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哲学は人生の役に立つのか <木田元>

 PHP新書 20081205

 海軍兵学校で終戦をむかえ、闇屋をして暮らしたあと農林学校でまなぶ。なんのために生きているのか悩みつづけ、ドストエフスキーをへてハイデガーを読みたくて21歳で大学に入学した。
 哲学者=「青白きインテリ」というイメージとちがって、60歳代まで腕立て伏せを毎日100回こなし、1日十数時間というすさまじい勉強でラテン語をふくめたいくつもの語学をものにする。原書を毎日数ページずつ読みこむことで、その文体にのめりこむ。……そんな勉強のスタイルが参考になる。飲んでばかりじゃいかんなあと思う。
 ただ、「人生の役に立つのか」という問いにひかれて読むと期待は裏切られる。最後まで答えは示されることはない。絶望に沈んでいた著者が今まで生きて学んできたんだから、役に立ったのだろう、という程度である。


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 ▽59 闇屋 闇米や進駐軍のタバコなどの売買をしていた時期、収支をつけはじめた。投下資本が大きいほど、儲けも大きくなることがはっきり分かる。弟の学校の月謝も「これを払わずに、仕入れに回せばもっと儲かるのに」などと考えてしまう。お金を使うのが惜しくなってくる。
 ▽85 私の知人で、新聞記者をしながら、40歳を過ぎてからサンスクリットを勉強し、10年かけてモノにし、人文科学の博士号をとった人がいる。さらに8年かけて「法華経」の現代語訳をなしとげた。
 ▽91 65歳までは大車輪もできた。腕立て伏せは60代半ばまでは100回くらい毎日やっていた。私の勉強法は短期間だが1日10時間以上ぶっつづけにやる。
 ▽109 語学習得 短期間に集中。手で書いて声に出して読む訓練。
 ▽160 テキスト、毎日2,3ページから4,5ページ続けて読む。身体がだんたん著者の文体に馴染んできて、次に著者が何を言い出すか見当までつくようになる。
 ▽166 実存哲学というのは、自分にとってかけがえのない自分自身の存在と向き合い、それをいかに引き受けていくかということを主題とする哲学。ハイデガーにはそうした切実さはなく、そういうことを企てているのではない。「存在一般の究明」をしようとした。
 ▽182 ほかの動物はそれぞれ生物的環境に縛りつけられているが、人間だけはもっと広い世界に開かれている(世界開在性)。こうした「環境世界論」の概念を念頭において「世界内存在」という概念をハイデガーが構想したというなら、理解しうる。
 ▽188 自分で深く考えるためには訓練が必要。深く感じることのできた詩人や作家の作品を読んで、その感じ方に共感し、学びとる必要がある。はじめの一行から最後の一行まで丹念に読んで、その思考を追いかけながら学びとる訓練をしなければならない。テキストを毎日一定量ずっと読みつづけるのも、こうした訓練をおこなうため。それも翻訳書ではなく原書を一行一行正しく読まなければならない。
 そのために、私的な読書会を開催。
 ▽222 「自分らしく生きる」。はたしてそんな「自分」などというものがあるのか。
 ▽239 孔子が子路から死について尋ねられて「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と答えたほうに共感する。
 ハイデガーは、死に直面しながら生きるのが、つまり「死に臨む存在」こそが人間の本来の生き方だと主張している。
 サルトルは「死は私の可能性などではない。むしろ死は私のすべての可能性を無にし、人生からすべての意味を除き去るまったく不条理な偶発事」誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様、死ぬということも、理解したり、それに対処したりすることなどできない不条理な事実。
 メルロ=ポンティも、「私はひとが生まれ死ぬことを承知してはいるが、自分の出生や死そのものを知ることはできない」
 私はハイデガーよりもサルトルやメルロ=ポンティに共感する。

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