■角川書店 20200609
自分に自信が持てず人に振りまわされ、生きづらさや自己否定におちいってしまう人は「わがままな自分」になることで新しい人生を生きられるようになる。そのためのカギのひとつが自分と他人を分ける輪郭「心の境界線」という。
幼少期に愛情を欠いて育つと大人になって問題を起こしやすいことや、夫婦や恋人などの関係では過去の親子関係が再燃しやすいこと、アルコールや薬物中毒における共依存については齋藤学らが30年近く前から論じていた。
この本は「心の境界線」に焦点を当て、カウンセラーとしての経験をもとに具体的に乗り越える手法を示しているところに新しさがある。
たとえば「話すことは、思いを手放す意味もある」という。心の苦しみだけではなく、物理的な痛みでさえも表現によってある程度コントロールできることは個人的にも経験してきた。
「今、ここ」を感じる呼吸法と発声法も共感できる。呼吸を意識しながら長距離を歩くと、自分の体の隅々の動きをまれに感じとることができる。腹の底から歌ったり読経したりするとき、「今、ここ」に集中できる。それらを心理学で説明できることにも驚いた。
では私自身の今と、この本がどうかかわってくるのか。
もともとわがままで、人に振りまわされることはほとんどない。腹が立つことも少ない。相手がめんどうなら逃げればよい、と割り切っている。筆者の言葉でいうなら、良くも悪しくも「境界線をコントロールできている」ってことなのだろう。
また、夫婦でも親友でも、理解できない部分があるのはあたりまえ、と私は思っている。これは独身時代にさんざんふられてきた経験が生きているんだろう。
ユングが言う「中年の危機」については、仕事がいやでたまらなかった30代後半に何冊かの本を読んだ。
ユングは中年の危機を、自分の内面を充実させる時間=無意識を探求していく重要な時期と位置づけているという。
当時「無意識を探求」した記憶はないが、ムラおこしを単なるイベントの連続ではなく、そこに住む人たちの集合意識のようなものを通して眺めるようにはなった。宮本常一の影響だろう。ただ「豊かさを秘めた心の変容」が自己実現につながったか? と問われると、取材のレベルは深まったが、決定的な変化があったようには思えない。そういう意味では今が一番の危機なのだろうけど、これは「中年の危機」ではなく、だれもが経験する「老年の危機」の先取りにしか思えないな。
さらにユングは、自分の身に起きたことは、これから起きる何かのための必然であり、未来につながる可能性の種のようなものである、と言っているそうだ。「どんなつらい経験も苦労も前世の自分が人生に課した課題である」と書く宗教家がいるが、それに近いことをユングも言っているのか。そう信じられたらどれほど救われるかと思うが、「ではヒトラーのおこないや、アウシュビッツで殺されたユダヤ人の運命もまた自らが人生に課した課題なのか?」と問うと、「必然」や「運命」を安易に信じることはできない。
「信頼できるパートナー、家族の存在は、自分自身を現実に根づかせる土台である……親しい相手との関係性自体が、無意識の世界に触れながら、同時に、現実へしっかりもどしてくれる安全基地である」というのは実感としてそう思う。ただそんなパートナーが消えてしまった時はどうなるのか。
筆者は「バルネラビリティ」という考え方を提示する。「弱くありながら、ありのままの自分をひらく強さ」「弱さをオープンにしながら、その状況にとどまれる強さ、傷つくことへの勇気」という。ボランティア活動のあるべき姿を論じるときにバルネラビリティという言葉はよく出てくる。
強さよりも弱さの共有こそが共感を生み出す。明るさよりも悲しみの方が共感の土台になる。そこに死や悲しみの意味が見出せるのかもしれないなあと思う。
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