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先祖の話 <柳田國男>

 ちくま文庫 柳田國男全集13

 終戦直前の昭和20年春に書かれた。無数の若者が死んでいくなか、古代からの日本人が死者をどう弔ってきたのか、どう弔えばいいのか、先祖と死者と「私」のかかわり方をつづる。
 大晦日から正月にかけては、実は先祖の魂がもどってくる日だった。死んでまもない家族ではなく、亡くなってから33年といった歳月を過ぎ、浄化されて「先祖」という神になったいわば守り神である。正月だけではなく盆も、そうした先祖信仰が元にあり、その後に仏教が重なったとみる。だから、霊をあの世に隔絶しようとする仏教があるのに、近くの山の上に先祖が今も住んでいるかのように日本人は感じてきたのである。
 死んだばかりの人の魂はまだ身近にいるが、山に埋めた遺体は歳月を重ねていつしか忘れられる。遺体から抜け出た魂は次第に山をのぼり、33年を経て「ご先祖」という神に仲間入りする。各地の山の中に「賽の河原」があるのは、「ご先祖」の世界とこちらとの境界にあたるからだという。
 死んだばかりの人と「先祖」はわけて考える。正月は先祖を呼ぶが、死んだばかりの荒魂のいる家は、大晦日のうちにあいさつに訪れ、正月の行事からは排除される。
 こうした先祖崇拝は、仏教以前からの信仰だった。が、時代とともに、浄化された「先祖」は疎遠になり、身近な死者と、災いをおこす諸々の霊の二者だけを対象とするようになっていった。

 ご先祖をきちんと迎えないと罰があたる、という教えが残り、ご先祖を迎えるために草履を用意し、「いらっしゃいませ」とあいさつする習慣も残っている。先祖という「他者」を「あるもの」として振る舞うことが、いわば倫理の基盤になっていた。先祖とは「理解」できる対象ではないが、すぐ身近に「ある」ものである。自分の理解できない「他者」が「ある」ことを知るという意味もある、と、内田樹なら解釈するだろう。
 ウェーバーの「プロ倫」に描かれた資本主義の世界は、いわば「他者」を排除した世界である。先祖とか伝統とか祭事とかとのつながりを絶った孤独な人間が、唯一神のみと直接結びつくことを求めた結果、本来の目的である「神」が消え、「カネ」が自己目的化した資本主義が生まれる。「他者」を排除したことで、善性の基盤(死者からの視点?)をも失ってしまった、と言えないだろうか。

 では柳田は戦争の犠牲者をどう弔えばよいと考えていたのか。
 無縁仏にすることなく、「ご先祖」としてきちんと祀ろうという。戦場で死んだ若者たちには子どもはいない。継ぐ者がいないから忘れられてしまう。そうしてはいけない。「先祖」として弔いつづけなければならない。それは死者の思いを「代弁」したり、生者である我々が死者の思いを利用することでもない。「ご先祖」という他者が「ある」ことを実感しつづけるということなのだろう。

============覚え書き・抜粋==============
 ▽19 「御先祖になる」跡取り息子ではない少年に「精出して学問をして御先祖になりなさい」と言って聴かせる。新たに初代となるだけの力量を備えている、こと。
 ▽21 家の根幹を太く逞しくという長子家督法と、どの子も幸福にしてやりたいという分割相続法とが、相闘いまた妥協し合ってきた。
 ▽26 私は改良論者の一人であった。……やはりまず正確に知らなければならぬのは過去である。今日は、一度は知っていたことまでも、忘れまたは忘れかかっている人が多くなったのである。
 ▽30 空き地が減り、田地を荒そうようになると、弟や甥の地位は悪くなった。不平があり野心がある人たちは家を飛び出して、よい機会をさがしまわった。それには国役といって地方から、年期を限って京に出て仮屋暮らしをするのが兵役だったから都合が良かった。人事の交流が生まれ、とりわけ東国武士は、わずかな期間に全国に分散していった。
 ▽34 先祖に対するやさしい態度は、もとは各自の先祖になるという心がけを基底としていた。子孫を死後にも守護したい、という思いが、家督という制度には具現せられていた。……親密であった先祖と子孫の間の交感を、具体的に知っている方が、どのくらい家の永続に役立つかしれない。
 ▽45 日本人の1昼夜は、もとは夜昼という順序で、前日の日没時が境目だった。だから大晦日の夜にごちそうを食した。
 ▽59 ひとつの家門のために世話を焼く神様。盆に平和の家に還ってくる祖霊を小児等はじいさんばあさんと言っていた。霊融合の思想。多くの先祖たちが一体となって、子孫を助け守ろうとしているという信仰。年神は我々の先祖であった、という私の想像。
 ▽61 日本人の死後の観念。霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう後方へは行ってしまわないという信仰が根強くある。これが仏教を含めいずれの外来宗教とも食い違う重要な点であると思う。
 ▽79 盆を仏法の支配の下に置いて後まで、なお田舎には年の暮れの魂祭というものが残っていた。
 ▽82 墓の石に水を手向け、盆の祖霊に飲料をすすめることは、仏教の側からは不思議とされる。これに対して魂祭では、米と水との2つがかくべからざる供物であった。
 ▽107 誰でも彼でも死ねばホトケと呼ばれ、常設の魂棚を仏壇というために、人は盆を仏教のもの、仏教伝来後に始まった行事と誤解するようになった。
 ▽123 東北のホトケのなかには、喪とは縁がない、むしろ仏者の度外視するような、おしら様という桑の木の人形のホトケまでを含んでいる。仏をホトケというのは実はひとつの異名であった。最初の公の記録には、蕃神とか客神という文字が用いられ、神々のうちに数えていた。
 ……仏も死霊もともにホトケというなどは、とうてい許すべからざることだが……単に家より外において飲餞を供養するゆえに、ホトキという土製の行器を用いてその祭をしなければならなかったという意味でそう呼ぶ。仏をサラキというのも、以前は盛んに使われた語だった。これも、サラケという器物からきている
 ▽126 
 ▽131 死後おおよそどのくらいの年数を過ぎたなら、家の先祖として一様にめでたい祭をしてもよいと、考えられていたろうか。盆の来るたびに思いだすのは、新たにほとけになった人たちのことで、その悲しみを記憶する者のいる限り、相応に永い間続く。人が亡くなって通例は33年、稀には49年50年の忌辰に、とぶらい上げなどと称して最終の法事を営む。その日をもって人は先祖になるという(吉野など)。33年の法事がすむと、位牌を川に流すという習わしも東北にはあった。沖縄本島では、33年忌を境にして霊が御神になると信じられている。御霊前の棚のほか、上の方に別に御神の棚があり、御霊前の位牌の文字を削り取って、それを御神の棚に納める。……
 つまり一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていた。
 ▽134 廃仏で、仏壇を排除したところで、氏神社の境内に祖霊社という祠が近年になってたてられた。仏壇が家にはないので、他にはまつるべき場所も得られず、こうしているのだと答えた人がいた。仏壇という名があるために、これを全廃したのがいけなかったのである。仏教以前から、家には世を去ったみたまを新旧2つに分けてまつる方式があり、その信仰があったということを忘れてしまったのが悪いのである。もし仏壇を先祖棚と呼びかえるのが似つかわしくないというなら、もうひとつ前に戻ってみたま棚の名を復活してもよかったのである。
 ▽147 古い信仰は、荒忌の穢れを畏れつつも、速やかに清まって早くあの世この世の交通に進みたいと念じていたのに対して、仏教は、法師という者が新精霊の供養を引き受け、人を浄土に送りやってしまう。つまりそれは生死の隔離であり、我々が願わざるところであった。

 ▽149 もとはただ1基の先祖代々の墓というのが非常に多かった。日清戦役で陣没した若者の石碑がしきりに村々の辻などにできたのが、個人のために立派な墓石をつくるひとつの端緒であった。〓こうして永い世に名を残すということが、一方には無名の同胞の霊を、深い埋没の底に置く結果になっていることは考えてみなければならない。
 我々の先祖祭は、一度はこの問題をあらましは解決していた。家さえ続いていけば、千年続いても忘れられてしまうというものはない。少なくともそう信じることがもとはできた。〓
 ▽153 盆の13日の魂迎えの行事にも、仏教の圏外にあるものが少なくない。夕方の迎え火。盛んな火を焚くことことが、盆と正月との祭の中心になっていた時代もあった。
 「じいさん、ばあさん、このあかりでおでやれおでやれ」「おんじいおんばあ、これをあかりに お茶飲みにおいでなして下され」などと。16日の送り火も。
 ▽157 ある武家の老主婦は、明治中頃まで、盆の魂祭の日は、玄関の式台に座り、まるで生人に対するような改まった挨拶をした。私の家でも、もとは主人が袴をはいて、迎え送りに表の口まで出た。それを形式だの虚礼だのと言う人は、これが子供たちに昔を考えさせる機会だったということを忘れているのであう。足洗い水や草履をそろえておくというのも……。自分が孫であり、祖父母とともにいた日のことをおもいおこし、さらにまた今の孫たちの自分のようになる日を想像してみるのも多くはこの際の事であった。〓
 ▽164 生死を超越した殉国の至情を支えた常民の常識があった。死の親しさがあったのが、次第に垣根は高くなったが、死は安しという考え方がなお伝わっていた。
 ▽168 松浦シュウヘイ先生 我々の言うことは聴かれている。することは視られている。それだから悪いことはできないのだ。誰の霊がそこに来るかということもきまらず、また常に必ず居るとも言えない。
(霊とか魂という「他者」が倫理の基盤に?)
 ▽170 霊山の崇拝は仏教よりも古い。死んで亡者のまず行くという山々は、土地ごとの管轄のようなものがあった。
 ▽174 さいの川原 岩手の方では死者の霊が行くところを、賽の川原とは言わずに、でんでら野と呼んでいた。蓮台野も。
 ▽179 生と死の境目は今と昔は異なっていたのではないか。亡骸をこの世の側に属せしめていたのではないか。霊の存在を信じた人ならば、それが肉体を退く瞬間から、あの世は始まると思うのは当然だ。亡骸はきたなき物であり、始末に困る。それをこちらの管轄と認めて、できるだけ早く片づけようとしたことは、常理に近い所業だったと言えよう。
 木や、特徴ある小石を埋葬地の上に置く風習。葬儀に参与した人々はその木やその石を記憶しているが、ちょうどその人たちがいなくなる頃には、次第に忘れられてただの松原になる。
 文字の彫刻がはじまると、忘れ去られなくなり、荒れ墓ができる。33年のとぶらい上げという制度が、もう一度考えてみらるべき時代になっている〓。
 ……魂が身を去って高い峰へ行くという考え方と、その山陰に棺を送っていく慣行とは関係があったのでは。形骸の消えて痕なくなるとともに、麓の方から登り進んで、しまいに天と最も近い清浄の境に、安からに集まっていられるものと信じてきた。それが、山の神が春の初めに里にくだってきて、田なつものの生育を助けたまうという信仰のもとであったのではないか。
 霊がこの国土を離れ去って遠くにいこうとする蓬莱の島を、我々はよそにもっていなかった。どこまでもこの国を愛していた。
 ▽182 賽の川原 大小の石のただずまいは、古い信仰の痕跡であろう。人は死んだ後も、在りし日の形ある物が残っている。それがことごとくこの世から姿を消して、霊が眼に見えぬひとつの力、愛情となり、純なる思慕の的となり切る時が、さらに大きな隔絶の線であると、昔の人たちは考えていたのかと思う。その線を過ぎてから以後の交通には、祭という一定の方式があって、常の日の心構えでなれ近づくことが許されなかった。
 サエ(賽の川原)は、その関の戸の標示であって、喪の穢れの終止点、他の一方から見れば神々の清浄地へ登り近づく第一歩というものが、このあたりにあるはずだと感じる者が多かった結果ではないか。
 ▽195 300年来の宗旨制度によって、うわべは仏教一色に塗りつぶされて後までも、同化しえない部分が死後信仰の上に、かなり鮮明に残っている。……霊はこの国土の中に相隣して住まい、じょじょにこの国の神となろうとしていることを信じる者が民間にはある。この事実を、単なる風説としてでなく、もっと明瞭に意識しなければならぬ時代が来ているのである。
 ▽204 前の生ということはしばしば話題になり、それを小児も聴いていた。小児の思いがけぬ言葉に注意をはらい、何かの折りに(先祖の言葉を)言わせてみようとする風習が近い頃まで盛んだった。子を大事にするという感覚は、遠い先祖の霊が立ち返って、宿っているのをもう忘れたのかもしれぬという、幽かな考え方がなお伝わっていたためとも考えられる。
 ▽205 
 ▽207 空襲警報の下で書いた。
 日本の繁栄の根本の理由には、家の構造が確固であったこともあるのでは。その大切な基礎が信仰であった(先祖崇拝)。
 ▽家と、その家の子なくして死んだ人々との関係。国のために戦って死んだ若人だけは、無縁ぼとけの列に疎外しておくわけにはいくまい。直系の子孫が祭るべきというような思想に訂正を加える必要がある。死者が跡取りならば世代に加える制度を設けるもよし、次男や弟たちならば、これを初代にして分家を出す計画を立てるのもよい。ともかくも嘆き悲しむ人が逝き去ってしまうと、程なく家なしになって、よその外棚をのぞきまわるような状態にしておくことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途ではない。古来、わが邦には叔母から姪へ、伯父から甥へと行く相続法もあり、血縁のつながりがない者にも、家名を継がせた習わしがある。国難に身を捧げた者を初祖とした家が、数多くできることも、もう一度、固有の生死観を復活させるひとつの機会になるかもしれない。

 

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