■201904再読
昔の人は「死」から「生」を捉えていたから、死は、苦しみからの救いという肯定的な面があった。だが医学の進歩で死は単に恐ろしいものとなった。死や悲哀は病院化し、死別のための共同作業は消え、遺された人たちを支えるコミュニティが失われてしまった。 そんな現代、大切な人を喪った時、悲しみはどんな段階を踏むのか、悲しむ人への援助はどうすればよいのかを検証している。東日本大震災の被災者ケアを念頭において翻訳された本だ。
5年前読んだ時は頭で理解しただけだったが、今回は「悲しみ」のケアの大切さと難しさが痛いほどわかる。
以前の研究によると、強烈な悲哀の期間は死別後3カ月か6カ月で、相対としての悲哀は1年か2年で終わりを告げるという。妻を亡くして重いうつ病になった倉嶋厚は「3回忌まで」と言っていた。
でもその程度で立ち直るとは思えない。「日にち薬」という言葉も信じがたい。最近の研究では、3年、5年、さらにそれ以上、悲哀がつづくことも珍しくないという。その方が実感に合う。癒やされることがないという絶望もあるけど、故人を忘れないですむんだとホッとする面もある。
フロイトは、自分の心から故人を引き離すことで立ち直ると考えた。「忘れろ」に等しい。それは受け入れがたい。最近の研究では、故人に何らかの意味を与え再配置することが大切とされている。亡き人がもつ不変の意味を明らかにすることで、故人が実在しなくても、共に歩んだ道のりを思いだして力を得ることができる……。その方がフロイトより納得できる。悲哀の経験は人間的な成長の契機になり得るという指摘も、神谷美恵子らと同じだ。そうあって欲しいとは思う。
悲哀を抱える人、とくに妻を1週間以内に亡くした男性の死の危険性は通常の66倍にのぼる。だからできるだけ早く、できれば臨終の場から寄り添う必要があるという。故人を亡くした後の週末、クリスマス、誕生日、結婚記念日、命日…といった、あらゆる「初めて」の事柄がハードルとなる。人との交わりから退こうとすることは悲哀の本質に属しているが、支える側は、たとえ拒まれても自分から赴くべきだという。
たしかに、自分から人に会おうとは思えない。誘われたらめんどうだと思いつつも会うだけ。もしそれらの誘いがなかったら、家に鬱々とこもりつづけることだろう。
「自分の人生を故人と一緒に葬ることなどしなくても、故人を敬愛できることをはっきり示すことが助けとなるでしょう…相手への忠誠の誓いでさえも、死が私たちを離すまで、しか有効ではないのです」という指摘も、支える側にとってはその通りだと思う。当事者には簡単に納得できるとは思えないけれど。
悲しむ人がその気持ちを語るとき、よりそう人は共感のサインを送り、続けて語ることを励ます……。話すのはつらいけど、本当は話したい、だけどつらい……という気持ちなのだから、避けるのではなく、強要するのではなく、共感する。
この本に書いていることは当たり前のことなのだけど、私も含めて多くの人がそれを忘れているということに気づかされる。
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▽96 遺された品を捨てるという行為を通して、彼女には別れの準備がすでにできており、決別を実行し始めたのです。一方、まだ意味がある品々に加えて、新しい意味が生まれた品々を手元に遺しました。その思い出を通して、今は亡き人の要素を自分自身の人生に取り入れたのです。そのことを意識的におこなった後、別れのプロセスを心のうちに進めることができるのです。(〓別れのプロセスではあってほしくない)
▽105 シュトローベ夫妻によると、パートナーの死を通してそれまで故人によって担われていた四つの支えが欠けてしまいます。「実生活上の支え」「正しさを保証する支え」「感情的な支え」「社会的アイデンティティー」
(家事を教えられた意味〓)
感情の領域は、最も危機的な領域。その欠損は、心と体の健康にさまざまな害を及ぼす原因とみなされます。
▽129 死の事実をはっきり認めることは、まず行うべき最初の課題です。…開かれたままの目を閉じて…体と体の接触を通じて経験し…故人への最後の愛の奉仕をなすその時、その場でこそ死を理解することができるのです。
▽134
▽137 悲しむ人がその気持ちを語るとき、よりそう人は理解したことをくり返し、共感のサインを送り、続けて語ることを励まし、これまで聞いたことを確認し、力を与えます。(〓本当は語りたい。〓)
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