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修験道という生き方<宮崎泰年、田中利典、内山節>

■新潮社 20190919
役行者が開祖とされる修験道は教団組織を持たず、明文化された教義もない。仏教以前の自然信仰を土台に、仏教や道教と混ざり合って成立した。インドの仏教には「山川草木悉皆成仏」という思想はなかった。自然信仰の名残りだという。修験道は、自然信仰と仏教などがとけあうことで成立した。「教義への信仰」になるのは明治以降であり、日本の信仰は共同体のなかにあった。「信仰」という言葉自体が外来語だ。古来の日本の仏教の姿をもっともよく残しているのが修験道だという。
修験者はもとは廻国修行をしていたが、江戸時代に禁じられたため定住した。同時に庶民が豊かになり、伊勢参りや富士山参拝などの講が形成された。
江戸時代までは修験道はほとんどの村に根づいており、人口3000万だった明治初期にプロの修験者が17万人もいた。
民衆のなかに伝えられてきた修験道は、「国」をひとつにしたい国家権力からは律令時代から弾圧されてきた。明治には「禁止令」まで出された。修験道が伝えていた漢方薬は、薬事法によって次々に禁じられた。今残っている修験道由来の漢方薬は陀羅尼助と百草丸だけという。高度成長以降の拝金主義によってさらに弱体化した。だが今、多くの人が共同体を失い、会社という帰属先の危うさも知られ、新たな帰属先を求めるようになってきた。「風土」とのつながりを求める動きが高まるなかで修験道も見直されてきているという。
修験道は真言宗などの密教と融合し、大乗仏教とは親和性が高い。
明文化された教義(=顕教)だけでは真理はつかめない。明文化されていない「密教」部分を修行によって体感することが不可欠になる。人間の意識の底には、風土とともに培われた集合意識が眠っている。山での修行によってそれが覚醒され、自分の命があらゆる生物や風土、亡くなった先祖、未来の子孫ともつながっていることに気づく。 「祈り」を重ねることで過去や未来とのつながりや、各地に住む人とのつながり……自然とのつながり、さらには死者とのつながりに目覚められる。そうすれば、自然な気持ちで他者のために生きることができるようになる。
修行によって死者とのつながりを実感できたら、どれだけ救われることだろう。

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▽3 明治になると修験道は禁止され、解体されていった。表舞台に再登場するには戦後憲法が発布される昭和21年を待たなければならなかった。
▽15 修験道の始原には自然信仰がある。500年代の仏教伝来、自然信仰との習合が進
んだ。渡来人たちの持ちこんだ道教思想も。神仙思想や桃源郷の思想、仙人を理想のひとつとする思想。
…役行者は開祖と言われながら、一行の文献も残していない。修験道は山での修行がすべてであり、知の領域で学ぶ信仰ではない。「徹底的に身体性に依拠した信仰」
…「源氏物語」などの平安時代の文献を読むと、人びとの暮らしの近くにあたりまえのように行者たちが存在していたことがわかる。
…明治5年に失職したプロの修験者の数は17万人と伝えられている。ちなみに今日の僧侶や神官などの総数はおよそ24万人。明治初期の日本の人口は3千万人だったことを考えると…。
▽27 仏教の戒律は日本ではほとんどが無視されている。とりわけ在家の戒律が重視されることはなかった。民衆は協同体のなかで暮らしていて、共同体がつくる道徳、倫理、取り決めといった「掟」が、自分たちの世界の「戒律」だったからである。
▽33 死を恐怖するが、真実の死がどのようなものなのかは誰も知らない。にもかかわらず人間の意識は「死なるもの」をうみだし、それに恐怖する。意識がつくりだした世界に縛られて、その世界のなかで苦しんでいる。だから、この世界は意識がつくりだした虚構にすぎないことを知る必要がある。この真理を釈迦は知り、そのことによって悟り=解脱を得た。
…大乗仏教は、出家、在家を問わず、だれでも解脱できるという立場をとった。
…大乗仏教は、すべての人は悟りを開き、菩薩、如来になることができるという考え方と、悟りを開くための修行は自分のためにするものではなく、他者のために行わなければならない、という考え方をもっていた。
…人間の奥には見えない仏性、意識できない仏性があり、この仏性の世界に下りていくことができれば、すでに菩薩、如来の世界にいるということになる。この仏性の世界が、華厳教学では結び合う世界としてとらえられた。すべての人間も自然も奥に結び合う存在をもっている。(〓熊楠)ところが意識はこの結び合う世界に気づかせないばかりか、意識の世界は人間たちに苦しみを与える。
…自己の悟りを開くとは、すべてが結び合う世界に下りていくことであり、すべての生き物の解放と結ばれながら展開することになる。
…自分が悟りを開くことと他者のために生きることはひとつのことなのである。
▽39 菩薩、如来の世界に下りていく方法を示す、そのための行の方法を示すことによって、中期密教は完成したといってもよい。
…誰もが奥底に菩薩心を、大日如来と同じものを持っていて、この世界にかえっていくことができれば悟りは開ける。
…中期密教では、釈迦が解脱したのは、大日如来の教えを感得したからだ…
言葉にできない本物の真理は密教であり、釈迦が言葉にして伝えた真理が「顕教」と呼んだ。「顕教」は学ぶことができるが、密教は行を通して会得していくものだということになる。
▽42 修験道はいわゆる教団を形成しなかった。民衆信仰という立場を守りつづけた。教団は、組織の維持と発展を目指し、教団維持の保守主義が生まれる。繰り返される仏教運動という性格は衰退していく。「知のヒエラルキー」が発生してしまい、民衆は仏教運動の主人公ではなくなってしまう。
…明確な教団を形成せず、村や町の聖たちとともにありつづけた修験道は、大乗仏教の精神をもっとも良く受け継いだ信仰運動であったということができる。
▽46 死後の霊は山に還るとされた。…祖霊=ご先祖さまは集合霊であり…日本では死後の世界が自然のなかにあったのである。だから仏教説話が入ってくると、山のなかに極楽浄土があったり地獄があったりするようになった。
▽47 天台宗の聖護院を総本山とする本山派修験道と、真言宗の醍醐寺三宝院を総本山とする当山派修験道だった。金峯山寺は両派がともに来る根本道場。
▽50 明治5年の修験道廃止で吉野の金峯山寺も廃寺にされた。失職した修験者は漢方薬の知識を生かして漢方薬屋になっていくが、政府は繰り返し薬事法を改正しながら、その活動を取り締まった。修験道由来の漢方薬で今残っているのは、吉野の陀羅尼助と木曽の百草丸ぐらいである。
■対談
▽54 民衆仏教の流れは存在していて、鎌倉仏教は公式仏教の民衆仏教化として成立したのではなかったか。
…役行者の時代は律令制ができる時代だが、朝廷は山林修行を禁止したりしている。「山林修行」がすでにかなりの広がりをもって展開していたということである。そういう基盤のなかから600年代に役小角が出てきて、修験道が誕生していく。しかも民衆的世界にいつづけた。
▽63 空海、最澄、円仁、円珍が伝えたのが密教であって、それ以前の密教は全部雑密だという言い方。
▽65 言葉では伝えられない真理がある。大乗仏教は、密教と顕教を持つ必要があった。根底に密教を持っている形です。…修験は、真理を言葉で伝えようとはせず、真理を知る方法だけを伝えている信仰でしょう。それが山での行。真理は密教的世界にあるから、言葉では伝えられない。
▽70 法華経、密教、修験道の三つの思想を併せ持つ寺が聖護院。…山伏たちの職業はさまざま。講の仲間と山で修行するのが昔の形だが、最近では、個人として山で修行する人も増えている。
▽72 体験修行。蓮華入峰という2泊3日の修行。それらを終えた人たちが奥駈に参加するという順。
1泊2日の体験入峰は、1泊2日で2万5000円前後。
▽金峰山 それぞれの寺院が宿坊に。1日20ー24、5キロ歩く。
▽85 江戸時代に檀家制度、寺檀制度ができていったとき、修験道のお寺は排除されていた。だから人びとの純粋な思いや、寺と人びとの結びつきに支えられて歴史を刻んできた。
▽87 山伏は普通の暮らしをしている人がお坊さんよりはるかに多い。だから何かあったときにすごい力になる。特殊な労働力も提供できるし……
▽95 明治以降の過酷な歴史を経て、高度成長やバブル時期にさらに弱体化した。でも修験道に関心を持つ人たちが近年増えはじめている。
…企業という帰属先が消え…。日本の人たちは風土に帰属していた。それが明治以来の150年あるいは戦後70数年の間で壊れていった。…本質的な帰属先をという思いを抱きはじめたとき、自然がつくりだした風土とか、信仰がが視野に入ってきたのでは。
▽100 インドに生まれた仏教は2世救済。過去世は相手にしていない。修験道は過去世の救済を視野に入れる。…日本で育った仏教は先祖供養に熱心と言うことを含めて、三世救済を取り入れている。修験では、過去は過ぎ去ったものではなく、現在世の基盤として存在しつづけている。だから過去を救済しないと現在世も救済できない。
▽103 山を歩いていると、親父や先祖も一緒に歩いている、という感覚が絶えずある。……岩や木や草が自分と同じものであって、宇宙とつながっている自分の存在を感じた……。祈りをとおして自然と結ばれるという行為がなければ、登山家になってしまう。…祠で拝み、岩に拝み…ということをとおして、日常のいろいろなものが取れていく。自然に対して率直に向き合っている自分が存在してくる。拝む、祈るという行為をともなうから、率直な心が再生していくのでは。
▽108 根本道場は大峯・葛城。大峯の行者としてはそこが一番いい山なんですよ。山伏は三角点は避ける。山頂は神仏が坐すという拝む対象。自然に包まれ、山に包まれ、拝みつづけた過去に包まれる。その時過去世が感じられて、聖地性に包まれる。そういうつながりの奥には役行者がいる。我々がつながっていくのは、役行者に帰一していくつながりなんです。
▽116 埼玉の毛呂山に「開けてはならない」というお堂があった。近年開けたら、漢方薬の宝庫になっていた。
…明治5年の修験道廃止令後、薬事法改正を繰り返しながら、修験者たちを追いつめていきます。風土と共にあった漢方薬を使えないようにしながら…
▽118 日本の信仰は共同体のなかにあって、人びとの生活から離れなかった。「教義への信仰」になっていくのは明治以降。
…修験道は在家主義ですから、修行をしながら社会のなかに埋没するように暮らし、人びとの願いを聞きつづける。出家した人よりも、出家などせずに修行を重ね人々の信頼とともに生きる優婆塞が柱になる。
▽122 定着しない廻国修行が江戸時代に禁止されて、里修験が出てきた。そのころ庶民の経済事情がよくなって、大峯参りや伊勢参りができるようになった。講のようなものができて、それをとおして山とつながるようになった。かつての村には、山伏的なもの、修験的なものを育む土壌があったから、修験が定着した。
明治の修験道廃止令で職を失った修験者は17万人。当時の人口は3000から4000万人。(すごい数の修験者がいた。影響力も〓)
▽128 書いたものも言ったことも残っていないのに、信仰として残っているのは、役行者をおいて他にはない。…役行者的な山岳開創者は各地にいた。その山岳信仰が結集するかたちで、自分たちの信仰を確立していった。(役行者は一人ではない)
▽132 カール・ヤスパース 小国が群雄割拠した社会から大国主義が出てくる時代に、釈迦も孔子も、キリストもマホメットも庶民の側の論理を背負った聖者として登場してくる。…役行者も最初の大国主義が出てくる時代に庶民の側の聖として登場してきた。…中央集権をめざす国家は、役行者を伊豆に流す必要があった。
…律令制国家ができたとき、山林修行も禁止された。庶民の祈りや願いとつながっている聖の世界自体が攻撃された。明治も…
▽140 信仰が独立したものになるのは近代になってから。それまでは生活や仕事、地域、風土の中に埋め込まれていた。宗教、信仰という言葉自体が、外来語の翻訳語。
…昭和恐慌のころに、信仰をはずして経済的助けあう同業者の講がたくさんできてくる。
…三峯神社の講は今も盛ん。もともと修験の場。
▽142 近代になって帰属先が壊れてしまったけれど、いままた本物の帰属先を探しはじめている。
野沢温泉村の野沢組という講〓。行政の自治組織と野沢組という惣村の自治組織の「二重権力」によって運営されている。野沢組が温泉の権利を持っている…あらゆることが野沢組の同意なしには動かない。〓
▽149 明治の弾圧で打撃は受けたが、生き残っていた修験道。戦後、神仏の代わりに経済を拝むような価値観が急速に広がって息の根を止められかかった。
▽152 権現信仰は、姿形なき真理=本質が姿をあらわしているという考え方。神でも仏でも自然でもある祈りの対象が、神仏分離とともに廃止されていった。…権現は、神、仏という区分を超えた祈りの対象だった。金峯山寺では明治の法難にご本尊である蔵王権現の厨子の扉を閉めて、隠すことで守りましたが、日本中の蔵王権現がほとんどいなくなってしまった。
▽156 昭和48年のオイルショックのころに、関西でも講の力がガクッと落ちた。講を担ってきたのは、職人の代表のような人たちだったが、自分の仕事の経営が大変なことになってきた。西陣あたりの講が急激に勢力を失った。
▽158 山伏の寺は基本的に檀家を持っていない。
▽161 全国の修験の寺のほとんどは神社になっていった。富士山も御嶽山も石鎚山も英彦山も羽黒山も。
…吉野と大峯では山伏の信仰が廃れなかった。大正昭和になり戦争に近づくと、身体の鍛錬を兼ねて関西各地の男の子が、大峯に登る習慣ができていった。
▽164 近代以前の宗教は、キリスト教も含めてどんな宗教でも共同体の信仰として成立していた。それが近代になると「個人のキリスト教」になっていく。日本の仏教も。
…個人の宗教に変わると、宗教自身が衰弱していく。講や共同体を新しい形で再生することが必要になっている。
田中 風土を取り戻せるような新しい時空は、どうやったらつくっていけるのか。それが修験道復興の道なのです。修行によって何かを感じとることができたとき、古代からつづいてきた日本の風土に気づくことができるかもしれない。
梅原猛「神殺しの日本」「明治以前に戻れ」。もどる手がかりの一つが修験道。
▽170 ユング 受け継がれる「深淵の記憶」。生命の歴史が積み上げてきた集合意識である無意識の意識。そういう奥にあるものを解放していく力が日本の風土にはあった。
…修験は登山ではない。長いあいだ受け継いできた文化です。修験を文化として継承していく記憶がなくなってしまうと、単なる登山になってしまう。
▽172 日本の伝統的共同体は、自然と生者と死者の共同体。その結びあいのなかに神仏への祈りをもっていた。
▽176 祈りは継続してこそ意味がある。毎日祈りつづけると感じられるものがあるし、そうやって理性の力では到達できないものを人々はつかみ取ってきたのです。
…祈っていると、つながりに気づくのです。被災しなくなった人たちに祈りを捧げていると、知り合いがいなくても、奥の方では自分ともつながり、ともに生きていたつながり合う人を感じる。人間たちの無限のつながりのなかに私も亡くなった人もいる。
▽亡くなった人たちへの祈りをとおして、現在生きている人たちへの祈りもでてくる。亡くなった人への祈りを失ったら、復興の意味もつかめなくなる。
▽185 明治維新、戦後と、日本の神仏は敗北しつづけてきた。そういうことがいまの事態を生んでいる。。
…聖護院でも原発をなくすための署名を継続している。祈りをとおしていろいろなことに気づいてきた。その気づきが行動を生む。祈りは行動になっていかなければ。
▽188 あらかじめ自然という実体があるわけではなく、その関係をとおして生み出されていく実体がつくりだされている。本質は関係の方にあって、その関係がさまざまな姿形をつくりだすと言うこと。
▽200 死んだ先のことは、、蔵王権現に任せたらええ。阿弥陀如来でも自然でもいい。おまかせして死んでいくみたいな、そういう死の迎え方であってほしいと思う。
…死ぬ前には…「いままで自分がしてきたことを思い出すとええ」生きるのがあと何日か知らんけれども、その貴重な時間の間に回顧しろよ、と。その思い出をもって死後の世界へ行くんや。思い出に包まれて旅立つ方がええ。(〓手紙を書いたこと)
▽207 山川草木悉皆成仏 インドで発生した仏教にはない。仏教以前からあった信仰が受け継がれてきたということ。
修験道のあり方に、日本仏教の純粋な形を見てもいいはずだ。

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