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月よわたしを唄わせて かくれ発達障害と共に37年を駈けぬけた「うたうたいのえ」の生と死<あする恵子>

■インパクト出版会20230113
 ガラスのような感性をもち、37歳であの世にいってしまった「うたうたい」のえさんの足跡を、おなじ感性をもった18歳年上の母がたどったストーリー。 ガラスのような感性が全編にはりつめていて、緊張を解けないのだけど、なぜか救いをかんじられた。

 たくましくも無謀で、やんちゃにして楽しい野生児として子ども時代を生きたのえさんは、15歳で東京で一人暮らしをはじめる。新聞配達をしながら路上でうたい、1996年に25歳で京都にうつると家賃1万円の部屋にすみ、木屋町の路上でうたう。2004年には大阪の西成へ。
 知的障害のない「かくれ発達障害」は、一見ふつうにみえるがゆえに、精神のクリニックも家族も、本人でさえも生きづらさの原因が障害とは自覚できない。周囲と自分の無理解の積み重ねの上に「二次障害」がかさなると、統合失調症や鬱、依存症を併発し、生きることさえもむずかしくなってしまう。のえさんも、アルコールに依存し、断酒するがしばしばスリップする。恋愛や薬物にも依存してしまう。

 当時、長居公園には野宿者のテント村があった。近くにすんでいたのえさんも「ただのご近所の唄うたい」としてつきあいをふかめた。
 テント村が強制撤去されたとき、支援の若者たちは涙を流していた。それを見たのえさんは「自己陶酔している」と違和感をかんじる。
「だって本当に立ち退きにあった人は、ひとりとして泣いていなかったもん」
 彼女は感性も人間的な弱さも、支援者の若者よりも、野宿者のおっちゃんの側にいた。
 ぼくも学生時代、「越冬闘争」に参加したときは、「たたかう労働者」のイメージだったが、1997年に3カ月かけて野宿者の取材をしたときは、野宿者の多くは、おひとよしで弱くて、不器用な人たちだと思った。
 でもこの本でのえさんの生きづらさをたどると、1997年に取材した約40人のおっちゃんの多くは「発達障害」だったのではないかと思えた。
 ある男性は水俣出身で、とび職をしていたが、水俣病のような症状があらわれ、アパートをうしないホームレスになった。救急車ではこばれた病院では、爪楊枝と竹ひごで10日間かあけて精緻な五重塔の塔をつくっていた。細かなこだわりと、人づきあいの不器用さはまさに発達障害だった。
 あのとき、行政や医者、支援者が「障害」を認識していれば野宿者の多くは救われたのではないか。
 のえさんも人づきあいは苦手で、身近な家族も友人をふりまわし、アルコールや恋愛、薬物に依存する。崩壊していく彼女をだれもとめられないまま、2008年に精神科で処方された薬を大量にのみ亡くなってしまう。
 でも、というか、だからこそなのか、彼女の唄は圧倒的な迫力で心につきささる。
「唄ってなければ とっくのとうに みずから いのちを断っていた」
「空気なんて読めない 読まないんじゃなくて 読めないのよ」……
 のえさんは自分の守護神のようにかんじていた「月」に「私を見つけて!」とよびかける。月が自分をうたわせてくれていたからだ。でももはやのえさんの声は月にとどかない。
「生きているのもあやうい夜に、月はしらーんぷり」

 生きにくい人生を必死に生きて、疲れきって死んでしまった。
 とてもつらい記録なのに、読み終えたときは、のえさんという「うたうたい」を抱きしめて、一生懸命生きてくれて、歌をのこしてくれてありがとう……と伝えたくなる。不思議と読後感はさわやかだ。
 500ページを超える長い長いノンフィクションは、それじたいが長大な詩なのだと思えた。

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▽37年290日の生涯 1970年生まれ
ベロ亭 2人の母親と5人の子供たち。のえは上から2番目。
2008年10月5日、致死量の薬をのんで亡くなる
▽29 はじめて京都の木屋町でうたったのは25歳 1996年春 
 長居公園の強制退去
▽38 何度目かのOD 精神科が処方した薬の過剰摂取
……警察の台の上に、遺体が銀色のレザーの長い袋のようなものに入れられ、顔だけだして横たわっていた。
▽44 「明日あさってが一番大切なんだから、今日のところはよく休んで……」遺族の周辺の多くが口にするせりふ。……通常とはかけ離れた衝撃の事態をくむことなく、のえの周辺にいた1人ですら、世間そのもののように、あたかも、いたわるように口にする「休んで」。その時の私の、どこにも入る余地のない、まさに他人事のように放たれた一言だった。(定型の言葉に回収されることへの嫌悪感〓ご愁傷様とか。でもそれしか言えないのだけど)
▽48 日曜日だったことも重なり、搬送先をさがすのに、救急車は道路に40分近くも待機した……
十三でお別れ会 長居公園の野宿者のテント村の「仲間」
▽56 「○○家」という表記を消して……「葬儀場」を「お別れ会」と書き直し……
▽晩年の「恋愛依存」アルコール依存 断種していたが、……スリップ、それが即処方薬ODにいたることでもあった。
▽64 東京時代、いつもゲタをはいていたから「ゲタ」の愛称でかわいがられた。
▽88 のえが亡くなるまで自分と重ねていた怒りんぼのミイ
▽89 1975年、保育園で私がめんどうを見ている幼児の母親を通して、「個人誌に終わらせたくない個人誌ベロ」と出会った。 筆者は英子……公務員をしながら3人の子を育てていた。
▽90 1976年、日本全国をめぐる旅にでた……「もうひとつの」生き方を模索するさまざまな大小の場を巡り……名古屋の喫茶兼女たちのスペース「ウーマンズハウス」、滋賀県の生活共同体「あらくさ」、鳥取の山奥の山小屋……
福島の「グループもぐら」で 稲刈りやパン作り、大根の土寄せ……を体験
▽99 母2人と子ども人の家族に
▽103 ベロ亭の5人の子どもは全員、「ビンボー、クサイ、キタナイ」などといじめられた。……必死にがんばっている母子母子家庭の子どもたちにむかって「ビンボー」とはやしたてる。X県独特のものなのかも。
▽112 私も英子も、夜のネオンサインの下で働いた時期もある。……朝は子どもたちだけで食事のしたくをした。中学からの弁当づくりも、のえとサナエは交替でしたし、洗濯もほぼ自分たちでこなした。
……夕飯の席では、「肘をつかない」「足はおろす」「テレビはつけない」の三原則が守られた。
……朝食のパンはヘタパン。
▽128 のえは、いったん決めて歩き出すと止まらない。……たくましくも無謀で、やんちゃにして楽しい子ども時代……金稼ぎに家事に、よれよれになりながら、それでも子どもたちの歓声に包まれているこの暮らしが、このうえなく幸せものなのだと、身につまされるように思った。……子どもたち、そして私たち2人の最高に幸せな時代だった〓(「幸せ」をもとめるのではない。しあわせは結果。ふりかえって)
▽140 15歳の2人がベロ亭をはなれて、東京へ。見送る私は34際、英子は38歳だった。
▽145 のえの京都時代は25歳から33歳、1996年から2004年(〓ちょうどいれかわり)
▽152 キョウダイたちはパートナーがいた。のえにしてみれば、やりきれないほどのギャップとなって、自らの孤独や、人との関係づくりの「未熟さ」を知らしめる結果になった
▽155 愛してもわかりあえない……うちは、ただ生きていくだけで、いっぱいいっぱいナノ。それ以上、どんなことも聞けやしないから、放っておいて。
▽158 七芸で、「線路と娼婦とサッカーボール」
▽181 湯を沸かすときはふたをしめて燃料を節約する、ふりかけはおかずがない時のみかける、というのは、節約と工夫を最大限こらした当時のベロ亭の不文律だった。
▽196「あれだけ独創的で創造的な世界をもっている天才的なミュージシャンは」
▽201 家賃を1年半も払わず、英子が返済
▽210 修学院の近くに1間1万円という長屋風のアパートを見つけて……
▽212 飲むと態度が変わるようになっていた。手が出たり、暴れたり、……
 京都の拾得、ミューズ、吉田寮食堂でのライブ
▽230 釜ヶ崎へ。かつて大学の研究者で支援者としてかかわるうちに、大学もやめアルコール依存症になった諏訪さん(仮名)とであい……2005年の年越しの夜回り活動をしきり……
……別居後の諏訪さんは肝硬変で自滅するように亡くなる。
「空気なんて読めない 空気なんて読めない 読まないんじゃなくて 読めないのよ」
▽248 自閉症や発達障害にかんする本、検索して印刷したファイル……生きてほしいと集めた本……を見て「なんのために」と声を出し、立ちすくみそうになった。そばにいた英子には絶叫に近い声だったという(〓ぜんぶただちに捨てた〓)
▽252 クリニックの医師「病的なものではない」「のえさんの状態は、十代の大切な時期に、子育てを放棄された結果なのですから……」(「15歳で家を追い出された」と本気で話していた)
「知的障害をともなわない発達障害」の知識や経験があったのだろうか。非常に見えにくい「発達障害による二次障害」については知っていたんだろうか。
▽261 最近の調査によると、「野宿者」となった人々の大半が、発達障害的傾向、ないしは精神障害のあることが明らかになったという。(〓今思うと層だ。当時はまったく気づかなかった)
▽276 母も私ものえも、三代の3人ともが、食いしん坊で料理好きだった
▽285 私たち二人は、けっして子どもたち5人に、宿題や勉強をするように、一言でも促したことはなかった。口が裂けてもそれだけは言わなかった。〓
(のびのびと生きて、ぶつかって、悩んで……けっして幸せいっぱいではないけれど、でもテントウ虫の家のよう〓)
▽287 努力すればするほど、根っこから傷んで行くのです。それが歯止めが利かなくなる二次障害の恐ろしさです(〓知らなかった。訓練した方がよいと)
▽292 医師の責任……(書きたくても書けなかった……)
処方薬ODは薬物依存症の一種。ODをくり返す患者への無策に甘んじている
▽303 知的障害のない「かくれ発達障害」では、きわめて二次障害のリスクが高く、相互作用として悪循環の止めようがなく、「進行と拡大に歯止めが聞かなく怖れ」がある。
▽307 のえの最後の日々の日記には、そんな自分の深い揺れと、けなげにも、痛ましくも、正直にも、たたかいつづける、のえ自身の姿が表出されている。
 それが切ない。
 にもかかわらず、それをもって、私は、のえを誇らしいと思う。……根こそぎの痛みと向き合いながら、それを表現しきった、のえならではの唄とメロディーが、切なく、悲しく、でも誇らしい。偉いな、と思う。よくやったな、と思う。
▽328 京都の大学を中退し、テント村に住みつき、テント村の「村長さん」とも呼ばれた中桐康介くんは……
▽336 長居公園……拡声器で何かを言っている涙を流しながら。それを聞いている何人もの若い人たちも涙を流している。
 それを見た私は、はっと我にかえったんだ。この人たちは自己陶酔しているようにしか私には見れなかったし、とても違和感があった。だって本当に立ち退きにあった人は、ひとりとして泣いていなかったもん。
……のえは、支援者の若者たちよりも、ある種、野宿者の人々の近くに、不安定ながらも自然体のままいたのだと思う。
▽360 代執行当日と、それにつらなる日々は、のえの人生における「最後の居場所」を、生木を裂くようにもぎ取られた体験なのだから。
▽362 「ひとりぼっちの夜」を唄っているのが聞こえてきた。……私は思わず、ガードマンを目の前にして、声のかぎり唄った。……ガードマンは、あっけにとられていたっけ。……あっけにとられてくれて、ガードマンさん、ありがとう。
……のえの唄の「奇跡」。
▽373 なにが支援者だ、なにが当事者だ、意味がわかんない。
右だ、左だ、そんなの関係ねえだろ
だって、同じ人間じゃないかよ!
そして、わたしはただのご近所さんの唄うたいで、唄うたいの、ただのご近所さんなんだ。
▽378 「赤い涙」唄ってなければ とっくのとうに みずから いのちを断っていただろう
▽379 テント村の人々との波乱含みの1年とちょっとの日々は、のえが「たしかにそこには人間がいる」と実感できる居場所となり、のえの命脈をつないだ。
▽402 最後の日記
 存在の証を、今は見つけることすらできません。
 神様がいたとして、わたしは、何の罰を受けているのでしょうか。
▽422「のえさん……真剣に唄うことに向き合って、唄うことで生きていた。だから、そうじゃない人にはきびしかった。「あれは判らん」とか言ってた。」
「痛々しいし、ぎりぎりの状態だったから、見てられない人もいたと思う。……でも、感じる人は感じていたし、周りにそういう人が集まっていたと思う。真面目で、生きづらかったやろうなあ」
▽427 中桐くんは、当事者の4割ほどが、発達障害ないしは精神障害であるという事実を統計的に示した、ある研究書の題名まで私に伝えた。
▽428 やみくもに力の限り、希望を探そうとして、ついに絶望を知ったその人生の深淵を。……「かくれ発達障害」をそうと知らず苦悩し、それでも駈けぬけたさまざまな人生のことを。
▽454 悲しみについては、時間薬というものをけして信じない人間ではあるものの、悲しみのありようが変容する、ということはあるのだと、
▽477「のえだって耕くんみたいに丁寧に時間をかけて、のえに、のえの見えにくいことを逐一翻訳してあげるような態勢があったら、最後のころあそこまで混乱しなかったと思うよ」
あえて極端にいえば、のえは唄う時以外は、無神経だのわがままだのと迷惑がられたものだった。認知の歪みが怒濤のように押し寄せれば、混乱しきった言動で周囲を戸惑わせたものだった。

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