河出書房新社 20081021
旅を巡る対談集。歴史という縦軸と空間という横軸を縦横につかって、風景の意味や変遷を読み解いていく。アクロバティックでわくわくさせられると同時に、高度経済成長を経て日本人が失ってしまったものの大きさに愕然とさせられる。
たとえば終戦までは山村では、ヒエをつくったり、山を焼いてソバとワラビを食べていた。彼らの祖先は、焼き畑と狩猟をしていた縄文人である。その縄文人が、大陸からやってきた人(騎馬民族)と出会うことで関東武士団を形成する。だから防人も京都の警備も関東から派遣された。鎌倉幕府も山岳民が中心だったから、地頭などが支配した場所は、鎌倉と同じように山間の狭いところだった。そうした貧しい山の民は、自分たちの村の芸能を、芸能をもたない平地の豊かな村で演じ、生活の足しにしていた。だが、テレビの普及によって失われてしまった--。
平家の落人の村を巡る話も興味深い。平家の落人のムラは、かならず100戸以上あるという。伝説を温存するためには、外部の人とは交渉のない社会で、しかもその中で通婚が出来る範囲というのが条件になる。自分の年齢に近い配偶者を求めるとなると、100戸ないと相手が見いだせないからだ。さらに、正当な形をとる平家部落には山の中でも必ず田んぼがある。畑作を中心とする関東系ではなく、平地の住人が移っていったということを示すという。だが、平家伝説のある集落の多くは過疎によって消滅しつつある。
また、日本人は元来旅好きであり、旅を支える善根宿などの文化が根づいていたという。芭蕉は、さびしい旅のように思われているが、どこへ行っても泊めてくれる俳句の仲間がいて、楽しい旅だった。戦争中でさえ、宿泊を拒否されたのは2、3回だけという宮本自身の体験からそう思えるという。無常観というのは、寂しいものではなく、「縁あって会った人は泊めてあげたいし、仲良くしてあげたい」という健康で健全な意識だった。旅先で泊めてもらうと、囲炉裏を囲んで語りあった。話がごちそうだった。だがそういう文化は、囲炉裏がなくなり、テレビが導入されると消えてしまう。家人はテレビと向き合うから、来客は迷惑な存在になった。こうして日本人の旅好きをささえた文化が消えてしまった。
対談の中身はとてもおもしろかったが、本のつくりは素人の自費出版のようだ。索引もない。対談の背景説明もない……。河出書房って、こんないいかげんな出版社だったっけ?
===============抜粋・メモ=================
▽9 大阪にいたとき村々を歩いたが、関西の農村の人々は冗談のやりとりでまじめな話を笑い話にしてしまうような気さくな性格をもった人が多い。道端で立ち話をしていると、家へ寄ってお茶でも飲んでいき、と誘われないことがない。こんなことは他の地方ではまずみられない。その経験が、のちに田舎を歩いて気軽に相手に声をかけさせるもとになった。
▽15 村の人々が前向きに生きようとするときに祭が必要なんであって、習俗や伝承を比較するのも大事だが、そういうものを維持してきた人たちの人情とか努力がもう少し評価されていいのでは。民俗学のもう一つ下で、そういう民俗を保持してきた人たちの姿勢といったものがとらえられていいのではなかろうか。
▽21 稲をつくる人、漁業をやっている人、それ以外の人、と、大きく3つに分けられる。畑作や林業に携わる人は古い縄文文化を伝えてきた人たちで、のちに武士階級を作り上げた。平地からでた強い武将は信長と秀吉くらい。彼等が天下を取ったのは鉄砲をもったから。それ以外はすべて山岳民族。
▽22 里にいる人はのどか。奈良県なんて女は働きゃしなかった。戦争中だって勤労奉仕の人がくるとごちそうをこしらえてたんぼにもっていく。自分たちは働かない。それで飯を食えた。
奈良盆地は1反あたり米を3石つくっていた。
僻地だったら、アワが1反にせいぜい7,8斗。4,5町つくっても生活はなりたたない。台地の麦や芋をつくっている部落は、強盗の話が多く、女は午後4時すぎたら外出しちゃいけなかった。
▽25 日本人にとっての商売はビジネスじゃなくて慈善だった。……ほうきの行商にきている人は、来るたびに新しいほうきを買うだけでなく、飯なども食べさせていた。……都会の小売り商や中小企業にもそういう考え方は受け継がれているのでは。「自分たちが救っていただく」と考え、大きな取引先や客は「こちらが救ってやる」という感じがある。……対等な人たちばかりいる社会では、日本の場合、商売はなりたたなかった。……
▽29 芸能人には、河原者のように、差別されながらあえてその生活をつづける人たち(反体制的)と、山の中に住んでいて、自分たちの村の芸能を、招かれて平地の村で演じた人たち。平地にはほとんど芸能がなかった。生産性の低い山の人々は芸能によって生活の足しにしていた。
そういう常民の生活がテレビ時代になって失われた。山村の過疎問題のひとつの原因にもなったのでは。
▽37 日本人くらい自然を粗末に、無茶につかった民族はいない。木をきっても後からはえてくるから、育てるということを知らないで過ごしてきた。(花札の鶴と松〓)
▽44 芭蕉らの旅は、楽しいものだったのでは。どこへ行っても泊めてくれる人がある。俳句の人たちが歓迎してくれる。
戦争中のような時期においてさえ、泊めることはできませんと拒絶されたのは2回か3回だけ。
善根宿 おかね一文ももらわない。3分の2はタダで食べていく。
▽57 無常観。縁あって会った人は泊めてあげたいし、仲良くしてあげたいと思う。無常観というのは健康で健全なもの。だから坊さんは、神父に比べて明るい。酒も飲むし、ばくちも打つ。
……土地の人と親しくなるのは簡単。草でも花でもいい。「これ何という花でしょうか」と聞く。毒になるか薬になるか。それだけで20分は話がつづく。
▽66 イモ文化の前に大根文化があると思う。(〓原産は?日本在来?)焼き畑につくれば辛味が抜ける。粟とかヒエとかに混ぜると十分主食になる。
▽68 ワラビというのは自然に生えているものでは根は採れない。焼いてやらなければワラビはそろって芽がでてこない。
▽70 縄文時代には狩猟を半分は伴っていた。そこへ大陸からやってくる。縄文人と大陸人が習合してくると、関東武士団を形成する。渡ってきた騎馬民族はわずかなんだから、同じような性質をもつ人たちがいるはず。
防人も京都の警備も関東からいっている。ただの農耕民では考えられない。
鎌倉幕府を形成したのも山岳民が中心。だから、地頭などの勢力があった場所は、鎌倉と同じように鼻をつめたような山間の狭いところ。
武士団というのは稲作地では生まれていない。畑作地。
▽72 新嘗祭というのは、稲の祭ではなく、粟の祭。栽培植物で農耕儀礼の伴っているものといないものを分けてみると、江戸時代に栽培を始めたものは農耕儀礼がない。農耕儀礼があるものは古いものだと見ていい。
▽74 乗鞍の南の奈川という村は、ヒエをつくっていない。終戦まで山を焼いてソバとワラビを食べていた。それが乗鞍を西へ越えると稗地帯になる。(ソバ、麦の原産は?〓)
▽88 歩くというやつは、ただ歩いて見たんじゃ、何ら意味がない。まとまって1週間以上旅をし、そこである地域を見なきゃ、見たうちに入らない。
▽90 大学の入学試験に親がついていくなんてのは西日本にはほとんどない。家父長制も、西に行けばそうじゃなかった。若狭なんか、女は女で自分はどうして生きていったらいいかということを1人1人考えていた。(水上勉はそんな世界を小説に)
▽101 「うちの風呂に入りにこい」それで話をする。話のごちそう。そういうのは囲炉裏がなくなると消える。(囲炉裏の効用〓)いろりがなけりゃ、テレビと自分たちが始まる。他人に来てもろうては困る。
▽115 「平家伝説」(松永)。椎葉の鶴富姫の伝説。実は江戸時代の椎葉山の騒動で、「女をよこせ」と言われて、人身御供になったのが、鶴と富という2人の娘だったんじゃないか。それが幕末ぐらいに平家の末裔だといいだした。伝説をつくって喜ばせるプロがいた。
▽119 平家の落人の村というのは、かならず100戸以上ある。祖谷山では1000戸以上。椎葉でもそう。配偶者を求める場合、自分の年齢に近い人を求めるとなると、100戸ないと相手が見いだせない。伝説を温存するためには、外部の人とは交渉のない社会で、しかもその中で通婚が出来る範囲というのが条件になる。小規模の集落で伝説をかかえつづけた桂山は、本家の甲斐家だけが伝説を守る形をとっている。この家がずっと神主をやっていたから、伝説を伝えるのに条件がよかった。
▽132 高野聖と平家部落 太平洋戦争のさなかに津軽とか下北で巫女の口寄せをきいていると、ほとんどが戦争のことだった。現在ではきれいに消えている。南北朝のときはその合戦の話をもって歩く人がいたろうし、それ以前なら、全部の平家の話にしたんじゃなかろうか。
▽138 正当な形をとっている平家部落には必ず田んぼがある。山の中でもある。平地の住人が移っていったということと、関東系ではない、ということ。関東系は畑を中心とするし、西のほうだと稲作と結びつく。
平家谷伝説のあるところには、中世の芸能がのこっている。中世の芸能といえば念仏踊り。田楽もその系統。高野聖と結びつく。越中五箇山のコキリコ節も、祖谷山の神代踊りも念仏踊り。
▽143 過疎問題。北上山中、中国山中、四国・九州の場合は炭焼きがなくなったということ。減反や塩田には政府の補償があったが、炭焼きをやめたときはどうだったか。島の場合は汚水。教育問題。遊学のための送金は各県とも50億円を下らない。村の中学、町の高校で教育した子供たちが都会に出て行く。何兆円というカネが都会に流れている。しかも反対給付はない。
▽145 物資の交換所としての峠。最近まで峠が重要な意味を持ったのは西。たとえば徳島・香川県境の猪鼻峠は、牛を飼っている徳島と、田んぼばかりの香川との交換。頂上で子牛の交換をした。契約の仕事が終わると、代償の米を背に負わせて山頂で返す。
〓そういうことがなくなったのは、戦争で米が統制になってから。
▽149 川越は舟運で発展した。朝霞まで新河岸川で川舟が上下していた。
問丸を発達させたのは荘園の成立。京都へもってきたものを必ずカネに換える。荘園は都から遠ざかるほど大きくなるし、途中の経費が高くなる。運搬費は集めた物のなかから支払う。どこかで処分されるから途中の市を発展させる。
備前の福岡にも市があり、これは山陽道の駅だった。
▽152 「草津」というのは、草競馬とか草市の草。小さい津とか、ケチな津という意味。
備前の福岡は消えてしまったが、岡山はその福岡の町民が全部移ってつくった。福岡県の福岡も、備前の福岡からのわかれ。
▽153 熊本県のアーチ型の石橋。オランダの技術。なぜ熊本に技術が残ったか。火山台地で渓谷が多いから、橋桁なしでなくては橋がかけられないから。その技術が、東京の神田の筋違橋とか二重橋になる。みな熊本の石工がつくった。
▽154 日本くらい民衆社会のなかで平等が発達した国はなかった。ぼくなんかしょっちゅう歩いているんで、ほうぼうに泊めてもらったが「お金をうれ」というところがない。「いつ世話になるかわからん。あなたの世話にならなくても、だれかの世話になるでしょう」と。
▽165 漁村部では「末子相続」が多い。狭い家で夫婦と子供が一緒に寝るから、子供が色気づくころになると困る。そこで子供を若者宿にだし、若者はそこで好きな女を見つけて結婚する。そうなれば、どこかに部屋を借りてやって、船を持たせてやる。
家島など、一本釣りの漁村はだいたいそう。家が小さいから。延縄や打瀬網漁になると家が大きくなる。
▽173 漁民の移動囲は広い。沖家室の一本釣り漁師は旧暦3月までは郷里でタイを釣り、4月には下津井。5月は宇和島。秋祭りがすむと対馬でブリ。……明治30年ごろからは、台湾とフィリピンの間のバシー海峡まででかける。汽船にのってハワイまで漁にいく。
鞆の近くの田島漁民はマニラ湾まで。エビ漁をやるためマニラに移住してしまう。フィリピンにはエビのマーケットがあったから。漁師には、国境なんて頭にない。
漁でもうけたら「飲む・打つ・買う」。船着きの港にはたいてい女郎がいる。元は漁村だったのでは。兵庫の室津や山口の上関も漁村から商業都市に発達した。
江戸時代の参勤交代も瀬戸内海の港町を発達させた。牛窓など。江戸時代中期以後の北前船は、山口県の室津・上関という港に入って、どんちゃんさわぎ。昆布とかニシンとか、北陸の産物はほとんど瀬戸内海の商人が買い取っていた。
瀬戸内海の常食はほとんど麦飯とイモだったから、北前船の米飯の食べ残しも魅力だった。
▽179 釣りにしても網にしても、漁業技術の先進地は大阪湾で、そこから拡大していく。しかし、日本にコメをもってきたのは朝鮮の人たちで、そのコメが非常な早さで日本全体に拡がっていったというのは、海の交通があったから。下北半島では弥生前期には籾粒がある。海路以外考えられない。
▽181 海づたいに新しい土地にいくとき、農作物ができるまでは、魚と海藻で生きていたはず。能登から北の日本海岸では、タラをかなり常食にしている。米の飯よりうまいといって、それだけを食べる。西日本でそれにあたるのがカレイ。主食になりうる。
▽189 コメに2種類あるジャポニカとインディカ。インディカには白くて長いコメもあるが、赤くて長いコメのほうが多い。この赤いコメはもともとフィリピンあたりで栽培されていて、おそらく唐の時代に日本に渡ってきた。海の道を通って、海洋民族の文化といっしょに日本に伝えられた。幕末の記録を見ると、鹿児島では赤いコメが全体の半分を占めていたとあるから、琉球を伝ってきたのでは。熊本でも宮崎南部でも四国の高知でも、半分は赤いコメだった。
赤いコメがつくられなくなってしまったから、小豆で色をつけてコメを炊いて、赤飯につながった。
▽194 離島の島国根性
▽202 上高地は、安曇村の人はいない。松本や東京の人ばかりだから、地元には税金が落ちない。それに対して乗鞍山麓の番所〓〓は、安曇村の所有。どちらがいい観光地になりつつあるかというと、番所のほうがはるかにいい。
▽209 尾道あたりの島は、昔は殺風景で、骸骨島といっていた。今はミカンやオリーブが植わって、青々としてきた。自然はつくることができる。
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