■新潮社 20210201
綿密な取材と想像力で、空海が生きていた時代の風景と空海の人間くささを再現する。
たとえば奥の院のあたりは川の流れる湿地だったが、開創200年後に伽藍焼失に備えて材木を供給するためヒノキが植林された。
空海は「思い込んだら一直線」の息苦しいほど生真面目な堅物だったという。
空海は圧倒的な才能と共感力と直観力、集中力をもつ天才だった。修行で体感したことと頭で学んだ教えとを融合して、密教の神髄をきわめた。
インドから中国に伝わった密教には、善無畏が伝えた「大日経」系と、不空が伝えた「金剛頂経」系の二系統がある。その胎蔵と金剛の両部を統合したのが長安の青龍寺の恵果阿闍梨だった。空海は恵果の後継者とされた。
空海が唐で学んだ密教の修法は、最先端科学だった。
天皇や貴族たちも、その秘儀を目の当たりにして密教の験力を体感した。その修法の見事さがあったから空海は短期間に栄達をきわめた。
空海は、世界の根本原理である大日如来を、言葉で分節し、体系化しようとも試みた。言葉で世界を言いあらわすというより、言葉で世界を強引に創造するという空海にしか成し遂げられない荒技だった。文字を単なる情報伝達の道具ではなく、存在そのものととらえた。文字と声が世界の発生原理であり、世界そのものだと解き明かした。
空海の曼荼羅とは、身体体験の装置であると同時に、そういう体験があるという保証書であり、さらにはその体験が即ち即身成仏であることの証明だった。
満濃池などの最先端の土木作業や、日本初の庶民教育のための私立学校綜芸種智院創設も彼のカリスマ性ゆえに実現させることがでいた。
一方、真言宗は彼一代で完成してしまったために後継者が育たず、天台宗に後れをとることになった。だから、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮の鎌倉六宗はいずれも天台宗の僧たちによって開かれた。
空海没後宗派が勢いを失うなか、宗祖の神格化という奇策が生まれた。身体技法の実践である密教は、浄土信仰のようには民衆に浸透するものではない。空海を失った真言宗は、弘法大師を尊格とする庶民信仰を取り入れた。
994年に高野山がふたたび荒廃した際は高野聖の勧進によって再興した。聖たちが念仏を持ちこむことで高野山に浄土信仰が根をおろした。高野浄土は「阿弥陀の極楽浄土」「弥勒の浄土」になり、真言密教の道場というより、死後の安寧を約束する霊場として日本中に認知された。
高野聖は、高野山と弘法大師を1200年生き延びさせた最大の功労者だった。無名の聖と民衆の尽きない信心が弘法大師に乗り移り、庶民に親しまれる「御大師さん」を生みだした。
ハンセン病患者の存在も大師信仰を根づかせる力になったという。故郷を追われた患者たちは四国への死出の旅に出た。患者たちの歴史が終わるとともに大師信仰もまた消えようとしているという。
▽6 阪神大震災 信心に無縁だった人間が突然、仏を想った。人間の意思を超えたもの、言葉で言い当てることのできないものに直面し、そのことを体に刻んだ。
▽17 高野山の空気は晴朗で明るく…約20万基の墓や供養塔がひしめく奥之院も…墓地の陰気さはない。…この世のものでない冷気に包まれ、浄土とはこういうものかと震撼させられる。
▽23 1200年前の高野山。奥ノ院のあたりは川の流れる湿地だった。…開創200年後にはヒノキの植林がおこなわれた記録があり、伽藍が消失したときに備えて材木を供給するための造林は、国有林を含む山々のほぼ全域に及ぶ。
▽28 義江彰夫の「神仏習合」によれば、(奈良時代後期から平安時初期)貴族や豪族たちは、私的所有の概念を持たない古代の共同体意識から離れ、所有と支配の意識に広く目覚めた。このことが罪業の意識を生み、所有はしても記者薬用に励めば救われるとする仏の教えに、飛びついた。
さらに、私的所有が農村に広がるにつれて、土着の神々も仏への帰依を求めはじめる。雑密の僧たちが、諸国で神々を仏道に引き入れ、菩薩にしていった。
▽35 「谷響を惜しまず、明星来影す」荒行で超能力的な記憶力が得られるのか。宗教ジャーナリストの藤田庄市氏「行とはなにか」によれば、近代以前の日本人は「色心不二」であり、心と体は明確には分離していなかった。苦行によって神仏と合一し、特別な験力を得るという発想。行の過程で神仏の姿を見たりするのは、けっして珍しい話ではないという。
▽42 明星の体験そのものからなにがしかの仏教的直観を得たのではないか。
▽55 長安の青龍寺で空海は密教を授かる。インドから中国に伝わった密教には、善無畏が伝えた「大日経」系と、不空が伝えた「金剛頂経」系の二系統がある。その胎蔵と金剛の両部に通じ、これを統合したのが恵果だった。その恵果が伝承すべき弟子として空海を選んだ。
▽58 大日如来の絶対の慈悲を説く「大日経」(胎蔵界)と、大日如来の完成された知恵を説く「金剛頂経」(金剛界)のふたつがひとつに止揚される。…密教において二つが一つに止揚されうることに、空海は衝撃を受けたのではないか…止揚という発想…
▽空海は、従来の大乗仏教を「顕教」と呼び…顕教では、悟りを開くまでに途方もない時間が必要としているが、密教は今生きているままで悟りを開くことができるという「即身成仏」の立場をとっている。
▽62 空海は、唐滞在について個人的な雑文は一つも残していない。天台僧円仁が「入唐求法巡礼行記」を記したのとは大違い。(日本人によるはじめての本格的旅行記)
▽63 空海は「思い込んだら一直線」息苦しいほど生真面目な堅物であったのでは。
▽71 唐で目の当たりにした密教の修法は、最先端科学だった。…目もくらむような秘儀だった。…しかし天台教学の探究に生涯を捧げた最澄には、経論よりも身体体験としての修法こそが密教の神髄だという一点が理解できなかったのではないか。
…天皇や貴族たちも、めくるめく秘儀を目の当たりにしてまさに密教の験力を体感したことだろう。…空海の短期間の栄達は、その修法の見事さが評判になったこと意外に考えられない。
▽74 空海は、世界の根本原理である大日如来を、言葉で分節し、体系化する試みも空海は捨てなかった。…言葉で世界を言いあらわすというより、言葉で世界を強引に創造してしまうといおうか。だれも経験したことのない密教の世界が、空海の言葉で開かれるのである。
▽79 漢訳すると意味が欠けてしまうので、梵字そのものを学ぶべし(お経のなかにも)。…文字を単なる情報伝達の道具ではなく、存在そのものととらえたのが空海である。文字とそれを口にするときに生まれる声が世界の発生原理であり、世界そのものだという驚異的な発想も、身体体験が根本にあるのはまちがいないが…それを体系的に解き明かしたのが「声字実相義」などである。
▽86 密教は身体体験と直観の宗教である。
▽95 空海の曼荼羅とは、身体体験の装置であると同時に、そういう体験があるという保証書であり、さらにはその体験が即ち即身成仏であることの周到な証明なのである。
▽96 社会事業家としての空海。満濃池や綜芸種智院創設(日本初の庶民教育のための私立学校)。
▽107 空海の活躍の場、真言密教の根本道場は、高野山よりも東寺だった。…唐からの経巻や法具や仏画を金剛峯寺ではなく東寺におさめた。
▽110 弘法大師の諡号が死後87年目に送られたことを見ると、その名声は早い時期に一時下火になったと考えられる。
…真似のできない身体体験の深さ、絶対的な宗教的確信、圧倒的な加持祈祷の力。真言密教とは、空海のような天才をもって初めてきわめられる世界なのでは…弟子たちにはその力がなく……滅罪の法華経と国家護持の密教の融合に成功しつつあった天台宗に水をあけられたのである。
…空海亡き後、空海が打ち立てた真言密教の探究はおろそかになった。最澄亡きあと、弟子たちの手で天台教学の深化がつづいた比叡山とは大きなちがいである。
…高野山大学の若手研究者たちは空海入滅から100年間を、空海の残像が高野山から消えてしまった「暗黒の100年」と呼んでいる。
…入滅後80年ほどで高野山は無人となって荒廃し、919年に東寺の末寺に成り下がる。
▽114 910年、東寺は空海の神格化を急ぐ。空海の肖像を灌頂院の本尊にして御影供をはじめる。真言密教の変節。
…御影供が教団の結束を固めたことで、入定留身説が生み出され、空海=真言宗宗祖とする出発点となった。空海ははじめから宗祖だったわけではないのだ
…空海は弘法大師になることで、ますます生前の実像や著作から遠ざかり、ひたすらありがたい尊格になってゆく…
▽115 浄土信仰がなければ高野山詣での流行もなかった。高野浄土は「阿弥陀の極楽浄土」「弥勒の浄土」になっていった。
▽117 南無阿弥陀仏 死者の供養と滅罪による来世の安寧が、中世を代表する祈りの一つのかたち。
…994年に高野山は二度目の荒廃。この時代、寺社の建立には聖たちの勧進が欠かせなくなっていた。…聖たちが念仏を持ちこんだことで高野山に浄土信仰が根をおろし、その浄土を、弘法大師の入定留身がさらにありがたいものにしてゆく。
▽高野山は真言密教の道場というより、死後の安寧を約束する霊場として日本中に認知されていた。それゆえに宗門としての格式は天台宗にゆずることに。
▽120 消えずの火の信仰は、羽黒山や立石寺、厳島の弥山に見られる。…弥山の消えずの火も、明らかに祖霊信仰と結びついているのであり、密教本来の儀礼ではない庶民信仰として、広く受容されてきた。
▽126 聖の隆盛は、律令制の終焉で、寺の経済的基盤を勧進に頼らざるを得なくなった時代状況の変化が大きな要因。
▽127 高野山では、学侶は金剛峯寺(壇上伽藍)、聖は奥之院の御廟の管理という棲み分けが成立していた。
…源平争乱期に高野聖は専修念仏の色合いを深め、平安末期にはじまった高野納骨とあわせて高野山は念仏一色となった。
…高野聖は、高野山と弘法大師を1200年生き延びさせた最大の功労者。無名の聖と民衆の尽きない信心が弘法大師に乗り移り、庶民に親しまれる「御大師さん」を生みだしたのではないか。
▽130 不動明王 曼荼羅の尊像や彫像として日本に講来したのは空海。
▽135 成田山 車のお祓いで有名。大阪別院明王院が車のお祓いの発祥〓。
…成田山も川崎大師も新義真言宗だから、古義真言宗の高野山で禁じられている太鼓などの鳴り物を、法会でさかんに使う。
▽138 四国霊場はハンセン病患者が物乞いをして歩く遍路道だった。
「四国遍路の宗教学的研究」(星野英紀)
▽142 お接待は、大師への喜捨という側面もさることながら、地元の人々もまたある種の高揚感に包まれていると考えるほうがわかりやすい。…キリスト教の巡礼者をもてなすホスピスの宗教的献身と比べると、素人っぽい善意の高揚が見られる。
…四国で大師信仰が盛んなのは、いち早く巡礼の仕組みが整備されたことが大きいように想う。
▽151 真言宗豊山派の本山は東京の護国寺。弘法大師の存在がほとんど消えてしまった例。
▽168 ハンセン病 施設に送られると真っ先に宗教を尋ねられた。無宗教の人も必ずどれかの宗教を決めるよう強制されたのは、葬式の宗派を事前に確認しておくためだった。
…「法華経」の「ひ喩品」に「癩」が登場する。これによって長らくハンセン病を業病と受け止めてきたとされる。
患者たちは、病気平癒の祈願と物乞いのために日蓮宗寺院の周辺に棲みついて集落を形成した。なかでも熊本市の本妙寺は有名。
…大師信仰は、ハンセン病患者がいてこそ息づいてきたのではないか。療養所ができる前、故郷を追われた患者たちが、四国を目指して死出の旅に出たとき口ずさんだのは弘法大師和讃の「業病難病受けし身は 八十八の遺跡に よせて利益を成し給ふ」であろう。
…元患者たちの歴史の終焉とともに弘法大師も退場してゆく…深い信仰も消滅…
▽177 天台宗は新仏教のゆりかごになった一方で、真言宗は空海が完成させた体系をほとんど更新することがなかった。天台宗で法華経と密教を競技的に融合させたのは、最澄ではなく円仁や安然らだった。天台教学の尽きない変遷と深化は最澄以来の伝統。すべての顕教をのみこんで障りなしとした空海と対照的。「何でもあり」と「細部へのこだわり」のちがい。すべてを包含してみせた真言密教は大胆な進化を停止した。密教の教えは論理からの跳躍を求めるゆえに、論理の脆弱性を免れ得ない。論理を超越したものは論理によって批判されることもないかわりに、大きな変化や革新からは孤絶する。
▽187 最澄は密教を学び尽くせなかったから、弟子たちがそれを一生懸命勉強する前向きな姿勢があったのに対し、真言宗は空海が完全にしたので弟子たちがサボってしまった。
▽188 東日本大震災などを目の当たりにすると、信心のない人間でももはや言葉の論理で太刀打ちできないのを痛感します。理屈を超えて身体中で悲しむこと、共感すること、受け入れること、向き合うことができるのは、宗教だけです。
…いのちがつながっているという思想は宗教にしかない。
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