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智恵子抄の光と影<上杉省和>

大修館書店 20210730

 気が狂ってしまった妻、智恵子に最後まで寄り添った高村光太郎。愛を貫いた日々を振り返った「智恵子抄」は涙なしには読めない。
 でも戦後、いくつかの疑問が呈された。自由を求める「新しい女」が家庭に縛られることで精神を病んでしまったのではないか、というフェミニズム系の批判は型どおりで薄っぺらい。この本はどんな解釈を示してくれるのか期待して読んだ。
 智恵子は、日本女子大で平塚らいてうらと出会い、卒業後は画家になり、光太郎と自由恋愛をして、戸籍を入れない夫婦別姓婚をした。まさに「新しい女」を体現してきた。「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさえたものでしょう。それにしばられて一生涯自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしが決めればいいんですもの、たった一度きりしかない生涯ですもの」と語った。
  なぜ智恵子は心を病んでしまったのか。光太郎との関係が主因とは思えない。
 智恵子の実家長沼家は裕福な造り酒屋だった。智恵子は結婚後も体調を崩すごとに実家に滞在した。家は、封建的な壁ではあったけど、盤石な「田舎」の存在が彼女を支えていた。
 だが、1916年に父が57歳で死に、19年に末の妹のチヨが16歳で、22年には妹のミツが29歳、27年には妹ヨシが29歳で死ぬ。智恵子自身も結核を患い、余命が長くないと覚悟した。
「死は人生にとっては奪いゆく暴虐な力であっても、ゆくものにとってはさらに高き生活への飛躍、清まり高められ拡大される歓喜と救いの恩寵にほかならない」と書いた。それだけ死が身近だったのだ。
「あれが阿多多羅山……この大きな冬のはじめの野山の中に、あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを……」という 「樹下の二人」は、実家で療養する智恵子を訪ねた際、妻に忍び寄る死の影と、それに抗うことのできない無力さへの自覚が託されているという。言われてみれば透明感のある描写は死を感じさせる。
  跡を継いだ弟は、女傑の母と反目し、3度の離婚をくり返し、放蕩三昧で29年に長沼家を破産させてしまう。
 自由を求めて東京に出た智恵子だが、郷里の生家が彼女の安全弁だった。破産とその後の骨肉間の争いは、智恵子の精神に大きな打撃を与えた。
 私の身近にも似た例があった。じいちゃんばあちゃんが元気なころは農業を中心に家がまとまっていた。それが高度経済成長を経て農業で食えなくなり、じいちゃん世代が消えると、家族がバラバラになり、精神を病む人が出てきた。多くの農村では高度成長を経てそれが起きたが、造り酒屋だった長沼家では昭和の恐慌の時代に起きたのだ。

 光太郎と智恵子の「自由」の生き方は、大正デモクラシーとともに生まれたが、大正デモクラシーと同様、ファシズムの前には無力だった。
 実家の喪失に加え、社会が閉塞感を強め自由が窒息していくことに苦悩したのではないか。
 1932(昭和7)年に47歳で自殺未遂をしてからは智恵子の統合失調症は一気に悪化する。
 年齢を加えるにつれて智恵子は美しくなるが、それは年齢相応に成熟できなかったのであり、分裂病者特有の退行現象だったのではないかと筆者は推測する。僕の経験でも、透明な美しさやかわいさを持ちつづける人は早死するような気がする。
 「山麓の2人」は、 「狂ってゆく自分」とそれを見つめる「正気の自分」とが同時に存在し、「わたしはもうぢき駄目になる」と嘆く智恵子を描く。かろうじて「人間」を保っている妻の苦しみ、「お別れが近いかも」と自覚する苦しみを代弁した。
 光太郎は智恵子抄について「いやな面は隠したんです。……だから智恵子抄は不完全なものですよ」と述べたという。美しくかわいく狂っていくだけではなく、実際は、「連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき」「拙宅のドアは皆釘づけ」「窓をあけて、往来にいる子どもたちに演説するのも度々」という状況だった。支離滅裂な演説を街頭ではじめる狂女と得体のしれぬ芸術家の住む家は「ばけもの屋敷」と呼ばれた。
 亡くなる2年前の1936年、光太郎は智恵子に千代紙を与えた。それをマニキュア用の小さなはさみで切って紙細工をつくるようになった。1年ちょっとで千数百の作品がつくられた。
 言葉もほとんど失っていたが、作品を光太郎に見せることを喜んでいた。最後まで、光太郎に愛と信頼を寄せていた。
 智恵子抄はよい思い出だけを記しているが、それでよかったと思う。修羅場があったとしても、2人の愛が崩れることはなかったし、智恵子は思考力を失っても紙細工という形で光太郎への愛を表現していたのだから。
 空襲でアトリエが焼失し。知人にあずけられていた智恵子の紙絵だけが焼失を免れた。智恵子からの最後の贈り物だった。
 1938(昭和13)年、死の床につく智恵子に光太郎はレモンを手渡す。
 それをガリリとかんで、
「…かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた…昔山巓でしたような深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まった」
 智恵子の死後、光太郎は近くに智恵子の存在を感じている。
「がらんどうな月日の流の中に/死んだ智恵子をうつつに求めた/智恵子が私の支柱であり/智恵子が私のジャイロであったことが/死んでみるとはっきりした/智恵子の個体が消えてなくなり、/智恵子が不変の存在となって/いつでもそこに居るにはゐるが、/もう手でつかめず声もきかない」と。
 でも「がらんどうな月日の中に」「おそろしい空虚」を埋めるように、天皇制と骨がらみになった国家意識に没入し、智恵子の死の前後から、戦争肯定の言説を展開するようになる。
……戦後、自らの戦争責任を問うなかで「うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち/耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい」と光太郎はつづった。

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▽2 寺山修司の批判。
 光太郎は、女との関係を鑑賞と、一方的な愛玩の具くらいにしか考えておらず、もともと相互関係によって生み出される「愛」などという感覚を理解できない男だったのである。
 光太郎と智恵子の文学史上の「愛情物語」は、虚構にすぎなかった。そして人形だった智恵子が人間にもどろうとしたとき、そこには狂人になるほかのすべは、残されていなかった。
▽29 日本女子大学 自由主義的な教育理念は、当時の国家体制と対峙するもの。平塚らいてうや小説家田村俊子などを輩出した。長沼智恵子もそのひとり。
▽33 世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさえたものでしょう。それにしばられて一生涯自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしが決めればいいんですもの、たった一度きりしかない生涯ですもの。
▽50 自由恋愛にとどまらず、別居結婚を理想とするほどに、智恵子は徹底した自我主義者でした。…極度に社会規範に縛られることを嫌う、自由な個性の持ち主であったのです。
▽54 青鞜社の自由恋愛の提唱は自堕落な政敵放縦とみなされ、……智恵子も……世間の後期と侮蔑の視線に晒されることになったのです。それに拍車をかけたのが、光太郎との恋愛でした。洋画家としての声価を確立する前に、長沼智恵子の名前だけが、醜聞にまみれて独り歩き……
▽74 智恵子は結婚後も長沼智恵子でした。夫婦別姓を実行したのです。自由を拘束しないために、半ばは別居生活を実行もしました。
▽82 「私と同棲してからも1年に3,4カ月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸ってこなければ身体が保たないのであった」と光太郎。
▽83 女中も弟子も置かなかった。往来を履くのも玄関前に水を打つのも家のなかの雑巾がけも、光太郎の仕事だった、と(光太郎の弟)高村豊周は書いています。
▽86 24年にわたる結婚生活。精神分裂病発病時点を境に前後半に分ける……自殺未遂(昭和7年7月)を発病時点とみなせば、結婚生活の前半18年間に9編の詩が、後半の6年間に7編の詩が作られたことになります。
▽90 智恵子 先天的色盲あるいは色弱から油絵の道が絶たれたことへの絶望。
▽91 大正5年、父が57歳で死亡、大正8年、末の妹のチヨが結核で16歳で死去、大正11年には妹のミツが29歳で亡くなる。昭和2年には妹ヨシが29歳で世を去る。
(次々と家族が消えていっている。自らも結核になる〓)
自らの余命が長くないことを覚悟したに違いありません。
▽92 死は人生にとっては奪いゆく暴虐な力であっても、ゆくものにとってはさらに高き生活への飛躍、清まり高められ拡大される歓喜と救いの恩寵にほかならない。(〓)

▽93「樹下の二人」
あれが阿多多羅山……
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、……
▽98 裏山である鞍石山からの「パノラマのような見晴し」を謳ったもの。
 愛する妻に忍び寄る死の影、それに抗うことのできない無力さへの自覚、「智恵子抄」中期の詩編はそうした光太郎の心情が託されています。
▽102 「思ひつめればほかの一切を放棄して悔やまず、所謂矢も楯もたまらぬ気性を持っていたし、私への愛と信頼の強さ深さはほとんど嬰児のそれのようであったと言っていい。私が彼女に打たれのもこの異常な生活の美しさ出会った。言うことができれば彼女はすべて異常なのであった」
▽106 智恵子の桁外れの社会性の欠如は「自閉症」と呼ぶべき性質のものではないでしょうか……強度の分裂気質者に共通する性格でもあるのです。光太郎も強度の分裂気質の持ち主であり……智恵子は、自らの異常性を理解できる光太郎を生涯の伴侶とし、愛と信頼のすべてを注いだのです。
▽125 東京に空が無いといふ……あどけない空の話である
……「東京に空が無い」というのは、都会生活への強い拒否反応が言わせた言葉で、SOSのサインでもあった。
▽130 残された写真で見る限り、年齢を加えるにつれて、智恵子はうつくしくなっていったようです。(〓同じ)
 しかし……見方を変えれば、智恵子は年齢相応に成熟することができなかった、とは言えないでしょうか。「だんだん若くなる」ということで、分裂病者特有の退行現象、すなわち社会脱落の刻印ではなかったでしょうか。
▽135 家督を継ぐのは弟の啓助。3度も離婚。昭和4年には長沼家が破産。敬助は上京して職を転々、困窮の中で倒れ、昭和10年に死ぬ。……離婚は母センが深く関与していた。
▽136 智恵子の郷里での滞在期間が長期にわたるようになったのは、父親が死んだ大正7年以後のことです。……健康が優れず、対象1年にはその年の過半を生家で過ごしたようです。
▽137 弟が二人そろって性格的に問題があった・・
▽141 当時の智恵子を苦しめた問題は、複雑な家庭内の紛争でした。……昭和4年、長沼家は破産し、家屋敷は人手に渡ってしまう。
▽146 没落した長沼家の人々が、路頭に迷うほどの困窮の中に置かれていたことを、智恵子の手紙は物語っています。
……昭和6年8月、光太郎は三陸地方への旅へ。智恵子に分裂病の徴候が現れたのはその間のことだった。
 昭和7年7月、睡眠薬自殺をはかる。47歳の時。1週間後に意識を回復したが、それ以来、頭の方が加速度的に悪くなっていった、ということです。
 ……智恵子の分裂病発病を、光太郎は彼女が自殺をはかった時点に求めています。
▽155 昭和7年の自殺未遂は、残された理性の命ずる自らの尊厳死の試みであったと思われますが。以後、6年の歳月は、なすすべもなく精神を荒廃にまかせた、悲惨極まりない残余の生であったわけです。
……智恵子が精神を病んだことで、昭和8年8月、婚姻届を本郷区長に提出した。20年近い歳月を経て、長沼智恵子は高村智恵子になった。……新しい男女関係を築こうとした試みは、ここに挫折を余儀なくされた。
……「山麓の2人」わたしはもうぢき駄目になる……
(その気持ち〓お別れ近いかも)
 「狂ってゆく自分」とそれを見つめる「正気の自分」とが同時に存在していた。「わたしはもうぢき駄目になる」とはその「正気の自分」が言わしめた言葉です。……「魂との別離」を前にして、かろうじて「人間」を保っている妻……
▽159 興奮状態にある智恵子の姿は「智恵子抄」に表現されうことはなかったのです。
▽160 東京のアトリエに連れ戻された智恵子の病状……
 連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして……
 拙宅のドアは皆釘づけにしました。……
「智恵子抄」に書かれることがなかった、智恵子の病状の実態。
2階や3階の窓をあけて、往来にいる子どもたちに演説するのも度々で……
 光太郎自身「いやな面は隠したんです。……だから智恵子抄は不完全なものですよ」と語った。〓
(でもそれでも愛を感じていたから智恵子抄はできた〓)
▽170 郷里の生家が彼女の安全弁だった……それだけに、昭和4年の長沼家の破産とその後の骨肉間の争いは、智恵子の精神に大きな打撃を与えたと言えるでしょう。
▽172 現実社会から孤立した智恵子にとって、画業に挫折し、逃避場所としての故郷まで失ったことは、致命的なことでした。
(〓田舎がある人の強み。でも実はすでになくなっている)
▽174 病院を訪問して15分かそこらの面会をしてくるたびに打ちのめされる……智恵子の昼間の姿や言葉ありありと目の前によみがえる。凶器と人は言うが、狂気の人のいふ言葉はわれわれおよりも真理に近い。……極度に純粋になれば人はだれでも狂気になるにちがいない。
 「塩原にて」昭和8年の写真。ますます若くなっている智恵子
▽179 支離滅裂な演説を街頭ではじめる狂女と得体のしれぬ芸術家の住む家を「ばけもの屋敷」と呼んで怖れたのは……市民の自然な反応でした。
▽182 精神病者には手作業がよいと聞いて、千代紙を与えた。……昭和11年の終わりごろからマニキュア用の小さなはさみで色紙を切って紙細工をつくるようになりました。
「千数百枚に及ぶこれらの切抜絵はすえて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明である」……智恵子の意識においては、光太郎への愛の表明であったかもしれません。(言葉も失われつつあったのに)
 ……お見舞に来られるたびに、切り絵をお見せになってよろこばれていた……
……光太郎に寄せる智恵子の愛と信頼は、最後までいささかも揺らぐことはなかったようです。……
 空襲でアトリエが焼失。智恵子の紙絵だけが(山形の真壁仁にあずけられていて)戦火による焼失を免れた。
▽190 昭和13年10月5日、5カ月ぶりで病院に足を向けた光太郎は、智恵子のやつれ果てた姿に愕然賭します。……5カ月も見舞いに訪れなかったのは理解に苦しむところです……亡くなる数カ月前の智恵子は完全な痴呆状態となっていたのかもしれません
「レモン哀歌」…かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた…昔山巓でしたような深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まった
……「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」 レモンと桜には、西洋と日本とが鮮やかに対比されているように思えてなりません。山の手の英国風アトリエとみちのく安達の造り酒屋とを往復した智恵子は、西欧近代と日本の伝統に引き裂かれて、その矛盾に満ちた生涯を生き、燃えつきてしまったのです。
▽196 がらんどうな月日の流の中に/死んだ智恵子をうつつに求めた/智恵子が私の支柱であり/智恵子が私のジャイロであったことが/死んでみるとはっきりした/智恵子の個体が消えてなくなり、/智恵子が不変の存在となって/いつでもそこに居るにはゐるが、/もう手でつかめず声もきかない
(いるにはいる、のだ)
……「がらんどうな月日の中に」「おそろしい空虚」を埋めるかのように、天皇制と骨がらみになった国家意識が芽ばえていったようです。
 智恵子の死の前後から、戦争肯定の言説が目立ちはじめます。
……戦後、自らの戦争責任を厳しく問う内省の日々。「うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち/耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい」。偏狭な国家主義の呪縛から彼を解き放ったのは、今は亡き智恵子であったのかもしれません。
▽209 大正デモクラシーは、近代西欧市民社会のモラルを、その上澄みにおいてすくい取ったものでした。ファシズムの嵐が吹きあれる中では、温室育ちの植物のように、枯れて萎む運命を背負っていたのです。
▽210 智恵子は高村家に入籍せず、夫婦別姓を貫きました。……半ばは別居結婚という生活形態を貫きもしました。……家族制度への反逆にとどまらず、男女間の新しいモラルにまで踏み込む、画期的な試みでした。……「まことの自由」を求めた智恵子の生涯が「求められない鉄の囲の中」に閉じ込められた。
▽216 智恵子は「新しい女」ではありましたが、その精神の基底にあったのは、前近代的な家族制度のなかで培われた感性でした.発病後の智恵子の口から「田舎の人の言葉」や「浪花節」がほとばしり出たことが、何よりもそのことを証しています。
▽224 目をつぶればいつでも智恵子がわきにいてくれて、智恵子が死んでからことに僕にとって普遍的な存在となって、道を歩いていても、炊事をしていても、飯を食べていても、詩を書いていても、いつも我が身離れずそばにいてくれるのです。
▽231 光太郎が前近代的な日本的倫理から解放されたのは、アメリカ留学中のことであり、長沼智恵子が近代精神に目覚めたのも、アメリカデモクラシーの影響を受けた日本女子大に置いてでした。……近代精神に立脚した2人の生活革命は、圧倒的に優勢なわが国近代の封建遺制によって、無惨にも打ち砕かれてしまったのです。

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