MENU

原民喜 死と愛と孤独の肖像<梯久美子>

■岩波新書 20191225
 こんなにも繊細で、弱く、貧しく、悲しみに満ちた人だったとは。
 裕福な家に生まれたが、小学校1年で弟、5年で51歳の父、高等科1年で21歳の次姉を亡くし、内向きな性格になった。
 6歳下の妻貞恵は、小柄で丸顔で愛くるしく、気さくで利発でにぎやかな人だった。その結婚生活はもっとも幸せな日々だった。だが6年後に結核を発病し、結婚から11年で亡くなった。
 亡くなる数時間前、やすりを見つけられずうろたえている原に「そこにあるのに」「あなたがそんな風だから心配でたまらないの」と言ったという。医師が危篤を宣告してまもなく、「あ、速い、速い、星…」と少女のような声で言い、昏睡に陥った。
 貞恵の死の翌年、原爆にあった。貞恵が非常時のために雑嚢に入れていたオートミールや包帯、メンソレータム、手帳や鉛筆が役立った。貞恵の存在感や手際のよさは他人とは思えない。
 原は、広島の無数の死を前にして「…これらは「死」ではない、このように慌ただしい無造作な死が「死」と言えるだろうか、と。それに比べれば、お前の死はもっと重々しく、一つのまとまりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆっくり営まれたのだ」と記した。
 原は、死にゆく妻を傍らで見守り、かけがえのない時間を共有したが、広島の死者たちはそうではなかった。その無残さに打ちのめされた。
貞恵の死は自らの死でもあった。生きる意欲を失い、死は忌むべきものではなくなっていた。だが広島の「コノ有様」を伝えないうちには死ぬわけにはいかなくなった。死者たちが原を生きさせることになった。
 戦後は東京で極貧の暮らしをしながら作家生活をつづける。
「自分のために生きるな、死んだ人の嘆きのためだけに生きよ。僕を生かしておいてくれるのはおまえたちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくにも死んだ人たちの嘆きだ」「妻よ、お前はいる…最も切なる祈りのように。死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは…この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ」
 死者の実在を実感し、作品は死者である妻への手紙だった。
 広島の死者の嘆きを書き切って、46歳で鉄道自殺した。
 嘆きを手放したくはないけれど、時にその重苦しさから逃げたくもなる。
 原の人生は悲しみに満ちていたけれど、悲しみや嘆きを手放さず、正面から表現することを自らに課しつづけた。その強靭さは、とても真似できるものではないと思った。

 死について 死は僕を生長させた
 愛について 愛は僕を持続させた
 孤独について 孤独は僕を僕にした

▽13 遠藤周作は原の死を遺書で知り、「貴方の死はなんてきれいなんだ。貴方の生はなんてきれいなんだ」と書いた。
 …自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはおまえたちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくにも死んだ人たちの嘆きだ。
 …原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。
▽29 結婚11年目、33歳で妻は病死する。
▽61 昭和19年9月に妻が死去。夫婦で暮らしていた千葉から広島にもどる。
 …原爆で自宅は倒壊を免れたが、近隣から火が出て、逃げ出す。
▽68 包容力のある絶対的な愛情を、原は大人になっても求め続けた。それを与えてくれたのが妻である。だから死後も彼女は原の支えであり続けたし、妻という死者のいる場所は、美しく甘美な「向こう岸」として原の意識のなかに存在することになった。
▽71 聖性の付与。父と姉、のちには妻という、かけがえのない愛情の対象をみな喪ってしまった原が、もろく繊細な心を支えるために行った文学的営みといえるかもしれない。
▽72 この世とは別の場所があり、そこで愛する人ともう一度出会うことができる、姉と死別したとき抱いたそんな考えを、原は最晩年まで持ち続けていた。
▽94 「幼児期の心の破傷」とは、自分をもっとも愛してくれた父と姉を喪ったことである。…原が心底くつろいで息をつくには、妻となる人との出会いまで待たなければならなかった。
▽101 左翼運動と挫折。検束を経て運動を離脱し、卒業。女にも逃げられ、自殺未遂。
▽110 6歳下の21歳だった妻。若い娘らしいかわいらしさと気の強さをもっており、原がそれを愛したことは確かであろう。
…結婚から貞恵の発病までは、もっとも幸福なときだった。発病から5年後、結果空に糖尿病を併発して亡くなるが、元から病弱なわけではなかった。自分を殺してひたすら忍従する妻ではなく、のびのびと振る舞い、率直にものを言った。
…貞恵さんは小柄で丸顔で愛くるしい型の人で、気さくで利発でにぎやかな印象…。
…夫の仕事をわがことのように思い、一喜一憂する若い妻の、いいじらしいような真剣さが伝わってくる。
▽132 結婚6年目に結核を発症。「妻はむしろ気軽とも思へる位の調子で入院の準備をしだした。悲痛に打ちのめされていたのは彼の方であったかもしれない。妻のいなくなった部屋で、彼はがくんとうずくまり茫然としていた」
▽142  1944年に、常套句を使わず、声高にならず、平易な文章でなんでもない日常を描く。非日常の極みである戦争に対する、静かな抵抗であった。
▽145 亡くなる直前の妻。やすりを見つけられずうろたえていると「そこにあるのに」と教え、「あなたがそんな風だから心配でたまらないの」と死の数時間前に言った。
(妻の死の夢を見て泣き叫ぶ。その夢から10日あまりで本当に死んでしまう。(予知夢のようなものがあるのか))
▽162 (原爆の後)雑嚢に入れていたオートミールの缶を開けて1杯ずつ配った。貞恵がずっと前に買って非常用にとっておいた品だった。包帯やメンソレータムは、怪我の手当てに役立った。手帳と鉛筆のもたらしたものの大きさはいうまでもない。貞恵の配慮が、いざという時役に立ったのである。
▽163 貞恵の死によって、自分の臨終をも同時に見届けたようなものだった。…だが、被爆したことによって、「コノ有様」を伝えないうちには死ぬわけにはいかなくなった。原爆投下後の地獄のような広島で隣人となった死者たちが、原を生きさせることになった。
▽185 僕はあの無数の死を目撃しながら、…これらは「死」ではない、このように慌ただしい無造作な死が「死」と言えるだろうか、と。それに比べれば、お前の死はもっと重々しく、一つのまとまりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆっくり営まれたのだ。
▽ 愛するものがみな死者になってしまった原にとって、死は悲しくはあるが、忌むべきものではなく、死者は生者よりも親しく懐かしいものだった。死者に支えられることで、かろうじて生きてきたのだ。(そうかも。連載も〓)
 貞恵の病みついてから死までの日々は、心安らぐ穏やかなものだった。そして死にゆく妻を、原は傍らで見守ることができたのだ。だが広島の死者たちはそうではなかった。「このやうに慌ただしい死が「死」と云へるのだろうか」という叫びは、死ぬものと死なれるものが共有した時間のかけがえのなさを知る原にとって、心底からのものだったろう。妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無残さは原を打ちのめしたのである。
▽198 1946年2月…東京の明るさを伝えるハガキ。「新しい人間が生まれている」と。明るさ。
 東京へ。…身長164センチなのに体重34キロまで落ちた。
▽207 友人宅をその妻から追い出され、汚い部屋に。自分が地上での生存を拒みつくされた者のように思え、「わたしが、先にあの世に行ったら、あなたも救ってあげる」と言った貞恵のことを思い出す。
 私のために祈ってくれた 朝でも昼でも夜でも 最後の最後まで 祈っていてくれた …
▽208 人間も世の中も変わるに違いない。その思いは戦後の原にとってひとつの希望であり、貞恵のいない世界でもう一度生きてみようという決意につながった。しかし戦後の東京は、誰もが自分のことで精一杯で、至る所で人間同士の闘争が繰り広げられていた。押しの強いものが勝ち、気弱な人間は脱落していく。
 せめて僕の晩年には身を落ち着けることのできる一つの部屋が欲しい。誰からも迷惑がられず、足蹴にされたり呪詛されることのない場所で、安らかに息を引き取りたい。
▽219 1949年夏、タイピストの21歳の女性との出会い。(そんなことがあったんだ〓)
▽231 「自分のために生きるな、死んだ人の嘆きのためだけに生きよ」。原が生きる理由は、「嘆き」だけになっていた。
 一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく。僕は僕に鳴りひびく。(悲しみは人を結ぶ)
▽231 そして、妻よ、お前はいる、ほとんど僕の見わたすところに、最も近く最もはるかなところまで、最も切なる祈りのように。死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは…ああ、この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ
▽233 89歳のタイピストのお嬢さん祐子を取材する。
▽254 原は自死したが、描くべきものを描き終えるまで、苦しさに耐えて生き続けた。繰り返しよみがえる惨禍の記憶に打ちのめされそうになりながらも、虚無と絶望にあらがって、のちの世を生きる人々に希望を託そうとした。その果ての死であった。
▽255 「死」も陰惨きわまりない地獄絵としてではなく、できれば静かに調和のとれたものとして迎えたい。…現在の悲惨に溺れ盲いてしまうことなく、やはり眼差しは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節を生き抜いてきた若い世代の真面目な作品がこの頃読めることも私にとっては大きな慰籍である。人間の不安と混乱と動揺はいつまで続いていくかわからないが、それに抵抗するためには、内側にしっかりとした世界を築いてゆくより外はないのであろう。…その生存を壁際まで押しやられて、飢えながら焼け跡を歩いているとき、突然、目もくらむばかりの美しい幻想や清澄な雰囲気が微笑みかけてくるのは、私だけのことであろうか。
▽274 あとがき 悲しみの中にとどまり続け、嘆きを手放さないことを自分に課し続けた原に、純粋さや美しさだけではなく、強靭さを感じるようになっていった。
 悲しみを十分に悲しみつくさず、嘆きを置き去りにして前に進むことが、社会にも、個人の精神にも、ある空洞を生んでしまうことに、大きな震災を経て私たちはようやく気づきはじめているように思う。(若松との共通点〓)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次