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内村鑑三 悲しみの使途<若松英輔>

■岩波新書20220117
 無教会主義とほかのプロテスタントとはなにが異なるのか。妻と娘を亡くした内村鑑三はそれをどう自分の人生と信仰のなかに位置づけているのか。全国愛農会の創始者・小谷純一が有機農業を広めたことと彼が信じた無教会主義は関係があるのか。その3点を知りたかった。
 若松英輔氏はとくに2点目の「死」について語る人だ。
 内村は最初の結婚の直後、「不敬事件」をきっかけに病で倒れ、妻に支えられた。だが内村が健康をとりもどしたと同時に妻は亡くなる。結婚生活は2年に満たなかった。
「生命は愛なれば愛するものの失せしは余自身の失せしなり」
「余はなお今世の人なれどもすでにこの世に属せざるものとなれり」
 生きる気力や意味を失い、神に祈ることもなくなった。
 だがそのうち、「願い」は、自分のおもいを神に届けようとすることであり、「祈り」は神の声を聴くことであると気づく。
 祈れないとき−−自分のおもいでいっぱいのとき−−神は、祈れるときに勝る恩寵をもって人間を包む……と若松は記す。恩寵とは、神の国、死の国との回路が開かれることだ。
 助力を必要とする者のそばに亡妻はいる。そうした人々と共に生きようとするとき、そのおこないは見えない供物となって妻に届くと内村は信じた。
「余の愛するものは生涯の目的を達せしものなり。彼の宇宙は小なりし、されどもその小宇宙は彼を霊化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり」
「彼」とは亡妻のことだ。彼女は若くして逝ってしまったが、人生の役割を果たしたのだと確信する。
「余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙もーー時にはほとんど神をもーー失いたり。しかれどもふたたびこれを回復するや、国はいっそう愛を増し、宇宙はいっそう美と壮宏とを加え、神にはいっそう近きを覚えたり」
 国・宇宙・神を喪失したかに思えた出来事は、それらとより深く交わるための道程だった。死とは、肉の次元においては別離だが、心の次元においては新たな交わりのはじまりであると内村は実感したという。
 たしかに、愛する人の死は、人の世を超越するなにかを感じさせてくれる。「何らかの役割」をまっとうして旅立ったのだとは思えるような気がする。
 死者の世界は愛する人が待つ「家」である。この世に生きるとは、疲れを癒やす家路を歩くことにほかならない、と内村は記した。
 内村は再婚するが娘は19歳で死んでしまう。
 このときの内村は、「もっともつらき日であると共にもっとも恵まれた日」と感じた。愛する者の死は天の国の距離を縮めてくれる。生者は、死者を感じようとする熱情によって「聖国」からの風を感じる。だからそこに詩が生まれる。詩はたぶん「天の国」の風音を聴くことで生まれるのだ。
 普通のプロテスタントは、死者のために祈ることは禁じられているが、無教会派の伝道者たちは死者の臨在を語りつづけた。詩情が豊かであることも、無教会の人々の特徴だという。内村没後、指導的な役割を担った矢内原忠雄も妻に先立たれ、しばしば死者を語った。

 我が心は愛する者と共にある、
 彼天に召されし後、我が心も天にある。
 年経れど、古びず、
 いやまさる新しき輝きに、
 彼はほほえみつつ天に生きる。

 死者は天の門を開く者であり、時と共にその身を包む光は輝きを増すと感じていた。
 藤井武も妻を喪った。死を「終わり」ではなく「霊性の完成」の道程であると考えた。

 生者は死者の「命令」に従わねばならないと、内村は考えた。死者との交わりによって人生を画する決断をした。「再臨運動」もそうだった。
 死別は「肉」の次元においては別離だが、「霊」においては出会いの約束であるという実感をもとに、「再臨の日に、すべての死者は新生する」と考え、死者との再会を言明することのできない宗教は「有って無きがごとき」と確信するようになった。
 イエスは十字架上で姿を消したのではない。私たちの目に「隠れている」だけで、今もこの世を照らしている。キリストの再臨はすでにはじまっているが、人間はそれを認識できていないだけだと内村は信じた。
 死者と非戦と再臨は、無教会の伝統においてはひとつのものだった。死者は永遠のいのち、非戦はこの世における隣人愛、、再臨は、罪のゆるしと和解をこの世にもたらすことを象徴していた。
 内村自身も矢内原ら弟子たちも、個々が預言者であらねばならないという自覚があった。若松は内村について「遅れてきたイエスの直弟子である使徒の一人だったのではないだろうか」と記す。そういえば愛農会の小谷純一も、みずからをキリストと位置づけていた。
 無教会とは、教会という現世の権威を経由することなく、個々の人間が生ける神との交わりを持続的に経験しようとする試みだったという。
  聖書を「読む」とは、それを字義的に解釈するよりも、言葉をもたらしたキリストと向き合うことだ。
 同様に、内村が残した書物だけをみて、彼が見つづけたものを見失っては、彼との対話はうまくいかない。人間を超える何かを自らの人生に招き入れなければならないという。
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▽10 「武士道の台木に基督教を接いだもの、そのものは世界最善の産物であって、これに日本国のみならず全世界を救う能力がある」という。
▽18 内村はあるときから既存の教会とは離れ「無教会」という立場をとる。
▽38 札幌にはメソジスト監督教会とイギリス教会宣教会の2派の宣教師が活動していた。内村らは校内で、「おおちゃの教会」と呼ぶ自主的な祈りの集いを運営していた。
 卒業したら、それぞれの派にわかれなければならない。そこで、自分たちで空き家を買い求め、新しい教会をはじめる。この教会は、近代日本において最初の、どの宗派にも属さない文字どおり「独立」したプロテスタント教会となった。
▽66 シーリー。「内村君よ、あれは私の妻であります。彼女は2年前に私どもを逝りまして、今は天国にあって私どもを待って居ます」と、……私は実にその時ほど明白に来世の実在を証明されたことはありません。
 ……愛する者を喪い、光を見失いそうになったとき、シーリーの言葉は幾度となく彼のなかでよみがえっただろう。
▽73 「不敬事件」で倒れた内村を妻は看病しつつ受け止めた。彼女は内村が健康をとりもどした1891年4月19日に亡くなる。結婚生活は2年に満たなかった。
▽75 「生命は愛なれば愛するものの失せしは余自身の失せしなり」。彼は伴侶を失い、自己を見失うほどの悲痛のなかに生きねばならなかった。
「余はなお今世の人なれどもすでにこの世に属せざるものとなれり」とも記している。
▽79 妻が死に、祈ることもなくなり、「神なき」者となった。……どこにも向けようのない恨みと共にひとり食し、涙のままに眠りにつく。
▽81 願いは、自らのおもいを神に届けようとすることであり、祈りは神の「声」を聴くことであると内村は気づく。……祈れないとき−−自分のおもいでいっぱいのとき−−神は、祈れるときに勝る恩寵をもって人間を包む。
▽84 亡き妻は、弱き者、助けを必要としている者の姿をしてこの世によみがえり、内村と交わるのを待って居る。悲嘆に暮れ、後悔をくり返していてはならない。いますぐに家に帰り、信仰を深め、愛と善をおこない、日々格闘しながら、いつの日か霊の国に来るときには、あまたの不可視な宝物と共に来て、私と私の王を喜ばせよ、というのである。……妻は、助力を必要とする者のいるところに居る。そうした人々と生きようと何かをするとき、そのおこないは見えない供物となって妻のところへ届くと内村は信じた。
▽86 「余の愛するものは生涯の目的を達せしものなり。彼の宇宙は小なりし、されどもその小宇宙は彼を霊化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり」。若くして亡くなった彼女の生涯は、未完成のまま終えられたかのように映るかもしれない。だが、それは可視的な現象にとらわれているにすぎない。
「余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙もーー時にはほとんど神をもーー失いたり。しかれどもふたたびこれを回復するや、国はいっそう愛を増し、宇宙はいっそう美と壮宏とを加え、神にはいっそう近きを覚えたり」
 ……神の姿を見失うこともあった。だがそれは、真に喪失したことを意味しない。ひとたび見えなくなったのはその表層であり、自分はその深みに導かれていたことを知ったというのである。
 ……国、宇宙、神を喪失したかに思えた出来事は、それらとより深く交わるための道程だった。
 ……愛する者の肉体がこの世から失われることによって、彼女と自分の心はひとつになった。死とは、肉の次元においては別離だが、心の次元においては新たな交わりのはじまりになると内村は強く実感する。
……死者の世界は「無知の異郷」ではない。愛する人が待つ「家」である。この世に生きるとは、疲れを癒やす家路を歩くことにほかならない、と書いている。
▽91 (娘を喪う)愛する者の亡くなった日は、もっともつらき日であると共にもっとも恵まれた日であった……愛する者の死は生者と天の国の距離を縮める。生者は、死者を感じようとする熱情によって「聖国」からの風を感じることになる。
▽95 死というものは、永久に別れたのではありませぬ、一時、別れたのであります。否、さらに近しくなったものだと考えるべきであります。(そう実感している)
▽100 無教会の伝道者となった人々は、「普通のプロテスタント教会では、死者のために祈ることは禁」じられているという状況があることを認識した上で、ありありと死者の臨在を語りつづけた。内村没後、無教会において指導的な役割を担った矢内原忠雄も妻に先立たれた経験をもつ。彼もしばしば死者を語った。
……詩情が豊かであることも、無教会の霊性に生まれた特徴だといえる。
……矢内原の詩

 我が心は愛する者と共にある、
 彼天に召されし後、我が心も天にある。
 年経れど、古びず、
 いやまさる新しき輝きに、
 彼はほほえみつつ天に生きる。

 死者は天の門を開く者であるという実感。死者は時と共に醇化し、その身を包む光は輝きを増しつづけるという。

▽102 藤井武も妻を喪った。……死を「霊性の完成」の道程と明言できたのは、近代日本の霊性史においてもきわめて重要な意味をもつ。死は、存在の終わりではなく生命の発展における、重要なまた、決定的な「階梯」にほかならない。また、彼にとって死者が生者とともにはたらくのは論証をまたない事実として認識された。
▽107 神谷美恵子 おじの金沢常雄は内村の高弟の一人。……キリスト者ではない。それでもなお、彼女は無教会の伝統につらなる一人であるように感じられる。
……内村の「基督教徒のなぐさめ」の6つの試練は、愛する者の喪失、国家に捨てられたこと、既存のキリスト教会に捨てられたこと、事業の失敗、貧困、そして不治の病だった。
 ……神谷の「生きがいについて」の冒頭の一節。
……世の中には、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちに居る。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。……たとえば治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと、自分のすべてを賭けた仕事や理想に挫折したひと、罪を犯した自分をもてあましていひと、ひとり人生の裏通りを歩いているようなひとなど。

▽137 内村と幸徳は信頼し合っていた。……
 あるときまで内村は「義戦」、正義の戦争が存在すると考えていた。……日清戦争もそのひとつだと……これが誤りであることに気づくのにさほど時間はかからなかった。日清戦争が義戦というにはほど遠い、一部の者たちの利益のための戦争であることを目撃する。
 ……1903年「戦争廃止論」。「日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である」
▽150 トルストイは戦争を嫌った。それゆえに戦争を支えた教会を嫌った。内村も。……カーライルも教会に葬られず、キルケゴールも亡くなるときに牧師による「慰藉を斥けて」亡くなった。
 内村が無教会の先行者としてキルケゴールに言及。……トルストイからは「無抵抗主義」、カーライルからは「永遠の誠実」、キルケゴールからは「単独者」であることを内村は学んだ。彼らはみな、時代の教会と衝突し、そこに疎まれた。
▽155 生者が死者を悼むのではなく、死者が生者をいたみつづけ、そのはたらきによって生者が支えられている。死者の悼むちからが、生者を支えている。それが内村の実感だった。さらに、生者は死者の「命令」に従わねばならないとも言う。
……内村の場合、人生を画するような決断はいつも死者との交わりの中で醸成されていった。1918年からはじまる「再臨運動」も。
……再臨の日に、すべての死者は新生する。……死別は「肉」の次元においては別離の経験となったが、「霊」においては新しき、来たりつつある出会いの約束となった。この実感の根拠を尋ねたとき、再臨にたどりついた、というのである。
……死者との再会を言明することのできない宗教は「有って無きがごとき」という確信は、彼の生涯とその後の無教会運動を貫くものとなっている。
▽159 イエスは十字架上で死に、その姿を消したのではない。私たちの目に「隠れている」だけで、その臨在はこれまでと同じ光の勢力をもってこの世を照らしている、それが内村の信仰だった。人の目には映らない姿でキリストの再臨はすでに始まっているが、人間はそれを認識することができない。もう一つの眼を開けという警鐘を鳴らすのが自身の役割であると内村は信じた。
▽166 信仰の結実においてもっとも重要なのは説得ではなく、見えないところで行われる祈りであることに彼は気がつく。自らの信仰を深めるだけでなく、信じ得ない者のために祈れというのである。
▽167 内村にとっての再臨は死者との関係の深化だけだったのではない。それは非戦論の霊的発展の姿でもあった。死者と非戦と再臨は、内村において、また、無教会の伝統においては一なるものである。この3つの祈りが折り重なるところに内村はキリストを見ている。死者は永遠のいのちを象徴し、非戦はこの世における隣人愛、ことに弱き者への愛の実現を意味し、再臨は、罪のゆるしと壊れることなき和解をこの世にもたらすものであると内村は信じている。
▽175 再臨運動は各所で熱狂を生んだ。なかには、具体的な期日を示してキリストの訪れを予言した者もいた。救世主が顕れれば困難な病も治る、奇跡が起こると説く者もいた。運動は、神の到来を待ち望むというだけでなく、次第に人間の願いが成就する期日へと変化していった。……内村は、歴史的時間としての再臨を否定。奇跡的治癒も重視しない。……病が治癒することは確かに神のはたらきである。しかし、病を生きることもまた、人間に託された神聖なる役割ではないか、と内村はいう。
▽179 キリスト教における「犠牲」とは、隣人のためにわが身を賭すこと。それは死という不可避な出来事において実現する、と内村は信じている。
……彼が死者に権威を感じるのはそのためだ。死には、肉体の終焉という現象的事実を超えた、信仰的な意味がある。人は死を通じて、生ける死者となり、生者の購いの実現のために働いている。そうした死者の高みに君臨しているのがイエスであり……。
▽198 「白樺」を支えた人たちが、ある時期、内村に魅せられ、そして離れていった。有島も志賀直哉も武者小路実篤も柳宗悦も。
▽200 「白樺」の霊性ともいうべき宗教性をもっとも端的に表現していたのが武者小路であり、柳だった。
……民芸運動も、美を真ん中に据えた新しい「宗教」となってよい、と柳は語った。それは人間の魂の救いに関与するものとならなくてはならないと柳は信じていた。民芸運動は形を変えた「無教会」運動であるといえるのかもしれない。
▽210 私の無教会主義は主義のための主義ではなかった。信仰のための主義であった。人の救わるのはその行為によらず信仰によるとの信仰の帰結として唱えたものである。……教会攻撃のための主義ではなかった。信仰唱道のための主義のための主義であった。
▽224 柳「私は宗教が真にこの宇宙を支配する力だと信じている。また芸術がこの世を浄め美しくする力だと信じている。争いは本流を作りはしない。愛に飢える人情がこの世の家庭を作るのである。人間の心の底にはどうしても奪い得ない情愛の求めがあると私は信じている。
 ……若き日の柳の心を領していたのはキリスト教だった。
▽238 内村の弟子たちは、個々が預言者の使命を継承したいとさえ思っていた。矢内原も、預言者であらねばならないという自覚があった。(小谷純一もみずからキリストと位置づける)
▽240 無教会とは、教会の彼方で、個々の人間が生ける神との交わりを持続的に経験しようとする試みだったといってよい。
▽241 内村は哲学と神学を軽んじているのではない。ただ、そこに「死を決して信仰を」守ろうとする心がなければ、けっして見えてこない意味の深みが聖書には存する、というのである。理知だけで神をとらえようとしてはならないという警鐘。
▽242 先生(内村)は矛盾だらけの方でありました。……多くの人が先生に躓きました。近づく者ほどひどく躓きました。……(藤井武)
 内村が、人間的に完璧でないばかりか、むしろ欠点の少なくない人物だったのは、塚本らとの訣別の様子を見てもわかる。
▽245 先生の目には絶えず永遠があり、宇宙があり、人類が有りました。。そのために用いらるべき自分の生涯であるとの自覚が、先生の心臓に刻まれていました。
……「永遠」とは死者論、「人類」は非戦論、日本は「武士道的キリスト教」という主題に置きかえられるのかもしれない。
▽250 彼はやはり、遅れてきたイエスの直弟子である使徒の一人だったのではないだろうか。
▽255 聖書を「読む」とは、それを字義的に解釈することよりも、言葉をもたらした者であるキリストと向き合うことにほかならなかった。目に映る文字は、そうした霊性の旅の道標だったといってよい。
 同質のことは内村の著作と私たちのあいだにもいえる。彼が残した軌跡だけをみて、彼が見つづけたものを私たちが見失っては、彼との対話はうまくいかないのかもしれない。それはキリスト者になることを意味しない。だが、それは人間を超える何かを自らの人生に招き入れることではある。

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