■草思社文庫 20210117
イギリスの女性ジャーナリストが、父の死をきっかけに世界の「弔い」の場を巡り歩く。
父は無神論者で「人間なんかしょせん有機物だ」と言っていたが、死ぬ直前、親友が眠る場所に骨をまいてほしい、と伝えた。「単なる有機物」ではないと思うようになったのだ。
筆者はそこにひっかかりを感じた。
イギリスにおける死に対する態度は、船が沈む直前まで演奏をつづけたタイタニック号楽団員に見られるように非常にストイックだ。葬儀では、鳴き声を上げず、できるだけ静かに涙をぬぐう。
イランの歴史劇では、最大の見せ場でおおいに泣くことが奨励される。ペルシャの伝説と詩歌の根幹にあるのは喪失の悲しみという。
死者儀礼に哀歌を用いる伝統は、アイルランド、ギリシャ、ロシア、中国にまで及ぶ。かなしみを儀式化して泣くことで、苦悶が歯止めなくなることへの防止策にもなる。芸術性を通すことで、ありふれた喪失の痛みをより意味深いものへ、受け入れられるものへと変える助けになる。各種の詩や万葉集の挽歌もそんな役割をもっていたのだろう。
イギリスでもかつて、芸術や文学のロマン主義や福音主義キリスト教の広まりとともに、感情のままに悲しみを表現する伝統が育った。だが、福音主義とロマン主義が衰え、医学の進歩が急激な死亡率の低下をもたらす過程で、悲嘆の感情をさらけ出すことが許容されなくなる。さらに、「男らしく力強い態度を信条とするパブリックスクールの特質」によって加速されたという。イギリス人の特質も意外に新しい伝統だった。
バリ島の葬送の儀式は、紙と竹材でできた巨大な山車が遺体を薪山へと運び、太鼓が響き渡り、行商人が軽食と飲みものを売り歩く。死者の魂をこの世の拘束から解き放つべく、笑顔と喜びを演出する。バリはヒンドゥー教徒で、インドと同じく火葬慣習を取り入れた。
ヨーロッパのキリスト教は、肉体の復活という中心的な教義に反するとして、5世紀以降火葬を異教徒の慣習とみなすようになった。
産業革命による人口増が墓地不足と疫病に対する不安に火をつけた19世紀後半になって火葬がふたたび注目された。でもアメリカでの火葬率は今も35%程度という。
シチリアのカタコンベは8000体を超えるミイラ化した遺体がならぶ。
イギリスでは葬儀で棺蓋を開けて対面することはほとんどない。イギリス人から見ると、カタコンベだけでなく、アメリカのような遺体を公開する葬儀は不気味にうつるという。
化学薬品を注入して死体を保存するエンバーミングのはじまりは南北戦争だった。リンカーンが暗殺されると遺体は防腐保存された。
フィリピンの山間部、バナウエから近いサガダに住むイゴロットと総称される少数民族のムラでは、 亡くなった人は椅子に座った姿勢で縛りつけられる。友人や隣人は死者に最後のあいさつをかわし……遺体に向かって恨みつらみを大声で晴らすためにやってくる。だれもが遺体を運ぼうと競い合い、…遺体から流れ出た血や体液が担ぎ手につくことは幸運をもたらすと信じられている。遺体は木の棺に納められ、そのまま崖から吊り下げられるか、岩の裂け目や洞窟のなかに据えられる。石灰岩の崖に打ちこまれた釘に支えられた棺の数々がぶら下がっている。
中国人は、遺体が故郷にもどされて、親族が墓参しないかぎり、死者の魂は来世に渡ることができないと信じる。そこで19世紀アメリカの中国移民は、アメリカで埋葬された後に、旅の資金が用意されるのを待って故郷に送り出された。
アメリカの戦死者は空輸されている。ラ米からの移民を対象に、50ドル払えば遺体の本国送還を5年間保障する保険サービスも生まれている.
チェコのクトナー・ホラ近郊のボヘミアの墓地教会の納骨堂は、シャンデリアなどの装飾品がすべて人骨でつくられている。墓地が限界になり、掘り起こされた何百万もの人骨からつくられた。
中世のヨーロッパでは、墓地に新たな場所を確保するため、骨を掘り起こして納骨堂に保存するのが通常だった。イギリスのハイスにある聖レオナルド教会には、2000の頭蓋骨と8000本の大腿骨が整然と陳列されている。
ローマにあるカプチン派修道会地下納骨堂は、骨盤の骨はバラ飾り、脊椎骨は花冠へアレンジしている。ポルトガルのエヴォラの「人骨の礼拝堂」は、教会の壁を飾るように戦争や疫病の犠牲者と考えられる5000体の人骨が埋め込まれている。
ヨーロッパ最大の人骨の集積所はパリのダンフェール・ロシュローの地下にあり、そのカタコンベ(地下墓地)は、600万の人骨が数キロにわたる地下通路の壁沿いに積み上げられている。
イギリスの哲学者ベンサムは、自らの骨格が保存し、スーツを着せ、愛用の椅子に座らせて安置するよう指示し、今も鎮座している。
日本でも巡回した「人体の世界展」も、遺体をさらすひとつのあり方だった。古代のマヤ人は人骨で祭祀用具を、チベットの人々は大腿骨から角笛をつくった。
「聖遺物」は布教の強力な道具になった。フランシスコ・ザビエルの遺体はいくつもの大陸に運ばれた。1614年に列福を受ける際には、証としてローマに送るために片腕が失われ、上腕部の骨はマカオにある。
高名な修道女テレジアは幾度となく墓を暴かれ、そのたびごとに遺体のさまざまな部位が持ち去られた。その片手はフランコ将軍のもとにあって、常に枕元に置かれていた。
中世初期には、聖遺物を利用することで、政治的権力や世俗的な主導権、宗教上の正当性を高めようとした。聖マルコの遺物をヴェニスのドージェが保管したことで、ローマ教皇の支配力による重圧から都市を解放することができた。
1981年、エルサルバドルのエル・モソテ。町の人口がほぼすべて命を落とす。わずかな生存者だったルフィナ・アマヤの証言をもとに、フォトジャーナリストらが報道すると、でっちあげとの激しい非難にさらされた。11年を経て死者たちの遺骨が真実を明らかにした。
「死を受け入れるために、そのあかし(遺体)を求めることが必要。…これら死の確証がないのに別れを告げることは、死者を見すてたとの罪悪感を遺族に抱かせる。…小さな骨の破片でも見つけることができると、死の確証につながることに喜びを感じる」というのは、航空機事故などにも言える。グアテマラで家族を殺されたマヤの女性たちが遺骨をさがしつづけたのもそのためだった。
死者たちの腐乱描写である「死の舞踏」のイメージは14ー15世紀のヨーロッパで流行した。。シチリア島に着いた船から1347年にヨーロッパ全域を襲った黒死病(腺ペスト)は人口の3分の1を奪い去った。
「腐敗した死体は悪臭を発して隣家に死んだことを知らせた。町のあちこち至る所に死体が散在し、四方八方が墓場と化した」
「暴徒化した人々によってヨーロッパ中でユダヤ人が虐殺された」
「彫刻家たち野なかから、雇い主を骸骨の姿や腐乱した裸の死体として彫りはじめる者が出た」
これらの彫刻は死の前の平等を示しているという。
メキシコの「死者の日」はカトリックの「諸死者の記念日」「諸聖人の日」にあたるが、その慣習や骸骨の図象は、スペインによる征服以前からの文化に根ざす。スペイン人は、病原菌を持ちこみ、先住民たちの人口のかなりの部分が一掃された。初期の植民地メキシコで死の図象が育まれた背景には、「死の偏在」があった。
筆者は自らの死後について、今まで訪ねた世界のあちこちに遺灰をまいてほしいという。
「私が喜びを感じるのは、私の遺灰が他の誰かにとって新しい冒険のきっかけになるかもしれないということ。…そう考えると、自分自身の命を超えた世界を思い描くことができて大きな意味を感じる」
筆者は旅路の終わりに、人は次の世代のためにこそ生きているという結論にたどりついたようだ。
「亡くなったことを嘆くよりも、生前に故人がしてくれたことに感謝して生きることを私は好む」という言葉も印象深い。強い人だ。
□プロローグ
▽22 無宗教でいることは人生の終わりに際してなんら道案内もないということだ。人は宗教的な束縛や伝統的な社会の制約に不平を言うが、僧とはいえ死に際に際しては2,3の決まり事があれば何かと便利である。
□嘆きの儀式 イラン
▽30 タァズィーエという歴史劇。最大の見せ場でおおいに泣くことが奨励される。
…イギリスにおける死に対する態度はストイック。船が海中へと沈む直前までデッキで演奏をつづけたタイタニック号楽団員。…イギリス人は悲劇に際して感情を抑え込むことが多い。
…誰かが亡くなると、私たちは1杯のお茶を入れる。遺族に「少し休みなさい」と声をかけて励ます。…葬儀では、鳴き声を上げるのではなく、できるだけ静かに涙をぬぐう。
…父が亡くなったときに私は泣いていない。私にとってもっともつらい時間は、父の闘病中だった。
▽39 シーア派はなげきの宗教。ペルシャの伝説と詩歌の根幹にあるのは喪失の悲しみ。
▽41 死者儀礼に哀歌を用いる伝統は、アイルランド、ギリシャ、ロシア、中国にまで及ぶ広い地域を特徴づけた。…言葉と音楽は表現不可能なものを表現した。「涙の思想化」…儀式化することで極度の感情を抑制し…様式化は感情に形を与えるが、同時に、苦悶が歯止めなくなることへの防止策にもなる。形式的でありながらも、絶妙な即興制を発揮する悲しみの表現。
▽45 芸術性を通して死を美的なものへと転化させることで、哀歌はありふれた喪失の痛みをより意味深いものへと、おそらく究極的には、受け入れられるものへと変える助けになる。…葬儀に哀悼者を雇い入れる
▽52 泣くことは苦しみを軽減する方法である。…泣くことで上昇した心血管圧が泣き止むことで緩み、そのことが鎮静効果を生むとも考えられる。
▽53 イギリス人は「極度に激しい悲しみに襲われたとき以外はめったに泣くことがなく」、大陸ヨーロッパでは「男性がはるかに簡単に、自由に涙を流す」(ダーウィン)
▽56 ギリシャの新興中流家庭に育った若い女性のあいだでは、「哀歌は地方の後進性や迷信を象徴する恥ずかしい行為だと考えられている」
ビクトリア朝のイギリスでも、一度は一般的だった感情のままに悲しみを表現する伝統が最終的には廃れていった経緯がある。その伝統は、18世紀末に起きた芸術や文学、思想的な動きであったロマン主義にくわえて、福音主義キリスト教の広まりとともに発達したものだった。…感情を表に出すことは奨励すらもされていた。…作家ジョージ・リトルトンは1857年に妻を亡くしたとき、何日も止めどなく泣きつづけて…
しかし世紀の終わりに近づくにつれて、福音主義とロマン主義の影響は影を潜め、一方で医学の進歩が、急激な死亡率の低下をもたらした。その過程で、悲嘆の感情をさらけ出すことが許容されなくなる。その過程が「男らしく力強い態度を信条とするパブリックスクールの特質によって加速された」…この男らしい自制の態度こそ、私の父の世代が死を前に見せる反応を形づくったものである。
▽65 泣くことは…父の闘病中のつらい時期、確実に私を助けてくれた。けれど…「亡くなったことを嘆くよりも、生前に故人がしてくれたことに感謝して生きる」ことを私は好む。
□炎の陶酔 バリ
▽68 世界でもっとも洗練された葬送伝統。…葬式というよりカーニバルのよう。紙と竹材でできた巨大な山車が遺体を薪山へと運び、太鼓が響き渡り、行商人が軽食と飲みものを売り歩く。…葬式が観光客を集める…
…死者の魂をこの世の拘束から解き放つべく、笑顔と喜びを演出する。幸せな終着点であり、晴れやかな出発点でもある死。
▽73 庶民は簡単に土葬しておき、いつか火葬によい機会を訪れるのを待っていた。王族と同時に火葬されることは縁起がよい…墓を掘り起こし、骨を洗う儀式をして…
▽80 バリはヒンドゥー教徒。牛を神聖の生き物として崇拝。インドと同じく火葬慣習を取り入れた。
▽93 バリにおける火葬はヒンドゥー教の浸透以降だが、…他の地域では石器時代にまでさかのぼる。ローマ人も、仏教もヒンドゥー教も古代の教典に火葬を記している。
…初期のヨーロッパのキリスト教は、火葬を原始的な異教徒の慣習とみなし…西欧では5世紀以降支持されなくなる。なによりも肉体の復活というキリスト教の中心的な教義に反していた。
ふたたび注目されるのは19世紀後半。産業革命により新たな技術が生み出され、人口の増加が墓地不足と疫病の蔓延に対する不安に火をつけた。
▽97 アメリカの一般市民も火葬を受け入れるのに時間がかかった。…今日では35%が火葬されており、2025年までには60%に上ると予想。イギリスは国民の70%が火葬を選んでいる。
▽102 インドのバラナシの火葬 最大の火葬地マニカルニカー・ガート。毎日何百もの遺体が火葬に付される。…死ぬ前にバラナシを目指して旅してきた人々のホスピス。…十分な薪を調達できなかった人々は、部分的に焼け残った遺体をガンジスに放たれる。
▽111 バリ 燃え残った遺骸。巨大な工業用バーナーで焼く。
□シチリア、死の展示
▽114 カタコンベ 8000体を超えるミイラ化した遺体。死者の展示コレクション。
▽121 葬儀から遺体の存在感を消してきたイギリスが母国の私にとって、違和感のある慣習のひとつが、アメリカで見られる遺体を公開する葬儀。防腐処理を施し…展示させるやり方…率直に言って不気味に映る。…晴れがましいまでの死者の展示は、私からすれば世界でももっとも風変わりな葬儀法のひとつ。
…イギリスの友人で、棺蓋を開けた遺体との対面を経験があるのは、今のところ1人だけ。
▽131 エンバーミング
▽140(ユーモアにあふれた父の死)私にとって衝撃だったのは、死というものが苦痛に満ちて尊厳を失わせるという、陰鬱で容赦ない現実だけではない。それは同時に、人を絶望に陥れる。父がなくなった日、それは私がもう一度自分のなかで、いつも陽気で機転が利いた、楽天家の父の面影を組み立て直そうともがきはじめた瞬間だった。
▽144 エンバーミングのはじまりは南北戦争。…動脈を利用した防腐処理法、化学薬品の死体への注入。南北戦争初の指揮官レベルの戦死者となったエルズワース大佐の遺体を処置したことをきっかけに評判を高まる。
…1865年にリンカーンが暗殺されると、…防腐保存された遺体を見ようと列をなした。
□ガーナ、夢見る棺
▽155 ガーナ人が世界一すてきな人々。彼らが世界一クレージーな棺をつくる。
▽162 ゾロアスター教徒とパルシー教徒にとって死者を鳥に託すことは大地への信仰を反映したものであり、死体で大地を汚してはならないと信じられている。チベットの人々は天葬の習俗を、肉体を他の生物に布施する、自然界に対する寛容の行為とみなす。
…現代の埋葬は…オリンピックサイズのプール8個分のエンバーミング化学薬剤が毎年地中へと埋められ…
▽174 ガーナで棺を買う。
□香港、来世への餞別
▽214 中国の伝統的社会では、結婚年齢に達する前に亡くなった未婚の女性は祭祀対象にされず位牌は生家から排除される。未婚女性が祖先祭祀の対象に加わるには、夫を見つける必要がある。……道端に赤い手技袋荷入れた「おとりの金」が放置され、男性がうっかりその封筒を拾いあげると、未婚で亡くなった娘の死後結婚の相手に指名されてしまう。…指名された男性は冥婚を承諾するが、同時にまた多額の持参金も動機の一部になる。
▽219 死に対する恐怖は、死後概念をつくるどころか、全世界観を形づくっているとする説がある。宗教、教育、実利性、資本主義、愛国心、芸術、哲学ーーすべては、人は最後には消滅して無に帰するのだという、非情な現実への緩衝材として機能するというのだ。
……「恐怖管理(TMT)理論」によれば、人間存在の中心には死に対する潜在的な不安があり、文化や世界観、行動の多くを動機づけるという。
……この世を去るやり方には、私たちが人生の儚さに対して抱く不安が大きく表現される。
□フィリピン 豚を育てる
▽234 バナウエから近いサガダ。イゴロットと総称される少数民族。かつては首狩りも。
……埋葬用の布に包まれ、胎児のような姿勢に縛られた遺体は、谷へと運びおろされる。そこで木の棺に納められ、そのまま崖から吊り下げられるか、切り立った岩の森にうがたれた、岩の裂け目や洞窟のなかに据えられる。
▽242 故人は椅子に座った姿勢になるよう縛りつけられる。体液の流出を防ぐために口を樹皮の帯紐でふさいで…鼻腔と耳に綿が詰められる。
…友人知人や隣人はたんに弔意を表すためではなく、死者に語りかけて最後のあいさつをかわし……遺体に向かって恨み辛みを大声で晴らすためにやってくる。
▽247 石灰岩の崖…岩壁に打ちこまれた釘に支えられた棺の数々が、劇的な様子でぶら下がっていた。…「私たちは死者を訪ねることはしないので、棺に名前など必要ないのです」
▽251 サガダではほとんどの世帯で豚を育てる。豚は儀式用。
▽254 サガダでは、配偶者に先立たれた人はのけ者のように扱われる。…多くの場合もっとも苦しむのは女性。
…インドでは、古来の因習にサティー(寡婦殉死)があった。亡くなった夫の火葬に際して妻自身も火中に身を投じることが求められた。ラジャスタン州のジョードブルにその痕跡。
フィジーでは追悼行為として、会葬者たちが指先を切り落とした。フレーザーによれば「非常に一般的におこなわれた慣習であり、ごく最近までと血の年配者には手が無傷の人がほぼ見られないほどだった」…酋長が亡くなると、亡き夫の体を守るクッションの役割を果たすべく、妻もまた絞め殺されてゾゾ(草)として用いられた。
▽257 ガーナ人にとっての葬式は、自らの富を示す機会。…パーティーの資金を集めてまわる時間を稼ぐためには、遺体を冷凍保存する。…それが長期に及ぶほど盛大なパーティーへの期待を高めることになる。
▽262 共同体全員が熟知した手順を通して、死によって生じた混乱に社会的な秩序がもたらされる。
▽269 サガダ だれもが遺体を運ぼうと競い合い、…遺体から流れ出た血や体液が担ぎ手につくことは幸運をもたらすと信じられている。
▽270 西欧に置いて死への共同体の関与がもっとも残されているのは、ユダヤ教徒に伝統的な「シヴァ」の期間。近親者が7日間喪に服して自宅にこもる慣習は、やがて一周忌を迎えて墓に墓石が設置されるまでつづく、長い一連の儀式の始まりとなる。
□カルカッタ、植民者の眠り
▽292 中国人 遺体が故郷にもどされて、親族が清明節などに墓参に訪れることがないかぎり、死者の魂は来世に渡ることができない。…19世紀アメリカの中国移民は、アメリカの地で埋葬されてから後に、旅の資金が用意されるのを待って故郷に送り出された。…骨は洗浄されたあとに亜鉛メッキの容器に入れられて船に積み込まれた。
▽295 先住地から収奪された考古学的資源に対するアメリカインディアンの権利は、1979年の考古資源保護法によって認められた。墓地の尊厳という、すべてのアメリカ人が教授する保護が実現されるのは1990年。アメリカ先住民墓地保護返還法は、とりわけ連邦政府から助成を受けた博物館に対して、遺骨及び葬具品をはじめとした文化財をその子孫へと返還すべきと定めた。(アイヌ〓は)
▽302 アメリカの戦死者は空輸されている。…
…本国送還。ラ米からの移民を対象にした金融サービス。50ドル払えば、遺体の本国送還を5年間保障する「証明書」を購入できる。
▽307 父は友人の眠るドーセットへの遺灰の散布を願った。
▽323 父の遺灰をポリ袋でまく。(〓日本とは違うなあ)
□骨そして骨 チェコ
▽330 クトナー・ホラ近郊のボヘミアの墓地教会。セドレツ納骨堂。骨が強烈な装飾品に。シャンデリアだけでも人体のすべての骨を用いている。
▽333 1511年、墓地が限界になり、一部の骨を掘り起こし、積み重ねて6メートルほどのピラミッド形にした山を6つ作り…1860年、積み上げられた何百万もの人骨から芸術的な内装装飾がつくられた。フランティシェク・リントに依頼。
▽336 「人体の世界展」…
死体は強い象徴性を持ち、多くの宗教儀式に用いられた。古代のマヤ人は人骨を使って祭祀用具をつくった。チベットの人々は大腿骨から角笛をつくり…
▽342 中世のヨーロッパでは、墓地に新たな場所を確保するため、骨を掘り起こして納骨堂や死体安置所に保存するのが通常だった。…イギリスのハイスにある聖レオナルド教会には、2000の頭蓋骨と8000本の大腿骨が整然と陳列されている。
…あずかったものを独創的に利用する人々も。ローマにあるカプチン派修道会地下納骨堂は18世紀の修道士が制作したと考えられる作品で飾られ、骨盤の骨はバラ飾りに、脊椎骨は花冠へアレンジ。ポルトガルのエヴォラの「人骨の礼拝堂」は、教会の壁を飾るように戦争や疫病の犠牲者と考えられる5000体の人骨が埋め込まれている。
ヨーロッパ最大の人骨の集積所はパリのダンフェール・ロシュローの地下にあり、そのカタコンベ(地下墓地)は第14区の地中20メートル以上不覚に横たわる。600万の人骨が数キロにわたる地下通路の壁沿いに積み上げられている。埋葬地問題の破綻から生まれた。…共同墓地の地盤がわれ、住宅の地下室の壁を突き破って死体が吐き出される事態が起きている。…石灰岩採石場跡の洞窟に新たな墓地をつくった。
▽349 死者が生き続ける。…9世紀の教皇フォルモススがローマの墓を暴かれ教会会議にかけられた「死体裁判」。有罪判決を受け、3本の指が切り落とされ、遺体はテベレ川に流された。
フランス革命では、王族の遺体もまた断罪の対象になり、王家の墓所だったサン・ドニ大修道院が破壊され、埋葬されていた遺体が近くの穴に放りこまれている。
…16世紀にペルーに上陸したスペイン人は、あまりに強固な死体崇拝を前に、キリスト教へと改宗させるに先立って王族のミイラを破壊する必要を感じた。この破壊はアンデスの人々を絶望させた。(人々は毎年ミイラを陵墓から出してクスコの中央広場に並べ、食べ物や飲みものを供えるとともに祈りを捧げていた。)
イギリスの哲学者ベンサム。骨格が保存去れ、スーツを着せて、生前に愛用していた椅子に座らせたものをケースに安置するよう指示。彼の「自己標本」はいまも鎮座している。
…死後にもつづく生の形があるのだと、信じこみたいだけなのではないか。
▽356 聖遺物 遠隔地に布教する強力な道具に。
…フランシスコ・ザビエルの遺体はいくつもの大陸間を運ばれた。1614年に列福を受ける際には、証としてローマに送るために片腕が失われ、、上腕部の骨はマカオにある。1975年にはインドのゴアで10年に一度おこなわれる「聖遺物公開」に際して、つま先数カ所を含めた細部がほかにも失われたと報告されている。
…高名な修道女テレジアは…1582年に亡くなって以来、幾度となく墓を暴かれ、そのたびごとに遺体のさまざまな部位が持ち去られた。その片手はフランコ将軍のもとにあって、常に枕元に置かれていたという。
▽358 中世初期、聖遺物を利用することで、自らの政治的権力や世俗的な主導権、宗教上の正当性を高めようとした。なかでも福音書を記した4人の伝道者の聖遺物。
…聖マルコの遺物をヴェニスのドージェが保管したことで、彼はローマ教皇の支配力による重圧から都市を解放することができた。
▽361 ビクトリア朝時代の人々は故人の証を残すのを好んだ。石膏のデスマスクや手の型取り、遺体撮影。髪の毛は、死者の変わり身として服喪の拠り所となった。
▽366 私は父の遺灰を取り置かなかった。最初のうちはそれを後悔した。
▽367 1981年、エルサルバドルのエル・モソテ。町の人口がほぼすべて命を落とす。わずかな生存者だったルフィナ・アマヤ。息子と3人の娘、夫を亡くした。…殺戮のあとを訪れたフォトジャーナリストのスーザン・メイゼラス。それにNYタイムズとワシントンポストの記者は、でっちあげとの激しい非難にさらされた。11年を経てようやく、死者たちの遺骨が真実を明らかにした。
▽370 死を受け入れるために、そのあかし(遺体)を求めることが必要。…これら死の確証がないのに別れを告げることは、死者を見すてたとの罪悪感を遺族に抱かせる。…小さな骨の破片でも見つけることができると、死の確証につながることに喜びを感じる。
(ロサリーナの苦しみ、それでも再婚した)
▽374 父のいた小屋をおじが再生。「小屋」の再生の機会が与えられたのはひとつの奇跡だったと思えてしかたない。(〓本は奇跡だったのか)
□メキシコ・オアハカ 死者の日
▽377 オアハカ
▽385 「死の舞踏」のイメージは14ー15世紀のヨーロッパで流行した。死者たちのぞっとするような腐乱描写。黒死病がヨーロッパではじまったのは1347年と考えられている。シチリア島のメッシーナ港に着いた船からヨーロッパ全域を襲った(腺ペスト)。人口の3分の1を奪い去った。
…「腐敗した死体は悪臭を発して隣家に死んだことを知らせた。それらの死体やら町のあちこち至る所に死体が散在し、四方八方が墓場と化した」
…暴徒化した人々によってヨーロッパ中で何百人ものユダヤ人が虐殺された。
…彫刻家たちのなかから、雇い主を骸骨の姿や腐乱した裸の死体として彫りはじめる者が出た。…ウジ虫が肢体を這い…。
▽388 …これらの彫刻は、使の前の平等を示している…中世の貴族たちも死の意味に悩み、それを描き出すことで死に向かう覚悟を見せたのだろう。
▽392 メキシコ「死者の日」 11月1日と2日にあたる祝祭期間は、カトリックの「諸死者の記念日」「諸聖人の日」にあたる。しかし、死者の日の慣習や骸骨の図象は、スペインによる制服以前からの文化に根ざす。
…スペイン人は、病原菌を持ちこみ、先住民たちの人口のかなりの部分が一掃された。…初期の植民地メキシコで死の図象が育まれた背景には、「死の偏在」があった。
▽408 父の声のテープ。父を亡くした歳の苦しみがまたよみがえる気がして、聞くことがなかった。その声をふたたび耳にしている。涙がこみあげそうになる。けれども…とてつもない幸せを感じた。そっくりの叔父を見つめながら考えたのは、私たちは死者を訪ねることができると言うことだ。同じ遺伝子を受け継ぐ人々を通して生きているのだから。
□
▽414 エンバーミングは拒否したい。地中に埋めるのもやめてほしい。あまりに大量の腐乱死体を見てきた。火葬は環境にやさしいものではない。…アルカリ加水分解は驚くほど環境にやさしい。
▽421 フィリピン・サガダのエコーバレー。セントジョセフ・レストハウスの「アンドリュー」と呼ばれる部屋がおすすめ。
オアハカのアバストス市場。
パキスタン北部、カリマバードのフンザヴァレー。
▽424 私が喜びを感じるのは、私の遺灰が他の誰かにとって新しい冒険のきっかけになるかもしれないということ。…そう考えると、自分自身の命を超えた世界を思い描くことができて大きな意味を感じる。(遺灰を世界のあちこちにまいてほしい)
…電源が切れたあとでも、少しだけまだ電気の火花を散らすことができるかもしれないという考え方。このことをもって、命をつなぐことなのだと考えたい。
▽430 人はみな失われた命の傍らに生きていることを考える機会になった。
□解説
▽432 世界の人々が「人の死」をどのように扱ってきたのかというフィールドワーク。
死んだ後は「有機物」と言い切っていた父が、なぜ「遺灰は旧友たちが眠るドーセットの村の教会の墓地に」などと通過儀礼のようなものを重要と考えるようになったのか。生と死の絆の意味を求めて、葬送のかたちを訪ねる旅に出る。
イラン 涙を流すことの効用を整理する。 バリは炎の陶酔。バラナシは工場の生産ラインのよう。
シチリアのミイラは遺体修復技術のエンバーミングを思い出さずにいられない。ミイラはアメリカ的なエンバーミングにつながっている。
…世界のどこであれ、遺族が喪失による衝撃と感情的な緊張状態から通常の生活に戻るまでの時間を、どのような形で確保するかが一番の問題なのだ。
チェコの墓地教会。骨がもつ意味を考える。パリの地下のカタコンベ。
サラは旅路の終わりに答えを得た。人は次の世代のためにこそ生きているのだから。
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