている鳥島に全部ほおっておいた。……アメリカをコントロールする力なんて、外務省にも防衛省にも何もないよ。アメリカの言いなりだもん。
 ▽146 2007年5月、掃海母艦「ぶんご」を辺野古沖に派遣。海底への調査機器設置作業を「支援」するという名目で政府が派遣した。
 ▽163 麻生鉱業 強制連行された朝鮮人。麻生系の炭鉱に1万人超。賠償もされず、遺骨さえ遺族の元に戻っていない。麻生炭鉱は、部落民を一般の労働者とわけ、部落民専用の長屋に入れて奴隷のように酷使した。「野中やらAやらBは部落の人間だ。だからあんなのが総理になってどうするんだい。ワッハッハッハ」。その場にいた一人が亀井久興。「残念ながらそのとおりでした」
 ▽171 北朝鮮との交渉。「あなたは一番この中で友好的でない人だ」……「あなたは絶対に友好的な人でないから、これから何回も来なさい」と金容淳。それで一番の友人になった。アメリカは38度線から早く撤収したいんですよ。(だから日本はアジアの中でうまくやってくれよ、ということですよね)
 ▽190 「朝まで生テレビ」とかに出るようになると、会社に嫌がらせが殺到する。実家の住所も。家族は怯えてしまって、親と離れて暮らすようになった。「あんたが自分の正義感を貫こうとするために、家族がどんな思いをして生きてるかわかってるのか」「本名で生きているおまえは親戚中から嫌われてるんだぞ」……すごく頑張ったんだけど結局家族を守れなくて、家族は、顔が似ているからおまえが近くにいると……って。この間、うちの母は1年間かけて日本の国籍を取ったんですよ。法務省の人に「おたくの娘さん、有名な人ですよね」って言われた時に、「知りません」。「もしおまえと親子だって知られたら絶対この国は日本の国籍くれないから」って。
 ▽192 娘もいろいろな活動をしてるけど、僕は行けないの。孫も中学のころに耐えられない差別を受けた。孫は絶対地元の高校へ行くって言わなかった。孫は自分で努力して京都の進学校へ行って、大学も東京へ行った。でも僕は孫の入学式にも卒業式にも行けなかった。目立ちすぎるからね。
 ▽194 日本国籍の男性と事実婚だったのですが、彼は、人権問題もよくやって頑張ってたんだけど、やっぱり耐えられなくなって、……しばらくすると「そんな些細なことで怒っても」「なんでも君が問題にするからいけない」って。……外で闘って、うちで夫にまで説明しなきゃいけない。……でも私、わかってもらえない人と一緒にいたら、もっと寂しいなあと思って、1人のほうがいいなあと思ったんですよね。……寂しいですよ。私かわいそうですよね。家族だけは守らなきゃいけない……と思ったんですよね。私たち……
 ▽199 対談の最後の部分は、初めて話したことがほとんどだ。辛さんは、時に嗚咽をこらえながら、また言葉も切れ切れに本心を語ってくださった。私も差別されてきた体験とそれと闘ってきた体験を持つだけに、彼女の気持ちが痛いほどわかり、思わず言葉を詰まらせた。
 差別と闘うと、どうしても家族が犠牲になったり、負担をかけたりする。……私が町会議員を続けていれば、私の出自が話題になって、親戚の中にも波風がたつこともなかったかもしれない。

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