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人間をみつめて<神谷美恵子>

■河出書房新社20190414
動物と共通する古い脳は「本能」に左右され、新しい脳は、古い脳による衝動を抑制する力があり、自発性や抽象能力を司る。新しい脳があるから、悩みが生まれ、死が恐ろしくなる。一方で、シンボル的な思考ができるから、病床にいても、新しい発見や喜びにであうこともでき「生きがい」を意識するようになる。
宇宙のこともミクロのことも人間が理解できるのはごくわずかで、人間の理性を越えたものがあることはまちがいない。生きがいとは、人を越えた存在から与えられる使命感という。
人間を越えるものに支えられている実感があれば死さえも恩寵になり得る。命がもろくはかないからこそ、人間は結ばれ得る。弱さにおいて結ばれるのであり、逆ではないのだ。
生きがいが奪われ、何のために生きるのかという問いに迫られた時、積極的な答えを与えうるのが使命感である。では、どうすれば自らの使命を知ることができるのか。
「何か呼び声が聞こえたとき、それに応じられるように耳を澄ましながら、自分を用意していくこと」「使命の方がわれわれを探しているのであって、われわれの方が使命を探しているのではない」と言う。
死とは永遠の別れなのか? などと「死」を巡る謎を解くには、「死の秘密は生のただ中に探し求めなくては 見いだしえない。…生の体に向かって、心を広く開きなさい。なぜなら生と死はひとつなのだ、ちょうど川と海がひとつであるように」というカリール・ジブランの言葉を引く。けっきょく、死の秘密を知りたければ、しっかり生きるしかないということなのか。
死の床の苦痛は、多くはそう長くはつづかない。愛する者との別れといっても、別な状態で存在するだけなのだ……と、筆者は断言する。死に直面した人の心を一番苦しめるのは「自分の人生に意味があったのか」という問いだという。だからこそ、死に行く人に対しては、その人がどれだけ大切だったかを伝えなければならないのだろう。自らがその問いに悩む時は、「人生の意味は人間を超えたものにまかせるほかない」と思えば、死もまた美しいものに見えてくるという。
生命を与え支えてくれる超越的存在は死後をも支えてくれる。死もまた、その存在が与えてくれるものなのだから、恩恵として受けとめられるという。「生きることも死ぬこともこの大いなるものにまかせて、生の内容を価値あるもので満たしていきたい。…生命を支えるものは死をも支え、地球や宇宙全体を支えるものだ、としか私には考えられない」とつづる。
つらいときでも、じっと踏みこたえて光を求めるうちに、自分を支えてきたものに思い至る。多くの配慮と許しと助けが自分の上に注がれてきたことに気づく。そういう意味で苦しみは、人間が人間の生の条件を自覚する契機であるという。
そして「生きがいがない」と嘆く人に対しては「自分というものに執することをやめ、目の前に現れる仕事や楽しみに身を投げかけて、対象そのものになりきればよい」と助言する。
筆者は特定の宗教を信じてはいないが、超越した存在の愛と許しと支えに全幅の信頼を置き、既存の宗教以上に宗教的だ。「この宇宙のなかで、意識ある生命を与えられた。個の意識をもって宇宙を支えるものに賛歌を捧げたい。それをささげうる心が人間に与えられたことを感謝したい。こういう広大な世界を、小さな心で思い浮かべることこそ人間に与えられた驚くべき特権であると思う」という神谷の言葉は、経典や聖書を思わせる。

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▽39 パスカル「人間の多くの活動は、人間のおかれている死刑囚にも似た境遇から気をそらすものだ」…私たちはいつでも死を覚悟して生きていくべきものなのだろう。健康、家庭、職業…すべて人生の特権というべきものは、いつ、なんどき奪われるかわからないものだ。このことを繰り返し心に言い聞かせつつ、「この世に死んで」生きるべき人生なのだと、パスカルのような人は言うだろう。
▽67 学ぶにしても教えるにしても、「やりたいからやる」という自発性をともなわないと、ほんとうのよろこびが生まれないということである。
▽72 読書の習慣が身についていたならば、いながらにして心は世界を駆けめぐることができる。。そのためには学生時代のような乱読よりも、なにかの題目についての系統だった読書の積み重ねがよいだろう。そうすれば、ヒマと自由ができた時に、それがプロの道へとつながることだってあるかもしれない。
▽86 一生がただ苦しみを感じるだけに終始したとしても、…その人の生がかけがえのないものである、という視点もありうる。その視点とは「永遠の相のもとに」人間を眺めるまなざしのそれであろう。このまなざしのもとで各人の歴史的時間に意味と役割が与えられているとすれば、ある人が主観的に生きがいを感じるか否かは、そうたいした問題ではなくなる。
▽92 いのちのもろさ、はかなさにおいて、私たち人間はみな結ばれているのだ。
▽101 生きがいが奪われたとき、はじめて自分は何のため、だれのために生きているのか、自分が生きているのは、ただ生きているだけにすぎないのではないか…という疑問が意識にのぼってくる。この問いに、もっとも積極的、肯定的な答えを与えうるのが使命感であることを思えば、極限状況にある人々の心に、使命感が現れてくるのは、ごく自然な自己防衛機制のひとつともいえよう。
▽104 使命感にあふれるということは、思い上がりと独りよがりの危険を伴う。
▽使命感に生きた人…ジャンヌ・ダルク、宮沢賢治…、高群逸枝「火の国の女の日記」を読むと、あらゆるものを犠牲にして、膨大な女性史を執筆することへの燃えるような使命感が脈打っている。
▽107 私たちにできることは、何か呼び声が聞こえたときに、それにすぐ応じることができるように、耳を澄ましながら、自分を用意していくことだけだろう。そういう人のところに、遅かれ早かれ使命が現れてくる。
「使命の方がわれわれを探しているのであって、われわれの方が使命を探しているのではない」(ハマーショルド)
▽126 どのように難行苦行を積んだところで、罪の意識に悩む人間の心の苦しみがやわらぐとは思われない。人間に必要なのは無条件の許しと、それを素直にうけとめる「くだけたこころ」でしかないと思う。
死の秘密は生のただ中に探し求めなくては 見いだしえないものではなかろうか
暗闇に慣れた眼をもつフクロウは 明るさに盲いて 光の神秘を明らかにすることができない。もし死の精髄をほんとうに見たければ 生の体に向かって、心を広く開きなさい。なぜなら生と死はひとつなのだ、ちょうど川と海がひとつであるように。(カリール・ジブラン)
▽128 死に直面し、あわてない人はあまりいないであろう。しかし波立つ心を静めて、ゆっくりこれを眺めれば、やがて、死は生の友にさえ変貌してくる。死を本当に自分の生のなかに取り込んだ人は、かえってたいへん明るいのだ。
▽130 なにが死をまっすぐみつめるのをさまたげるのであろうか。感情的なもやもやであろう。まずそれを取り除かねばならない。…死に直面した人の心を一番苦しめるもののひとつは「果たしてじぶんの人生に意味があったか」ということであるという。
死の床の苦痛といっても、多くはそう長いあいだ意識されないものだ。愛する者との別れといってもほんとうは別れでなく、べつな状態で存在するだけなのだ。〓〓
自分の生の意味といっても、自分にも他人にもほんとうはわからないのだ。その判断は人間を超えたものにまかせるほかないのだ。
こうして感情的なもやが晴れれば、死もまた、壮大で美しいものに見えてきはしないだろうか。「大地に帰る」という日本語はじつにぴったりしている。
…いったん死を覚悟すればものの価値判断も変わってくる。…なるべく価値あることに自分の生命を使いたい…こう考えたときはじめて、死というものは生にとってプラスの意味を帯びてくる。
…私たちのいのちを支えるものは私たちの死後をも支えるはずと思えたとき、何も恐れや不安を抱く必要がないことがわかる。しかし、死が近づくにしたがって、人情でも自然でも、なんと美しくなつかしくみえてくることか。
▽143 自我といっても、自分からこの世に生まれてきたわけでもなく、花や鳥と同じく「存在させられたもの」にすぎない。「存在させたもの」の前に素直に存在するほかはないと思う。
小我とは自ら意識する自我で、大我とは、万物を「存在させたもの」の手に小我を委ねたとき、はじめて自己の全体像として、しんじつの「ほんらいてきじこ」として現れるもの。
何かの岐路で「主体的選択」を迫られるとき、「大我」的な見地からえらぶことを求めるべきであると思う。
▽148 パスカルが直観したように、人間は無限小と無限大の両世界の「二つの無限」の間に挟まれた存在である。…人間の心は「慈悲となさけと和らぎと愛」にあこがれて止まない。それで昔から、そういう特質をそなえた超越的な存在を宇宙の背後に想定してきた。…「慈悲となさけと和らぎと愛」を体現しているような人物にであると、そういう諸徳を「こうごうしい」と感じてしまう。神の属性として受けとめてしまう。
▽152 超越的なものについて、…人間の頭では考ええないものであって、ことばで言いあらわせない。ただ人生の例外的な瞬間において、それに出会ったと思われることが人間にはあるが、そうしたとき皆一様に人が言うのは「言いあらわせないもの」というネガティブな表現だけである。
▽153 せめて意識をもって生かされている間は、自分を支える許しと恩恵の重みを自覚し、よくかみしめたいものだ。…たまたま人間としての生命を与えられたことを大切にし、同類同士のほんのつかの間のであいをも大切にしないではいられないだろう。…死の時が来れば、それもまた大自然の摂理のなかにあることなのだから、死もまた生と同様に恩恵として受けとめることになるだろう。〓
…私たちも、私たちの愛する者も、たとえ死んでも形を変えて、宇宙の中に存在しつづけるであろう。であるから生きることも死ぬこともみなこの大いなるものにまかせて、生の内容を価値あるもので満たしていきたいものだ。生命を支えるものは死をも支え、地球や宇宙全体を支えるものだ、としか私には考えられない。
▽158 人間を越えたものが自分と世界とを支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、1日も安心して生きていけるはずはなく、真の喜び、真の愛をも知り得ないものなのだ。〓
…じっと踏みこたえて光を求めているうちに、人ははじめて、自分の生を外側から、そして内側から支えてきたものに思い至るであろう。ひとりで生きてきたつもりでも、実は、どれほど多くの配慮と許しと助けが自分の上に注がれてきたか、ということに気づくであろう。
苦しみというものは、人間がはじめて人間の生の条件を自覚する契機なのだと思う。苦しみや挫折をこういうふうに生かすことができれば、これもまた大きな恩恵となる。
人間はみな「愛へのかわき」を持っている。人間を超えたものの絶対的な愛を信じることが、そのかわきを満たすのに十分であることを、昔から古今東西の偉大な人や無名な人々が証明してきた。
▽166 私たちを存在させたものから、数々の配慮を受けている人間同士としては、その愛と許しを謙虚に受けとめ、それを共通の基盤として助けあっていくほかはない。…あえて宗教のかたちをとる必要はない。私はただそういう普遍的な心のありかた、人間にふさわしい人生観を探求したい。
▽170 人は生きがいを「何かすること」を求めて探しまわる。しかし何かをする以前に、まず人間としての生を感謝と喜びのうちに謙虚に受けとめる「存在の仕方」、つまり「あり方」が大切に思える。それは「愛の自覚」から自然に流れでるものであると思う。
▽172 生きがいがないと嘆く人は、自分の主観的な感じにとらわれすぎているのではなかろうか。自分というものに執することをやめれば、目の前に現れる仕事や楽しみに身を投げかけて、対象そのものになりきることができる。
…この宇宙のなかで、「意識」ある生命を与えられた。個の意識をもって宇宙を支えるものに賛歌を捧げたい。それをささげうる心が人間に与えられたことを感謝したい。こういう広大な世界を、小さな心で思い浮かべることこそ人間に与えられた驚くべき特権であると思う。

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