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生きがいについて<神谷美恵子>

■みすず書房 20190317
「生きがい」なんて他人に教えてもらうものではないと思ってきた。
でも生きる意味を突然失うと、そうも言えなくなった。このまま死んでもよいのだが、もしかしたらこの経験を生かす道があるのかもしれない。若松英輔の著書を通して手に取った。
ハンセン病の療養所に精神科医として長年かかわり、ふるさとを追われた患者たちと交流してきた。その経験に加え、古今東西の書物を渉猟して、人が生きるために必要な「生きがい」とは何か、どうすれば失った生きがいを取り戻せるのかを探った。「どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字で書きたい。体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形で取り出す」と本人が念じただけあって、体験と生活と哲学と宗教とがみごとに融合した大著になっている。
「世の中には、毎朝目が覚めことが恐ろしくてたまらないというひとがあちこちにいる。今日もまた1日を生きていかなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出てこない」という冒頭の一文だけで、「自分のことだ」と思わせられる。
一般に青年期は、生きる意味を真剣に自問するが、大人になると考えなくなり、老いて生きる目標の変更を迫られて「生きがい」が再び切実になる。病や死も生きがいの問題を目の前に突きつける。
愛生園の患者は生きがいの喪失と退屈に悩まされているが、それは軽症の人のなかに多く、失明した患者たちのほうが精神的に潑剌としている場合が少なくなかった。状況は深刻なのに、自己の内面に目をこらし、歌や俳句の形で表現することで生きがいを取り戻していたという。
人間だれしも、生きていることに意味や価値を感じたい。重い病になっても、この苦しみも大きな摂理によって与えられたもので、耐え忍ぶことで、ある意義を実現できる、という意味感に支えられることがある。
がんなどの病気で寿命を切られると、あらゆる虚飾も功利的な配慮もいらなくなり、自分の本当にしたいこと、すべきことだけすればよくなる。そのなかから驚くほど純粋なよろこびが湧きあがりうる。さらに、死を前にすると、時間の密度が飛躍的に高まるという。
友人の元新聞記者の女性Aは、死を突きつけられて使命感に目覚め、密度の濃い日々をすごした。一方、使命感とは別に、平凡な生活に生きがいを見だす人もいる。妻はそうだった。Aの例を出して「今ここを大切に」とか言うと「私はAさんじゃない」と怒った。そして、食事をつくり、日々を心地よくすごすことに徹した。淡々としなやかに生ききった。日常に生きがいを見だす感覚は新鮮だった。
一方、彼女を亡くして僕は世界の色と生きる意味を失った。「限界状況下にある人間は文化や教養や社会的役割などの衣をまとった存在ではなく、素っ裸の「ひと」にすぎない」「何のために生き、何を大切に考えるべきかの判断の基準も見えなくなり、みな一様に孤独になる」という。筆者も若いころ恋人を失った。「彼は逝き、それとともに私も今まで生きてきたこの生命を失った。もう決して、決して、人生は私にとって再びもとのとおりにはかえらないであろう」
一方、深い悲しみを乗り越えた人のよろこびは、人間存在のはかなさ、もろさが身にしみているから、生命力の発現をいとおしむようになる。愛の対象を失ったことによる悲しみと無常感は、心をやわらかに、こまやかに、ひろやかに変える傾向がある。「愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ」(テニスン)という。
苦悩を耐え、そこからなにか肯定的なものをつかめたら、それは自己の創造であり、知識や教養など外から加えられたものと違って、何ものにも奪われることはない。「苦しみと悲しみの十字架こそわれわれの誇りうるものである。なぜならば、これこそわれらのもの、であるから」
でもどうやってその境地にたどりつけるのか。
長い時間耐えるうちに、避けられないものは受け入れるほかはない、というあたりまえのことを実感として受け止めるようになる。苦しみや悲しみと共にどう暮らせばよいか、という術を身につけることもあるらしい。
娘の知的障害が判明して絶望に陥ったパール・バックは、自分のかなしみに注意を集中している間は、かなしみから抜け出られなかったが、「中心をほんの少し自分自身から外せることができるようになったとき」悲しみに耐えられる方向にむかった。
自然のなかに身を投げ出すことで、自然のもつ癒やしの力によって回復することもあるという。遍路道を歩いたとき、たしかに自然の力の片鱗は感じられた。
そして、「自分にもまだ生きている意味があったのだ。責任と使命があったのだ」と自覚したとき、生きがいは再びよみがえる。これ以外に道はないとわかったら、思い切って選び取らなければならない。ティリッヒのいう「生存への勇気」をおこせるか否かによって、その後の一生に天と地の差ができるという。そんな選択を迫られる日が来るものなのだろうか。
愛生園の患者のなかには、詩や歌などの「表現」を手がけることで、生きがいを取り戻した人が多い。互いにかけがえのないものとして相手をいとおしみ、相手の生命を本来的な使命にむかってのばそうとするという真の愛の姿も見られたという。死の恐怖への防衛や所属感の回復といった消極的なものではなく、世界に対する意味づけを変え、生きがい感を与えるという宗教の本来的な役割も見えた。
新しい生きがいを精神の世界に見だす際には、同心とか悟り、神秘体験といったものを経て、「他者に生かされている」と感じ、そのような他律的な生き方こそ真の道であると感じる人が多いという。
どん底を知った人は、他人の評価に重きを置かず、愛の対象すら自分のものと考える執着はもつまいと思う。自分の知識や徳や見識もすべて崩れ去る経験をしたから、それらによりかかることもしなくなる。
どんな状態に陥っても、人間が見だしうる歓びは、人間の内なるものだけである。「信仰、俳句、自然、これらのものは決して私たちを見捨てない…苦境にあればあるほど、いっそう生きがいを与えてくれるもの」(死刑囚の言葉)
生きとし生けるものと心を通わせること、ものの本質をさぐり、考え、学び、理解すること。みずからの生命によって新しい形やイメージをつくりだすこと。それらこそが本質的な歓びなのだという。何かにすがりたくて短歌をつくったり、絵を描いたりしたのは、本質的なものを求める心の動きだったのかもしれない。
「ほんとうの幸福を知っている人は、いわゆる幸福な人種ではない。不幸な人、悩んでいる人、貧しい人の方が、人間らしい、素朴な心をもち、朽ちぬよろこびを知っていることが多いのだ…」。そうあって欲しいと思う。
だがそうやって生きがいを取り戻せばそれでよいのか? という問いが残る。孤独と絶望のなかに暮らし、公園で日がな一日暮らす人たちはそのまま残されている。「(生きがいを見出せない)病めるひとたちの問題は人間みんなの問題なのである。私たちは、このひとたちひとりひとりとともに、たえず新たな光をもとめつづけるのみである」とつづる筆者は限りなくやさしい。

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▽5 …耐えがたい苦しみや悲しみ、…孤独とさびしさ…そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろう…といくたびも自問せずにいられない。治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと…
▽11 宇宙の孤独な旅人も自分を見まもる地球上の人の目を感じればこそ、無重力への冒険に生きがいを感じるのだろう。(その通りだ。僕も冒険したいと思って旅に出たが、帰る場所、比較する場所があるからだ。それがなくなった今、冒険をする気は失せてしまった)
▽19 出産直後の歓喜は女性の生きがい発見のよろこびともいえよう。(「この子のためなら死んでもいい」と何度聞いたか)
▽21 生きがいを感じている人は他人に対してうらみやねたみを感じにくく、寛容でありやすい。…ひとの世の苦しみを知っているひとは、生きがいにあふれている自分の幸せを他人に対してつまないように感じやすい。
▽23 もっとも多く生きたひととは、もっとも長生きした人ではなく、生をもっとも多く感じたひとである」(ルソー「エミール」)
▽29 生きがい感には価値の認識がふくまれることが多い。
▽34 青年期は、もっとも真剣に生の意味が問われる…ところが大人になると、ただ生の流れに流されていくようにみえる者が多い。壮年期は無我夢中で過ごしてしまい、年を取ってきてそれまでの生きがいがうしなわれ、生きる目標を変えて行かなくてはならないときに、この問題が再び切実に心を占めることになる。(まさに、死によって)
▽46 失明した詩人ミルトン。失明と政情変化と…で、行動性が抑えられ…外界において散乱されるはずだったエネルギーが全部内面生活にそそぎこまれ、…そこに深くゆたかな精神的形象の世界をつくりあげることがある。
▽61 愛生園の患者の大きな悩みのひとつは退屈だったが、それはむしろ軽症の人のなかに多く、失明してしまったひとびとのほうが精神的に潑剌と生きている場合が少なくないという結果が出た…。自己の内面に心の目をこらし、歌や俳句の形で表現し…
▽63 はっきりした終末観をもつ信仰の持ち主には、確固たる未来展望が強さをもたらし、現在のあらゆる苦難に耐える力を与える。殉教者たちがその例である。
▽67 自由とは…木の上にとまっている小鳥のように、自分からどこへでも飛んでいけるような、その主体性、自律性の感情。…それがどれほど必要かは「欠如態」になってみないとわからない。
▽75 人間はみな自分の生きていることに意味や価値を感じたい欲求があるのだ。
▽90 自己を超えたものにささげつくしたいというのが、生きがいへの欲求のもっともつきつめた形の一つであるから…
▽91 女性のほうが、平凡な毎日の生活のなかにささやかな生きがい感をみいだすのが得手のようである(日常に生きがい感を見だす感覚は、宗教に近いしなやかな力を生みだすのではないか)
▽97 故人の存在にすべてを賭けていた者は、心の一番深いところに死の痛手を負い、ひとりひそかにうめきつづける。…限界状況下にある人間は、もはや文化や教養や社会的役割などの衣をまとった存在ではなく、素っ裸の「ひと」にすぎない。
▽105 恋人を失った娘「彼は逝き、それとともに私も今まで生きてきたこの生命を失った。もう決して、決して、人生は私にとって再びもとのとおりにはかえらないであろう。」。愛の共同世界が崩れ、闇はのこされた者の心の世界に侵入し、まっくろに塗りつぶしてしまう。
▽106 パール・バック 娘が精薄と判明。「すべての人と人の関係は意味のないものとなり、あらゆるものが意味を失って…風景とか花とか、音楽とか…すべて空虚なものになってしまい…」
▽112 死と直面した人の心に必ずといっていいほどよくみられるものは、すべてのものへの「遠のき」の現象である。世界が幕一枚へだてた向こうに見えるというとき、そのひとはすでにみんなの住む世界からはじき出されて、べつの世界から世をみている。…「死の相のもとに」人生を見るとき、どれほど多くのものがその重要性をうしない、どんなことが新しい意味をおびてくるのだろうか。…多くの生きがいが死の接近によってうばわれるとしても、残されたわずかな生きる時間のなかで新しい生き方を採用し、過去の生に新しい意味を賦与することさえありうる。(〓幸せという意味を賦与していたのかも〓立派な最期の生き方だった)
▽116 今まで生存目標としていたものがうしなわれるとき、ひとはもはや何のために生きて行くのか、何を大切に考えるべきか、その判断の基準もわからなくなる〓。…みなのよろこびや悲しみが自分には少しもピンと来なくなってしまった。…
▽125 悲嘆のどん底にあっても、なお自分の肉体が食物を欲することを悲しむ。生きがいをうしなったひとはいわば肉体にひきずられて生きて行く存在である。「生ける屍」とはこのことをいうのであろう。(〓本当だ)
▽128 生きがい喪失状態の不安。「実存的不安」には3種類ある。第一は死の不安、第二は無意味さの不安、第三は罪の不安。…人間はたった一人で、この不安に直面し、対決しなければならないのである。
▽132 苦悩から逃げただけでは、新しい生きがいはみいだされない。新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかないものと思われる。
…苦しみは精神の一部しか占めないことが多いが、悲しみは一層生命の基盤に近いところに根をおき…深い悲しみにおそわれたひとは、何をすることも考えることもできなくなってしまう。苦しみはまだ生命へのあがきといえるが、悲しみは生命の流れそのものがとどこおり始めたことを意味する。…悲しみは死と虚無とを志向するものといえる。時間は停止し、未来は真っ暗な洞窟のように見え…咲く花も、笑い声も、みなむなしい…。
(〓でも一瞬色がもどる時がある。それが強く印象に残る)
▽135 ひとたび深い悲しみを経てきたひとのよろこびは、いわば悲しみのうらがえしされたものである。その肯定は深刻な否定の上に立っている。人間の存在のはかなさ、もろさを身にしみて知っているからこそ、なおも伸びてやまない生命力の発現をいとおしむ心である。そのいとおしみの深さは、経てきた悲しみの深さに比例しているといえる。
▽137 人間が真にものを考えるようになるのも、自己に目覚めるのも、苦悩を通してはじめて真剣に行われる。苦しむことによってひとは初めて人間らしくなるのである。
…自分に課せられた苦悩をたえしのぶことによって、そのなかから自己の生にとってプラスになるものをつかみ得たならば、それは自己の創造といえる。…ひとは自己の精神のもっとも大きなよりどころとなるものを、自ら苦悩のなかから創りだしうるのである。知識や教養など、外から加えられたものと違って、何ものにも奪われることはない。
▽143 過去の悩みを忘れたくない、悲しみから癒やされたくない、と願う心もある。しかし時の力は容赦なくはたらく。その癒やしの過程が何よりもまず肉体にそなわっている生命力によるものであることに、パール・バックも気づいている。(〓料理すること、歩くこと)
▽146 伝道者藤井武が妻を喪ったとき、再び立ち上がらせたもののなかには、復讐心があった。「私はこのようなことをする人生に対して憤れずにおれません。私はもっとも美しいものを生みだすことによって、人生に復讐しないではいられません」
▽147 「人間の苦しみには際限がない。「もうこれで海の底へ届いた、これ以上深みに落ちることはない」と考えていると、また更に深みに落ちていく」(〓病気とはまさにそうだ)。
▽150 (生きがいを失った人)忍耐を通してのみ到達される精神の深みというものがある。長い時間の経つうちには、避けることのできないものは受け入れるほかはない、というあたりまえのことを、理屈ではなく、全存在で受け止めるようになるであろう。さらに、苦しみや悲しみと共にどうやってくらしていったらいいか、というすべを身につけ、場合によれば、「運命への愛」すら心のなかに芽生えてくることもあろう。それは長い、苦しい「荒野」での道程である。…この「荒野」の時期が、大きな建設的な意味を持ちうる
▽160 愛する者を失ったときの悲しみのなかには、しばしば悔恨の念もまざっている。自分が死の原因であるという罪悪感。死んでしまわれると、もはや取り返しがつかない。
▽163 (寿命を切られる)…意識的な死への準備としての生き方となる。ひとが十分理性的精神の世界をもっているならば、必ずしも宗教的信仰がなくても、落ち着いてこのような心の態度がとれることは…
…死というものを正面から自分の生のなかにとりいれてしまえば、死は案外人間の生の友にさえなってくれるものらしい。
…あらゆる虚飾は不要となり、功利的な配慮もいらなくなる。自分のほんとうにしたいこと、しなければならないと思うことだけすればいい。そのなかからはおどろくほど純粋なよろこびが湧きあがりうる。
死の面前で暮らしているひとにとっては、時間のもつ密度が飛躍的に大きくなり、一刻一刻の重みが平生とは比較にならないほど増す。(〓ロマンチックやねぇ…心が時空を超えて自由にはねまわっていた)
▽169 社会を離れて自然にかえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえることができるというルソーの主張は、正しいにちがいない。…深い悩みのなかにある人は、どんな書物によるよりも、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然のもつ癒やしの力によって…新しい力を恢復するのである(遍路の感覚〓)
▽193 「社会化」 自分の苦しみは、自分ひとりのものではない。苦しみのなかで自分はひとびととともにあるのだという自覚は、やがて苦しみのなかでひとびとと手をつなごうという積極的な姿勢に変わりうる。苦しみの社会化、願望の社会化。
▽224 (らい患者が)詩とか歌とかを手がけていくうちに、…表現への努力がもののみかた、感じあたをきびしく、こまやかにするし…「表現の悦楽」は、たしかにひとを「陰うつ」から救い、「われわれをいつも生気潑剌とさせ」る作用をもつ。
▽229 愛生園の夫婦たち…こうした夫婦愛は、苦痛や死にたえずおびやかされているために、一層高い精神性を示していることが少なくない。
▽230 人を真に支えうるような愛は…「精神化」と「社会化」のもっとも微妙な組み合わせなのだろう。…たがいにかけがえのないものとして相手をいとおしむ心、相手の生命を、その最も本来的な使命にむかってのばそうとする心、そのために自分の生が意味をもつことを感じるよろこび。…愛を語るどんな美しい言葉よりも、現実に辛抱強い、思いやりに満ちた愛の姿を発見するとき、驚きとともに愛の存在の可能性を確認するのである。。
▽232 柳宗悦。彼の心のなかでは美の世界が宗教の世界とはなれがたくむすびついていた。
▽234 宗教が積極的な生きがいを人にあたえうるとすれば、…思想や理想の意味を超えて、人間の心の世界を内部から作りかえ、価値基準を変革し、もののみかたのみならず、みえかたまで変え、世界に対する意味づけまで変える。この意味づけ、生きがい感をあたえる役割こそ、宗教のもつ最も大きな働きであると思われる。
人間は本質的に意味づけする生物なのであり、その最も包括的な意味づけは、宗教的な心の働きによって行われるものである。その意味づけが外部からおしつけられたものでなく、ひとりひとりの心の必然的な発展の結果として生じた場合にのみ、宗教は「抑制や強制ではなく人間の自由の新たな積極的理想の表現」となりうるだろう。
▽235 らい園というところは、どこでも宗教が盛んで…諸宗教の礼拝堂が狭い地域内にいくつも共存しているのが特徴である。
▽239 ひとが自分で苦しんで生きる道を求め、新しい足場を宗教に発見したとすれば、その発見はそのひとの心の世界を内部からつくりかえるにちがいない。欲求不満への代償とか、死の恐怖への防衛とか、所属感の恢復などという消極的なものではなく、人格に新しい重心のおきどころを与え、新しい統合をもたらすはずだからだ。自己の生存に新しい意味づけをあたえるはず。
▽244 変革体験 生きがいを失った人が、新しい生きがいを精神の世界にみいだす場合、心の世界のくみかえが必然的におこる。…同心とか悟り、「神秘体験」。
…自然との融合体験
…宗教的変革体験 突然、何の脈絡もなしに、自分は生かされているという思いが起こり…生きているということは、何か使命があるにちがいないと…
▽256 変革体験が急激にあらわれるときは、しばしば光の体験が伴う。…生きがい喪失者の心をまっくろに塗りつぶしていた闇が、突然ひらめく光に霧散するのである。
…柳宗悦はこれを「声」として聞いた。
…他者に生かされているのだと感じる一方で、そのような他律的な生き方こそ真の自己としての道であると感じる人が多い。…心のなかの末梢的な感情や欲求の葛藤が、もっと本質的な指導原理のもとに統合され支配されるためであろう。
▽261 変革体験は、ただ歓喜と肯定意識への陶酔を意味しているのではなく、使命感を伴っている。生かされていることへの責任感。…使命の道を自らえらびとる勇気と決断は、絶対の孤独のうちに行われねばならないが…。
▽266 愛の対象も物質も地位も名誉も、所有というものははかなく、もろく、むなしいことを身にしみて知った。ひとたび限界状況に陥ればすべての所有物は奪い去られ、裸のままにとりのこされた。
…死刑囚「信仰、俳句、自然、これらのものは決して私たちを見捨てない…苦境にあればあるほど、いっそう生きがいを与えてくれるもの…」
▽275 ひとたび虚無と絶望のなかで自己と対面したことのある人は、ふたたび生きがいをみいだしえたとき、自己の存在がゆるされ、受け入れられていることに対する感謝の思いがあふれているにちがいない。
■執筆日記
▽314 更年期に女ははじめて人間として生きはじめるわけだ。その時「実存」を確立できなかったら、余生はただ「生ける屍」になるほかないだろう。(いまが俺の更年期か〓)
▽315 どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい。体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形で取り出すこと。
■解説 柳田邦男
▽347 水俣病患者の緒方正人さんらの「本願の会」1994年に発足。緒方さんが不知火の海で漁をして暮らすということは、「命のつながる世界に生きる」という、破壊的な源代文明に抗しての人間の再生の営みなのだ。

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