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古都の占領 生活史からみる京都1945-1952<西川祐子>

■平凡社20220415

 ある時代を生きて空気感は感じていても、その時代について理解できることなどほんの一部に過ぎない。
 筆者は少女時代を、米軍の支配下の京都で過ごした。自分自身の記憶にある当時の空気感の意味を、80人とのインタビューや府庁や市役所の膨大な資料を駆使して、薄皮をはぐように浮き彫りにしていく。
 私は京都で記者をしていたとき、戦後50年の連載企画で終戦前後の京都駅周辺について取材した。孤児院や慰安所、キャバレーなどについて聞いてまわった。そのときに感じた疑問やわだかまりをこの本は解いてくれた。
 進駐軍は1945年9月25日に南から入ってきた。京都駅前広場に集結し、最初の宿営地は岡崎公園だった。陸軍16師団のあった伏見にも拠点を設けた。京都御所を将校宿舎にする計画があったが、GHQと直談判することで、植物園が将校宿舎になった。
 進駐軍がかかわる事件や事故を地図上にプロットすることで、米軍兵士の拠点の位置や住んでいた地域などを浮かび上がらせる。
 空襲被害が少なかった京都は、全国一の都市となり、孤児がが多く、食料不足が深刻だった。一方で、東京を離れた文化人が集まり、雑誌社やミニ新聞、新聞社が次々に生まれた。これらは東京が復興してきた1950年前後に合併、吸収、倒産して淘汰された。
 終戦からわずか1カ月で、日本政府と地方行政機関が主導して「良家の子女を守るため」慰安施設を設けた。帝国陸軍にとって慰安所はなくてはならない施設だったからだ。
 1946年2月には進駐軍命令で公娼制度が廃止されたが私娼は認められた。そのため、街路での売買春がはびこった。街頭キャッチ(検挙)、強制検査、入院、保護所送り、脱走という循環が日常化していった。
 米軍兵士の愛人で「パンパン」と呼ばれる女性が肩で風を切っていたが、1952年に占領が終わると忽然と消えた。
 京都駅ビルが1950年に全焼し、大リーガーのジョー・ディマジオがその様子を見ていた話は私も聴いていたが、金閣寺炎上が同じ年とは知らなかった。
 ルース・ベネディクトの「菊と刀」は、戦争中の日本国民と降伏後の日本国民をつなぐ存在である「天皇」を占領に利用するべきだと説いたことで知られる。
 だが、軍隊を維持するために歳入の半ばを費やしてきた日本が軍事費をなくし、農民から取り立てる租税を軽減すれば健全な経済を築けると記し、「日本だけではなく,今後10年間軍備をしない国はする国を凌駕する可能性がある」と予測していたとは記憶していなかった。再軍備を許されないドイツが、軍備に力を入れたフランスの経済を凌駕することまで予想していたという。
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▽21 都市の人口制限で、二親等の親族がいないかぎり京都へは入れない原則。……祖父母と養子縁組した。
 焼け残った京都には非合法の人口流入がつづいていた。
……駅には多くの大人や子どもがすんでいた。……住所に登録がなければ食糧、衣料の配給がうけられない。
▽25 戦争がはじまるや、敵対する両陣営がほぼ同様の臨戦態勢をとり、まず内部の「われわれ」の弾圧と統制をおこない、そのうえで「かれら」を敵すなわち殺すべき存在とみなす
▽41 16師団は1944年10,11月、レイテ島で16000人のうち兵力の8割を失い……
▽51 進駐軍は、兵士たちの伝染病感染を恐れると同時に、列島の飢餓状態を把握しており、食糧は持参の原則をとおし、現地調達をおこなわなかった。。缶詰と粉末牛乳という保存食文化をもちこんだ。もっと後……その余剰が住民救済のため放出されることも。
▽65  京都御苑を米軍将校宿舎に接収するという通達が府庁および宮内省京都事務所にもたらされ、……GHQと直談判を5回おこなった結果、御苑のかわりに上賀茂に近い植物園を提供することになった。……御苑は象徴空間として温存されると同時に、大部分が市民に開放されることに。
▽79 進駐軍最初の宿営地は岡崎公園
▽102 寿岳章子が1970年代に代表をつとめた「婦人問題研究会」はしばしば農村生活改善運動との連携をこころみた。……軍部から府庁へ上水道設置を訴えにきた女性たちは、毎日の日常用水を川からくんで運ぶことが女性に課せられた労働であることを語り……
▽103 市内より郡部に日本軍基地が多く、戦時中は連合国軍の空爆目標となり、占領書記には武装解除の際の火薬爆破が大規模な被害をひきおこし……ある軍隊の基地になるということは別の軍隊の標的になるということなのだ。
▽120 事故による、集団的な見舞金申請 1950年から28年つづく蜷川府政が中央政府に対し見舞金申請については住民の側に立って積極的な肩入れをすることがあったであろう。
▽131 
▽137 「思いやり予算」思いやりではなく「おもねり」。「在日米軍駐留経費負担」の通称。。日本の国庫の支出であった終戦処理費が処理していた多くの事項が占領終了後は日本の国庫が支出する「思いやり予算」になったのだとしたら「思いやり予算」が占領期と占領後の連続をあきらかにする。
▽149 丸善ビル いまはカラオケビル 歩道から二メートルほど後退、ビルの前に空間がとられている。あの空間が半地下の階の採光用空地だった。地下1階は無料開放の図書室だった。府立図書館河原町分館だった。
▽155 京都市内の多くの図書館は焼失を免れ、敗戦直後は、関東大震災後と同じく、出版業が関西へ重心をうつす傾向があった。
▽女性記者を10人採用した「京都日日新聞」
▽174 雨後の竹の子のように開設がつづいた新聞雑誌社、出版社、放送局……
▽183 京都の新興新聞雑誌社、出版社は1950年前後にいっせいに合併、吸収、倒産して淘汰された。……地方の出版界に倒産があいついだ原因としては……東京の出版界の復興が大きかった。
▽196 戦災にあわず、人口が集積し全国で最大の都市。
▽198 回想記やエッセーの記述は二つ以上が一致したとき、記録として採用することができる。
 東山トンネルを出たところで担ぎ屋が列車から米袋を投げ落とす。……京都駅にすべりこむ直前に、米袋が全部、跡形もなく消えていた。
▽202 出町柳西に闇市。
▽206 闇市がいずれも建物強制疎開跡の空地利用であった。
▽211 公定価格と自由価格 米は公定価格の44.6倍、麦30.4倍、小麦粉35.1倍、砂糖179.3倍。(ニカラグアでそれを見ていた。ああ、そういうことか。インフレ率2万%の意味)
▽213 軍隊の行進において、靴の紛失は致命的。……未舗装の道を裸足で歩くと命にかかわるけがをすることをみんな知っていた。……インタビューでは、衣服よりも履き物の話題で話がはずんだ。
▽216 韓国・中華料理。敗戦直後は和食と比較にならない高カロリーが栄養失調の人をひきつけた。
「ラーメンの語られざる歴史」 1946年の食糧危機をカバーするために大量に輸入された米国産小麦粉が闇市の伝説のラーメンとなって……余剰生産物である米国産小麦粉が代表的日本食「ラーメン」となる。
▽223 西陣や馬町の空襲は子供にいたるまでが知っていた。(〓取材のころは覚えている人もおらず、非戦災都市のイメージに)
▽225 京都駅舎炎上は1950年11月18日。
▽226 孤児と家出少年少女が集まる京都駅。……「母の日」も「赤い羽根」も進駐軍由来の行事。
▽242 占領軍を対象とする慰安施設は京都においても、1945年9月25日の進駐以前、9月はじめから準備がなされた。日本政府と地方行政機関によって、「良家の子女」をまもる手段という理由をかかげて。1945年9月9日の京都新聞には「急テンポでキャバレー6カ所、ダンサー志望もすでに200名……」これとは別に「祇園乙部、宮川町、七条新地、島原、中書島が進駐軍の慰安所として指定」とある。玉音放送から1カ月も経っていない。信じがたい早業。
▽245 1946年2月には進駐軍命令で公娼制度廃止。だが私娼は承認。「街娼」の問題はここから、制度外の個人の生業と、それをとりまくしくみとして発生したといえるだろう。……街路での売買春が増加。……街頭キャッチ(検挙)、強制検査、入院、保護所送り、脱走という循環の仕組みがつくられ、日常化してつづいた。
▽248 (元娼婦の取材は僕はできなかった)高齢者施設のヘルパーを通して経験談にふれる。そういうアプローチか!
▽279 朝鮮戦争の1950年。金閣寺炎上、松竹映画下加茂撮影所の火災、京都駅駅舎の焼失。
▽283 「学生さん」と「さん」づけで呼ぶのは、地方出身の大学生たちが、民家の二階や離れに下宿したいたころの京都のまちのならわしだった。……強いものにあえて反抗した若者にたいする特別の敬意と畏怖がこめられていた。
▽314 ポツダム命令違反で有罪となり京都刑務所で服役した人々の半数は在日コリアンであったことがわかった。……共産党がそれぞれが居住国で入党する原則を変更して、党員資格として国籍を条件としたための分断があったことも、消息が伝わらない原因であった。
▽335 裁判でも、国民は人権を保護されるが、外国人は保護されない。…それはおかしいじゃないか。……人権というのは、国内の憲法によって認められているとしても、世界的な「世界人権」のほうが、より広い概念です。……インターナショナル・ヒューマンライツではなくて、ユニバーサル・ヒューマンライツ。
……「集団的自衛」というと、いかにも自らを守るようですけれども、「集団防衛」ということなんですよ。基本的には自衛ではない。「集団防衛」です。……憲法のシェア
▽341 ルース・ベネディクト「菊と刀」。戦後日本で200万部のロングセラーをたてたレトリックを見ておく必要がある。占領政策の手のうちが克明に記された本が被占領国のベストセラーになる仕組みを知らねばならない(〓そういう発想、なかった)
▽344「菊と刀」は、戦争中の日本国民と降伏後の日本国民をつなぐ蝶番関節は天皇制とそのイデオロギーである、これを利用しないわけはない、という認識と占領のイデオロギーとを率直に語っている。……マッカーサー支配の下に天皇生保存がなされた。
▽345 日本占領の間接統治方式は連合国軍によるイタリア、ドイツ占領における軍政部による直接統治との大きなちがいとなった。
……間接統治は占領軍が占領のために費やす費用と労力とを大幅に節減された、と、「菊と刀」には書かれている。……ポツダム勅令ないしはポツダム政令と呼ばれた一連の法律は、日本国憲法を超えるところで発令され、天皇と日本政府の上位に連合国軍総司令部が置かれる。
▽347 パール・ハーバーにいたるまでの約10年間、軍隊を維持するために歳入の半ばを費やしてきた日本のような国は、そのような支出を廃し、農民から取り立てる租税を軽減していったならば、健全な経済の基礎を築くことができる……日本の農産物配分の方式は、耕作者に60%。40%は租税・小作料として支払った。これは米作国であるビルマやシャムとは大きく異なる。これらの国は90%が耕作者に残されていた。……耕作者に付加される莫大な税金が、軍事機構の経費支弁を可能にしていたのである。
……この記述のあとに、日本だけではなく,今後10年間軍備をしない国はする国を凌駕する可能性があるという予測がつづいている。「再軍備を許されないドイツは……フランスの政策が強大な軍事力を打ちたてるというのであるならば、フランスでは不可能と思われる健全なかつ富み栄える経済の基礎を築くことができるであろう」
▽363 三島由紀夫は進駐軍のインフォーマントだった。……「金閣寺」で「占領」を描いたあとは、青年僧に憑依することをやめる。そのかわり戦後日本を代表するインフォーマント役として自分の身体を鍛え筋肉をつけて、もうひとつの象徴、男性的な日本を演じはじめた。のモデルとなった青年僧は、病死。「五番町夕霧楼」とドキュメンタリー「金閣炎上」の作者水上勉は、三島が捨てた作中人物をひきとり造形しなおして、小説とドキュメンタリーを書いたのではないか。
▽363 金閣寺は古色蒼然とした木造建築であり、金ぴかどころか侘びさびの美学で説明されていた。
▽372 わたしたちの世代は子どもの時くぐった修羅場の程度が高かった人を畏敬する傾向があった。
▽373 「読ませてもろた研究論文は正直言って硬いなあ。なかなか読んでもらえへんよ」と案じてくれた。……「やっぱり自分が主人公となったらどうですか」。貴重なヒントをもらった。わたしも、読者といっしょに占領期京都のまちを歩く案内役になろう、と思った。
▽374 「戦争をたたかわない思想」を今の18歳に伝えたい。
 戦争で相対するふたつの陣営は結局、互いに似た構造、共通する暴力の構造をとることを、また、占領は戦争の続きであること、戦後は占領のつづきであるかもしれないこと……負けるという経験を思想とするためには、戦争をたたかわない覚悟がいる。わたしは「死ぬな、殺すな、生きのびよ」を18歳へ贈る言葉として筆をおきたい。

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