中公新書ラクレ 20090712
「本はそこになにが書かれていないかを知るために読む」。なるほど、と思う。
書いてあることをなぞるだけでは、「過去」をなぞることにしかならない。書かれていないこと、行間を読みとることで、新しいナニカの発見に導かれる。そのナニカは本から一方的に与えられるのではなく、今という時代のなかで形成された読み手である自分との交流によってつくられるものだ。そのためにこそ過去を振り返り、過去に書かれたものを読む意味があるのだ。
この大不況をどう抜け出せばよいか答えが見えない。「景気回復」というが、いったい何年何月の時点に「回復」したらいいのか。復古主義的な「改革」(=回帰)はおしなべて失敗している。経済「成長」路線に単にもどってもダメ。産業革命以来の「成長」を前提とした世界のありかたそのものが限界を迎えている。
じゃあどうする?
答えが見えない問いを突きつけられている時代こそ、本を読み、そこに書かれていないナニカを感じ取れと説く。
===========抜粋メモ===========
▽69 「豊かになる」とは「豊かさに慣れる」ことで、危機への対処能力を鈍化させる。豊かになってしまった状況に対応して、自分の欲望を解き放って、その栓を締めることができにくくなるのが「豊かさに慣れる」こと。だから未来予測は甘くなる。「これまでになんとかなってきた」と思うから「この先もなんとかなる」と思って、実際にはなにも考えない。……「欲望は自分で抑えるもの」という発想がなければ、「解放されてしかるべき欲望」が壁にぶつかったとき、「誰かに押さえ込まれている」という被害者の発想にかわって、爆発する。
▽81 「大不況が収束したらどうするのか」「そのときに我々はどう生きるのか」考える。このことだけが、大不況を収束しうる根本の力となりうる。我々は「景気」という外状況につられて、自ら考えることを放棄していた。考えるのは「景気の動向」ばかり。「景気を回復させることこそが大不況を収束させることだから、どんどん栄養剤を打て」になって、「この大不況が収束したらどう生きるのか」という問いかけがない。途方にくれる前に、まず「方向」を考える。それが「進歩」を可能にする人間のあり方。
▽89 日本は「大した思想はないが、実質では勝つ」「思想性ゼロの素敵な国」。「世界のゴタゴタとは無関係に商売していれば大丈夫」という国でもあった。だからこそ08年秋以降の世界的な経済危機に対して「なすすべがない」ということになる。日本が本領を発揮してきた「海外の販売市場」が突如としてなくなってしまったから。
▽91 和魂洋才 素晴らしい実務の思想。そのすばらしさは、このノウハウが「学ぶ者の心を萎縮させない」ところにある。「和魂」がある、とは、我々は一廉の人間だということで、「わからない対象」をおそれる必要はなくなる。 和魂漢才という言葉のもじり。 ところが、近代化がある程度まで進んでくると「洋才」をじゃまくさく思ってしまう。「大和魂があればなんでもできる」の精神主義になって、敗北する。和魂洋才の実務思想から「洋才」の実際を取って、「和魂」にした日本は、行くところまで行った。 戦後、「民主主義」を広める。第二の和魂洋才になっただけだが、「大和魂」の限界を知ってしまった日本人は「和魂は日本人を敗北に追い込んだ。アメリカは日本より強くて豊かですぐれている」と、「日本人であるあり方」を捨ててしまう。洋魂洋才。……その時期の日本人には、日本語は論理性がないから公用語をフランス語にしろ、とか、ローマ字表記にするべきだ、という知識人もいた。「日本語を捨ててしまえ」という考え方は伝統的にはめちゃくちゃでもなんでもない。中国語である漢文で書かれたものを「正式」「公式」の文書にしていて、それを当然の前提とした上で「和魂漢才」と言っていたわけだから。英語が公用語になったって、別にどうということもなく、「そうなったから勉強しなさい」と勉強好きの日本人はがんばるでしょう。「和魂」という言葉で表現された「自分達の根本のあり方=アイデンティティ」でさえも、日本人は「変えられる」と思っている。「アイデンティティがもうはっきりしているのだから、アイデンティティなんかはどうでもいい」というところへ行ってしまうのでしょう。「アイデンティティとは」という面倒な問いはさっさとかわしてしまう。それによって経済復興を実現させ……
▽108 「元を規定する言葉」が日本語ではない。どうもこういうことらしいから、なんとかやってみよう、と、スタートした後になってから経験的に「どうやらこういうことだ」と理解する。だから昔風の教育は「ガタガタ文句言わずにまずやってみろ」。「中途半端な思想性で事に臨むと、予断に充ち満ちて壁にぶち当たるから、へんな思想性なんかないほうがいい」となる。……実際主義を野放しにすると用語の規定が滅茶苦茶になるl。
▽140 文学部と「一般の出版社」の扱う範囲は重なる。(どちらも時代遅れに……)
▽155 1980年ごろ「一億総中流」。日本人は自分がまだ金持ちと思っていないからせっせと貯蓄をつづける。横並びで「総中流」を実現したから、カネの流れる高低差が国内になくなっていた。それまでは「一億総中流願望」の競争社会で、「隣がテレビを買ったからうちも」と、「日本人の間に当たり前に存在する微妙な富の偏差」「飢餓感の偏差」を埋めていった。「うちはほどほどに満たされた中流だ」という意識が浸透すると、日本人の消費意欲は飽和状態を迎える。「経済の循環を可能にする高低差」とは「富の偏差」。だから誰もかもが同じような金持ちだとあまり景気は動かない。それで80年から81年にかけて「物が売れない」と言われた。(円高不況) その日本に「あんたたちはもう金持ちだ」という声が海外から飛んできて、「もっと輸入しろ」「不要なものでも買え」とバブルへと突き進む。
▽166
▽169 ヨーロッパの市民は王様と利害関係があるから対立する。日本では、支配者の武士と直接的に関係をもつのは農民だった。だからこそ、農民一揆は起きても「町人一揆」は起きなかった。江戸時代の町人にとって、武士は「君臨すれど統治せず」に近い存在だった。政治への参加意識は希薄だった。
▽192 「農業で食っていくのはむずかしい」は、産業革命後に起きる。工業はいくらでも生産量を増やせるが、農業は無理。農業は「安定供給」が重要だから、多すぎても少なすぎてもいけないから、収入もある一定の幅を超えない。一方の工業は「いらないもの」もつくりだして欲望を刺激して売れる。
▽220 本を読むということは、「書き手の言うことをそのまま受け入れて従う」ことではない。「書かれている」ことを読んで「そこに書かれていないことを考える」「行間を読む」というのが「本を読む」こと。読み手は、「その本に書かれていない自分のあり方」を探す。つまり「行間」とは「読者のいる場所」。
▽224 「自分とは関係のない、他人の過去につきあわされるのはうっとうしい」というのが、実は「活字離れ」の根底にある感情ではないか。「もうそんなものは終わってしまった。関係ない」と、若い人が「他人の過去」を拒絶できるのは、「豊かさを謳歌していればいい」という時代になっていたから。若い人が「若いままでいい」となれば、「若くない人」も若くなれる。「過去を振り切って現在だけで生きる」ということをするのが「若いままでいる」という方法だから。そういうことの手助けは「個人消費」を促す社会でやってくれる。「未来に備える経験値となるような過去」を捨ててしまった人間たちには、「壁にぶつかってしまった現在の先にある未来」を考える力なんかは生まれない。だから「考えようがないから考えない」という、相変わらずの態勢をとりつづけるしかない。だからこそ、「本に書かれていることではなくて、書かれていないことを読めるようになれ。そうして、未来に備える経験値を改めて蓄積すべきだ」と。
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