新潮社 20081104
古来、人間は現実の世界・自然にどっぷり浸かっていた。自然とはそこから生まれいずるもの、「なる」ものであるとされた。
ソクラテス・プラトンにはじまる哲学は「存在するもの全体がなんであるか」と問い、自然から切り離された超越した世界をつくりあげた。プラトンは「イデア」という超越世界を設け、現実はそのイデアの影のようなものだと言った。アリストテレスはプラトンの考えを少しだけ古来の考えに近づけ、現実は単なる「影」ではなく、少しずつ本来のあり方に近づいていくものだと説いて、その「本来の姿」を「純粋形相」と呼んだ。キリスト教は両者の思想を受け継ぎ、イデア・純粋形相の位置に「神」を置いた。ここでは自然は「なる」「生まれる」ものではなく、「つくる」対象になった。
デカルトはこの超越的な場所に「人間理性」を置く。デカルトの考えでは人間理性は神の出張所のような役割だったが、カントによって「神」の助けなしに人間理性が自立しうることが示される。ヘーゲルによって、主観は歴史的世界と対峙し弁証法的に止揚することで自由を獲得し、ついには「絶対精神」に到達しうると説いた。神からの完全な自立である。
超越的な神・イデア・純粋形相・理性から見れば、現実や自然はなにかの「材料」でしかない。「反自然主義」=哲学は、人間の理性が神を凌駕したとき近代文明を生みだす原動力となった。
一方、世界を二分して考えるプラトン以来の反自然主義=哲学を批判したのがニーチェだった。もう一度、プラトン以前の自然主義にもどろう、という流れだ。
彼は、「真理」とは「それがなくてはある種の生物が生きてゆけないような一種の誤謬」とし、「不動の真理」などは存在しないという立場に立って、「より強く大きく」高揚する動き(=芸術)に価値を与える。真理をめざす永遠の運動のなかにこそ真理(=美)があるという考え方である。丸山真男の民主主義論や、憲法の幸福追求権にもつながる思想だ。ニーチェと比べると、真理=イデア(神・純粋形相・理性)を不動のものととらえる西欧哲学の歴史はきわめて静的であることがわかる。
人間は自然から超越した存在ではない。自然と相互にかかわりあい、影響を与えあう。能動的に利用すると同時に、受動的な反作用もうける存在である、という。
中村雄二郎氏の「臨床の知」と同じ立場である。
===============メモ・抜粋================
▽19 「存在するもの全体」を「自然」と呼ぶとすれば、自分がそうした自然を超えた「超自然的存在」と思うか、少なくとも「超自然的存在」と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられない。自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切っていた日本人には、そんな問いは立てられないし、立てる必要もなかった。西洋という文化圏だけが、超自然的な原理を立てて自然を見るという特殊な考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれた。
▽35 哲学 =「存在するものの全体がなにか」と問うて答えるような思考様式。超自然的原理を参照にしながら、存在するもの全体を見るような特定の思考様式。
イデア・純粋形相・神・理性(デカルト)・精神(ヘーゲル)
▽37 デカルトのいう理性は、神によって与えられた神の出張所であり、それを正しく使えば、人間のもつ感性のような自然的能力によって妨げられないようにしてうまく働かせれば、すべての人間が同じように考えることができるし、普遍的で客観的に妥当する認識ができるということになる。日本人の考える「理性」とは異なる超自然的能力。
▽42 丸山真男 朱子学は「天地自然」の理が社会を動かしていると見るから、人間の価値は低い。徂徠学になると、「天と人との間には深い断絶がある」とし、人間の手でつくられた法秩序を守ることを第一とした。荻生徂徠にとって社会秩序は主体的人間(聖人)によって「つくりだされる」べきものだった。朱子学から徂徠学への展開が「ゲマインシャフトよりゲゼルシャフトへ」の展開に似ていると丸山は見る。
ゲマインシャフトは、戦国大名たちの郷党的統治。ゲゼルシャフトは幕府の武士による一種の官僚制。
「天地自然」のような原理から人間の「作為」が主人公になってゆく社会の変化は、西欧の中世キリスト教社会から近代への移行と、さほど違わないと見てよい。
「なる」論理から「つくる」論理への近代化の過程。
▽44 「つくる」「うむ」「なる」
つくる=ユダヤ・キリスト教の世界創造神話
うむ=陰陽二元の結合で万物が生みだされたとみる中国の盤古説話。古事記の国産み神話。
なる=朱子学の儒教思想
▽45 ソクラテス以前の思想家は「自然(フェシス)について」という本をみな書いた。「芽生える」「花開く」「生成する」という動詞フユエスタイの派生語。→すべてのものは生きて生成してきたと考えた。=「あること」を「なること」と見る、「存在」を「生成」と見る存在概念。
▽59
▽67 ソクラテスのアイロニー 普通皮肉というのは腹の中に言いたいことがあるのに、それと反対の表現を口にするやり方だが、ソクラテスの場合は否定のための否定、無限否定性としてのアイロニー、とキルケゴールは見る。
太宰治は、ロマン主義的アイロニーを再現してみせたが、自殺する。無限否定性を本質とするアイロニーを生き抜くのは大変なこと。ソクラテスは積極的主張や教訓をいっさい持ち出さない。ひたすら否定に終始した。
▽74 おそらくプラトンは、アテナイの現実政治に絶望し、「なりゆきまかせ」、「なる」にまかせる政治哲学を否定し、ポリスというのは一つの理想、正義の理念を目指して「つくられる」べきものだという新しい政治哲学を構想しようとしたのでしょう。そのために、すべてのものが「つくられたもの」「つくられるべきもの」とする一般存在論としてイデア論が構想された。
いっぱん
プラトンは、「制作」を「自然」に従属させるのではなく、「制作」に独自の権利を認めようとする。「自然」は「超自然的原理」を形どっておこなわれる「制作」のための単なる「材料・質料」としかみられなくなる。「自然」はもはや生きておのずから生成するものではなく、「制作」のための無機的な物質になってしまう。これが以後の西洋の文化形成の方向を決定してゆく。
▽82 メタ・フィジカという言葉は、「自然を超えたことがらに関する学=超自然学」という意味で定着する。が、日本ではこれを「形而上学」を訳語とした。
▽92 プラトンとアリストテレス 一方が数学的、もう一方は生物主義的と言われるほど対照的。この2つの思想が、その後かわるがわるキリスト教神学の展開のうちにみられる。
▽97 ニーチェ「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」
476年、西ローマ帝国は滅亡し、未開のゲルマン民族に蹂躙される。以後東ローマ帝国にキリスト教文化は受け継がれ、その後、529年の哲学禁止令でプラトン以来900年におよぶアテナイのアカデメイアも閉鎖され、ギリシア哲学の遺産はアラビアに運ばれ、そこに登場するイスラムによって研究され保存される。
▽103 アリストテレスは、プラトンのイデア界にあたる純粋形相は現実界を超越した彼岸にあるのではなく、現実世界と連続性をもったものと考えた。だから、神の国と地の国は連続的にとらえられ、教会が世俗政治に介入しても当然ということになる。
その後、聖職者たちが堕落。
14世紀あたりから、教会に世俗政治から手をひかせ、信仰の浄化をはかろうとするプラトン主義復興の動きが起きる。デカルトやパスカルらもそういう運動と接触しながらものを考えはじめる。
やがて16世紀のルターの宗教改革運動へと高まる。これは、近代国民国家の建設をはかる政治勢力によって推進されたナショナリズム運動と利害を共にしていたため、成功をおさめ.
▽123 デカルトは、私たち人間にあって実体をなしているのはあくまで「精神」であり、「身体」はたまたまくっついているだけだ、「身体」がなくても「精神」はそれだけで存在しうる、と言う。なぜなら「精神」つまり「理性」は、神の創造した実体であり、人間のうちにあって神の理性の出張所のようなものだから。
……身体から切り離され、肉体的感覚器官などもたない「精神」が、「明晰判明な観念をもちうるかぎりでの物体」は、光とか色とか味などの感覚器官を通じて得られる諸性質をもっていない物体。つまりそれは、その物体が占めている空間的拡がりだけではないか。純粋な精神が洞察しうるのは、こうした空間的拡がり(延長)に還元された物体と、その位置としての運動だけ。そこには数学的に処理できないような生命の質だのというものはいっさいふくまれていない。
▽137 「啓蒙」神的理性の後見を排して、自立した人間理性が、宗教や形而上学を迷妄と断じて、その暗がりをひらき、それを批判する理性になるということ。
神的理性の媒介がなくなれば、人間の理性的認識の支えがなくなる。ロック・バークリ・ヒュームらのイギリス啓蒙思想は、理性的認識の効力を否定し、われわれの認識はすべて感覚的経験にもとづく経験的認識だと主張する。数学や物理学の確実性をも否定する。
カントは、純粋な理性的認識が有効に働く範囲と、その働きが無効になる範囲を批判的に区別しようとした。(純粋理性批判)
▽147 カントの考えでは、われわれの認識するのは「物自体の世界」ではなく「現象界」である。物自体に由来する材料を、われわれは直観の形式を通して受け入れ、受け入れた材料を一定の思考の枠組みに従ってたがいに結びつけ整理する。そうすることで人間の間尺にあった現象界が現れ出てくる。現象界の内容に関しては、経験的に認識するしかないけれど、その形式的構造に関しては先天的認識、理性的認識が可能。……因果関係も、物それ自体のあいだに存在する関係ではなく、現象界を構成するために使う主観的形式なのであり、したがって現象界に現れてくるすべてのものが因果関係の網目に組みこまれている。幾何学や物理学は、現象界の形式的構造についての理性的(先天的)認識の体系。幾何学・数論・理論物理学以外は、どれほど手間がかかっても地道に経験を積み、そこからなるべく蓋然性の高い認識を手に入れるしか道はない(経験知〓)
▽153 ヘーゲル カントの現象界と物自治界、理論理性と実践理性の二元的対立を一元化しようとする。
▽157 フランス革命の基盤となったフランス啓蒙思想やドイツ啓蒙思想(カント哲学も)が「光」として掲げた理性は、無歴史的(普遍的)で古代ギリシアも18世紀ドイツでもまったく同じ理性と考えられた。フランス革命軍はこれを旗印に、ドイツ人を封建的圧政から解放しようとドイツに侵入する。が、ドイツ側は、ドイツ民族には中世以来固有の歴史のなかで培われた民族的個性があるのだといって抵抗した。世界を歴史的に見はじめていた。これが、ドイツ・ロマン派の芸術運動のひとつの動機に。
世界は歴史的世界として受けとられ、主観も固体的な認識主観としてではなく、歴史的世界を形成する人類の精神として捉えられる。
ヘーゲルは、精神は、労働を通じて弁証法的(対話的)に生成してゆくとみた。異質な力として自分に立ち向かってくる世界に働きかけ、それを自分の分身に変えてゆき、自由を獲得してゆく。世界史を人間の自由拡大の道程としてとらえた。もはや精神に立ち向かってくる異質な力がなに一つなくなったとき、精神は絶対の自由を獲得し、「絶対精神」として顕現する。
▽161 人間理性はカント哲学によって、自然の科学的認識と技術的支配の可能性を約束され、ヘーゲル哲学によって、社会の合理的形成の可能性を保証され、自然的および社会的世界に対する超越論的主観としての位置を手に入れた。カントのように現象界という限られた領域だけでなく、みずから弁証法的に生成することで世界全体に対してそうした位置に立つことができるようになった。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
= 超自然的思考様式の完成。以後は形而上学が技術として猛威をふるう。(ハイデガー)
▽171 ニーチェ 「自然」の概念と「ディオニュソス的なもの」という概念を重ね合わそうとする。「アポロン的なもの(知性)」と対立するようなまったく無方向な生命衝動ではなく、アポロン的なものをもふくみこんだ「ディオニュソス的なもの」という新しい「生」の概念を「力への意志」と呼んだ。力は絶えずより大きな力たらんとしてはじめて力でありえる。力が現状に甘んじてしまえば、それは無力化のはじまり。(〓幸福追求)。力や意志はつねにより強く大きくなろうとする。力の本質は「力への力」、意志の本質は「意志への意志」
▽182 感性的な世界、つまりこの自然を超えたところに超感性的・超自然的価値を設定した元凶はプラトンであり、プラトン以後のヨーロッパの哲学と宗教と道徳は、ありもしない超感性的価値の維持につとめてきた。ニヒリズムとは、ありもしない超感性的価値を設定し、それを目指してきたヨーロッパの文化形成の全体を規定してきた歴史的運動の呼び名、と解すべきだというのがニーチェの思想。
▽191 到達した現段階を確保するためにつけられる目安が「真理」であり、それを設定する働きが「認識」。「真である」ということは、現段階を確保し、そこに安定して持続するためにわたしたちが捏造し、実際には転変し生成している世界に投影し押しつける「目安」にすぎない。(〓人権などの概念)
「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きてゆけないような一種の誤謬である」〓
だから、「生」にとっては現段階確保よりも「より強く大きく」生成し高揚するほうがもっと大事。現状維持のための価値定立作用である認識よりも、より高い可能性へ高揚するためのもう一つの価値定立作用の方が生にとってはいっそう重要。その価値定立作用こそ「芸術」であり、それによって定立される価値が「美」。(幸せ、を求めること)
「われわれは真理によって駄目になってしまわないために芸術をもっているのだ」
現状確保に甘んじては生は生でなくなる。西洋哲学は、芸術より認識を、美よりも真理を高みに置くことで生を衰弱させ、ニヒリズムを招来した。
▽230 「それはなんであるか」という問いは、「本質存在への問い」。そう問うとき、存在は「本質存在」に限局されてしまう。そんな問いを投げかけるとき、問う者は問いかけられる存在者の全体の外の、あるいはそれを超えた特権的位置に身を据えている。
存在者全体を生きて生成するものと見るか、それを認識や制作のための死せる材料と見るか、その見方も変わる。
(レヴィナスの「他者」を認めるか否か。「他者とは」と問い、答えを求めることで、他者は他者ではなくなる……)
▽233 ハイデガーは、人間より「存在」の方が、存在の住まいである「言葉」の方が先だと主張する。
こうした考え方が、人間より構造が先だと主張し、はやり反ヒューマニズム標榜するフランスの構造主義やポスト構造主義の思想家に大きな影響を与える。
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