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幻影の明治<渡辺京二>

■平凡社 20190422
筆者は、封建的で遅れていた江戸時代を、維新政府は近代的につくりかえた、という歴史観を「逝きし世の面影」で覆し、平和で穏やかで外国人を魅了した時代像を提示した。そんな渡辺氏は明治時代をどう見るのか知りたくて読んだ。
自由民権運動を多くの戦後の学者は西洋の民主主義の影響を受けた「進歩的な運動」ととらえた。
だが、具体的なエピソードをみるとまるで異なるという。
自由民権運動の原点は、徳川という国王権力を制限して、有力領主たちが権力に参与することを求める公儀政体論や列藩会議論にあった。デモクラシーというのは一足飛びに庶民が統治に参加するのではなく、必ず貴族による国王権力の制限という形を経るという。旧藩時代に存在していた社会の絆や士族の参政権を再建せよというのが「自由民権運動」の原点だった。征韓論争に敗れて下野した板垣らが民選議員をつくれと要求し、各地に民権結社が生まれたのは、薩長の権力独占に対抗しただけで、尊皇攘夷の志士とかわらない粗暴なナショナリストだった。
一方、秩父困民党などは下流民権で、士族民権とは接点がなかったが、もっとも戦闘的な分子は、博徒や豪傑たちがだった。市民的理性と全く反する非合理的な情念の持ち主が自由民権運動左派の担い手だった。

司馬遼太郎批判は痛烈だ。農業しかないちっぽけな国が維新後に一気に成長し、ロシアを倒すまでになったのに、昭和になって神がかり的になって破滅した、という物語を司馬はつむいだ。渡辺は、江戸時代に訪れたヨーロッパ人が市場経済の豊かさと、商品の品質の良さに驚嘆していたことなどを指摘して、坂の上の雲の冒頭を「与太話」と切り捨てる。明治の発展の基盤は江戸時代にできあがっていたのだと。
「歴史の底には歴史的事件に左右されぬ、それを超えた膨大な生が実存する。そのような生をイメージできてこそ、歴史叙述の新しいスタイルも見えてくる」とし、丹念にエピソードを拾うことで、時代の様子を生き生きと描写していく。
たとえば、馬関戦争では庶民は平気で外国軍隊の弾丸運びに協力したし、戊辰戦争では会津の農民は官軍に雇われて平気だったことを紹介し、「近世国家においては、統治者以外の国民は、国家的大事かかわる必要がなく、不本意にかかわらねばならぬときは天災のようにやりすごすことができた」と指摘した。
所収の対談では、戦後の歴史学者の文章は物語がなくて読むに堪えない、と批判する。 その時代の人間に当時の状況はどう見えていたのか。生きていた人々の課題が何であったかを明らかにできなければ歴史など書けない。
後付けの知恵で、理論の枠組みの構築ばかり考え、エピソードを軽視する「科学」と化して「物語」を描けない戦後の歴史学の在り方を批判する。新聞の無味乾燥な文章にも同じ批判が当てはまるだろう。

一方、「鑑三に試問されて」は毛色のちがう作品だ。
内村鑑三のメッセージの中核とは、義(ただ)しくありたい、そうでなければ自分は生きられないという叫びだという。実際のおのれは悪念のすみかで、世界は醜悪である。それでも生きてゆけるのかと、69歳で生を終えるまで自分にも他人にも問いつづけた。
鑑三は、信仰は自力によるものではなく、自分が望まないのに、いやいやながら神に召される。救いはそういう形でしか訪れないと語った。
人間は大いなる実在の一部であり…そのような感覚がふっと外から訪れる。そのような訪れはおのれを是認してくれると同時に、おのれの卑小さを突きつける。神によって義とされるとは、おのれを打ち砕かれ愚かにされ無能にされることだと鑑三は言った。
「世の中を何とかましにしたいと念じて身を投じている人々は、まず何よりも人間を超えた大いなる実在を覚知せしめられて、世界は人間のためにあるのではない、愚かなる者である人間は世界から許されて存在しているのだ、と知ったからこそ、そうしているのであってほしい、でないと、いっさいの議論も試行も、そのときどきの空騒ぎに終わる」と書く筆者もまた、鑑三のように人間の存在を超える「大いなる実在」を実感しているのだ。それがうらやましい。
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□山田風太郎の明治
▽10 実在の人物がわらわらと登場し、虚構の人物と組んで組んずほぐれつする。明治期を舞台にした小説は、7つの長編とふたつの短編集。
「明治波濤歌」 6つの短編を収め、 シリーズのなかでも傑出した作品のひとつ。「風の中の蝶」熊楠も登場。
□三つの挫折
▽83 戦後の自由とは、大日本帝国の瓦解によって生じた巨大な虚無のただなかに出現した、輝かしい白昼夢だった。その白昼夢から醒めて自由と解放の意味をわが身で検証するには、どれだけの悲喜劇を必要としたことか。…その検証の道程は2010年現在、まだ終わっていないのである。
▽87 大衆が天下国家を熱烈に論じ…るような時代は、かの紅衛兵の時代を見よ。けっして正常でも幸福でもない。
…あらゆる歴史的大変動の底には、それによってけっして左右されない無告の大衆が存在する。…歴史の底には歴史的事件に左右されぬ、それを超えた膨大な生が実存する。そのような生をイメージできてこそ、歴史叙述の新しいスタイルも見えてくるのではあるまいか。
□旅順の城は落ちずとも 坂の上の雲と日露戦争
▽90 司馬遼太郎 小説と銘打ちながら、講釈に次ぐ講釈で、その中身もとても本記でつきあえる代物ではない。その転機になったのが、…「坂の上の雲」だったように思う。
「明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業と言えば農業しかなく…」。お話にならぬ与太である。ポルトガルやオランダが日本よりずっと小さな国であるのは小学生でも知っているのだから。
…幕末日本を訪れたヨーロッパ人は、…市場経済の豊かさに刮目し、商品の廉価・品質の良さからして、欧州産品はとてもはいりこめないと感じた。
…司馬の言いぐさは一から十まで事実に反する与太話なのである。
▽94 司馬 明治のナショナリズムは健康だったと言いたいのだろう。合理的かつ進歩的で、排外主義やエスノセントリズムに陥らぬ健康さを保持していた、と。
▽96 彼は、明治人は昭和人のようなバカな戦争の仕方はしなかったといいたいのである。彼は、敗戦によって自己喪失した日本人に自信を取り戻させると同時に、明治期の合理的な精神がどうして神がかり的精神に退化したのか、現代日本人に反省をつきつけようとした…
▽…ゼロからの近代化というのがまず問題で、明治の近代化の成功は徳川期の遺産によるものが多い。
▽98〓 近世国家においては、統治者以外の国民は、国家的大事かかわる必要がなく、不本意にかかわらねばならぬときは天災のようにやりすごすことができたのに対し、近代国家においては国民は国家的大事にすべて有責として自覚的にかかわることが求められた。
幕末の日本人大衆は、馬関戦争では外国軍隊の弾丸運びに協力して、それが売国の所業などとはまったく考えていなかった。戊辰戦争で会津の農民は官軍に雇われて平気の平左だった。
▽102 (戦争で)やむをえぬ義務に駆り立てたのは、国民の自覚である以前に共同体への忠誠の故ではなかったか。何百年というあいだ、村共同体への忠誠義務をほとんど肉体化していた。この伝統は15,6世紀の惣村の成立にはじまる。

□士族反乱の夢
▽114 最近の研究では、征韓派の頭目とされる西郷隆盛に、征韓の意図があったことじたい疑われている。征韓論の言い出しっぺは、木戸孝允であり、その実行者は、江華島事件の挑発者大久保利通だった。
…「士族反乱」は日本の近代に反対した反乱ではなかった。もうひとつの近代を求めた反乱だった。

□豪傑民権と博徒民権
▽132 従来の自由民権運動研究はおもしろくない。明治政府の専制主義に、民権主義者がいかに勇敢に創造的に闘ったかというお話になっちゃう。井上清さん流の人民抵抗史観の再生産になる。
…民権運動の研究家はみんなフランス革命モデルの信奉者。封建的領主・貴族を打倒して、自由で民主的な市民社会が築かれたという市民革命モデルで歴史の流れを考える。…
民主主義万歳、平和憲法万歳みたいな心情を確認する場として、自由民権運動研究がある。
▽征韓論争に敗れた参議たち、板垣・後藤・江藤・副島が民選議員をつくれという建白をする。同時に各地に民権結社が生まれるが、これは民権と同時に国権の意識が非常に強い。いわゆる士族民権。…武力反乱を起こしたくてたまらない連中。薩長に権力を独占されたものだから、それに対抗して民権を旗印にしただ。尊皇攘夷の志士とかわらない粗暴なナショナリストだった。…一方、西南の役以後の民権運動を主導したのは豪農層であるとされてきた。「豪農民権」。…自由民権運動はまず士族民権としてはじまって、やがて豪農民権へと進展したなんていうのは表面を見ているにすぎない。
▽137 起源は幕末の公儀政体論や列藩会議論にある。…一種の貴族デモクラシー。徳川という国王権力を制限して、有力領主たちが権力に参与する。…英国でも、デモクラシーはまず貴族による国王権力の制限という形ではじまる。…デモクラシーというのは一足飛びに庶民が統治に参加する形では出現しない。必ず貴族による国王権力の制限という前駆的形態を持つのである。
…民権運動はまず全士族に政治関与権を与えよと主張して始まった。
▽139 幕末明治期には、…全士族が従来の門閥支配を排除して、能力に従って政治に関与すべきというコンセプトが常識になってくる。
…板垣たちは明治新政府にいるうちは民権の民の字も言わなかった。政権から放り出されてはじめて民撰議院をつくれと言い出した。全国士族に参政権を与えよ、が、彼らの自由民権の本音だった。
…自由民権運動とは、全国の士族に参政権を与えよという主張として始まった。
…民権の主張のなかで、旧士族は参政権を持っていたと主張していた。江戸時代に存在した参政権がゼロになった、士族はそれを失ったと主張している。
…旧藩時代は地方を地域社会として維持していくシステムがあったのに、明治の新時代になってそれが崩壊してしま、中央集権が進み、地方の活力が失われる、と言っていた。
旧藩時代に存在していたような社会の絆、さらに参政権を我々は失ってしまった。それを再建せよというのが「自由民権」だった。〓
▽147 市民的理性と全く反する非合理的な情念の持ち主が、我が自由民権運動左派の担い手だった。(豪傑や博徒)
▽158 秩父困民党は、下流民権で、士族民権とは接点がなかったが、そのなかに博徒がいて、もっとも戦闘的な分子だった。

□鑑三に試問されて
▽167 日本の文化は雑種であるとか基軸を欠いているとかいう言説が、反対性的知的エリートからなされ続けてきた。しかし文化はすべて雑種である。思想的基軸が存在しないのは近代社会の特徴であって、日本ばかりのことではない。神が死んだとき精神的基軸もまた死んだのである。
▽167 人間の生存意義を正面から問いかけるのが鑑三のおそろしさ。
▽172 鑑三のメッセージの中核とは、生は義しいものでなければ生きるに値しないという叫びである。…彼の一生を導くのは、義しくありたい、そうでなければ自分は生きられないという、悲痛な要請である。しかし、おのれは悪念のすみかであり、世界は不正かつ醜悪である。それでも生きてゆけるのかと彼は私に問うのである。…69歳で生を終えるまで、おのれに問い、人に問うたのである。
…日本人には珍しく、絶対の義しさを求める心があった。それは唯一無二でなければならない。
▽175 (鑑三)キリスト教は信徒に救いや安心を与えない。…信仰を得るというのは、義のために戦う艱難の生涯を覚悟することである。
…キリスト信徒たることは神の起こす義戦の戦士として徴募されることだと鑑三は確信していた。
▽180
▽182 この世の利害から悩みからふっと解き放たれるのは、自分が望んでそうできるのではない。それはどこともしれぬ自分の外から、思いもかけぬ時にふっと訪れるだけなのだ。
鑑三は、信仰は地力によるものではないと、くどいほど強調した。自分が望まないのに、いやいやながら神に召されるのだ、救いはそういう形でしか訪れないのだとさえ語った。(親鸞と同じ)
▽184 実在が大いなるものの形をとって、ふっと訪れてくることがあるといいたいだけだ。吹いてくる風っでも、差し込む光でも、空をゆく鳥でも…よいのだ。おのれも他者も是とされているとそのとき感じ、是とされるのはおのれの計らいではないと知るのだ。
▽186 人間は大いなる実在の一部であり…そのような感覚がふっと外から訪れるのである。そのような訪れはおのれが世にあることを是認してくれるが、おのれの卑小さをもまた啓示してやまない。鑑三は、神によって義とされるとはおのれを打ち砕かれ愚かにされ無能にされることだと言った。

□<対談>独学者の歴史叙述
▽196 橋川文三の流れを継ぐ者として。
▽201 ヨーロッパでは、日本の学者が書いているようなものは歴史書ではなくて研究書にすぎない。日本も戦前の歴史家は文章が上手。漢文の素養から来ている。
…戦後の歴史家のものは通読不可能。日本の歴史家には「物語がなければいけない」という意識がない。戦後の科学的歴史主義でそうなってしまった。
▽208 総合知というか、本当に良いものは、専門の隙間とか、間とか、縁にある。そこが漏れてしまってる。
…その時代の臨場感というものがあると思う。…一人の人間に当時の状況はどう見えていたのか。後知恵はぬきにして、その同時代をどう見ていたのか。その時代の雰囲気がどうであったかというのは、その時代に生きていた人々の課題が何であったか、ということ。そこを具体的に明らかにできなければ、歴史など書けない。
…日本の歴史家は文学も読まない。明治の歴史家は、若い頃にみな文学を読んでいた。…歴史が「社会科学」になってしまった。本当は「文学」であるはずなのに。

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