集英社新書 20081201
経済が発展すると、教育が発展し識字率もあがるという従来唱えられてきた順番ではなく、高い識字率こそが経済発展の基盤になるという。江戸時代から識字率がきわめて高かった日本などの例をあげ、アジアの経済発展の基盤だとみる。
一方、アジアの経済の脆弱さは、1990年代の韓国やインドネシアなどの混乱であらわになった。その原因は「民主主義」の欠如にある、と見る。
民主主義と経済発展は両立するのか。
権威主義的な政治体制がアジアの経済発展を裏付けたという説をリー・クアンユらの主張を「根拠がない」と批判する。
一方、年間10%の経済成長を何年も継続してきたインドネシアで、不況によってわずか10%経済が後退したことで大量の餓死者が出たこと、文化大革命時の「大躍進」時に3000万人という餓死がでたこと、北朝鮮での大量餓死者などの例をあげ、民主主義の欠如こそが悲劇をもたらすとする。
経済が成長しているときは、パイが拡大しているから民主主義がなくても生きていけるし、民主主義が欲せられることはない。だが、いったん経済が後退期に入ったとき、貧しい人の声を政策に反映する民主主義という回路(自由なメディアを含む)をもたないと、最底辺の人間だけに不況のしわ寄せが集中する。そういう意味で民主主義は「人間の安全保障」の大切なインフラであり、普遍的な価値だという。
なるほど、と思う。
====================
▽20 東アジアや東南アジアの経済発展プロセスの新しい特色。第一に変革の原動力として基礎教育が重視された。第2に教育・人材育成・土地改革・信用供与などによる基本的な経済エンタイトルメント(人々が十分な食糧などを得られる経済的能力や資格)の広範な普及。第3に、開発計画において、国家機能と市場経済の効用の巧みな組み合わせが行われた。
▽24 経済は比較的初期において教育の普及をするなど、さまざまなエンタイトルメントを拡大させるための政策によって、多くの人々が経済活動や社会変革に参加することを可能にした。
日本の明治維新当時、工業化や経済発展ははるかに遅れていたにもかかわらず、識字能力の水準はヨーロッパを凌駕していた。1906年から1911年にかけては、日本全国の市町村予算の43%が教育費にあてられた。〓
1893年には徴募された兵士の3分の1が識字能力をもたなかったのが、1906年頃になると、読み書きができない者はほとんどいなくなっていた。
1913年頃の日本は経済は発展途上だったが、書籍出版では、世界一になっていた。出版点数はイギリスを抜き、アメリカの2倍以上だった。
▽31 女性たちのエンパワーメントが確立されると、出生率が低下する。中国の出生率の低下も、一人っ子政策などの規制によるものというものよりむしろ、女子教育の普及や雇用拡大の結果だった。
インドでもケララ州は中国より進んでいて、出生率は中国よりはるかに低い。女子教育の普及が中国よりずっとはやく、普及率にそって出生率は急激に低下した。ケララ州のプロセスが自由意思に基づいたおかげで、乳幼児死亡率の低下がつづいている。
インドの大半の地域では、ケララ州とは対照的に、人間的発展のためにほとんど何もなされなかった。
▽35 中国も1979年の経済改革以前は、きわめて官僚主導型の経済体制だった。しかし、改革のずっと以前から、インドよりずっと徹底したやり方で基礎教育と医療を拡充していた。中国は1979年の経済改革に、すでに教育と人間的発展の分野で達成していたものを大いに活用することができた。
▽43 経済が急成長している最中は、貧富に関係なく利益の恩恵を享受している。だが下降時には、どの社会集団に属するかによって、境遇にかなり激しい格差が生じる。
飢饉が人口の5%以上に被害を及ぼすことは稀であり、10%にのぼることはまずありえない。
1997年の東・東南アジアを襲った経済危機。インドネシア・タイ、あるいはそれ以前の韓国の経済危機。それまで数十年にわたって年率5-10%成長を続けてきた国々において、GNPが1年に5-10%減少しただけで、なぜこれほどの惨事になったのか。5-10%の低下が人口全体で公平に分担されるかわりに、最も貧しい人々に重荷がのしかかった。「保護のための安全保障」
▽53 東・東南アジアの問題から明らかになったことは、民主的自由の制限が多くの不利益をもたらすということ。それが最も顕著にあらわれているのは「保護のための安全保障」と「透明性の保証」という自由の2つの重要な側面が、ずっと無視され続けてきたことに結びついている。
インドネシア経済危機の犠牲者たちは、景気が上昇していたときは、民主主義に関心を抱いていなかったかもしれない。ところが、一部の人々が真っ逆さまに転落したとき、民主主義的な制度が欠落していたためにその人たちの声は押さえられ、黙殺された。民主主義がもたらす保護的な安全保障は、それが最も必要とされるときに、その欠如が人々に強く意識されるものだ。
▽59 参加型の開かれた政治システムが生み出す政治的インセンティブが決定的に重要。そうしたインセンティブによって、困窮に陥った人々は発言する機会を与えられ、それが保護のための安全保障の推進につながってゆく。さらに、論議を戦わせる民主政治のシステムは説明責任の所在を明らかにして、金融機関の不正行為などの予防に役立つ。
▽68 世界の飢餓の歴史の中で、比較的自由なメディアが存在した独立民主国家のなかで、本格的な飢饉が発生した国はいまだかつてひとつもない。エチオピア・ソマリア、1930年代のスターリン政権下の飢饉、1958-61年にかけて大躍進政策失敗後におきた中国の飢饉(2300-3000万人が餓死)、近年の北朝鮮の飢饉。
市場システムが生み出す経済的インセンティブだけに集中して、民主主義制度によって保障される政治的インセンティブを無視すると、非常に不安定な基本原則を選択することになる。
▽109 リー・クアン・ユー「非民主主義的システムのほうが、経済発展を成し遂げるには好ましい」という主張。アフリカのなかで最高の経済成長を記録し、民主主義のオアシスでありつづけてきたボツワナ〓からはまったく逆の結論をひきだせる。
▽112 中国はインドより経済的にはずっと順調に進んできたが、独立後のインドには起こらなかった飢饉が中国では不幸にも発生した。中国には野党勢力もなく、自由なメディアも存在しなかったために、政策の誤りが批判にさらされることがなかった。北朝鮮とスーダンで発生している飢饉も同じことがあてはまる。
1973年のインド、1980年代初頭のジンバブエやボツワナといった最も貧しい民主主義国ですら、深刻な自然災害に見舞われたときは、食糧供給をおこなって飢饉の発生を防いだ。
インドの最後の飢饉はイギリス支配下の1943年だった。独立後のインドは、民主主義体制が確立されると、飢饉は二度と発生しなくなった。
▽116 韓国、タイ、インドネシアなどの金融危機の深刻化は、透明性の欠如、金融制度のあり方を見直すための公のチェック機能の欠如と関係する。民主主義的な公共の場における議論が存在しなかったことが、原因。金融危機が経済不況に拡大してしまうと、インドネシアのような国では、民主主義の保護機能が欠如しているために、収拾困難になった。財産を奪われた人々は、発言の機会を必要としたが、一度も与えられなかった。
▽119 民主主義の実践によって、人々がお互い同士から学ぶ機会を得るとともに、社会的な価値と優先順位を形作るために役立つ。……公共の場における議論は、多くの発展途上国を特徴づける高い出生率を低下させるために重要な役割を演じている。ケララ州でやタミルナドゥ州では、現代における幸福な家族は小家族であるという家族観があらわれると、議論や論争が広がった。ケララ州の出生率は1.7は英国とフランスと同じ。この新しい価値観を形成する際に、政治的かつ社会的対話のプロセスが中心的役割を演じた。ケララ州の高い識字率が、そのような対話を可能にすることに貢献した。
▽132 多様性や寛容性 世界中のほとんどの文化にあてはまる特色であり、西欧文明だけの特色ではない。イスラムの同様だ。12世紀の偉大なユダヤ人学者マイモニデスは、ユダヤ人迫害のために、生地である非寛容なヨーロッパから、寛容な都市文化の花開くカイロへと、イスラム君主サラディーンの庇護を求めて亡命した。 ▽139 「公正を伴う成長」という古いスローガンだけではなく、「人間の安全保障を伴う景気後退」という目標のために、私たちは新しい社会的参加を必要としている。
▽解説 157 センは経済学と哲学を橋渡しした。その研究分野は、厚生経済学、開発経済学、社会選択理論、貧困理論、所得分配理論、公共政策論、政治哲学、道徳哲学、経済倫理学、開発倫理学、法哲学、人権理論にわたる。
▽158 新古典派経済学が描く、自己の利益最大化をめざすという貧しい利己的人間像を「合理的な愚か者」と呼んでその行動の動機を批判する。彼が「合理的な愚か者」のかわりに提案したのは、他者の存在に道徳的関心を持ち、この他者との相互関係を自己の価値観に反映させて行動すること、つまり社会的コミットメントができるような個人。それによって経済学は温かい心を取り戻し、社会問題や政治問題に経済倫理の視点から取り組むことが可能となる。
▽161 エンタイトルメント・アプローチという画期的な方法を駆使し、飢饉を分析し、飢饉の原因が食糧供給不足にあった、という通説をセンはみごとに覆した。飢饉はエンタイトルメント(食料その他の生活必需品の購買力、突然に起こる権利の剥奪からおのれの身を守るなど個々の具体的な能力)が何らかの原因によって、(たいていは自然災害ではなく民主主義の欠如など政治的原因によることが多い)損なわれた状態において発生することを明らかにした。
飢饉を根絶するには、苦しんでいる人たち自身が、「飢餓根絶の受益者であるだけではなく、重要な意味で、その主要な行為者となるべき」であり、私たちもまた、「受難者」としてではなく、「積極的な行為主体として見ること」が大切。政治参加に積極的な市民がつくりあげた民主主義的制度による保障こそ、飢饉の防止に役立つ。「人間の安全保障」
コメント