MENU

生きる哲学<若松英輔>

■文春新書 20210129
 奥さんを亡くした若松は「悲しみは悲惨な経験ではなく、人生の秘密を教えてくれる出来事のように感じられる」と記す。その彼にとって「生きる哲学」とはなにか? 「悲しみ」を軸に、古今東西の哲人を通して浮かび上がらせる。

 「祈る」とは、超越に思いをぶつけることではなく、どこからともなく訪れる語りに耳を傾けることだという。
 原爆詩人の原民喜は「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ」と言い、彼の祈りは、苦しむ人の声を聴き、それを言葉に定着させることだった。
 巫者の伝統に連なる孔子や老子、柿本人麻呂には自己の思想はない。彼らは「語る人」ではなく、何者かのコトバを「聴く人」だった。詩人リルケも自らが語るのではなく、何ものかが語る通路になろうとした。「聴く」というのは詩人が共有する資質だったから、イタリアの絵画には、見えない天使たちの声を聴いてつづる詩人の姿が描かれた。
 染織家の志村ふくみにとって、作品は自己表現ではなく、何かから託されたものに形を与える(聴く)ことだった。プラトンもブッダも、真理を「思い出す」こと、真理の世界からの語りかけを「聴く」ことを求めた。
 真理を「聴く」ためには五感を総動員する必要がある。
 須賀敦子は、歩くことと考えることの間に隙間がなくなる瞬間に、出来事が起こる、と考えた。頭で考えても越えられない壁が、道すがら1羽のウグイスを見た瞬間に崩れることがある。ニュートンがリンゴを見て万有引力の法則を思いついたのも、そういう瞬間だった。生ける「真理」に達するには合理性だけでは足りない。全身で感じなければならないのだ。

 論語の「礼」は、悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫、つまり「歌」だという。「歌」は悲しみに形を与えることで、悲しみから自分を引き剥がし、悲しみの奥にある意味に近づかせてくれる。万葉集の挽歌の役割はそこにあったのだろう。

 堀辰雄は結核で婚約者を失う。彼女が死ぬ間際、「風」が死者の国から吹いてくる。「風立ちぬ。いざ生きめやも」は、死が迫っている、だからこそ生きねばならない、との覚悟だった。恋人とそんな瞬間を生きることで堀は、「永遠(あの世)」が現在の世界に介入することを知り、あの世からの風の「今を愛せ」というメッセージを受け止めた。
 その感覚は理解できる。死ぬ間際のRの言葉は、あの世の風を受けたとしか思えない透明感だった。今から思うと一瞬一瞬が、奇跡だった。

 神谷美恵子やブッシュ孝子は、深い悲しみを経た人の心は、他人の悲しみや苦しみにも共鳴するという。悲しみや死は、人と人の魂のつながりの基盤なのかもしれない。
 宮沢賢治は「すこしのかなしさ けれどもこれはいつたいなんといふいいことだ」とつづり、かなしみがあるから、幸福を全身に感じると感じていた。

 あめゆじゆとてちてけんじゃ…死ぬといふいまごろになつて わたしをいつしやうあかるくするために こんなさつぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

 賢治は妹のためにみぞれをもってきたが、このとき救われたのは賢治だった。賢治は、死にゆく妹を前に、深い悲しみのなかに浄福を感じたという。
 その通りだと思う。僕も「なにかのむものちょうだい!」とねだられ、「おいしい!」と笑顔を見せてくれた瞬間はまちがいなく幸福だった。

 人は生きることを「人生に求められて」存在しているとフランクルは考えた。生きるとは、人生を前にして、行動によって、自らを証しすることだ。
 過酷な収容所でも、自分も痩せ細るなかで、わずかなパンを衰弱していく者に差し出す者がいた。
「あたえられた環境でいかにふるまううかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」
 自分自身や大切な人の死を前にしたとき、そこでいかに振る舞うか、という自由と責任だけはつきまとう。どんな過酷でも、人生に恥じない生き方をするためにも投げだしてはいけない。わずかでも光るなにかをさがし、生きなければならないのだろう。

====================
▽哲学者の池田晶子
▽12 プラトン 人間が知らなくてはならないことはすべてその魂に宿っている。魂を扉にした「真実在イデア」界と呼ぶべき世界に既に存在している。
…世界は人間に読み解かれるのを待っているように様々な意味を語っている。
▽16 和辻哲郎の「古寺巡礼」。寺にある仏像仏画との対話の中で培われた記録として「哲学」が語られる。〓

■須賀敦子
▽22 迷ったとき、進むべき道を照らす光は、すべての人にすでに内在していることを教えてくれる人が哲学者。
…無名の「おのれを出し惜しむひと」の声になり切ろうと、優れた作品を書いたのが須賀敦子。(農村〓)
「コルシア書店の仲間たち」カトリック左派 社会制度の進展に背を向けてかたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もう一度現代社会、あるいは現世に組み入れようとする運動として、戦後のフランスで最高潮に達した。
「コルシア書店」の活動を推し進めたペッピーノという人物と結婚。…哲学の趣旨は、行動の中に宿され…
須賀敦子はよくあるく。歩く中で何かと出会おうとしている。…歩くことと考えることの間に隙間がなくなる瞬間に、出来事は起こる。(〓遍路、古道?)
…知らない場所だとしてもガイドブックは買わない。自分にとって欠くことのできない場所は、自分の足で歩いてみたところだけだ、という確信が須賀にはある。
…「ミラノ 霧の風景」 彼女はいつも、「霧の彼方で暮らす人々に向けて文章を書いていた。

■原民喜
▽64 ここでの祈りとは、くるしむ人の声を聴き、その出来事を言葉によって世界に定着させることである。祈りは願いではない。願うことをやめ、何者かのコトバを身に受けること。
…祈るとは、超越にこちらの思いをぶつけることではなく、どこからともなく訪れる絶対の語りに耳を傾けること。それはときに、何者かの訪れとして経験される。
…自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ。
▽73 「妻と死に別れてからあとの僕の作品は、そのほとんどすべてが、それぞれ遺書だったような気がします」…彼にとってすべての作品は、妻への「手紙」だった。
…「もし妻と死に別れたら、1年間だけ生き残ろう。悲しい美しい詩集を書き残すために」。かなしみの詩集をつくること、それだけが彼をこの世にひきとめていた。

■論語の哀しみ
▽79 悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が礼である。すなわち一種の歌である。
…深い悲しみはときに、人から生きる意味を覆い隠す。だが「歌」はそれを整え、悲しみの奥にこそ、生きることの真義が潜んでいることを伝えてくれる。(〓挽歌の役目。)
…もののあわれを知るとは、悲しければ、悲しみに意味を探ろうとする前に、どこまでも悲しみを感じ尽くそうとする本能を素直に生きること。あらゆる「情こころ」の働きを解釈せず、そのままに生きること。
▽85 歌は悲しみを起源とする。容易に形を帯びようとしない死者への思いが満ちるとき、歌が生まれた。…挽歌から愛する人に言葉を送る相聞歌が生まれた。
▽87 孔子は巫者の伝統のなかに育った。巫者とは、天の言葉の通路となり、容易に言葉にならない人間の叫びを天に届ける。孔子の使命は、自己の思想を喧伝することではなく、天意が降りる場所になることだった。
▽93 孔子が泣く姿をもっとも近くで見ていたのは、不可視な隣人となった顔淵だった。…このときすでに悲しみは、悲惨な出来事であるよりも、出会えたことの意味を照らす一条の光になっている。(〓若松が巫者になっている。天の言葉を人に伝える)

■志村ふくみ
▽100 職人たちにとってつくるとは、自己の表現であるよりも、託されたものに形を与え、それを必要とする未知なる他者へ届けることだった。その不文律は志村にも受け継がれている。

■堀辰雄
▽113 震災被災地の講演会 死者は、風が自分をとりまくように、ますます身近に感じられると、話してくれる人々が複数いた。
▽114 堀は結核で婚約者を喪う。…2人は「風」が死者の国から吹いてきていることを瞬間的に認識する。「風立ちぬ。いざ生きめやも」。風が立つ。自然は迫り来る死を告げることに躊躇しない。死は迫り来る、生きねばならない、との言葉が発せられる光景は、篤信家が祈りを唱える姿に近い。逆らうことなどできない。大いなるものの到来を前に、恐怖より畏怖を感じている。
「風立ちぬ」は、再読したものにのみ開かれる扉が据えられている。
▽118 万葉集は挽歌を起源とする。愛する者を喪ったうめきほど深い情愛の表現はないことを文学の歴史は語っている。リルケの死が開いた死者の国への扉は、堀に、愛する者が生ける死者となっていることだけでなく、彼に至る膨大な歴史のすべてが「生きている」ことを教えた。
…永遠が個の時間世界に介入することを知ったのも、彼が、恋人とその最後の日々を生きたときだった。(〓〓永遠、というかしのせかいとのつがなり、ということか。すてきな恋だったねぇ 私らはカモメや)
▽120 もう一度だけでも会いたいと嘆くものは同時に、かつて会っていた一瞬一瞬が、持続する奇跡にほかならなかったことを痛感している。(〓その通り) 愛する人を喪ったものが切望するのは、死者となった人と過ごした日常の回復岳である。彼方から吹く風もまた、今が奇跡に満ちていることを告げる。
…人は、常に今にしか生きることができない。やわらかな風は、どこまでも今を愛せと告げる。…大いなるものは沈黙しているのではない。いつも、だれにも等しく語りかける。人がその声に気がつかないだけである。
▽125 死者は決して生者から目を離さない。(雪山で安藤が先導した)

■リルケ
▽129 遠藤周作「死について」迫り来る死の実感を、率直な言葉で語る。
▽130 古代中国の哲学、孔子も老子も、巫者の伝統に連なる者だった。柿本人麻呂も。彼らには、自己の思想、自己の芸術は存在しない。彼らは語る人であるまえに、聴く者だった。彼らが語ったのは、何者かが彼らに託したコトバだった。
▽133 リルケ彼は詩を書こうとしたのではない。突然、言葉が訪れたのである。彼の創造は、書くことにではなく、待つことのなかにあった。
 悲歌は単に悲しみを歌ったものではない。それはむしろ、悲しみの彼方にあるもの、あるいは彼方の悲しみを歌う。
(天満のカフェ、G線上が流れる。何を伝えようとしてるの)
リルケにとって詩とは、彼方なる世界からの呼びかけ。彼方なる世界があることを人間にまざまざと告げ知らせる出来事だった。
▽137 遠藤が晩年に描いた「深い河」。多神教の神々をあらしめているのも、一なる「神」であることを描く。
▽138 祈るとは、いつも受け身の営みでなくてはならない。言葉に身を捧げること。
▽141 世界の奥に「うちなる世界」があるのではなく、「内なる世界」がこの現象界を包む。そこは使者と天使の境域である。
…詩人が何かを語るのではなく、何ものかが語る通路になる。

■神谷美恵子
▽人知れずひとり悲しむものは、不可視な領域で無数の人と繋がっている。この世に悲しみを知らないものなど存在しないからである。
▽ 156 ブッシュ孝子……ひとたび生きがいを失うほどの悲しみを経た人の心には、消え難い刻印が刻みつけられている。他人の悲しみや苦しみにもすぐ共鳴して鳴り出す弦のような作用をもつのではないだろうか。
 人は苦しみ、悲しむ時、やはりどこかで苦しみ、悲しむ無数の守護者によって守られてると、彼女は言う。
▽160 真摯な探求と悩みなしに、人の心に光明がもたらされた試しはない。しかしまた精一杯の求道の後に発見される光は、自分一人の力で創り出したものとしては、あまりにも輝かしすぎるのである。

■ブッダ
▽165 回心は改心とは異なる。心をあらためることではなく、大いなるものによって生かされていることを知る。生きるとは自らの願いを実現することではなく、大いなるものとひとつになることであることを知る。
…いたずらに「願う」ことが、世界と私たちとの間に埋めがたい溝をつくる。願うことが世界を直視することを妨げる。生きるとは、願うように世界をつくりかえることではなく、むしろ、世界からの語りかけに耳を傾けることだというのである。
▽168 「此岸」に置いて「彼岸」とのつながりを見出しながら生きる意味を説いた。…こうした超越的世界との往還の関係を仏教の神髄だと考えるのが浄土教の人々である。プラトンの哲学も
▽170 プラトンの哲学は神学に近かった。哲学とは超越者との関係を回復する過程だった。…神秘、あるいは叡智は、単に知られること、あるいは語られることを拒む。「神秘」はいつも人間によって生きられなければならない。文字どおりの意味で「歩く」ことによって見出していく不断の経験の持続をいう。
…彼岸の経験に恵まれた者は、その経験をひっさげて「現世」にもどらなくてはならない。ブッダもプラトンも、ひとたび徹底的に人から離れていったが、困窮し、助けを求めている人々の近くに寄り添った。ブッダは、人はいかにして此岸に生きながら、新しく生まれるかを説いた。プラトンも俗世にあることを自らの使命とした。
 人間界に「永遠の世界を建設」することが、プラトンの信じた哲学の使命だった。
▽174 知ることは想い出すこと、とプラトンは言った。閉じられた記憶の箱を開ける者、それをブッダは「真理」と呼んだ。「真理」は不朽の生命を照らす光、身体の死をへてもなお、まざまざと「生きている」とブッダはいう。

■宮沢賢治
▽180 賢治にとって芸術とは、万物のなかに生ける美を見いだし、その存在を世界に明示すること。
▽186 すこしのかなしさ けれどもこれはいつたいなんといふいいことだ
 かなしみがある。だから、幸福を全身に感じると賢治はいう。この世にはかなしみを受けて生きてみなければ、けっして映じてこない風景がある。
▽188 あめゆじゆとてちてけんじゃ…死ぬといふいまごろになつて わたしをいつしやうあかるくするために こんなさつぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
 妹のためにみぞれをもってきた。だが、このとき救われたのはトシであるより兄だった。賢治はこのとき、自らの生が何者かによって満たされたと感じる。…死にゆく妹を前にし、深い悲しみのなかに賢治は、これまで経験したことのない浄福を感じる。
(本当だ。「なにかのむものちょうだい!」「おいしい! 仕込んどいてよかった」あれは幸福。)
▽192 二疋の大きな白鳥た…それはわたくしのいもうとだ 死んだわたくしのいもうとだ それは一応まちがひだけれども まつたくまちがひとは言はれない
(白い鳥がトシだと強い確信がある。その通りだ)
▽194 生前、賢治は2冊しか著作を出していない。「心象スケッチ 春と修羅」「注文の多い料理店」。ともに28歳になる年に自費出版に近い形で刊行された。「銀河鉄道の夜」も没後の刊行。
▽196 トシは自分のために生きたのではない。兄のために生きたのである。兄に向かって何度もひとりで逝くと語ったトシにとって死は、存在の消滅ではなく、魂の新生であることがどこかではっきりと感じられていたのではなかったか。…「よだかの星」は、トシの没後、賢治もまた、魂の新生と不死を認識したことを示しているのではないだろうか。

■フランクル
▽206 河原理子による「フランクル『夜と霧』への旅」〓
 東日本大震災の少し前から、それまでとは異なる熱意を持って受容された。…朽ちることのない人生の意味を語るフランクルの言葉に一条の光を見出してよい。
▽210 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。私たちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ。ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
…人は、単に生きているのではない。生きることを人生に求められて存在している。人生がここの人間に生きることを求めている。人生はいつも、個々の人間に、その人にしか実現できない絶対的な意味を託している。
▽212 人生はいつも行動というコトバによって応じられるのを待っている。生きるとは、人生の前に、行動することによって、自らを証しすることだと、フランクルは考えた。彼が選んだ最初の行動、それが収容所での生活を人々に伝えることだった。
▽214 収容所で生き残るため、倫理を自ら手放すとき、人は人格を見失う。…こうした状況下でも人格を見失わない者たちはいた。自分も痩せ細っていくなかで、わずかなパンを、衰弱していく者に差し出す者…
…「あたえられた環境でいかにふるまううかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」

■辰巳芳子
▽ 余命が限られ、食べるという行為すら困難になりつつある人が、辰巳のスープを飲むという動き。……死に臨み「いのち」の世界とも呼ぶべき場所におもむこうとする人々が、「いのち」を養いたいと願うのはむしろ自然なことである。
▽223 …亡くなっていくとき、動的平衡が崩壊していくように見えるかもしれないけれども、実はそれは動的平衡として一番美しい状態、一番いい形をめざしているのではないか。(チンも福岡さんの本を読んでいた。自分は生まれかわる、いつも生まれかわっている)
…「動的平衡」の視座に立つと、死に臨むとき人は、もっとも輝いている。
▽227 人が生きているのではなく、「いのち」が人間を生かしていることをタツミは示そうとしている。
▽231 まごころに遭遇したとき、喜びをかみ殺すようなことをしてはならない。まごころで心が動いたときはその歓喜を声に出さなければならない。と、辰巳はいう。
…何かを食べて、本当においしいと感じるとき人は、何者かによって自分の存在が認められたと感じる。自分は生きていていいんだ、と強く実感する、と辰巳は語った。
…おいしい、と口に出すとき、人は、今まさに自分を生かし、また、永遠に滅びることのない「命」を経験している。
…愛し愛されることを、存在の核に据えること
▽234 食とは、肉体が滅んでも「いのち」はけっして失われないことを日々新たに経験することである。万人に開かれた「いのち」を経験する場でもある。食を通じて、万物を生かしているもう一つの大いなる「いのち」にふれることができる。
…イエスの「最後の晩餐」共に食べるという営みのなかでイエスは、肉体が滅ぼされてもなお「生きている」ものがあることを伝えようとした。
 現代の…や哲学が食を省みることを忘れていたからこそ、彼女は語りはじめたのである。
(チンが料理を教えた意味)

■皇后
▽243 悲しみは、痛みの経験であるとともに、慈しみの芽ばえでもある。
…柳宗悦にとっては、悲しみは、超越へとまっすぐ続く道だった。
▽248 真に平和を実現しようと思う者は、いつも涙を感じ得る心を失ってはならない。…対話は、沈黙のうちに他者の痛みを感じてみようとするところからはじまる。

■井筒俊彦

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次