■NHKテキスト 20190402
「生きがいについて」は読んだけど、それを若松英輔が解説したときに何が見えてくるのか興味を覚えてkindleで買った。
神谷は生きがいとは、自分が、大地とか自然とか神と言った何か大きなものに包まれているという実感から始まるという。
ハンセン病療養所の詩人は、苦しみと悲しみの経験を通じて、人生の「土」を発見し、その「土」を通して、戦争などの不条理な出来事によって亡くなった人々と時空を超えてつながる。悲しみによって他者とつながり、孤独の苦しみから抜け出した。
生きがいの喪失は、病や死といった形で、いつ、どこで、だれにでも起こり得る。過去を思うことはたえがたい苦痛であり、未来は考えることさえおそろしく、現在という時間にも現実性が感じられなくなる。悲しみや苦しみの根源は、通常の感覚では捉えがたいため、他人が手の差し伸べるのが難しい。
「生きがい」は、病や死によって失われたように映るが、生の深みとも言うべき場所で新たに生まれ変わろうとしていると神谷は考える。
「生きがい」は理性や知性ではたどり着けず、感情によって認識するしかない。「生きがい」の発見とは、自分が生きている「今」が、過去と未来の双方から照らされて存在していると目覚めることでもある。
私たちは、自分は不要なのではないかという感覚におののいている。「生きがい」の発見とは、「他者」と共にあることの意味を深めるところから始まる。「他者」がかけがえのない存在だと感じるとき、自分が「生かされている」ことに気がつく。
「生きがい」への感性が深まっていくとは、生きがいを失い、心から血を流している人に気づけるようになることでもある。悲しみや苦しみの経験によって、人の痛みに気づき、人と結ばれる。神谷にとって生きがい(=真の美)とは、悲しみの彼方に見出されるものだった。
「生きがい」を奪われるとは、「時間」の感覚を奪われ、目印のない大海に投げ出されるようであり、逆に「生きがい」を取り戻すとは「時間」あるいは永遠と呼ぶべきものとのつながりを回復することだという。
神谷は若いころの結核につづいて1955年に癌になる。そして「出来ること」ではなく、「やらねばならないこと」に向き合おうと感じた。精神医学を志したのは、本当の人間に出会うためだったのに、それを忘れていたと悟る。そして「私の生き血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい」と決意する。苦しみや悲しみは、初心に返ることも促すのか。
ハンセン病の患者が、自分が直面しているのは「人類の悩み」と言う。個に起こった出来事を深めることが、普遍へとつづく道になると考えて、神谷は「生きがい」を書いた。
生きがいの喪失は、表層的には人生の破壊に映るが、生の深みでは新生につながる。
「待つ」という行為を経ることで、真に自分に必要なものを、自分のなかから見出していく。自ら苦悩のなかから創り出したよりどころは、知識や教養などとちがって、何ものにも奪われることがない。その訪れを待つあいだ、全身で未来の光を感じ、静かに準備を進めていくのだという。本当だろうか。
「ほんとうの幸福」と「生きがい」は神谷にとって同義語である。真の幸福を知るのは、幸せな人生を生きる人ではなく、真の悲しみと苦しみを経験した人である。不幸、 懊悩、貧しさを経た心にこそ「人間の持ちうる、朽ちぬよろこび」が宿るという。
7、8年前、市井の哲学者を取材したとき「あなたの取材テーマは、ほんとうの幸福の探求ですね」と言われたことがある。真の幸福を知るには、精神の崩壊を経なければならないということなのか。でも、どん底を経たからといって見えてくる保証はない。
内村鑑三、藤井武、神谷美恵子は、信仰や文学の交わりだけでなく、愛する者を失った経験も共通している。大事な人を喪う人生は不幸なだけではなく、それまで予期しなかった愛の力を発見する契機になる、と神谷は実感していたという。
苦しみが人を自分のなかに閉じ込めるのに対し、悲しみはいつか他者に開かれ、他者の苦しみ、悲しみの音を映しとる「心の弦」になり、他者への共感が生まれるからだ。
どん底から何かがかわるとき「変革体験」を経ることが多いらしい。変革体験は、単なる一時的な目覚めではなく、どんな時も自分を支えてくれる「人生の意味」あるいは人生の守護者を発見するような出来事だという。神谷自身がそういう体験をしている。
そしてそれは、信仰の目覚めでもある。神谷にとってその信仰は、「他人や他人の集団に」属する一般的な信仰とは少し異なる。人間の精神全体が宗教の世界につつまれている。美も愛も認識もすべて宗教に包まれている。真の「宗教」は、「あちこちにたしかに見出される」と神谷は実感するようになっていた。
現実の世界は苦悩にみちていても、それはもっと大きな世界の一部にすぎず、そこに身をおいて眺めれば、現世でたどる人生は影のようにみえてくる。「生きがい」とは、「自分をとりまくこの大きな力のなか」に自己を発見していく道程に見出される。
また、「生かされている」時に、真の自己がその姿を顯わにする。「私はいかにして生きるか」から「私はいかに生かされているか」への次元の転換が起こるとき「生きがい」は姿を現わすという。
生かされているという実感は、感じられる時があるものなのだろうか。
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▽単に気力が湧かない、というのではありません。ここでも、先にふれた大地の喪失ということが経験されています。 「言に絶えたる日は始まる」とあります。愛する者を喪うことは、語り得ない何かに自分がのみ込まれてしまい、言葉を失う経験である。
▽愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ
▽島の人たちよ 精神病の人たちよ どうぞ 同志として うけ入れて下さい あなたと私のあいだに もう壁はないもの
神谷は、けっして病む人の気持ちを分かったつもりにはならなかった。それ故に「壁」を感じることになるのですが、壁があって、相手の姿をはっきりと捉えられない分、彼女は深く相手を考えなくてはならなかった。
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