MENU

無と意識の人類史 私たちはどこへ向かうのか<広井良典>

■東洋経済新報社20210721
 資本主義を超える新しい思想を考えたとき、それは新しいアニミズムとなる。「生」とは、時間も空間もない無(永遠)の世界から一瞬だけ与えられた火花のような瞬間であり、それが終わるとまた無(永遠)の世界にもどるという。最先端の科学を突きつめると宗教的な世界が広がるらしい。
 資本主義は私利の追求を最大限に活用したシステムで、経済のパイが無限に「拡大・成長」しうるという前提があるが、今、地球環境の有限性という壁が立ちはだかり、拡大・成長の時代の後に来る、人類史では3番目の「定常化」の時代にさしかかっているという。
 ひとつ目の定常化は、装飾品や絵画が一気にあらわれる5万年前の「心のビッグバン」だった。狩猟採集の資源的な制約にぶつかるなかで意識が「内」へ反転した。
 ふたつ目は 紀元前5世紀前後、仏教や儒教、老荘思想、ギリシャ哲学、旧約思想などが同時多発的に生まれたの枢軸時代/精神革命の時代だ。人口増加や経済拡大にともなって環境的制約にぶつかり、争いや戦争が多発するようになっていた。
 農耕文明社会において「宇宙的神話」の段階から「哲学的宇宙論」へ進化し、さらに「個の内的倫理」へと展開したところに枢軸時代/精神革命の諸思想が生まれた。インドの仏陀の「慈悲」 ギリシャの自然哲学とソクラテスの「徳」、中東の旧約思想からイエスの「愛」といった新たな観念を創造し、それを通じて「共同体の倫理」を超えた普遍的な倫理を提起した。
 小集団を超える「共生」のツールとして生まれた言語が、異なる言語を使う集団を「分断」する原因としても働く。異なる言語集団の間の紛争解決の手段として普遍宗教と呼ばれる思想群が生成し、言語のちがいをこえた「共生」を可能にする基盤として展開した。だが近代以降、普遍宗教・普遍思想同士が互いに敵対し、紛争の原因になってしまった。
 3番目の定常化では、産業文明が「拡大・成長」から「成熟・定常化」に移行する時代において「地球倫理」が生まれるという。
 地球倫理とは「個人から出発しつつ、地球の有限性や多様性を認識し、個人を超えてその土台にあるコミュニティや自然とのつながりを回復する」そうだ。
 近代科学を通じて、無限の空間・時間とともに広がる無機的な「無限宇宙」という世界像への転換がなされ、それによって世界から「意味」が排除された。私という存在を意味づけてくれるような世界の理解の枠組みが解体される過程だった。
 「個人」が社会の前面に出るようになって大きな自由を得た一方で、共有された死後の世界を失い、孤独なレベルで「死」ないし「無」に向かいあうことになった。
 枢軸時代/精神革命においても、「無」(ひいては死)を抽象的な概念としてとらえ、それに一定のプラスの意味を見出していた。農耕社会が進展して都市文明も生まれ、人口増や「開発」で森林の枯渇などの環境・資源の限界が顕在化するという、現代に通じるような時代だった。
 そこに生まれたキリスト教の「永遠の命」と仏教の「空」は、この世界における時間の流れや生死を超えているという点と、それが何らかの意味で+の価値をもっためざすべき場所であるという点において共通していた。
 「無」(死)が何らかの意味で抽象的な概念として把握されるにいたったのが枢軸時代/精神革命の特徴だった。
 第3の定常化時代の現代も「なぜ無から有が生じたか」「そもそも無とは何か」というテーマが浮上している。
「無」を「有」を生み出すエネルギーをもつものとして理解するのが近年の物理学の潮流だ。「量子論では、宇宙の創生前の「無」というのは……宇宙全体が「量子ゆらぎ」になっている状態、と考える。「有」と「無」が連続する(つまり生と死も連続する)という、新たな理解が生まれている。
 近代科学成立時の機械論的自然観がいったん捨て去ったアニミズム的要素(世界の駆動因)を世界の内部に新たな形で取り戻す流れだという。
 共同体から独立しても生きていける、という近代的な個の「強さ」は、死に向かいあう孤独や恐怖という究極的な弱さでもあった。
 スウェーデンの社会学者の調査では、80代、90代の高齢者においては、「物質主義的で合理的な世界観から、宇宙的、超越的、非合理的な世界観への変化」が起こる。死と生の区別をする認識も弱くなり、死の恐怖も消えていく。それを「老年的超越」と呼んだ。日本の高齢者に関する調査では、先祖や未来の子孫とのつながりの意識の強まりや、「自然の流れにまかせる」「他者への依存を肯定する」といった傾向が見られた。まさに彼岸からの風を感じて死が身近になるのだ。
 「超越」とは、「個人を超えて、より大きな何かとつながること」だ。
 私の人生とは「時間を超えた何か」から生まれて、しばらくのあいだ時間の中をを生き、ふたたび「時間を超えた何か」に帰る歩みとして把握される。生の瞬間瞬間において、私たちは「時間を超えた何か(有と無の根源にあるもの)とつながり、それによって支えられている」
 「火の鳥」の宇宙観が第3の定常化時代の思想になるのではないかと筆者考えている。


======================
▽33 「無」の3つの意味。①空っぽ、真空 ②時空さえ存在しない「無」 ③ゼロという意味での無
▽41 戦後、死生観あるいは死というテーマを正面から語ることは忌避された。……公の場から死のテーマが排除される一方で、それらを扱ってきたのは漫画やアニメ……
▽43 経済全体が「離陸」の時代から「着陸」の時代に移行する中で、死という話題が、タブーではなくなり、日常的な話題のひとつになってきた。
▽46  ピンピンコロリ……ではなく……「生歳のグラデーション」「生から死へのゆるやかな移行」という見方もも重要ではないか。……生と死をひと続きの連続的なものとしてとらえることで、いわば、死をもう一度この世界のなかに取り戻し、両者をつなげる。
▽64 現代の経済学が前提とするのは「無限宇宙」「世界の無限性」。資本主義というシステムそのものが、資本あるいは経済の「限りない拡大・成長」をその基本原理としている。
▽72 拡大・成長の時代の後に来る「定常化」の時代。これが人類史では3番目の「定常化」。
ひとつ目は 装飾品や絵画、彫刻などが一気にあらわれる5万年前の「心のビッグバン」。狩猟採集の資源的な制約にぶつかるなかで意識が「内」へ反転した。
ふたつ目は 紀元前5世紀前後の「枢軸時代」「精神革命」。仏教、儒教や老荘思想、ギリシャ哲学、旧約思想などが同時多発的に生まれた。人口増加や経済拡大にともなって、資源的・環境的制約にぶちかり、争いや戦争が多発するようになってた。
▽84 農耕文明社会においてはまず「宇宙的神話」の段階があり、それが抽象化されて「哲学的宇宙論」の段階へと進化し、それがさらに「個の内的倫理」へと展開したところに枢軸時代/精神革命の諸思想が生まれた。
 インドの仏陀の「慈悲」 ギリシャの自然哲学からソクラテスの徳 中東の旧約思想からイエスの「愛」
▽89 枢軸時代・精神革命における思想群は「たましいの配慮」「仁」「慈悲」「愛」といった新たな観念を創造。それを通じて「共同体の倫理」を超えた普遍的な倫理や理解のあり方を提起した。
……産業文明が「拡大・成長」から「成熟・定常化」に移行する時代において新たに生成してくる「地球倫理」とはどのような思想でありうるのか。
▽94 アーリア人 ガンジス川流域へと東進して「森」と出会うと仏教の源流をなすウパニシャッド哲学。仏教は森の宗教。一方、イラン高原に向かったグループはゾロアスター(ツァラトゥストラ)教を生成する。(イランとはアーリアの国という意味)
 ……同じアーリア人の信仰が「森」のインドと、イランのような乾燥した高原地帯において異なる形の信仰へと進化した。
 人間の思想や観念が「環境」に依存している。=風土
▽108 「鎮守の森コミュニティ・プロジェクト」「鎮守の森コミュニティ研究所」
▽111 地球倫理とは「個人から出発しつつ、地球の有限性や多様性を認識し、個人を超えてその土台にあるコミュニティや自然(さらにその根底にある自然信仰ないし自然の内発性)とのつながりを回復する」という思想。(有限性〓にもとづく思想?)
▽118 ヘルダーの「風土」というコンセプトが和辻に影響を与えた。
▽123 
▽127 環境の有限性をふまえた上で、人間と自然を含む生態系とその歩みをトータルに理解捉えかえそうという関心が浮上。
……近代科学を通じて、無限の空間・時間とともに広がる無機的な「無限宇宙」という世界像への転換がなされ、それによって世界からは「意味」が脱色され、人間や個人はそうした機械的な無限宇宙のなかで振る舞う原子のような存在として位置づけられた。「コスオモロジー」つまり私という存在を意味づけてくれるような世界ないし宇宙についての理解の枠組みの解体のプロセスだった。
▽130「開放定常系」 地球は、太陽から一定量のエネルギーを受け取り、同量のエネルギーを低温で宇宙空間に放出し、この温度差を通じてエントロピーを系外に捨てる熱機関である。
地球という「開放定常系」
生命という「開放定常系」
人間という「開放定常系」
3種の開放定常系のなかを私たちは生きている。
(宇宙そのものも)熱的死に向かう不可逆的な過程に逆らって、、いわば人間や生命が積極的な努力のなかで実現していく姿。
▽151 小集団を超えた「共生」のツールとして生成したはずの言語が、今度は、異なる言語を使う集団間のコミュニケーションの阻害要因ないし壁となり「分断」の原因としても働く。
……異なる言語集団の間の紛争を解決する手段のひとつとして生成したのが、紀元前5世紀の枢軸時代/精神革命の時代における普遍宗教と呼ばれる思想群だった。言語のちがいをこえた「共生」を可能にする基盤として展開した。
……しかし近代以降、普遍宗教・普遍思想同士が互いに敵対し、紛争の原因になっている。
▽158 生命の進化の中で「死」という現象が生まれたのは「性」の発生と同時という議論がある。原始的な生物は分裂を繰り返すが、その過程で遺伝子が変わることがないため、ずっと生きていると見ることができる。
「生き物は性の歓びを得たかわりに、その代償として死を手にすることになった」ということもできる。
▽160 近代、「個人」が社会の前面に出るようになり……個人は大きな自由を得たが、共有された死後の世界を失ってしまい、孤独なレベルで「死」ないし「無」に向かいあうことになった。
▽173 心象図法という手法を使って、住民参加型の「ふるさと絵屏風」の制作というこころみをしている、地域文化学が専門の上田洋平さん(滋賀県立大講師)。
▽179 枢軸時代/精神革命 歴史においてはじめて、何らかの形で「無」(ひいては死)というものを抽象的な概念としてとらえ、しかもそれに一定のプラスの意味を見出していった。……死とは「有でも無でもない何か」ではないか。
▽188 枢軸時代ないし精神革命の時代とは、農耕社会が進展してそこに都市文明も生まれ、人口増加や「開発」も進む中で森林の枯渇や土壌の浸食といった環境・資源の限界が顕在化するという、現代に通じるような時代だった。……孔子に代表される儒教は「都市、個人、自然支配」というベクトル、老荘思想は「農村、共同体、自然との共生」というベクトル。
▽195 キリスト教の「永遠の命」と仏教の「空」は、①この世界における時間の流れや生・死を超え出ているという点、そして②それが何らかの意味でめざすべき場所であり、プラスの価値をもった何かであるという点において共通している。
▽197 「無」(そして死)が何らかの意味で抽象的な概念として把握されるにいたったのが枢軸時代/精神革命の特徴。
▽208 アマテラス 天の岩屋戸神話 「太陽の死と再生」をめぐる物語。クリスマスはもとは「太陽が新たに生まれかわる日」としての冬至を祝うまつりだった。(フランス語のノエルは語源的に「新しい太陽」という意味)
 もとは元日は冬至とイコールであり、冬至が新年のはじまりの日だった(日本の旧暦とは大きく異なる〓)
▽215 皇祖神ないし国家神が、もとはタカミムスヒという男性神であり、ある時期にアマテラスに転換した。タカミムスヒは「天孫降臨」で中心的な役割を果たす。天上の神が地上におりていて王になるというタイプの思想は、北方ユーラシアの遊牧民族が王権神話としてもっていたものだった。
……5-7世紀のヤマト王権時代は、タカミムスヒが皇祖神の地位にあったが、律令国家成立にともなう7世紀後半からの古事記編纂の過程で、その坐をアマテラスにゆずる。
……アマテラスはもともとは「ヒルメ(日女)」(ないしオオヒルメ)と呼ばれる、伊勢の地方神的な存在だった。(伊勢神宮も太陽神を祭る地方神の神社だった)
 伊勢は古くから太陽信仰のさかんな土地だったという。アマテラスのアマは「天」という意味とともに「海」という意味ももつ(伊勢は海女も多い)
……北方ユーラシア的で朝鮮経由の「外来神」のイメージが強かったタカミムスヒではなく、より土着的な性格が強く、民衆の間により浸透しており、南方的(弥生的)な多神教世界に根ざした女性太陽神「ヒルメ」を皇祖神に置きかえた。(〓溝口睦子「アマテラスの誕生」)
▽218 アマテラスには①縄文的(海洋的自然信仰)、②弥生的(農耕的な女性太陽神)、③普遍思想的(「天」の観念)という、三層にわたるイメージや観念が凝縮してこめられていると考えられる。
 ……伊勢湾岸や津島などには、もともと「アマテル」という海洋性の男性太陽神が存在しており、それが祖先神として「ホアカリノミコト」と呼ばれるようになったという事実がある。海人族(弥生以前の日本列島の先住民で、漁業中心に生活をした人々)にとっての男性の太陽神で、アマテラス=ヒルメのさらに古層をなす縄文的なものといえる。
▽220 アマテラスの両性具有的性格
▽231 各段階の「拡大・成長から定常化」への移行期において、「物質的生産の拡大から文化的・精神的発展へ」という転換をおこなった。「有限な(物質的)環境の中での無限の創造」を志向し、それによって持続可能性を実現させる方向ともいえる。
▽234 有と無の再融合
「なぜ無から有が生じたか」とか「そもそも無とは何か」というテーマがおのずと浮上してきた。……無というものの意味を再定義し、それを「有」を生み出すポテンシャルないしエネルギーをもつものとして(ダイナミックに)理解しようとしているのが近年の物理学の潮流。基本概念のひとつは「量子ゆらぎ」。「量子論では、存在と非存在が混ざり合った状態でものごとが進む」とされ、宇宙の創生前の「無」というのは……宇宙全体が量子ゆらぎになっている状態」
……「有」と「無」が連続するという、新たな理解が生まれている。(〓生と死も)
▽240 生命と非生命の間には絶対的な境界線があるわけではなく、そこでは自己組織化という共通の原理が働いており、自然における自己組織化ないし秩序形成という一貫した発展の中に「生命」もとらえることができるという自然観が提起された。
 人間と人間以外でも。連続的な発展ないし進化のプロセスのなかでとらえる見方が浸透しつつある。
 ……近代科学成立時の機械論的自然観がいったん捨て去ったアニミズム的要素(世界の駆動因)を世界の内部に新たな形で取り戻していった流れ。
……現代科学は、「新しいアニミズム」と言うべき自然像に接近しているとも言えて、それは「生きた自然」の回復とも呼びうる方向。
▽247 生と死のグラデーション 生と死が完全に別物ではなく、その間に「中間」的な状態があるという発想は、「無としての死」に孤独に向かいあうという、近代的な「死」の恐怖を乗り越える、あるいは「やわらげる」という積極的な意味をもちうるのではないか。「死を含む大きな生命」(生と死の根源、無のエネルギー、自然のスピリチュアリティ)という対極にあるように見える二者をつなぐ意味をもちうるのではないか。
……認知症というものも、ある種ポジティブな側面をもっていると思えるのである。
▽249 共同体から「独立しても生きていける」という近代的な個人の「強さ」は、裏を返せば、死に向かいあう孤独や恐怖という究極的な弱さでもあったのだ。(だからこそ認知症がある意味で救いになりうる)
▽252 老年的超越 スウェーデンの社会学者が唱えた考え。80代、90代以降の高齢者においては、「物質主義的で合理的な世界観から、宇宙的、超越的、非合理的な世界観への変化」が起こるとされる。……死と生の区別をする認識も弱くなり、死の恐怖も消えていく。
……日本の高齢者に関する調査では、「超越」という点はやや薄いが、先祖や未来の子孫とのつながりの意識の強まりや、「あるがままを受け入れる」「自然の流れにまかせる」「他者への依存を肯定するといった方向の傾向が見られた(〓わかる 彼岸からの風を感じる)
……「超越」と言われているのは、「個人を超えて、より大きな何かとつながること」の大切さであり、何か、とは、「コミュニティ、世代間のつらなり、生命、自然、宇宙」といったものが含まれるだろう。
……「老年的超越」という視点は、「生と死のグラデーション」という発想とつながるとともに、「老年的」という限定を超えて、新たな時代状況における「有と無の再融合」という方向とも連なる、普遍的な広がりをもっていると思われる。……「第3の定常化」の時代の理念と方向と共鳴するのではないだろうか。
▽258 アウグスティヌス「告白」「宇宙の創造の前には『時間』自体が存在していなかったのだから、創造の前を問おうこと自体が論理的に誤っている」
 ホーキング 「宇宙がはじまる前に何が起きたかを問うことは、地球上で北緯91度の点はどこかと問うようなものである」
▽265 私の人生とは「時間を超えた何か」から生まれて、しばらくのあいだ時間の中をを生き、ふたたび「時間を超えた何か」に帰る歩みとして把握される。……生の瞬間瞬間において、私たちは「時間を超えた何か(有と無の根源にあるもの)とつながり、それによって支えられている」
〓〓

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次