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四国遍路とはなにか<頼富本宏>

■角川選書20200423

 古代から現代に至る遍路の変遷がよくわかる。大師堂と本堂を参拝するという作法は実は第二次大戦後にできたというのには驚いた。

 修行者だけが歩いた辺地修行の道は四国だけでなく、伊豆大島や能登半島にもあった。海洋信仰が起源だという五来説に対し、空海の実践した求聞持法などは海洋信仰だけではなく、大自然の難所で心身を浄める「浄行」が原型になったのではないか、と主張する。

 平安時代末頃から、観音信仰と神仏習合信仰をそなえた西国観音巡礼と熊野参詣が定着する。もとは別個の信仰だった熊野三山は仏教化によって「三山」として合祀されるようになる。
 源平の争乱で熊野水軍が源氏に与したことで、瀬戸内海を中心に熊野信仰が広がり、鎌倉時代前期には四国に熊野信仰が流入したらしい。熊野修験によるネットワーク化が八十八カ所の原型の一部を形作ったと筆者は見ている。
 海洋信仰の一形態である古代の水葬と結びついた補陀落渡海は熊野と共通している。足摺岬や室戸岬だけでなく、志度寺も水葬の霊場だった。崇徳上皇は志度浦で水葬に付され、その霊を白峯寺にまつったと考えられるという。石手寺は山号が熊野山で四国最大の熊野信仰の拠点だった。石鎚山中には36王子が現存している。「発心、修行、菩提、涅槃」と、四国遍路を胎蔵曼荼羅になぞらえる解釈も、熊野信仰から伝えられたらしい。一遍上人も熊野信仰の影響を受けているから、衛門三郎の再生と位置づけられたという。ちなみに郷照寺は札所で唯一の時宗寺院だ。
 平安から鎌倉にかけて、点在していた辺地修行・求聞持法修行の行場が寺院化し、神仏習合を特徴とする熊野信仰や、観音信仰と海洋信仰が融合した補陀落信仰、弘法大師の遺跡巡拝などの要素が加わって内容を豊かにしていった。
 衛門三郎伝説ができあがった中世中頃には、大師信仰が中軸となったという。
 遍路のハードルを下げる遍路道の整備を最初に手がけたのは江戸初期の宥弁真念だった。標石を建立し、宿泊施設をつくり、ガイドブックを出版する。この出版物ではじめて「○○番」という番付けが採用された。
 遍路の大衆化が進むと、「職業遍路」が大挙して流入する。身体的ハンディや病気をもつ遍路は乞食遍路とともに「ヘンド」と差別された。病気遍路の風習は昭和40年代の高度成長期までつづいた。弥谷寺の本堂には多数のギプスが、平等寺や栄福寺には「イザリ車」(箱車)が奉納されている〓。

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▽9 本堂と大師堂の2回の勤行は西国33所観音巡礼との違い。しかしこの「2回のお勤め」が確定したのは第二次大戦後。
▽25 納経を集めたり、文化遺産を見聞することを求める遍路はある意味で気楽な「明るい遍路」。…「自己変化あり」の遍路。…祈りのための遍路。寺で遍路希望者を募る際、新規参加申し込み者には、身近な家族や友人を喪った人である場合が非常に多い。
▽34 平安時代には、遊行者のグループがあった。正式に出家する前の空海のような優婆塞(うばそく=在俗仏教者)であった可能性がある。
▽39 奈良朝の仏教は、原則として都会型。インドの仏教も、都市の裕福な階層を施主とする都市型宗教だった。
▽47 四国が、熊野(とくに那智・新宮)と並んで、海とのつながりが深いことは事実である。しかし、辺路修行をはじめとし、別種の要素が強い求聞持法までを一概に海洋信仰として説明する説に対してはただちには従いかねる。…役行者や空海などの系譜で知られるように、奈良時代末から大自然の難所で心身を浄める「浄行」が大流行した。これこそが求聞持法や辺路の原型になったのではないか。
▽48 狭義の熊野信仰は、平安時代前・中期、本宮・新宮・那智の神々が神仏習合した結果、阿弥陀・薬師・観音の3種の仏と同一視されるという壮大な習合文化に基づいている。…とりわけ菩薩信仰として突出した位置を得た観音信仰は、熊野三山の制度的成立のみならず、西国三十三所観音巡礼という宗教巡礼システムを生み出した
 辺地信仰にともなう補陀落渡海が盛んにおこなわれたのが熊野。淡島神社のある紀北の加太から南紀の熊野にいたり、さらに伊勢へ延びる長大な海岸線のルートはまさしく「辺路」だった。
 …「王子」は熊野に三山信仰が成立する以前の辺路修行の行場であり、常世の国の遥拝所であった。五来氏によれば本来の祭神は海洋神。
▽52 補陀洛山寺の住職が船出した浜(浜の宮)は、古くから水葬の場だった。古代には沖の山成島と呼ばれる岩礁に遺骸を沈めたとされる。浜の宮に王子が設けられ、山成島を根の国の入口として遥拝した。
 海洋信仰の一形態である古代の水葬と結びついた仏教の補陀落信仰が平安末期には盛んだった。平維盛の入水も、その延長線で考えられるかも。
▽57 足摺岬は東寺(室戸)や熊野と並んで、補陀落渡海の道場としての結びつきがあった。
 …岬で苦行を重ねていた賀登上人が、弟子に補陀落渡海を先んじられたため、足を摺って、地団駄を踏んで泣いたために足摺岬という名になったという。
▽59 行当岬 不動岩。周囲50メートル、高さ15メートルの烏帽子型の巨岩。その手前の広場に不動堂が建っている。
▽61 志度寺も補陀落渡海の行場。琰魔堂や奪衣婆堂があり「死度の道場」としての様相を呈している。
…宮崎忍勝氏は、補陀落渡海の道場であり、水葬の霊場だったとして、崇徳上皇は志度浦で水葬に付され、その霊を白峯寺にまつったのではないかと考える。現在白峯寺境内に隣接して、崇徳天皇白峯陵がある。白峯寺は、海に向かって5つの峰がそびえる五色台の山中。(正、補陀落渡海の文献的記録は存在していない)
 根香寺も千手観音が本尊。
▽67 熊野本宮 「あの世」のイメージと直結する阿弥陀如来
 新宮の薬師如来は現世利益。那智の千手観音。
▽68 鎌倉中期から後期にかけて、分霊が各地方へと勧請・分祀される。源平の争乱で熊野水軍が源氏に与したことで、瀬戸内海を中心に熊野信仰が広がったという研究があり、鎌倉時代前期には、四国に熊野信仰が流入したものと推測される。
▽69 熊野修験者たちが流入したころ、すでに四国は辺路修行の行場であり、同じ辺路信仰を持っていた熊野修験者は深く浸透することが可能だった。
…熊野から四国へのルートは、紀北の友ケ島から淡路島を経て、阿波国に至るものだったと想定される。…さらに西へ…国東半島には、熊野磨崖仏をはじめ熊野信仰の遺跡が残っている。
▽70 石手寺は山号が熊野山で熊野信仰の拠点に。…元の名前は安養寺。「石手寺」の名が初出する13世紀末までには、熊野信仰の場となっていたと考えられる。熊野社も現存。四国最大の熊野信仰の拠点で、衛門三郎伝説の終着地。
 八坂寺も拠点のひとつ。熊谷山となっているが「熊野山」のあやまりだろう。
 前神寺。もと石鎚山の別当寺院。石鎚山中には三十六王子が現存している。
▽74 土佐の金剛福寺 熊野社が近年再建された。
▽76 阿波の地蔵寺 熊野権現の神託による霊薬をつくるなど。焼山寺につぐ阿波国第2の熊野信仰の拠点。熊野修験者や高野聖が自然の霊薬(陀羅尼助など)を持ち歩き、服用を広めたことはよく知られているが、地蔵寺の霊薬がどのようなものかははんめいしていない。
 鶴林寺にも熊野社が現存。
▽80 熊野修験者は、四国の辺路修行の行場のネットワークを形成することで、熊野権現の勢力拡大を図った。これが八十八カ所の原型のある部分となっていったのではないか。
▽86 一遍上人。1274年、妻と娘、下女の3人の尼と遊行の旅へ。全国の著名な神仏霊場と代表的に全国の一宮神社が目的。当時の高野山は密教と念仏の双修の地であった。
 …熊野本宮の証誠殿で「信不信をえらばず…」と熊野権現の神勅を受けた。
 一遍の思想には、常に熊野権現の影響が内在している。それゆえに一遍は、衛門三郎の再生として位置づけられるようになった。
 …多くの念仏遊行者が、一遍の出身地である四国へも流入し、その影響で、四国霊場はさらに多様化・多層化を遂げる。
 …繁多寺で、一遍は7年間学んだ。
 郷照寺はもっとも念仏遊行の色彩が残る札所。唯一の時宗寺院。
 …念仏遊行者の足跡は伊予と讃岐に限られている。
▽95 空海のため池。821年、讃岐の国司から満濃池修築の事業にあたり、別当(監督責任者)として空海を派遣するよう陳情があった。「百姓、恋慕すること父母の如し」(日本紀略)とあり、奈良時代に土木工事や貧民救済に挺身して「菩薩」と慕われた行基の流れをくむ教化僧としての期待があったからにちがいない。
 …空海の入定後、弟子やそのまた弟子たちが、醍醐寺・仁和寺・大覚寺・勧修寺・随心院・安祥寺などの密教寺院を建立。
 …空海の滅後100年あまりして、元来は佐伯氏の氏寺であったのちの善通寺は、平安時代中頃には、空海の誕生所の位置を獲得している。
▽112 十二世紀ごろには(辺地を修行した辺路修行者ではなく)西国観音巡礼の「巡礼者」が四国霊場にも足を伸ばしはじめていた。
▽133 弥谷寺は後世、恐山、臼杵の石仏とともに三大霊場の一つとされる。
▽135 屋島は古来は島。江戸初期の地形は、すでに州のようなものでつながっていた。
▽141 遍路のハードルを下げる遍路道の整備を最初に手がけたのが、江戸時代初期の宥弁真念(〜1691)。真念の出版の後押しをしたのが高野山の学僧・寂本(1630〜1701)
 …四国各地に簡易無料宿泊所「辺路屋」が建立されるようになる。「通夜堂」は札所に建立。真念が建立した辺路屋が真念庵。現在も残っているのは土佐清水市市野瀬だけ。
 …真念建立の標石。四国全土に。…明治から大正時代には中務茂兵衛が233基建てている。
 …ガイドブック「四国遍路道指南」の出版。この出版物ではじめて「○○番」という番付けが採用される。現在の番付けとほぼ同じ順番。本尊の尊名、坐勢、像高、作者などが列挙。西国観音巡礼の史料を見倣ったのだろう。
 …案内書「四国徧礼霊場記」
 …霊験談「四国徧礼功徳記」
▽168 悉曇学の学僧・澄禅の「四国遍路日記」。数十年後の真念・寂本の「四国遍路道指南」「四国遍礼霊場記」「四国遍礼功徳記」のころには八十八カ所の内容と番付が公表されていた。
▽173 大師堂を建立することで、辺路修行の行場が、大師の遺跡へと、さらに移行・発展していくことになった。
 …真念や寂本の功績で修行者のみの参加であった辺路が、一般庶民へと主流層が移動するようになると、大師一尊化が急激に進んだ。大師堂は不可欠なものになり、江戸代初期以降、四国全土に急速に建立された。
▽179 奈良朝後期より神と仏の接近がはじまり、熊野信仰や春日信仰、山王信仰などに代表される神仏習合の世界を築きあげてきた。仏教側からそれを支えたのが、真言宗と天台宗の密教だった。
 …素朴な辺地信仰・辺路修行派、仏教要素である観音浄土の補陀落渡海が中心となる以前の段階があった可能性が想起されるが、黄泉の国という他界の概念はあっても、体系的な神の組織を有していたとは考えにくい。
…各札所本尊や弘法大師は、仏としての普遍的・超越的な存在であるのに対し、熊野・八幡・稲荷などの神々は、聖域を中心としたトポス的な聖性を有するものであり、より現世的・具体的な信仰であった。古代・中世の人々は、このような神と仏の微妙な違いを敏感に感じとり、その違いを生かしながら共存させる知恵を持っていた。(〓なるほど)
▽181 13世紀に時宗を起こした一遍。自己の信仰のみに固執するという態度ではなく、全国廻国中にもいくつもの神社・神祇と結縁している。
…神祇色の濃い札所 1番霊山寺(奥の院 大麻彦権現、大麻彦神社の神宮寺)、13番大日寺(阿波国一宮)、30番一宮(神宮寺 現在の30番は善楽寺)、37番仁井田五社(岩本寺)、41番稲荷宮(龍光寺)、55番別宮(南光坊、伊予一宮別宮)、57番石清水八幡宮(栄福寺)、68番琴弾八幡宮(神恵院)、83番一宮寺(田村神社)
…各地の一の宮は必ず札所のなかに含まれている。
▽185 平安時代後期、西国三十三所観音巡礼が生み出された。秩父・坂東などへも移し観音巡礼は広まる。
 戦国時代末期から、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所の観音霊場を巡る「百観音巡礼」(秩父が提唱)が行われていた。さらに四国八十八カ所を加えて歩く人も。…百八十八カ所巡礼塔は、関東全域および信濃各地に集中している。
▽191 「新西国」を新たに編成する場合、浄土真宗と日蓮宗以外で、観音菩薩をまつる寺院を三十三カ所選定することではじめられる。「新四国」は弘法大師と関連を持つ原則として真言宗寺院を選ばなければならないから西国より遅れた。
 新四国の最初の例は、寛永年間の愛知の三河八十八カ所。次いで、小豆島八十八カ所。小豆島は新たに堂庵を建立してまで整備した。
 江戸に御府内八十八カ所は宝暦年間に開創。その後、全国に新四国が広まる。西国巡礼の移植と同様、四国遍路の移植も、江戸を中心とした広がりを見せる。
▽196 「発心の道場」「修行の道場」「菩提の道場」「涅槃の道場」
 四国遍路を胎蔵曼荼羅に相当させる解釈は、江戸時代中期の絵地図などに見られ、さらに、中世の熊野信仰のなかに、発心をはじめとする4転説が説かれている。
 …熊野本宮近くには発心門の大鳥居。大峯の奥駈修行のコースには、大峯山の四門「発心・修行・等覚・妙覚」がある。
 …那智参詣曼荼羅に描かれた補陀落渡海船 四方に簡素な鳥居門があり「発心門・修行門・菩提門・涅槃門」と書かれているとされる。16から17世紀につくられたとされ、「四国八十八カ所」が事実上できあがる時期に相当している。
 江戸時代初期の熊野信仰においては、すでに「発心・修行・菩提・涅槃」等の四転説が確立されており、聖や熊野比丘尼たちの活動を通じて四国にも伝えられていた可能性が大きい。
▽204 ハードルが下がったことで、明治維新後になって思わぬマイナス面も現れた。「接待」の功罪。
  …1819年の日記 接待は「飯」が最も多く、手ぬぐいやちり紙、草鞋といった身の回りの必需品も。
▽210 接待講 紀州には現在もいくつか講が残っている。かつらぎ町の紀州接待講は薬王寺で手ぬぐいの接待。霊山寺では有田接待講、野上接待講
▽214 昭和30年代以降、観光バスでの辺路が増えて、接待の習慣は薄れていった。しかし、西国巡礼は接待の風習が近代に絶えたのに、四国では存続している。西国では、接待の対象である巡礼者をあくまで人間ととらえていたのに対し、四国では大師そのものであるという信仰が根強く生きつづけているためである。
「御大師様が遍路の姿をとって四国を巡っている」という宗教感情。
 ただ、接待が社会化・制度化した時、それを当てにして生活を立てる、いわゆる「職業辺路」が大挙して四国に流入することとなった。…人生、社会のマイナス面を背負った「暗い遍路」も、江戸後期から明治・大正の遍路没落期に数多く見られた。
▽216 「乞食遍路」とも称され、身体的ハンディや難病に苦しむ「病気遍路」と友に、時には「ヘンド」と呼ばれて、一般の遍路者と区別された。
 …とくに忌避されたのは、肺病者やハンセン病の患者だった。…家に病人が出ると、村八分になることを怖れて、世間に知られる前に四国遍路に出してしまうという悪しき習慣が生じてきた。彼らはほかの乞食遍路たちにすら疎外され、遍路道とは異なる間道を歩くことをよぎなくされた。通常の辺路屋や通夜堂から締め出され…そのため54番延命寺などは病気遍路専用に二畳だけの小さな通夜堂が設けられていた。…癒やされる日を夢見つつ、四国を巡った病気遍路の風習は昭和40年代の高度成長期までつづいた。
 いざり立ち 目くらが見たと をしが云ひ つんぼが聞いたと御四国のさた
 このような功徳はしばしば現実におこり、弥谷寺の大師堂には多数のギプスが納められ、22番平等寺や57番栄福寺の本堂には、イザリ車(箱車)が奉納されている〓
▽218 病気遍路、とくに足の不自由な遍路(イザリ遍路)に対しては、イザリ車を押すという接待もあった。病気遍路が村内で死んだ場合、感染症であれば病気が蔓延することになりかねない。そのため、ムラ外れに足の不自由な遍路が現れると、次の村境まで車を押していき、金品を与えて村を通過させた。こうして一生を四国で巡りつづける遍路を「送り遍路」と呼んだ。
▽218 乞食遍路の取締り。…国内滞在期間を30日に制限。正規ルートの遍路道以外の脇道を通ること、さらには高知城下に入ること自体も禁じた。
 …禁令を出さなければならないほど、乞食遍路が増加し…
▽219 主流がふたたび「明るい遍路」へ方向転換しはじめた昭和30年代までの遍路日記には、必ずといってよいほど「癩病者」「レプラ患者」「イザリ遍路」などの言葉が見られた。
 …かつて四国では子どもをいさめる時に「遍路の子にやるぞ」ということもあった。
▽220 若者遍路 明治期中心。松山でもとくに旧和気郡が盛ん。20歳の徴兵検査の前に実施。出発は3月か4月、装束は真っ黒に見える無地紺の伊予絣。「伊予のカラスヘンド」「伊予の紺ぞろい」。少しでも少ない路銀で行くために、走って遍路する。「ハシリヘンド」ともいわれた。
…若者遍路の悪行は有名。金比羅や丸亀では女郎屋に行くことが習慣になっているムラもあったという。
…遍路が終わると、大人として認められ、ともに遍路をした「同行」は生涯のつきあいとなる。「同行は死んだら一つところへ行く」とまで言われたという。
▽223 娘遍路 19歳の厄年までに遍路することで、嫁入りの資格とされた。…若い男女が共にへんろする場合もあり、老婆が先達兼監視役で同行した。一種の集団見合い。
…和歌山県西牟婁郡方面では「婚約遍路」があった。婚約中の男女が遍路中に性的交渉が亡ければ、結婚が許され、禁を破ると破談になったという。
 若者遍路は明治期に最盛期を迎えるが、大正期に入ると衰微し、昭和初期には姿を消した。農村を中心とした近世の村体制が崩壊して、近代産業社会が成立したためとも考えられる。
▽226 中務茂兵衛義教(1845〜1922) 280回もの遍路。22歳で家を捨てて遍路をはじめた。村娘との結婚を反対されて、遊郭に入り浸るようになり、そこで遊女から遍路や弘法大師の話を教えられたことが、原因といわれている。
 富士山・葛城山・大峰山で入峰修行、西国三十三所も。
 先達を本業とする職業遍路だった。
 1886年、88度の遍路を記念して、標石を造立。
 旅先の家で没した。生家の墓地に葬られ、近年「茂兵衛堂」も建立されている〓。
▽231 山本玄峰(1866〜1961) 湯の峰温泉の「西村屋」(現在のあづまや旅館)に生まれた。…19歳で眼病を患い、諸国流浪の旅へ。23歳で四国に渡り遍路に。素足で遍路すること7度、雪蹊寺門前で山本太玄住職から通夜堂に宿泊することを勧められ、僧を志すことに。和尚の養子になった。
 和尚が亡くなり、雪蹊寺の住職に。1915年には龍沢寺(静岡県三島市)の住職に。その後、アメリカ、イギリス、ドイツ、インドなどを歴訪。
 その間も年に1度は雪蹊寺に墓参に訪れ、付近の札所を巡った。最後の遍路は死の前年の95歳の時だった。
▽233 種田山頭火 
 生涯2度遍路。2度目は昭和14年。死に場所を求める旅だった。…松山に戻ると、友人たちの援助を受けて「一草庵」を建立して安住する。しかし1年後の昭和15年10月、酒の飲み過ぎで卒中の発作を起こし、死亡。
▽237 学僧・和田性海(1879〜1962)
「四国病院」と呼ばれるほど、病気平癒を願って訪れる人が少なくないが、性海は肉体的な疾患だけでなく、精神的なものにまで言及する。遍路の途上でさまざまな実体験をすることで、仏の実在を認識することができるとする。…性海自身、遍路によって、信仰についての開眼がはじまったと述べている。
▽254 巡拝バスツアー 第一号は昭和28年の伊予鉄バスとされる。その以前にも、阿南自動車大阪出張所が昭和8年に団体巡拝参加者の募集をしていた。
…バス遍路によって「歩き遍路」は減少し、木賃宿などはほとんど姿を消した。「道」を重視する辺路信仰は、「点」である札所を重要なポイントとする近代の遍路信仰へとスライドしていく。平成16年ごろからは「日帰り遍路」というスタイルも。
 現在は「歩き遍路」の復権がはじまっている。「道」回帰の風潮。
▽260 西端さかえ「四国八十八札所遍路記」。交通機関を最大限利用して取材に専念している。昭和38年。
▽271 ここ20年余りは、「自己探求・自分探し」も含む「歩きながら考える」タイプの遍路が増えてきたために、「体験記」がさらに数多く出版されるようになる。

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