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プルーストとイカ<メアリアン・ウルフ>

 ■20180703
 文字を覚えることで脳を発展させてきた。
 象を見て、それに似せた絵を描く、ということを覚えた時、ひとつの回路がつながり、その絵が抽象化することで新たな回路がつながる。文字が「音」を示すようにするには、さらに複雑な回路がつながる。脳自体の接続が物理的に進化してきた。
 字が意味をもあらわす漢字と、音だけをあらわすアルファベット、双方を使う日本語では、それぞれ使われる脳の部位が異なる。古代マヤの言葉は、表語文字と音節文字という2タイプの書記体系を組み合わせており日本語に近い言語原理だったという。
 数千年の時間をかけた脳の進化を、子どもはわずか数年でたどり直す。
 生後5年間に、膝に抱かれてお話を読んでもらう機会がどれだけあったかが、後の読字能力に大きく影響を及ぼす。貧しい言語環境で育った子は決定的に出遅れてしまう。

 では文字を読まなくなったら退化するのか。ネットやゲームばかりになった時どんな変化が脳に起きるのか。
 文字がない先住民族は、われわれには見えない秩序や感覚をもっていた、ということはレヴィ・ストロースらが明らかにしている。文字を覚えることで失ったものはないのか。
 古代ギリシャ人は、口承文化と記憶に大きな価値を見出していた。驚異的な記憶力だった。ソクラテスは識字能力の習得に異を唱えた。書記言語が、記憶と知識の内面化に課する、音声言語よりはるかに甘い要求は悲惨な結果をもたらすと考え、音声言語が倫理性と徳の発達に資する独得の役割を支持したからだ。
 書かれた言葉の「死んだ会話」とはちがって、「生きている言葉」は、吟味と対話によって明らかにしていくことのできる動的実体と考えた。それに反して、書かれた言葉は、反論を許さない。対話のプロセスを失わせてしまう。
 だが実際は、自分の思考を書くというプロセスそのものが思考の洗練と新たな思考法の発見につながった。書き手の努力のなかには内的対話が含まれている。ソクラテスは、文字を読むことによって脳がそれまでよりも深く思考する時間が生まれることを知らなかった。
 子どもは、読むという行為を通して新しい感情を体験することを学ぶ。他人の考え方を受け入れる能力の基板が形成される。「他人」を理解することを知る。

 今、文字文化から、デジタルで視覚的な文化へ移行しつつある。ソクラテスの心配は現代にこそあてはまる。コンピューターに何時間も張り付いて、情報を吸収しているものの、理解しているとは限らない。
 自分には知識があると錯覚して、知的潜在能力を伸ばせずにいる情報解読者集団になる寸前ではないのか。
 詩をそらんじていたユダヤの老人たちは「強制収容所に入れられても、だれにも取りあげられないものが何かほしいとずっと思っていたのよ」。
 今、記憶しているものははるかに減ってきている。記憶の衰えは最終的になにを意味するのか。

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