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ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 <カール・マルクス>

  平凡社ライブラリー 20081125

 フランス革命からナポレオンへ移り、その後、王政が復活する。その王制を倒す革命によって共和制が返り咲き、普通選挙制が施行される。ところが、議会内の王制派やブルジョア会派は労働者階級を排除し、反発したプロレタリアを武力で鎮圧し、普通選挙を廃して収入などの制限のある選挙制度に後退させる。さらには、言論の自由を抑圧し、保守派による盤石な支配体制をつくりあげる。
 保守派とは、大土地所有=正統王朝派と、工業資本=オルレアン派である。彼らは当初は、プロレタリアや社会民主党派を排除するためにルイ・ボナパルトと共同する。
 ところが、経済が悪化すると、議会への不信が募り、左派の社会民主党系が議席を増やすが、この勢力もまた議席を守るために妥協を繰り返す。雪崩を打つように大統領のボナパルトへの支持が拡がり、本来は議会保守派を推すはずのブルジョアジーまでもが「安定」を求めてボナパルトを支持するようになる。
 ついにボナパルトはクーデターをおこし、その後の国民投票で圧倒的多数の支持を得て、独裁権力を手に入れる。議会はつぶされ、議員たちは囚われの身となる。
 ポナパルトは絶えず敵をつくり、小出しの「改革」を繰り返して支持を確保する。そして「皇帝」となってナポレオン3世を名乗り、最後にはプロイセンとの戦争に破れて国を破滅させる。
 選挙で選ばれた議会保守派は、自らの保身のために議会制民主主義の基盤である選挙制度を壊し、言論の自由も破壊し、国民の不信を招いて独裁体制を招く基盤をつくった。
 選挙権を得た国民は、独裁体制を自ら進んで選んだ。普通選挙制が独裁制を招いたとも言える。
 ワイマールという民主的国家からナチスが生まれたのも同じ構図だった。ムッソリーニもそうだ。日本のファシズムの前段に普通選挙制導入があったことも指摘される必要があろう。
 柄谷行人はこの本のすごさを、歴史の変化の構造が繰り返すことを示したことにあるという。しかも、世界資本主義における「コンドラチェフの波」と呼ばれる60年の景気循環の説を紹介し、「今」への警鐘を読み取っている。
 戦前のファシズムの60年後とは1990年代である。そう、小泉の政治はまさに同じような権力掌握のプロセスをたどっている。郵政民営化など、「敵」を設定し、「改革」を叫ぶことで支持を獲得する手法も似ている。その結果、中産階級が多数を占めていた日本の経済構造の基盤を掘り崩し、「格差社会」をつくりあげた。
 民主主義の崩壊と社会の破滅がそれに続くことがなければよいのだが。

=======メモ・抜粋=========
 ▽25 7月王政では、選挙権は年間納税額200フラン……1848年、2月革命でルイ・フィリップ失脚。男子の普通選挙制が実現。国民議会。プロレタリアはその後敗北。
 ▽31 すべての階級と党派は、プロレタリア階級に対抗して、秩序の党へと一体化した。「所有、家族、宗教、秩序」を合い言葉にした。この秩序派の一部が、自由主義や市民的な財政改革などを唱えると、「社会の暗殺計画」として処罰され「社会主義」の烙印を押された。そして最後には「秩序という宗教」の司祭たち自身が(ボナパルトによって)追い払われ、牢獄に投げ込まれた。
 ▽55 民主派とブルジョアジーの闘争、小市民的あるいは民主的党派の敗北。ブルジョアジー、すなわちオルレアン派と正当王朝派の連合による独裁へ。そして普通選挙権の廃止。次にはブルジョアジーとボナパルトの闘争で、ブルジョア支配は崩壊し、立憲共和制・議会的共和制は没落する。
 第一次フランス革命は、立憲派→ジロンド派→ジャコバン派へとより進んだ党派によって押しのけられて革命は上昇線を描いた。
 1848年の革命は逆である。
 ▽75 
 ▽89 農民は期待を裏切られた。学校教師を非難攻撃して聖職者の言いなりにさせ、市町村長を非難して県知事の言いなりにさせ、すべての人をスパイ制度の下におくこと、これが農民への回答だった。(=小泉や安倍)
 ▽92 国内の平穏を回復するには、ブルジョア議会を静かにさせなければならず、自分たちの社会的権力を維持するには、自分たちの政治的権力を破壊しなければならなくなった。自分の階級が他の階級と同様に政治的に無力であるという条件の下でのみ、他の諸階級を搾取し、所有・家族・宗教・秩序を享受できるのである。
 ▽99 1850年5月の選挙法は、プロレタリアートを政治権力から排除した。労働者を2月革命以前の最下層の地位に逆戻りさせた。
 小市民的民主党は、普通選挙権が侵害されるときには闘うと叫んでいたが、結局動かなかった。この選挙法はブルジョアのクーデターだった。人民大衆に対する彼等の道徳的支配が失われていくことを証明した(〓自分の基盤を掘り崩す)
 ▽123 5月の選挙法改正以降はもはや、秩序党は主権者たる国民の代表でもなく、内閣をなくし、軍隊をなくし、世論をなくし……。
 ▽127 
 ▽129 アカが大規模な陰謀をもっている、と内務大臣が説明することで、恐怖心をわきたたせ、秩序党は、政治犯の全面恩赦の提案をはねつけた。ボナパルトから人気を奪還できたかもしれない機会を保身から手放した。
 ▽135 大土地所有=正統王朝派と、工業=オルレアン派というブルジョアジーの2つの分派が、同居するための必要条件が議会的共和制だった。
 ▽149 大ブルジョアジーの地方代理店である各県の県議会は、ほとんど全員一致で憲法改正に賛成し、ポナパルトへの支持を表明した。自分たちの議会の代表との不仲、自分たちの新聞に対する激怒も表明した。議会内のブルジョアは、「平穏」と求め、議会外のブルジョア大衆は、大統領に追従し、自分たちの議会と自分たちの新聞を弾圧をした。
 
 ▽156 クーデターを呼び込む土壌が前もってできあがる。いつ起きてもおかしくない状況になっていた。
 ▽168 ブルジョアジーは、革命的新聞を全滅させ、彼等自身の新聞も全滅させられる。民衆の集会を警察の監視下において、彼等のサロンも警察の監視下におかれた。民主派の国民衛兵を解散し、彼等自身の国民衛兵も解散させられる。戒厳令を布告し、彼等自身に対しても戒厳令が布告される。判決なしに流刑にし、彼等もまた判決なしに流刑にされた。自分の財布への欲望から自分自身の政治家や文筆家に反逆し、その後、彼等自身の口に猿ぐつわをかまされ、筆を折られたあとで、彼等の財布が略奪される……
 ▽175 第一次フランス革命は、市民的な国民統一を創出するため、あらゆる地域的な特殊権力を打ち破ろうと、中央集権化を発展させた。ナポレオンがこの国家機構を完成させた。
 橋や校舎、鉄道、大学といった共通利益は社会から分離され、社会構成員の自発性からもぎとられ、政府活動の対象とされた。しかし官僚制は支配階級の道具でありつづけた。が、ボナパルトの下ではじめて、国家が社会を制圧したかにみえる。
 ボナパルトは、分割地農民(自作農)という階級を代表している。分割地農民は孤立しており、耕作にあたって分業や科学の応用の余地がなく、発展の多様性、社会的諸関係の豊かさの余地もない。(農民の位置づけの低さ〓=近代主義者としてのマルクス)
 彼等の利害の同一性が彼等の間に連帯も結合も政治的組織も生み出さないかぎりでは、彼らは階級を形成しない。彼らの政治的影響力は、執行権力が議会を、国家が社会を、従属させるということに最後の表現を見いだした。
 ボナパルトは、都市と結びつき古い秩序を転覆しようとする農村大衆ではなく、古い秩序に鈍感に閉じこもる農村大衆を代表する。農民の啓蒙ではなく迷信を、判断力ではなく偏見を代表する。
 ▽181 第一次革命でナポレオンは、封建的農民を分割地農民にした(農地改革)。だが、農業は悪化し、2世代もすると農業者はじょじょに借金を背負い込む。ボナパルトは、農民の没落の原因を分割地所有そのものではなく、外部の事情の影響に求めるという幻想を農民と共有した。
 ナポレオンの下では、土地の分割は、新しい市民的政体の全面的延長であり、封建領主の復古に対する攻撃拠点を提供した。
 しかし、19世紀が経過するうちに、封建領主にかわって都市の高利貸しが、土地の封建的義務にかわって抵当権が、貴族的土地所有にかわって市民的資本が登場した。……ナポレオン法典はもう、差し押さえ、競売、強制処分の法典にすぎない。(農地改革と自民党政治〓)
 農民の利害は、もはやナポレオン治下のようにブルジョアジーの利害、資本と一致するのではなく、これと対立している。
 ▽192 オルレアン家の領地を押収……ボナパルトは、すべての階級の家父長的恩人になりたがっている。+自分たちの利益 ポピュリスト
 195 手品師のように、たえざる不意打ちによって公衆の目をナポレオンの代役としての自分に向けさせようとする。毎日ごく小規模のクーデターを実行する必要に迫られて、市民経済全体を混乱させ……秩序の名で無政府状態そのものを生み出し……(まるで小泉そのもの〓)
 ▽199 中庸でグロテスクな一人物が主人公の役を演じることを可能にする事情と境遇をフランスの階級闘争がいかにして創出したか、ということを証明しようとした。

□柄谷行人の解説
 ▽268 世界的な経済危機や議会制の破綻の到来にかんして、1990年代は1930年代に似たものになるだろうという予感が多くの者によって語られた。こうした反復性は、世界資本主義における「コンドラチェフの波」と呼ばれる60年の景気循環を示している。1930年代には「後期資本主義」への移行があり、その60年前の1870年代には、自由主義から帝国主義への移行があった。1990年代にはグローバルな市場経済への移行が生じるだろう。
 それらの時代的差異を超えて貫徹される反復強迫。それは、同じ出来事が繰り返されるということではなく、反復があるのは、その形式・構造においてである。
 ▽273 1930年代の日本を含めたファシズムを普遍的に考察するのを可能にするのが「ブリュメール18日」なのである。1990年代の情勢にかんしても洞察を可能にするヒントに満ちている。
 たとえばボナパルトの権力掌握には、1848年における「左翼」の崩壊が先行している。1930,1990年においても共通している。ファシズムを基本的にボナパルティズムの一形態であると考えている。 「ブリュメール」の出来事は、代表制を通さねば何事も生じないような状況のもとで生じた。マルクスが強調するのは、政党や彼らの言説が、実際の諸階級から独立しているということ。「代表するもの」と「代表されるもの」は独立して、あるいは反する場合さえありうる。
 ▽280 ヒトラー政権は、ワイマールという理想的な代表制のなかから出現した。日本の天皇制ファシズムも、1925年に法制化された普通選挙ののちにはじめてあらわれた。
 ▽ 自分たちの代表者も階級的利害を擁護する言説ももたず、それゆえ誰かに代表されなければならない階級=分割地農民。
 分割地農民の「欲望」は言語化されないがゆえに、「意識」つまり政治的言説の場にあらわれるとき、倒錯したかたちであらわれる。ボナパルトは彼らにとって「代表するもの」ではなく、主人なのである。
 1930年代の日本でも、飢餓状況においこまれた多数の貧農・小作農は、自分の階級を自分の名で主張する能力をもたず、クーデターによる天皇親政において農地改革を実現することを唱える国家社会主義者や帝国主義的領土拡張に望みを託した。それは天皇を自らの代表と見なすことであr。それは天皇を「主人」「神」として見ることに帰結する。
 それは、近代の代表制そのものの欠落から生じる。天皇制ファシズムを見るには、普通選挙による議会が先行していたことを忘れてはならない。
 ▽284 ボナパルトは、普通選挙を唱えて「国民の代表者」として人気を博し、また、のちにヒトラーがそうしたように幾度か国民投票に訴えた。
 ▽288 彼に可能なのはイメージを与えることだけ。ボナパルトはメディアによって形成されるイメージが現実を形成することを意識的に実践した最初の政治家といってよい。彼はナポレオンの甥という表象以外に何ももたなかった。(小泉劇場)
 ▽292 王を殺して実現された共和制のなかから皇帝ナポレオンが出てきたことが、ある意味で、シーザーの反復。シーザーは、ローマが拡大し、もはや都市国家=共和制でやっていけない段階において皇帝になろうとし、共和制を守ろうとしたブルートゥスたちによって殺された。人々は彼の死後になって、ローマ共和国がすでに死んでいたことを確認した。
 最初は偶然に見える出来事が、二度目において必然と見える。
 ▽294 王殺しののちに成立した共和制。そこにおける欠落を埋めようとする運動が「皇帝」に帰結する。共和制そのものが皇帝を生みだす。
 ナチスの第3帝国は、ローマ以来の帝国の再建、あるいはナポレオンの帝国がイメージされており、日本の「大東亜共栄圏」も東アジアの「帝国」の再建が思念されている。過去の世界帝国の版図を少しも超えていないし……。第一次フランス革命が「古代の衣装」を借りるのは、単なる過去の模倣ではなく、このような構造的変容の必然に根ざしている。

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