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日常という名の鏡 ドキュメンタリー映画の界隈<佐藤真>

■日常という名の鏡 ドキュメンタリー映画の界隈<佐藤真>凱風社20191218
 新潟水俣病の舞台となった阿賀野川をテーマにした「阿賀に生きる」の監督の本。久しぶりに新潟水俣病を勉強するため読み返した。
 佐藤監督は水俣の映画の自主上映運動で新潟・安田町を訪れ、大工の息子の旗野秀人氏と出会う。
 新潟水俣病は阿賀野川下流で発見され、長いあいだ中上流には患者がいないとされてきた。上流ほど昭和電工の影響力が強かった。旗野は、新潟水俣病共闘会議の影響力が浸透しきれない政治状況を逆手にとって、独自の運動をつづけ、水俣病の病像よりも、川とともにある暮らしをそっくり残そうとしてきた。
 「水俣病問題も、川の暮らしもどうでもいい。このいろりや茶の間の出来事をそっくりそのまま撮ってもらえば、立派な映画になるんだ」と佐藤監督を挑発したのが映画のはじまりだった。
 患者団体が分裂していた水俣と異なり、新潟は初期の段階から社会党系と共産党系がともに「新潟水俣病共闘会議」を結成した。共産党系の活動家は佐藤らの計画を、団結を阻害する「トロツキスト」などと警戒した。
 新潟の一枚岩の運動体は理想的に見えたが、波風を立てるより組織を守ることを優先することになり、作家性のある独自の表現が生まれない原因になっていた。一方の水俣は、運動団体が四分五裂状態だったからこそ、表現が豊かに花ひらいたという。
 小浮の加藤作二さん(餅屋の加藤のジイちゃん)と砂山の遠藤武さん(船大工の遠藤さん)、田んぼをつくる長谷川さんといった映画の登場人物は、自らの職業に誇りをもち、野菜や生活道具のかなりを自給できる自立した暮らしを営んでいた。経済的功利主義から無縁で、生き方のスタイルを変えない生活の哲学を持ち得た人々だった。
 こうした生き方が成立する時代は、彼らで最後だった。
 映画の完成後、93年には加藤さん夫妻が亡くなり、94年を最後に長谷川さんは田を人にゆずり、船大工の遠藤さんは97年に亡くなった。「水俣病」を声高に主張しない映画だからこそ、「時代」の変化を生活レベルで描く普遍性を持ち得た。

 佐藤は、「風化が叫ばれている今こそミナマタの意味を改めて問い直しましょう」と「ミナマタの悲劇」という類型の山を築くことを批判する。
 だから、感情に激したり号泣する映像を排除し、急性劇症型の患者のフィルムなどは慎重に扱うべきだと考えた。「実際の水俣病患者は決して悲劇的ではなく、事実はぶっきらぼうで淡々としている」と記す。
 彼の映画論や、ネグロスのバナナ農園の取材の記録も興味深かった。私はけっこう彼と近いところにいたのに、彼に会わずに終わってしまった。惜しいことをしたと思う。

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▽31 阿賀野川下流で発見され、長いあいだ、中流や上流には患者がいないとされてきた。上流に向かうほど、昭和電工の影響力は強まる。鹿瀬町までくると、絶大な力をもって君臨している。
 …旗野は、新潟水俣病共闘会議の影響力が浸透しきれない政治状況を逆手にとり、地元の一大工として独自の運動を地道につづけてきた。
▽39 共闘会議は、記録映画をつくるという記事を警戒。説明の文書を書いたら、活動家のほとんどすべてから猛烈な批判。「トロツキスト」だの「思想傾向が偏っている」だの…。鉄の一枚岩を誇る新潟水俣病の運動には百害あれど一利なしと。
 …「告発する会系だ」と、共産党系活動家が私の経歴を批判の対象にした。
▽45 水俣とちがい、新潟は初期の段階から、医療関係の組合を中軸に広範な民主団体が結集。社会党系と共産党系の全民主団体が「新潟水俣病共闘会議」を結成。
…新潟では、作家姓のある独自の表現がなかなか生まれにくい。その理由は、全会一致という原則をもって表現行為を裁断してきた運動論の結果である。
 波風を立てるより組織を守ることを優先する。
 …熊本の場合、運動単体が四分五裂をくり返していたからこそ、表現は豊かに華ひらいたのだ。
▽60 誰しも年を取ると、一代記めいた確固たる物語を持っている。それは、些細なうそが折り重なって知らぬ間にできあがる。年寄りの特権とは、どんな嘘をついても、誰も本当のことは知らないということだ。そうやって人は、自分の作った物語に守られて生きているのだと思う。
▽76「阿賀に生きる」の登場人物 自らの職業に誇りをもち、野菜や生活道具のかなりの部分まで自給できる自立した暮らしを営んでいる。経済的功利主義からも無縁で、頑固で意固地なほど生き方のスタイルを変えない人々である。ただ普通に生きるだけで、たしかな手触りと生活の哲学を持ち得た人々である。こうした生き方が成立する時代は、彼ら老夫婦の世代で最後かもしれない。
▽126(映画紹介の報道)答えた話のディテールがすっぽり抜けていて、パブリシティ用の資料をそのまま引き写しているにすぎない記事があまりに多い。フリーランスより社員の方が、雑誌より新聞・テレビの方が記者の質は悪かった。
▽136 映画の完成後、老人たちに急速な老いが訪れた。93年、加藤作二さんとキソさん、94年を最後に長谷川さんは田んぼを人にゆずり、船大工の遠藤さんは97年に亡くなる。…「阿賀に生きる」は、この3家族の生のぎりぎりの最後の輝きをフィルムに収めていたのだ。
▽147 スクリーンに登場する…醜い顔のひとつに、武田鉄矢の顔がある。ブヨブヨした肉体、弛緩した表情、間の抜けた笑い…
▽282 「風化が叫ばれている今こそミナマタの意味を改めて問い直しましょう」と力説するほど、見るものの気持ちは離れていかざるを得ない。「ミナマタの悲劇」という陳腐な類型の山をいくら築いても、ミナマタの体験を歴史に刻むことにはならない。…実際の水俣病患者は決して悲劇的ではなく、事実はぶっきらぼうで淡々としている。
▽「ショア」について。「私たちは、世界からも、人類からも、見放されたと、感じていました。そして、ほかならぬ、このような状況のなかでこそ、私たちは、生き延びる可能性の意味を、もっとも痛切に、理解したのです」
▽295 1996年、品川駅前特設テントで「水俣・東京展」。
…まずお涙頂戴式の被害論をやめること。水俣病患者の類型化されたイメージをどう切り崩すのかが問題である。感情に激したり、涙にかきくれたりする映像を、周到に排除する必要がある。急性劇症型の患者のフィルムや…などの資料映像はそのインパクトが強いだけに、扱い方には慎重を期する必要がある。
▽298 水俣病の実相のなかで、一度もきちんととらえられてこなかったのは、加害者の実像である。チッソは極悪非道のシンボルとして対置されてきた。国・県の加害責任も、裁判のなかで、あくまでも法律論の範囲で立証されたにすぎない。
▽308 土本典昭。青林舎は、チッソ本社交渉の活動拠点となり、3カ月余りの逃走を支えた。「東京・水俣病を告発する会」の事務局が青林舎のなかにあった。
▽312 「医学としての水俣病」水俣病の原因究明の時期、真理探究のために研究に没頭した若き医学者たち。…73年7月は第3水俣病事件をめぐってパニックに陥った時期だった。水俣病研究にかかわった医学者のほとんどは、水銀パニックの収拾に躍起になる政府機関の手先として駆り出された。
…病理・臨床・疫学と専門に分かれ、それぞれ蛸壺を掘っている医学界の象牙の塔が、水俣病の運動にとって大きな障壁となって立ちはだかってきた。患者として認定するか否かという医学上の問題が、政治的な攻防戦の最前線におどりでてきてしまったからだ。
▽329 結いを基盤にした村社会の崩壊は、高度成長がもたらしたものだ。機械化と現金収入がそれに拍車をかけた。
▽331 小川紳介監督「ニッポン国古屋敷村」(1982)映画完成と相前後するように、古屋敷村の灯は消えた。しかし、映画が評価されたことで、上山市の温泉旅館にそっくり買い取られ、歴史資料として永久保存されることになった。〓〓
▽356 ATJ堀田氏とも友人。同社員だった長倉徳生と2人で「カサマフィルム」を創設。ネグロスを映画に。
…バナナ輸入は順調だったが93年になると連作障害で病虫害が激増。バナナを日本に送ることで有機物の循環サイクルが途切れてしまったことが原因だった。
…運動のうまくいかない根本原因は、農業労働者が農民になること自体が想像以上に難しかったこと。日払いの労働者と1年サイクルで植物を育てる農民では、仕事に対する考え方が本質的にちがう。
▽367 長井市のレインボープラン 農業ジャーナリストの大野和興
▽377 小津安二郎の「東京物語」

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