■NHK出版230114
「人生論ノート」は高校から大学にかけて何度か読んだが、理解しきれなかった。
三木清の出身地、龍野を訪れたのを機に、今度は解説書をよんでみることにした。
三木は結婚翌年の1930年に共産党に資金提供したとして逮捕されて法政大教授の職を失う。
太平洋戦争がはじまる前から、米国との開戦と敗北、ヒトラーの自殺を予言していた。太平洋戦争が開戦直後の1942年1月には「戦時認識の基調」という論文で「飛行機の機能をかんがえるとき、空襲をこうむることが絶対ないとは保証しがたい」と主張して軍の怒りを買い,論壇から締め出され、徴用されて陸軍報道部員としてマニラに配属された。
「人生論ノート」の連載は、国家総動員法が公布された1938年にはじまる。検閲のがれるためにわざと難解な書き方をしていた。時代背景を知ったうえで読み解くと、最後まで良心を曲げまいと格闘する姿がうかびあがってくる。
たとえば「幸福の追求が良心として復権されねばならぬ」と書いたのは、国家総動員法公布の2カ月後だった。滅私奉公を美徳とし、幸福を語ることが不道徳なことであるかのように感じられる世相だった。「真の幸福を心の内にすえ、それを武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」というのは三木の生き方そのものだ。
「利己主義について」は「どのような利己主義者も自己の特殊な利益を一般的な利益として主張する」と、「皆のため」「国益のため」という言葉の裏に私利私欲がすけてみえることを暗示する。
「感情は主観的で知性は客観的であるという見解には誤謬がある。むしろその逆。……感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである」「真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情ではなく知性に属するのでなければならぬ」
これは、多数はの感情に流されず、孤独をおそれず、知性をはたらかせなければならない、という意味だ。
人間の条件が虚無(混沌)であるからこそ、人間の生は、自ら何かを作ることで形成されると説く。混沌を切り捨てるのではなく、配置や組み合わせを変え、新たな意味づけをすることで「秩序」が生まれ、充実させることができる。逆に、虚無主義(内面的なアナーキー)は独裁政治を生む土壌となると主張する。
三木が人生論ノートで最初にとりあげたテーマは「死」だった。
「どんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来る」ことを目の当たりにし、「愛する者の死ぬることが多くなるにしたがって、死の恐怖は反対に薄らいでゆく」「死は慰めとしてさえ感じられる」と書くのは、連載開始2年前の1936年に妻の貴美子が急逝していたからだ。
そして、人生を「未知のものへの漂泊」(旅)になぞらえ、目的地にたどり着けず若くして亡くなっても、過程を大切にしていればそこには喜びや充実した時間があったはずだとかんがえる。
三木は42年12月にフィリピンから帰国し、1944年には二番目の妻のいと子(39年に再婚)も失う。
1945年3月27日、旧友の高倉輝を泊め、外套を与えて送り出したことで逮捕される。獄中で終戦を迎えたが釈放されず、疥癬から急性腎炎に罹患し、9月26日、苦しさのあまり寝床から転がり落ちて絶命した。
筆者の次の解説が三木の人生をみごとにまとめている。
「妻に再会した時に抵抗をやめ変節してしまった自分であってはいけない。そう三木はかんがえていたのではないか。どれほど絶望しても、妻の貴美子は自分に希望を与える存在であった……。誰にも看取られることなく獄死した時も、三木へ決して孤独ではなく、身をもって「孤独の高い倫理的意義」を体現したのです」
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▽5 ドイツのレクラム文庫をまねて、文庫本というスタイルを発案したのが三木。
▽16 結婚から7年、1936年に貴美子が急逝。1938年に「人生論ノート」連載を開始。
▽25 幸福の追求が今日の良心として復権されねばならぬ。……国家総動員法公布の2カ月後に書かれた。自己犠牲や滅私奉公を美徳とする風潮が影を落としはじめていた。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。
▽26 虚無主義は独裁の温床。
成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。
成功と幸福、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福がなんであるかを理解しえなくなった。
▽34 真の幸福を心の内にすえ、それを「武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」 どんな苦境にあっても、まさに「幸福は力」なのです。
▽41 太平洋戦争がはじまる前から、アメリカと戦争することや、その戦いに敗れて、同盟国のヒトラーが自殺することを予言していました。
▽44 本来の希望とは「決して失われることのないもの」であり、それは「生命の形成力」だと三木は言います。生命をつなぎ、人生を紡ぐという意味です。フランクルは、希望が生命の形成力であるということを、身をもって示した一人です。……希望が彼を生かす力になりました。
▽64 愛に三つの段階があるように、怒りも、神の怒り、名誉心からの怒り、気分的な怒りに区別できます。……神は怒ることは知っていても憎むことはしない。……名誉心からの怒りや気分的な怒りは憎しみに結びつく可能性もありますが、神の怒りは「正義」の別名です。私憤ではなく公憤。
▽67 自信と知性があれば、無用な怒りに心乱されることはないでしょう。しかし本当に怒るべき時は、たった一人でも孤独な状況であっても、怒ることを恐れてはいけない。真に怒ることを知る者は「孤独の何であるかを知っている者のみ」
▽71 自分で物を作ることによって、自信は生じる。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的ではない。
▽77 「どのような利己主義者も自己の特殊な利益を一般的な利益として主張する」(「皆のため」「国益のため」という言葉の裏には、私利私欲がすけてみえる。こうした建前で人を操作するような利己主義者ほど、他人に○○主義というレッテルを貼って攻撃するのです)
利己主義について が発表されたのは1941年2月。1938年に国家総動員法公布、1940年には隣組を制度化。当時、利己主義という言葉は集団のなかの個性を潰すためのレッテルとして使われていたのでしょう。
「我々の生活は期待の上になりたっている」と三木は書いていますが、期待されていたのは滅私奉公。その期待に反して行動する勇気を持った人、個性の独立性を保とうとした人は利己主義のレッテルをはられ非難されます。
▽83 人間の条件が虚無であるからこそ、これとは区別される人間の生、つまり「人生は形成である」ということが導かれます。……自ら何かを作ることで自己は形成される。(虚無=カオスに形=秩序をあたえる?)
▽88 あたたかさのある秩序は、排他的な態度や手段からは生まれません。虚無は、無秩序な混沌です。切り捨てたり取り払ってみても秩序はできません。……混沌のうちにあるものを切り捨てるのではなく、配置や組み合わせを変え、そこに新たな意味づけをすることでこそ秩序は生まれ、充実させることができるのです。
▽93 近代民主主義は、価値の多神論から無神論へ つまり虚無主義(内面的なアナーキー)へと堕す危険があり、それを深く理解していたのがニーチェだと三木はいいます。虚無主義、内面的アナーキーは、独裁政治を生む悪しき土壌です。
▽104 最初にとりあげたテーマは「死」(41歳で執筆)
「どんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来る」ことを目の当たりにし、「愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるにしたがって、死の恐怖は反対に薄らいでゆくように思われる」「死は慰めとしてさえ感じられる」←妻・貴美子の死
▽114 太平洋戦争がおきた直後の1942年1月「戦時認識の基調」(飛行機の機能をかんがえるとき、空襲をこうむることが絶対ないとは保証しがたい)を発表し、軍部の怒りを買い,論壇から締め出される。1942年1月に徴用され、陸軍報道部員としてマニラに配属。42年12月に帰国。1944年、二番目の妻のいと子の死(39年に再婚していた)
1945年3月27日、旧友の高倉輝を泊め、外套を与えて送り出したことで逮捕。獄中で終戦を迎え、釈放されず、疥癬に苦しみ、急性腎炎を罹患。9月26日、苦しさのあまり寝床から転がり落ちて絶命。
▽118 人間がどこから来て、どこへ行くのかは誰も知りません。行き着くところは死です。しかし死がなんであるかを、誰も知らない。「人生は未知のものへの漂泊」
たとえ目的地にたどり着けなかったとしても、旅の途中を味わっていれば、得るものはさまざまあります。人生も同じです。……到達点ではなく過程を見れば(若くして亡くなったとしても)そこにはその人にとっての喜びや充実した時間があったはずです。いつ、どこで人生を終えたとしても、生きた瞬間、瞬間がすでに完成しているのです。
▽141 感情は主観的で知性は客観的であるという見解には誤謬がある。むしろその逆。……感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情ではなく知性に属するのでなければならぬ。
……孤独が一人でいると寂しいというような感情的なものではなく、自分は1人であるという自覚に立つ意識であれば、それはむしろ知性に属するものです。
▽147 妻に再会した時に抵抗をやめ変節してしまった自分であってはいけない。そう三木はかんがえていたのではないか。どれほど絶望しても、妻の貴美子は自分に希望を与える存在であったに違いありません。
誰にも看取られることなく獄死した時も、三木へ決して孤独ではなく、身をもって「孤独の高い倫理的意義」を体現したのです。
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