海鳥社 20081030
「師=死者=他者」というのが、この本の骨格のような気がする。「他者」とは、「私」には絶対的に理解できない境地にある絶対的な存在であり、ラカンの言う「象徴界」(その反対が「想像界」)もほぼ同様の意味である。難解なレヴィナスやラカンがほんのちょっとわかるような気がする。
「師=死者=他者」から我々は一方的に刺激をうけるが、「師=死者=他者」を理解したと思いこんで「利用」してはならない。
「師」は私の理解を超えた「完全なる存在」である。「こっちに来なさい」という呼びかけに応えて弟子は己の理解する世界から外へ一歩踏み出す。「理解を絶した命令に従い、外へ踏み出す」という仕方で「主体」が形成される。師は知識を教えるのではなく、弟子の内部には存在しない知が「外部」には存在するという「知のありかたについての知」を弟子に伝える。
ユダヤ教で、独学者にはタルムードの解釈を許さないのは、独学者はすべてを自分の枠組みのなかで解釈し、聖句に「正解」をあてがってしまうからだ。自分の理解が到底およばない「他者」を独学者は知らない。彼の目の前にいるのは、彼と同類等格の「他我」(ラカンの言葉では彼自身の「鏡像」)にすぎない。「想像界」に住む者である独学者は、「既知」に取り囲まれて生きているから、タルムードや聖書のようなテクストをも「既知」に取り込もうとする。つまり「他者としてのテキスト」を毀損してしまう。
「独学者」とは、既知であるものを既知に繰り込むという西欧的な「知」のことである。西欧的な知(独学者)は「鏡像的=他我的」なもの(自分の似姿)を無限に列挙し、世界をカタログ化することしかできない。
「死者」もまた「他者」である。だから「存在論の語法」、つまり「死者たちが存在する」という言葉づかいをして、死者を道具的に利用してはならない。「死者の遺言」を大義に掲げる人々は、世界各地で民族対立や宗教対立といった暴力連鎖を生み続けている。「死者たちの身内からなされる権利回復の賠償要求」こそ「存在論の語法」の最悪の形態である。「死者たちのために・死者たちに代わって」という生者は、「死者という他者を理解できる」という傲慢でしかない。
ホロコーストは、形而上学を涵養したヨーロッパの風土から生み出された。透明で叡知的な「主体」、どのような歴史的出来事によっても汚されることのない中立的な知……既知であるものを既知に繰り込むというヨーロッパ的な知のあり方が悲劇を生んだ。
だからホロコーストの生き残りであるレヴィナスは、それとは違う仕方、つまり「私にはとうてい理解できない他者」として死者を語る方法を探求する。死者たちの言葉は「永遠に残響する叫び声」であり、生き延びた者に許されているのは、その叫び声のなかに「思考」を聴き取り、それを「あの時代を生き残った私たち1人1人がそこに既視感を覚える種類のフィクション」として語り継ぐことだけだという。死者を「理解し代弁する」のではなく、死者から一方的に刺激を受けて、自らを語ること、という意味だろう。生者は死者を「召還する者」ではなく、死者に「召還される者」であるという。
「存在しないもの」である死者は生者の振る舞い方を規定する。旧石器時代、死者を埋葬する儀礼を持ったことによって人類は類人猿から分岐した。葬制の意義は、「現実の世界に存在してはならないもの」を現実の世界に存在せしめないこと(死者を既知の枠組みに取り込まないようにすること?)にある。つまり、死者を通して「他者」を意識したことが人間のはじまりだという。
「私」という主体は、「かつて一度も現在になったことのない過去」(無限)の「身代わり」にすぎない。「私」の起源である「無限」は「他者」であるから、私はその真意を代弁することはできない。
「他者」の最たるものは「神」である。我々は神の「顔」を見ることはできない。偶像崇拝が罪深い行為とされるのは、それが他者=神を「存在論の語法」で語り、神の絶対的超越性を視覚と触覚によって汚すことになるからだ。「愛される女」を欲しいと思ったら「愛する」しかないように、神を欲するなら「神を信じる」しかない。「理解する(=自分の枠組みのなかに位置づける)」より先に「実行する」ことが大切なのだ。
ふつう人は、過去から未来へ流れる時間意識のなかに生きており、「死」を意識することはあまりない。これに対して「未来から過去に流れる時間」、「死んだあとの私」(=他者)の視点から「今・ここ」の私を眺める時間を意識するとき、わずかでもこの世界に「善きこと」をし残しておきたいと願う。だから、「他者」は、人間の善や倫理の基盤でもあるという。
—————–覚え書き・抜粋——————–
▽28 知から欲望へ 「存在するとは何か」という問いには、すでに「存在する」という動詞が使われている。問われている当のものの支えなしには問いそのものがたちゆかない。だから「問いの主体」という自己同一的主体を無反省的に措定することを自制するところから始めなければならない。
▽37 小児は、情報をもったメッセージの発信・受信ができる以前に、すでに伝達を行おうとしたがる。交話的コミュニケーション。意味のない会話。=新婚夫婦の会話 「私たちのあいだにはコンタクトが成立している」という事実を確認したいという欲望しか運搬していない会話。小津安二郎のシナリオ。
▽50 テキスト・師・他者 タルムードは、つねに対話者が必要。ラビたちの終わりなき論争。論争の目的は「論争を終わらせないこと」にある。あらゆる手だてを尽くして反論を試みるのは、聖句の解釈に「最終的解決」をするため。神の叡智を開示する記号の解釈は、永遠に開放状態におかれなければならない。
神の叡智を一義的語義に回収しないことが、ラビたちの責務。
▽52 レヴィナスが師から学んだのは、知識や情報ではなく、聖句の未知性を毀損することなく、深淵なる知見をどのように引き出し得たのか、その「作法」。弟子が師から学ぶのは、師がさらにその師から学んだときの「学ぶ作法」
▽55 師=他者 師について読み方を学ぶところから始めなければならない。師について学ぶことで、「他者」との出会いの源基的形態を経験する。師は卓絶した知的境位にあるのだが、師と私を隔てる「距離」は私に固有のもので、ほかのどの弟子も「師に理解が届かない仕方」において私にとってかわることができない。そういう意味で、師は「私を起点とする他者」。
▽58 師から学ぶのはまず「完全」という概念。「他者としての師」は「完全なる師」。その叡智が弟子の理解能力を絶対的に超えた知的境位。
師は弟子に「こっちに来なさい」と呼びかける。その呼びかけに応えて弟子はおのれの外へと身を乗り出す。(〓神の声と一緒。まったく理解できないけど従う)「外部からの召還」は、弟子を遂行的な運動のうちに巻き込む。「理解を絶した命令に聴き従い、外へ踏み出す」という仕方で「主体」を立ち上げる。
(実存主義に近い?)
師は有用な知見を弟子に教えるのではなく、弟子の内部には存在しない知が「外部」には存在するという知を伝える。「知のありかたについての知」を弟子に伝える。
▽74
▽93 ユダヤ教では、師を持たない独学者にはタルムードの解釈は許されない。独学者が謎を「複数のパロール」のあわいにすまわせておく術を学んでいないからだ。独学者はおのれの声しかしらない。すべてを既知に還元し、聖句に「正解」をあてがい、解釈の運動を停止させ、タルムードに「最終的解決」をもたらすことになる。 = 呪われた独学者
▽40 独学者の努力は「自分がすでに知っていること」を他者のパロールのうちに「再発見」するためにしか行使されない。独学者が「他者」を知らないから。彼の目の前にいるのは、彼と同類等角の「他我」彼自身の「鏡像」にすぎない。想像界の住人であるというのはそのことである。
「想像界」に住む者=独学者は、「既知」に取り囲まれて生きている。だから、彼にとって「他者」はさしあたり「他者とは何か」という問いの形でしか主題化されない。その設問の形式そのものが「既知への還元」を根元的趨勢として前提にしていることに独学者は気づいていない。〓
=光の孤独
▽97 既知であるものを既知に繰り込むこと、それが西欧思想における「知」の機能。独学者とは西欧的な知の別名。知は世界を照らし出し、世界を所有する。が、独学者は「双数的=鏡像的=他我的」なものを無限に列挙し、おのれの似姿で世界を充満させることしかできない。
▽99 レヴィナスのテキストの読み方 「いまだ知られざる土地」として読むだけでなく、その土地を歩んだ歴程を語るために、もう一度「出発点」に戻ることを自制することを求められる。それが「師としての他者」に向き合う作法だからだ。
▽102 ラカンの「象徴界」 「私がその理解も共感も絶した他者、いかなる度量衡も共有されない他者に出会う境位」=他者
「想像界」「私が出会う人々が、私とともに1つの全体性を構成している、感情移入可能な他我であるような境位」= 他我 間主観
▽115 交易を動機づけるのは「商品そのものに内在する価値」ではない。商品の内在的価値そのものが、交易という「最初の一撃」によって「無から創造」される。価値があるから交換されるのではなく、交換されたことで「価値」という概念が生まれた(〓贈与論?)
言語も同様。コミュニケーションを動機づけるのは「言葉の意味」ではなく、送り手から受けてに贈られ、受取手が返礼義務の圧力を感じたという効果として、事後的に与えられるのが「言葉の意味」。
▽118 パロールはそれを「伝えようとする欲望」と「聴き取ろうとする欲望」が2つの項に分割されるまさにそのときパロールとしての意味を帯びる。
▽121 まず主体があり、それが他者を志向する、という自我中心主義の図式をレヴィナスは転倒する。まず他者の接近があり、他者の接近に「遅れて」それに「応答するもの」として主体性はたちあがる。
▽127 私たちが客観的に実在する世界だと思って経験しているものは、主観的な仮象である可能性をつねに伴う。私たちは夢を見ているのかもしれない。
素朴な存在信憑込みで世界を無反省に信じることができなくなる。しかしだからといって「世界は不可知」と判断放棄するのは知性の怠慢。「私にとっては、そのように実在しているように見える」と言うのは許されている。「そのように見えている」という事実以外に、客観的世界に接近する回路は存在しない。
▽145 死体
旧石器時代に、死者を埋葬する儀礼を持ったことによって、人類は類人猿と分岐した(〓?)「葬制を持つ」ということは、「死者の発揮する恐るべき力能」を知ったということ。それが「人間になった」ということ。「人間性とは何か」という問いを突き詰めると、死者と葬せいどの問題にぶちあたる。
死者は「存在」しない。「存在しないもの」が生者をがんじがらめにして、振る舞い方を規定する。
▽149 第二次大戦 ドイツでもイタリアでもフランスでも「抑圧的体制」は、欧州の風土の最深部からはい出してきた。欧州の知識人は、この抑圧的制度と思想に対して異議申し立てを試みるとき、「ヨーロッパの風土に根を持つ」倫理や形而上学や神学の語法を使うことを自制しなければならない。「何か間違ったもの」が「文明の基盤」に潜んでいたから。
ホロコーストは、ヨーロッパ形而上学を涵養したその風土から生み出された。透明で叡知的名「主体」、どのような歴史的出来事によっても汚されることのない冷ややかで中立的な観想的知、そのようなものをヨーロッパ文明の「再建」の基盤にすえることは許されない。
この状況をどう生き延びるかを、レヴィナスもラカンもハイデガーもヤスパースもサルトルもブランショも自らの課題として引き受けた。
▽151 カミュの「ペスト」 私の「外部」にある何らかの実体に「悪」を凝縮させ、それと「戦う」主体として「私」を立ち上げる物語のあり方そのものが「ペスト」なのだ。
「ペスト」とは「私」が「私」として存在することを自明な出発点とする根源的な「無反省性」の別名。「私」と「他者」の間にいかにコミュニケーションを構築するか、という問いをたてるものは、まさにその身振りによって「ペスト」に罹患する。まぬがれようとしたら、その話形そのものを放棄しなければならない。
主体と他者の二元論の話法で語ること、「私」を自明なものとして措定することを「死者たちが許さない」というラカンの自制。、
▽156 ドイツ占領下、サルトルもブランショもラカンも、占領軍の権力を逆手にとって、行動の自由を確保しようとした。彼等に共通する語り口は、あらゆる言葉が「裏の意味」を持つような語り方をする。トリッキーなエクリチュール。
ラカンは、現実を生き延びようとしながら、同時に死者たちに対する責任上、生き延びるためのことばそのまま同時に死者への鎮魂の祈りでもあるような語り口を選ぶことを要請されていた。そのとき選んだのが、「ラカンが言いたいこと」を聞き手がつねに「聴き損じる」ような語法だった。
▽162 生死の分節線を引くことが、「死者を弔う」ということ。(〓秘密墓地発掘によって魂のサイクルが閉じる)
ホロコーストを生き残ったユダヤ人。弔うのは、「無意味に生き残ってしまった」という事実に何らかの意味をもたらし来すため。。死者たちに向かって「私たちが生き残ったのは、あなたがたのために、あなたがたに代わって、ある仕事を果たすためだったのです」と告げることができなければ「私が生き残った理由がわからない」という、生きていることの根源的な無根拠性に耐え続けなければならない。だから、生き残った人々は例外なく「死者を弔う」ことを最優先の責務として引き受ける。(〓戦死者の弔い 柳田国男)
生き残ったことに意味を与えるとすれば、生き残った者は、より多くの責務を果たし、より多くの受苦に耐えるために選ばれたのだという自己規定を自ら引き受けることの他に道がない。
▽182 「弔う」とは、「死者をして死なしめる」こと。そのために生者がなさねばならぬことは、死者たちを決して「存在論の語法」において語らないという法外な禁欲である〓〓。死者たちは存在論の語法で語られる限り、「ここ」にいないがゆえに、いくらでも「ここで」利用可能なものになる。存在論の世界では「死者たち」は生者によって「使役」される。
だから現に今も「死者たち」は生者たちの「政治的正しさ」を証言するために、「歴史の法廷」に証人喚問されている。どんな深い哀悼の気持ちを持っていても「死者たちが存在する」ということばづかいをする限り、彼等は死者たちを道具的に利用する宿命から逃れられない。
「死者の遺言執行」を大義に掲げる人々が、世界各地で民族対立、宗教対立、迫害と差別……の暴力連鎖を生み続けている。
「死者たちの身内からなされる権利回復の賠償の要求」の語法こそ「存在論の語法」の最悪の形態。
だからレヴィナスは、それとは違う仕方で死者について語る方法を探求した。
死者たちのことばは「永遠に残響する叫び声」であり、それを記録したり分類したりすることは許されない。生き延びた者に許されているのは、その叫び声のなかに「思考」を聴き取り、それを「あの時代を生き残った私たち1人1人がそこにめまいのするような既視感を覚える種類のフィクション」として語り継ぐことだけ。
だから生者たちは「召還する者」ではなく「召還される者」として自らを位置づける。「死者たちの陪席する法廷」に召還されて、そこで自らの有責性について弁そすることを求められる。
▽187 「死者たちのために・死者たちに代わって」語ろうと望む生者は、「身分詐称者」になる。(他者を理解する、という傲慢?)それを語れるのは「死者たちは存在する」ことを自明とする存在論の語法だけ。その語法こそ、その死者たちを煉獄へ追い払った暴力の公用語「権力の語法」。
西欧哲学は存在論を介在させて「他なるもの」を「同一者」に還元してきた。
死者たちが「主題あるいは対象となり、目に見えるかたちで顕現し、つまりは光の中に位置づけられる」それが死者たちについて存在論の語法で語ること。
▽203 「私たちの世界にいかなる足がかりも持たない外在的存在者の現前」を「顔」と呼んだ。顔の最たるものは「神」。顔はぜったいに見られることはない。神の顔を見ることはできない。
神を視覚的に表象することを禁じるのは、視覚的・触覚的把持が「偶像崇拝」に通じる道だから。偶像崇拝が罪深い行為とされるのは、それが他者を「存在論の語法」で語ることだから。神の絶対的超越性質は視覚と触覚によって汚される。〓
▽229 「愛される女」が「愛の志向」のうちにしか与えられないように、「隣人」は「隣人愛」のうちにしか与えられない。「迫害する隣人」というのは形容矛盾だ。神は「神の信認」のうちにしか与えられない。
「理解する」より先に「実行する」アブラハムのあり方
▽234 「私」の自己同一性は、「かつて一度も現在になったことのない過去」の「身代わり」であることで担保される。レヴィナスの「主体」の定義 主体は身代わりであり、身代わりであることが、身代わりを身代わりたらしめている当の根拠。
身代わりである私は、「無限」を十分に代理表象することはできないし、真意を代弁することもできない。なぜなら「私」は「無限」の身代わり、「無限」を覆っている「覆い」にすぎないから。私にできるのは、「隠された絵」に対する人々の欲望をかきたてることだけ。
私が「身代わり」になることで、「私」の自己同一性を基礎づけてくれた「彼」こそは、「私」の起源であり、「私」の生きる意味の担保者である。だから、決して現実の世界には存在しないものだけがもっともたしかな仕方で「私」を現実的なものとして基礎づけてくれる。
「現実の世界に存在してはならないもの」を決して現実の世界に存在せしめないこと、それが「死者を弔う」ことの本義である。
このようにレヴィナスは、倫理的主体の基礎づけと「死者の鎮魂」を同時的になしとげた。
▽247 過去から未来へ流れる時間意識 = 通俗的時間意識のうちで安らぐ者は死の切迫を感覚遮断している。
これに対して「未来から過去に流れる時間意識」「他者のための、他者の身代わりの一者」の時間意識 わずかでもこの世界に「善きこと」をし残しておきたいと願うとき、「死んだあとの私」の視点から「今・ここ」の私を眺めるという操作が不可欠。
死の切迫のうちで、おのれの死がおのれの「現存在の最も固有な可能性である」ことを覚知した人間が善行を行うのではなく、死の切迫によって、存在の彼方を望見した人間がなす行為を総じて「善」と呼ぶという定義のほうが、ことの順序として正しいのかもしれない。
▽255 フロイト 原父を殺害したことによる自責感。それがテーテミズムの発祥。父殺害に対する自責からトーテムを殺してはならない、という禁令を導き出し、父の運命の反復を避けるため「兄弟を殺してはならない」という禁令を導き出し、長い歳月を経て、これが「汝殺すなかれ」という戒律に収斂する……。
私たちが何かを「ここ」から押し出し、そうやって排除したものに対する悔恨と服喪を通じて、おのれの自己同一性と善性を基礎づけるというメカニズム。私がその場所を簒奪したことで光りの中から退去したもの、私のうちに癒しがたい有責感を残し、それを介して自己同一性と善性を基礎づけたものを、レヴィナスは「他者」と呼んだ。
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