岩波新書 20081017
近代科学は、「客観主義」の名のもとに「専門」という蛸壺にはまり、「現実」そのものを見なくなってしまった。全体をバクっととらえる目(生命そのものの全体を見る目)を失い、観察者である私たちも観察対象に影響を与えているという相互性の視点が欠けている。量子論や相対性理論は、観測データが観測者の存在によって変化を与えるという形で、「相互の関連性」を指摘し、近代科学の前提を揺さぶることになった。筆者はさらに幅広く、人間経験全体における「相互性」に焦点を当てる。
デカルト・ニュートンにはじまる近代科学は「普遍性」「論理性」「客観性」という3つの原理に基づいている。
それらが覆い隠してしまったのは、①有機的なまとまりをもった宇宙(コスモロジー)の原理、②単線的な因果関係ではなく現実の多義性を重んじる象徴表現(シンボリズム)の原理、③主体と対象は分離しているのではなく対象の側からも主体の側に働きかけており、主体の側のなかにパトス的(受動的)ありさまを含みつつ行為するとみる原理(パフォーマンス)の3つである。筆者が提唱する「臨床の知」は、これらの復権をはかるものだという。
「経験」はわれわれ自身の生の全体性と結びついてはじめて、「真の経験」になる。そのためには、能動的に、身体を備えた主体として、他者からの働きかけを受けとめながら、振る舞わなければならない。能動性がなければ、経験にならない。活動する身体に支えられた能動性でなければ抽象的なものにとどまってしまう。だが身体の働きは、能動的であるだけでなく、他者からの働きかけを受ける受動性(パトス性)も帯びざるを得ない。そうなることで、いっそう具体的に現実と深くかかわることになる。経験を重ねることで、われわれの自己が明確につくりあげられていく。つまり、「実践」は、ある限定された場所、限定された時間のなかでおこなわれ、各人が身をもって決断・選択することをとおして、隠された現実の諸相を引き出すことであり、歴史性をもった社会のなかで、我々人間の現実との凝縮された出会いの行為である……。
科学の知と臨床の知のちがいを筆者は次のようにまとめる。
科学の知は、視覚独走の知。臨床の知は、諸感覚の協同に基づく共通感覚的な知。
科学は、仮説と演繹的推理と実験からなりたつ。臨床の知は、直感と経験と類推の積み重ねから成り立ち、経験が大きな意味をもつ。
科学の知は、抽象的な普遍性によって分析的に因果律に従う現実にかかわり、それを操作的に対象化する。臨床の知は、個々の場合や場所を重視して、深層の現実にかかわり、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに読みとり捉える働きをする。
このように「臨床の知」を説明したあと、最後の章では、医療という分野を通して、臨床の知のあり方を提示している。
科学は「特定病因説」を導入し、治療効果をあげたが、高血圧などの慢性疾患や精神病といった、日々の生活に深くかかわる病気には有効性をもちえない。脳死の問題やインフォームドコンセントの問題も、「科学」の視点だけでは解決できない。
それらの分野では、医者の技能(アート)だけではなく医者の人間性(人柄)も必要とされる。医者は治療する「主体」で患者は「客体」であるという関係ではなく、お互いにパトス(受苦・痛み)を帯びた同士の相互関係が不可欠である。その趣旨に沿った医療形態として、ホームドクターによる医療(プライマリ・ケア)があるという。
ただ、私にとっては、近代科学の「論理性」の行き詰まりと、臨床の知の大切さは農業を見るともっとわかりやすいような気がする。
窒素を投入すれば収穫が増える、という因果関係(論理性)を科学が究明して化学肥料をつくり、カリやリン酸も必要だとわかると、それらも添加する。その結果、収穫量は増えるが、しばらくすると土地が荒廃する。
一方、昔ながらの篤農家=百姓は、播種の時期や場所、野菜同士の組み合わせなど、年月をかけて試行錯誤する。何十年何百年にわたって土地と対話し、耕し、観察して「自然」についての知識を蓄積していく。
「ここには瓜が育つ」「ここは大根がよく育つ」と百姓が見きわめたとしても、それは経験知を獲得しただけで、「なぜ瓜が育つのか」「なぜ大根よく育つのか」という因果関係(論理)を解明したことにはならない。近代科学は、百姓が積み重ねてきたこうした「経験知」「身体的な知」の裏にある因果関係を解明し、その抽象的な結論(「この土地は窒素が多いから育つのだ」)をもとに化学肥料をつくりだして「現実」に適用してきた。そのうちに、百姓の経験知を軽視するようになっていった。科学的な知は一見、普遍的で正しいことを言っているようにみえる。だが、抽象化・細分化された理論を実際に自然界・生態系に適用すると「全体」の機能を損ね、自然環境を荒廃させる結果をもたらした。
「専門」という名のもとに細分化された近代科学は、因果関係という論理に拘泥するあまり「全体」を見る目を失い、経験的な知を軽視した。その結果が公害問題や環境問題なのだろう。
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▽8 デカルト的、ニュートン的な物理学の<無限空間・絶対空間>が前面に登場することによって覆い隠されたのは、有機的なまとまりをもった宇宙。事物のコスモス的な有り様を示すコスモロジーの原理。
近代科学の論理性は、単線的な因果関係を説くのに適している。だが、現実はもっと多義性を備えている。事物の多義性としての<シンボリズム>(象徴表現)の原理を無視し排除した。シンボリズム(象徴)の特長は多義的なことにある。
近代科学は主観と客観、主体と対象の分離を前提としている。客観や対象は単なる受け身のものでしかない。事物の側からわれわれに対する働きかけは無視される。働きかけを受けつつおこなう働きかけ、受動的な能動とも言うべき有り様は、自分の身体を他人の視線にさらしておこなう行動「パフォーマンス」ということになる。
近代科学の3つの原理<普遍性><論理性><客観性>が排除した現実を捉え直す原理として<コスモロジー=固有世界><シンボリズム=事物の多様性><パフォーマンス=身体性をそなえた行為>をあげる。それらを合わせて体現したのが<臨床の知>。
▽19 近代科学に先立つルネサンス期の自然学・自然哲学の3つの流れ。
スコラ哲学の一部として支配力をもっていたアリストテレス的な自然学(質的自然観)は、経験主義的で自然それ自体で完結したものとみなした。因果関係ではなく類比関係で、量的ではなく質的に自然をとらえた。自然の記述分析には向いていたが、因果論的・量的に捉える道は開かれなかった。
量的に捉えようとする考え方は、占星術的な自然哲学と、錬金術的な自然哲学からあらわれた。両者は、天体と地上の諸現象の間に因果関係を考えるが、前者は、大宇宙の支配下に人間をおくのに対し、後者は、両者を同じ法則の支配する完全な対応関係にあると見なした。占星術的自然哲学は、数学的合理性を推し進め、錬金術的自然哲学は、実験と実証を重視して自然の神秘を解き明かそうとした。だが、占星術型では、客観的な物の論理が記号の論理にとって代わるに至らなかったし、錬金術型では、象徴の多義性を脱して一義性の世界に到達するに至らなかった。いずれにおいても、自然を厳密な因果関係によって捉えられなかった。
近代科学の誕生をもたらしたのは、新しい知の枠組みとしての<機械論>の発見だった。なかなか結びつかなかった数学的合理性と実証性の結合は、ガリレイの力学的自然研究を先駆とする機械論によって成功した。
その哲学的基礎づけをあたえたのが、デカルト。精神と物体をはっきり区別し、精神の固有の働きが<思い考える>ことにあるのに対して、物体の物体たる由縁は、重さや固さや色などではなく、空間的な広がりをもっていることだ、とした。物体や自然は、客体として精神つまり主体から引き離された上で、縦・横・高さをもった空間的な広がりに還元され、精神と混同されない量的世界となった。機械論的自然観=力学的自然観。
▽32 フッサール 近代科学の性格づけ。
1 自然の数学化が測定術と結びついた帰納的な予見を可能にした。
2 数学化しえない感性的性質も、因果性系列のうちに存在するという仮説を立てることで取り込んだ
4 ガリレイが物理学的自然の発見者であると同時に、生活世界の隠蔽者である、とした。
ガリレイによる新しい自然科学創設をうけて、デカルトとは、哲学を普遍数学として構想した。新しい合理主義と二元論の基礎づけをめざしながらも、……デカルト的判断停止(超越論的主観主義にもとづく懐疑)……しかし、物質的世界は絶対的なおのとして、純粋な客観主義に固執することになった。こうして、客観的科学という概念が確立された。
客観的科学が正当に見ようとしなかったものが生活世界。
▽36 生活世界 フッサールは 客観的・論理的なものではないが究極的な基礎づけをなすもの、科学の世界を基礎づけるだけではなく、その独自の具体的な普遍性において科学を包括するもの、実践と結びつき、その基盤および地平をなすもの。
……生活世界を正面切って取り上げ、古来ドクサの領域として蔑視されがちだった領域について価値転換をおこなった。
▽ポランニー 科学の対象からの切断、という理想を退ける。
▽47 アリストテレス的な質的自然観 占星術的な自然哲学 錬金術的な自然哲学
ルネサンス期は、それまでカトリック教会公認のアリストテレス=スコラ哲学によって抑えられていた古代以来の異教の知が表面に躍り出た。
異教の知としてのオカルト学(占星術、錬金術)とアリストテレス主義の共通点 同類に属するものはお互いにひきあうという共感の原理。対象と自己を分断しない。認識の対象となったのは、事物の因果関係ではなく、「相似」だった。
▽58 ニュートンの色の理論(白色光にはいくつかの色の光が含まれ、それが混合すると白色光になるという主張)に対抗するゲーテの色彩論。ゲーテは、客観的および主観的な色彩現象の全領域を包含している。対象化された客観性と人間経験の共同主観性のちがい。抽象性と具体性のちがい。
▽63 経験がわれわれの生の全体性と結びついた真の経験になるには、〓能動的に、〓身体を備えた主体として、〓他者からの働きかけを受けとめながら、振る舞わなければならない。
能動性がなければ、経験にならない。活動する身体に支えられた能動性でなければ抽象的なものにとどまってしまう。だが身体の働きは、能動的であるだけでなく、他者からの働きかけを受ける受動性(パトス性)も帯びざるを得ない。そうなることで、いっそう具体的に現実と深くかかわることになる。
▽67 経験を重ねることで、われわれの自己が自己として明確化する。経験による人間の限定=自己と経験の逆転(実存主義と同じ?)
▽70 「実践」とは、主体が一方的に対象に働きかけることではなく、弁証法のように、自己と他者(理論と実践)との形式的な相互性からなるものではない。各人が身をもってする決断と選択をとおして、隠された現実の諸相を引き出すこと。それによって理論が、現実からの挑戦を受けて鍛えられる。(〓実存主義と同じ?)
実践は、ある限定された場所、限定された時間のなかでおこなわれる。実践は、歴史性をもった社会のなかで、我々人間の現実との凝縮された出会いの行為。
▽76 技術が特別なものと考えられてきたのは、生態系=生活世界という拘束条件が無視されていたから。「製作活動とその目的が分離している」と見なされたのは、製作活動や技術的所産が抽象空間のうちで、生態系と無関係な空間のうちで捉えられてきたから。そのような抽象的空間は、もともと伝統的技術観のうちに潜在していたものが近代の産業社会によって明確化された。
▽87 「情念」から「制度」を経て「言語」へ。構造主義の言語論からの影響。構造主義の特長=人間的な事象を扱う際に、人間活動における言語のシステムを重視した。同時に、西欧中心的な文明化によって見捨ててきた深層的人間・周縁的人間(狂人と未開人)を見直し、人間とは何か、文化とは何かをといただした。
レヴィストロース 長い間抽象語を多く含む文化こそが文明的と見なされてきたが、人類学的な研究によって、そうした基準に普遍性がないことが明らかになった。
未開人の「魔術」は、科学のできそこないではなく、適切な無意識なシステム、ひとつの知。
▽101 欧州の中世では、もっとも洗練された感覚は聴覚だった。信仰とは「神の言葉を聴く」こと。中世では五感の序列は、聴覚・触覚・視覚の順だった。視角は、触覚の代理として官能の欲望に結びつくとされた。
ルネサンス期になって、視覚が優位になった。自然的感性としての官能が解放されたことに結びついたが、触覚との結びつきを切り離した。つまり、事物や自然との間に距離がとられるようになり、視覚の支配のもとにそれらを対象化する方向に歩んだ。
時間も空間も量的に計りうるものと考えられるようになり、その結果、時間も空間もかつての聖性を失った。
▽104 触覚は「体性感覚」
修辞学の再評価 抽象的に生活世界や生命的世界から離れていく哲学に対して、生活世界や生命的世界に着地するような哲学は言語にのっとった哲学(修辞学?)でなければならないだろう。
欧州の中世以来、基礎的な三科は、文法・修辞学・論理学。どれを重視するか、激論があった。
ビトゲンシュタインは、論理学の透明な純粋性に空しくなり、「ざらざらした大地へ立ち帰れ」と具体的な言語へ回帰した。
▽112 演劇の知
▽122 バリ島 悪霊たちは、人々を怖れさせ、人々の情念の根源=身体にはたらきかける。悪霊たちとつきあうことで、パトス(情念・受苦)について否応なく訓練される。<パトスの知> 蓄積された情念や受苦かrなお解放が、演劇的・音楽的パフォーマンスによってなされる。
欧州は、近代科学とプロテスタンティズムと資本主義を生み出し、世界を制覇した。近代の知の三位一体。これらは北ヨーロッパのもの。「北型の知」。一方、南型の知は、地球上に幅広く土着的に存在し、その深層でつながっている。日本も江戸時代までは、南型の知に属していた。(〓高度経済成長まで、ではないのか)
イタリアのナポリの知的伝統も南型。デカルト的合理主義に反対し、修辞学的なトピカを主張するヴィーコ。アキナス、クローチェ……。
▽128 科学 = 〓普遍主義・論理主義・客観主義
普遍主義によって、事物はすべて量的なものに還元される。
論理主義は、自然のうちに生じる出来事をすべて因果関係によって成り立つとし、メカニズムが見出されれば、その技術的な再現・製作が可能になるとする立場。
客観主義 事物・自然を扱う際に、扱う者の主観性を排除して、それらを対象化して捉える立場。
▽132 科学の知と技術文明が前提としてきた単純な「能動」の立場に疑問を呈された。人間の知のもうひとつの重要な半面(受動を大きく含んだもの)を生かしていない。
科学の知が信頼され独走した結果、合致しない領域を正当に扱えなくなった。=経験がものを言う領域 ことばが大きな働きをする領域
▽臨床の知 = 〓コスモロジー・シンボリズム・パフォーマンス
コスモロジー(→←普遍主義)とは、場所や空間を、普遍主義のように均質的な広がりとしてではなく、ひとつひとつあ意味をもった領界と見なす立場(構造主義?)
シンボリズムは、物事のもつさまざまな側面から、一義的ではなく多義的に捉え、表す立場(→←因果関係=論理主義)
パフォーマンス(→←客観主義) 行為する当人と、それを見る相手との相互作用が成立すること。自己のうちにパトス的(受動的)なありさまを含みつつ、行為する。
まとめ
科学の知は、抽象的な普遍性によって、分析的に因果律に従う現実にかかわり、それを操作的に対象化する。臨床の知は、個々の場合や場所を重視して、深層の現実にかかわり、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに読みとり、捉える働きをする。
科学の知は、視覚独走の知。臨床の知は、諸感覚の協同に基づく共通感覚的な知。科学は、仮説と演繹的推理と実験からなりたつのに対し、臨床の知は、直感と経験と類推の積み重ねから成り立ち、経験が大きな意味をもつ。
▽139 西田の「行為的直観」 行為はものがあるから起こるが、その物は、歴史的に形成されたもの。われわれは行為によって物を見るのであり、物がわれわれを限定するとともに、われが物を限定している。そういう相互作用が「行為的直観」。この場合の、われ、とは、身体性を帯びた自己であり、行為的直観は「物を身体的に把握する」こと。……行為的直観に即してわれがどこまでも物になるとき、その方向に芸術が成立する。物がどこまでもわれになるとき、その方向に実践が生じる。行為的直観を担うのは単なる身体ではなく、具体的な「歴史的身体」。
▽145 医学の祖ヒポクラテス 重視したのは、病気の自然的な原因。季節や天候不順、食事の不摂生……病気を独立した実体としてではなく、「病める人」の状態としてとらえる。病気とは、局所的な出来事である以前に全身的な異変だから、その原因を取り除くことによって治療しようとする。(〓漢方との相似)
=癒しのテクネー(技術)=古典的医療の組織だった医学的臨床の出発点
▽162 風邪をひくことで、ほかの病気を回避できるという効用も説かれるようになった。そこで、
病気の定義 = 相対的に安定した自己調節機能を保てず、日常生活に支障を起こす状態。= 安定した自己調節機能の破れ
だが一方、「破れ」であることによって、危機を通して自己を更新し、リフレッシュする働きをもちうる。われわれを境界性におき、日常性の惰性化を突き崩すから。人生の節目を構成する。
科学的医療への盲信の中心的論点は、「特定病因説」による囚われ。特定の原因を絶滅すれば、病気は治癒するとの考え方。
▽166 高血圧などの慢性疾患や精神病は、特定病因説では解決できない。日々の生活的な要因、生活世界に深くかかわる病気には、「科学的医学」は有効性をもたない。
▽169 患者の期待に応えるべきは、医者の人間性(人柄)と技能(アート)である。医者・患者関係も、人間同士の関係である限り、パトス(受苦・痛み)を帯びた同士の相互関係である。その趣旨に沿った医療形態として、プライマリ・ケア、つまり、ホームドクターによる医療がある。
▽182 グリーンとウィクラーの死の定義
「患者ジョーンズが生きている」と述べるとき、2つのことを主張している。第一は、「その患者が生きている」という主張であり、第二は、「その患者がジョーンズである(ジョーンズのままである)」という主張である。ジョーンズの死が問題になるのは、後者によれば、ジョーンズであることをやめたとき、となる。ここに「ジョーンズの脳死はジョーンズその人の死となる」
では、無脳症児は死者なのか? 重度の知恵遅れの人は? という疑問がでてくる。
無脳症児やひどい老衰者が死者ではないと見なすとき、動物的・心的な生命の有無を基準としているの対して、脳死患者を死者と見なすときには、人格の有無を基準としている。矛盾。2つの基準を形式的に適用するのではなく、両者のバランスを求めている。
▽187 死の判定 古典的には、息をひきとる、脈ばふれない、冷たくなる、ということを目安に、かつては家庭医によって、いわば大らかな死の判定がおこなわれていた。生と死の境界はさほど明確ではなく、厳格に決める必要もなかった。
だから、脳死を選ぶか心臓死を選ぶか、というのは、2つの対立する基準の間の選択ではない。はっきりと死と向かい合うか、それを回避するか、ということなのである。
▽188 ハーバード大学脳死判定基準 新しい死の定義が必要な理由として「永続する重荷から患者・家族・ベッド待ちの患者を救うこと」「移植用の臓器入手をめぐる論争を終わらせること」をあげた。即物的。でも、日本でも、究極的事情は同じ。
脳死判定に100%の正しさを求めるのは不都合。第一に、科学性質と臨床性との一方を切り捨てることになる。第二に、判定に普遍性・論理一義性・客観性を要求すること自体が、医者の決断を不要にして、その責任を解除することになる。第三に、そのような要求や硬直した批判が、医者不信を克服しうる開かれた場所に医者を誘いださないどころか、逆に医者をいたずらに自己防衛的にしてしまう。
▽203 インフォームドコンセント 説明と同意という問題の基礎となるのは、人間同士の思いやり、人格的な主体同士の関係。単なる法的な権利・義務関係を超えたパートナーとしての関係。
エンゲル・ハート 人間の生命を「生物的生命」と「人格的生命」にわけ、前者は価値を持つことはあり得ても、権利はまったくもたないとする。後者は、理性的で自己意識を有する行為者として、自己決定の能力をもつとともに、「目的そのもの」「他の者の手段にはならないもの」であり、「尊厳」であることにもなる。この考え方は、カントの実践哲学以来の西欧倫理の核心。
……アメリカのインフォームド・コンセントは、十全な自己決定能力が前提とされる。が、自己決定とは相容れない「代理同意」がある。
日本社会のパターナリズムは、一種の代理合意である。一人一人の自己主張をはっきり出さずに、自分の意見を「みんな」の意見のなかに同化したり、自分の主張を「みんな」の主張であるとしたりすることが多い。そのために末期医療のさまざまな場面の決定に関して、責任の所在が曖昧になり、問題がいたずらに紛糾する
その根底には、自己決定に際して要請される人格的主体が、十分に「理性的で自己意識を有する行為者」ではない、ということがある。日本人の人格的主体は、意識的なエゴだけではなく、その周囲に拡がる無意識を含んで成立するセルフであるかだ。自己が「みんな」と混ざり合うのも、その無意識の拡がりおよび共有による。
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