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四国遍路 八十八ヶ所巡礼の歴史と文化<森正人>

■中公新書 20200426
 筆者は1975年生まれの若手の研究者。五来や頼富ほどの深みはないが、最近の動きをとらえ、「伝統」が実は最近つくられたことなどを指摘していて興味深い。
 たとえば白装束は戦後のバスツアーで普及した。山門で一例して納札を入れてといった参拝手順も戦後に一般化した。金剛杖は「弘法大師の身代わり」とされるが、中務茂兵衛の時代には弘法大師信仰とは結びついていなかった。宿坊は戦前の巡礼日記にはほとんど登場しない。御厨人窟は豊山派による1982年の調査で聖地とされた。
 昭和33年の「四国遍路日記」には、焼山寺へ登るルートはほとんど利用されていないと記されている。環境庁と建設省による昭和54年の合同調査では、使用されていない旧遍路道が5割以上にのぼり、道標や丁石が倒壊していた。厚生省国立公園部による「四国自然歩道」(1981〜88)と、建設省による「四国のみち」の整備が1990年代の四国遍路ブームを下支えすることになったという。

 乞食遍路や「ヘンド」差別もくわしく取りあげている。
 四国の巡礼者は他と比べても貧しい人々が多かった。天明の飢饉時に西国巡礼は減少したのに四国遍路は大きく減らなかったのは、巡礼が口減らしに使われたためらしい。
 土佐では、明治以後も「遍路狩り」が行われていた。自由主義者の植木枝盛が土佐新聞に「遍路拒斥すべし」という論説を書いていた。
 昭和37年の「遍路日記」には、巡礼者の宿泊を禁ずる宿が登場している。品のよさそうな遍路には「お宿の接待」を呼びかけるが、病人や人相の悪い人は口実を設けて断る様子も記録されている。
 高松市で生まれた筆者は、小学校の先生から「お前はヘンドの子か」となじられた。ヘンドとは、物乞いをしたり、病気を患っていたりした巡礼者に対する差別語だ。
 職業遍路と呼ばれる巡礼者は1960年代半ばまで見られたが、高度成長と福祉政策によって消えていく。昭和53年の四国遍路の記録には、「今は社会福祉が整っているので職業巡礼者たちが見られなくなった」という発言が記されている。
 でも最近は、瀬戸大橋完成に不況も重なってまた「乞食遍路」が増えているのではなかろうか。
 軍国主義にともなう「国民体位向上」の手段として、坂東33ヵ所、親鸞聖人の遺跡巡り、四国遍路といった聖地巡礼も推奨されたという負の歴史も興味深かった。
 城川町や野村町の旧街道に多くの茶堂が残り、地域コミュニティ再生のために1990年代半ばに修復や復元が注目されたという。もう一度訪ねてみたい。

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▽25 白装束が広く普及するのは昭和28年以降に一般化するバスツアーが関係している。…納め札は、4回までは白、7回までは緑、24回までは赤。49回までは銀、99回まで金、100回以上になると錦。
▽28 御厨人窟 1982年に豊山派による調査を経て聖地として決定された。
▽37 「遍礼」という言葉 修験道的な「辺路」や「辺地」の世界観を脱して、弘法大師信仰を基盤とした「遍路」の世界へ向かう。
▽43 宥弁真念 高野山の因縁話を語りながら諸国で寄付集めをした高野聖。遍路も20数回行っている。
▽46 昭和37年の「遍路日記」には、巡礼者の宿泊を禁ずる宿がいくつも登場。決して巡礼者が歓迎されていたわけではない。
…サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路では、ルート上に救護施設が点在し、巡礼手帳を持つ巡礼者に宿を安価で提供している。(お接待)
▽48 松山市では、家族から死者が出ると、死者供養として、49日後や忌日などに遺族が巡礼者に琴線やお菓子を接待していた。…巡礼者への接待は情報交換の場にもなった。
▽50 城川町には旧街道の辻辻に茶堂が59ヶ所も残存。…地域コミュニティ再生のために、茶堂の修復や復元が注目されたのは1990年代半ばである。94年に城川町、98年に野村町の茶堂が復元されている。
 …四国外からの接待講は、有田市の講が有名。毎年春に霊山寺で接待。野上接講も。
▽60 澄禅の観察 阿波は「慈育ノ心深シ」、土佐は慈悲心深いが言葉は田舎くさい、伊予は都会だが信心が薄い。…
▽66 江戸時代、東国からの旅人を引きつけたのは、四国遍路というより寛政年間1800年ごろから盛んになる金比羅参宮。
▽70 若者遍路 愛媛県では四国遍路のほか、石鎚山登拝も体験しなければ一人前とみなされなかった。伊予絣や黒色の着物を身につけた。カラスヘンドと呼ばれた。速さを競う者もいて「伊予のハシリヘンド」とも。
 和気地区では大正時代まで若者遍路の風習が残っていた。
 …金比羅では大きな旅館に泊まり、女郎屋に繰り出す。
 娘遍路 松山市のいくつかの集落、興居島などでは、女性が若者といっしょに、あるいは女性だけの団体で巡礼に出ることを習俗としていた。鷹子町では19歳の厄年を迎えるまでに巡礼に出ることが嫁入りの条件だった。平田町では女性が青年たちと巡礼に出るときは老婆が付いていったといわれる。岡山県の笠岡でも…
 若者遍路は、昭和10年代には姿を消した。
▽78 現在確認できる最古の道標は中務茂兵衛(1845〜1922)(〓真念の方が古いのでは?)。彼が初めて10基の道標を建立したのは88度目の巡礼を終えた1886年。
 周防国大島郡椋
 …中務の「道中記大成」には、金剛杖を弘法大師信仰と結びつけてはいない。現代のほうが「弘法大師の身代わり」とされる。
▽88 仏壇仏具店の浅野総本店(今もある)が1926年に「四国遍路道中図」を出版。…明治4年に工部省測量司が設置され、三角測量による西洋的地図作成法がくまなく測量していったのが反映されている。
▽92 四国遍路は5年の座禅にも優る。…
▽96 記者の巡礼。1908年。21番太龍寺の麓にあり、弘法大師が悪竜を封じ込めた大鍾乳洞「龍の巌窟」を探検(今はもうない?)
…日本人向けの国内観光が登場するのは1920年代。
▽98 品の良さそうな遍路には「お宿を接待しましょう」と呼びかけるが、病人や人相の悪い人は決してひきとめず、宿の願いがあっても口実を設けては断る。
▽101 高群逸枝 婚約者を追って教職をなげうって熊本市を出てきたにもかかわらず、別の男性を巻き込んでの三角関係に。三角関係や困窮に追いつめられての脱出がこの巡礼だった。
▽119 巡礼者は貧しい人々、村落を追われた人々が多くを占めた。西国と比較しても四国遍路ではそれが顕著だった。…天明年間の飢饉時に、西国の巡礼者が減少するのに対して、四国遍路では大きな減少が見られなかった。…飢餓時の口減らしとして巡礼に出かけたと推測する。
▽121 村境で巡礼者の行き倒れがあると、こっそり向こう側の村へ押しやったり…
▽122 各藩は巡礼者の立入りを制限する。…経路の限定だけでなく、往来手形のほか、納経帳や充分な路銀を持つものだけが入国を許され、村で数日滞留するためには庄屋への届け出を義務づけ…
 南国土佐は冬でも温暖なため、海岸の洞窟などに巡礼者たちが住んでいたという説も。土佐藩は他藩に比べて厳しい態度。
▽127 土佐高知藩では、明治になって高知県に変わってからも、県内の巡礼者の一掃「遍路狩り」が行われている。
…土佐新聞に「遍路拒斥すべし」という論説を植木枝盛が書いていた。コレラの蔓延、物乞い、強盗、行き倒れ、商売の邪魔などの元凶となる巡礼者を「断然として之を拒斥し之を逐攘せざる可からざるなり」。…植木が最後のくだりで主張するのは、こうした「貧民」をつくりだす社会の改善であり、租税を低くすることを社会改善の一方策として提案している。
▽129 高松市で生まれ育った私は、小学校の教諭にしばしば「お前はヘンドの子か」となじられた。ヘンドとは、物乞いをしたり、病気を患っていたりした巡礼者に対する差別語である。
▽131 身体に障害を抱える巡礼者たちは「イザリヘンド」、ハンセン病を患う巡礼者は「ドスヘンド」「ナリヘンド」と蔑称された。
 宮本常一「忘れられた日本人」の「土佐寺川夜話」に、大戦が始まったころ、原始林のなかでであった老女の話が紹介されている。「こういう業病で、人の歩くまともな道は歩けず…こうした山道ばかり歩いてきたのだ」と。
▽132 春の4,5月になると、札所寺院のいたるところに群れをなす(昭和9年)。ハンセン病の巡礼者は宿での宿泊が拒否されている。
…療養所への入所を望まず、身を隠す人たちも存在した。その人々やその家族に入所の重要性を説いてまわった一人に医師の小川正子がいる。…昭和9年、小川は患者隔離が祖国浄化と考えて高知県を駆けた。
▽135 職業遍路と呼ばれる巡礼者たちが1960年代半ば頃まで見られた。高度成長と福祉政策によって消えていく。…昭和53年の四国遍路の記録には、「今は社会福祉が整っているので」職業巡礼者たちが見られなくなったという旅館経営者の発言が記されている。(瀬戸大橋でまた増えた?〓)
▽146 大正期には以前と異なる「知識階級」の巡礼者が参入してきた。
▽161 遍路を観光やハイキングとみなす「モダン達」…
 モダンなものとして批判されていたハイキングだったが、1930年代半ば以降、四国遍路と積極的に結びつけられていった。国民体位向上の一手段として、ハイキングが注目。
…鉄道省は、「国体明徴」のため、天皇の御陵を参拝したり神社を巡ったりする個人旅行客には運賃を3割引。坂東33ヵ所、親鸞聖人の遺跡巡り、四国遍路といった聖地巡礼の旅行者に対しても割引すると決定。「信仰ハイキング」と称された。
…昭和16年、ガソリン配給が停止。…軍事的、経済的事情と健全な身体の育成という目的が合致したところで徒歩運動は展開した。
…遍路同行会も、30年代には軍国主義的な政治に接近していった。
▽175 1966年、巡礼を済ませた歌舞伎俳優の八代目市川團蔵画、大阪行きの汽船から身を投げた。貧者や病者といった巡礼の負のイメージをさらに強めた。 
▽176 1950年代半ばまでには白装束が巡礼の服装として一般化したと考えられる。
▽180 バスツアーは集合的な巡礼。そのなかで装束や行為が次第に統一されていく。
 団体でバスをチャーターするのが一般的だったが…1980年代になると次第に個人での参加申し込みが増加する。
▽181 宿坊 民宿に比べると若干安く、朝の勤行に宿泊者が参加できることがある。
 宿坊は戦前の巡礼日記にはほとんど登場しない。
▽184 香川の民俗学者の武田明は「バスでやって来て、わいわいと騒ぎながら行ってしまう。遍路墓の哀れさなどは一向に知らないでいる」。
 …巡礼方法の変化にともない、巡礼者がお接待を受ける機会は減少していった。
▽185 四国八十八ヶ所霊場会 昭和23年設立と考えられるが、1980年代半ばまでどのような活動をしていたのか不明で、積極的に活動するのはそれ以降。
…昭和63年、「トイレプロジェクト」を立ち上げ、平成5年以降、「モデルトイレ」がつくられていく。
 昭和63年の本四架橋開通による観光客増加がひとつの理由。
▽189 昭和33年、西端さかえによる「四国遍路日記」には、焼山寺へ登るルートを、ほとんどの巡礼者は利用していないことが記されている。…旧来の遍路道が利用されなくなってしまっていた。
…遍路道の復活。厚生省国立公園部によって1970年代に整備された長距離自然歩道のひとつ「四国自然歩道」(1981〜88)と、建設省による「四国のみち」。
…環境庁と建設省派昭和54年に合同調査。調査を指揮したのが53年に建設省が設立した「四国のにち保全整備計画調査委員会」。…当時すでに使用されていない旧遍路道が5割以上にもなること、道標や丁石が倒壊していることなどがわかった。
 …1980年代に、レジャー、レクリエーションの推進という目的で再登場した遍路道は、1990年代の四国遍路ブームを下支えした。

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