岩波新書 20080618
徹底して農村にこだわり、地域にこだわり、農村医学という言葉をうみだした。農民の必要を満たすため、一斉健診を組織し、専門医療も手がけ、研究機関も設立し、佐久病院を長野県随一の総合病院にそだてた。
ふつうに良心的な「赤ひげ先生」ならば、山村の小さな診療所で献身的な医療を提供するだろうが、規模の大幅な拡大までは手がまわらないし、発想すら思いつかないだろう。私が医者になったとしても、その程度で満足してしまうだろう。若月のすごさは、底辺を見すえる思想とともに、そのすさまじいバイタリティにある。いや、徹底して底辺を見すえる目があるからこそ、「良心的な医療を提供している」というレベルで我慢せず、困っている農民すべてを救おうと、追いたてられるように事業を拡大してきた。
戦前に革命を志し、「貧民のため」一時は共産党への参加を決意するが転向し、その後、特高に1年間拘禁された経験をもつ若月は、たぶん「上」からの啓蒙思想をもって農村にはいったことだろう。現実にぶちあたるなかで、「農民のために」から「農民とともに」へと立場をかえ、農民の伝統的な知恵を生かして麦わらから虫下しを開発するなど、まさに「学びあう」関係を築いてきた。
ほぼ同時期に脚光をあびた、岩手県沢内村の健康の村づくりや愛媛県の地区診断との共通点もよくわかる。徹底して現場を歩き、語り合い、ニーズを把握すること。「農民とともに」考え、あきらめを「課題」に転じていくこと……
一方、巨大化して専門分化した今の佐久病院は、次第に官僚化して、医者じたいも小粒になってきたという。
若月じたいも、病院の内側の医者にとっては、膨大な仕事をおしつけるワンマン経営者の顔ももち、それに反発してやめるスタッフも多かった。
それもよくわかる。「ボランティア協会」のような組織でも、創業者は清濁あわせのむ人間の幅をもつ魅力ある人だが、内部のスタッフにとっては、仕事をおしつける経営者の一面もある。一方、創業者から見ると、後輩たちが小粒になり、サラリーマン根性に甘えているのが許せない……これはどんな組織でも抱えるジレンマなのだろう。
筆者は佐久病院の医師であるとともに小説家でもある。対象と一定の距離をとり、若月の清廉潔白とはいえない泥臭い部分をもきちんとえがきだしているのはさすがである。
——–覚書・抜粋———–
▽14 「佐久病院はよお、サケ病院て言われてるくれえだから、酒が飲めなきゃやってけねんだぞ」
▽17 「理想の病院」の現実 すさまじい忙しさ。売り物の全県下のヘルススクリーニングも、検診を受けに来た人たちと会話する暇もない。現実を知って研修医は次々にやめていく。
▽19 東大で左翼運動に参加。昭和19年には治安維持法で逮捕され1年間、目白署に拘禁。出所後、佐久病院に赴任。事実上の都落ちだった。できたばかりの佐久病院は入院患者を受け入れない診療所にすぎなかった。
出張診療や農村演劇で村に入り込む。農村特有の「冷え」や「農夫症」の解明にのりだす。高度成長期に、八千穂村の全村健康管理を実施して、ヘルススクリーニングをおこなえば末期の患者が減り、医療費を削減できるという事実を証明してみせた。農薬公害にもとりくむ。
▽38 プロレタリアのために職業革命家を志す発想そのものがエリートのそれだったかもしれない、と若月自身が語っている。佐久病院に来てから彼は「農民のために」というスローガンを掲げて農村医療を展開していくのだが、やがていつからかこのスローガンは「農民とともに」に変わっていく。
▽45 昭和8年共産党から入党の勧誘。大変名誉だとされていたが、不安も大きかった。入党した者たちがことごとく検挙されてしまう様を目の当たりにしていたからだ。……自ら街頭連絡を絶ち
転向する。自殺使用と思ったがふんぎりがつかず、神田でやけ酒。銚子を27本あけたところまで覚えていた。
▽51 もし若月が外科医でなかったら、厚い信頼を患者たちから受けることができたろうか。小諸や長野まで行かなければ受けられなかった虫垂炎をはじめとする開腹手術ができたからこそ、評判が住民の間に広がり、佐久病院発展の基盤となった。
発展途上国でまず第1に必要とされるのは外科医である。
▽59 医局のなかで若月だけが清潔に真面目に暮らしていたわけではなかった。アカなのに入局させてもらっているという引け目もあって、他の医局員たちに迎合し、一緒に酒を飲み、大いに遊びもした。みなと肩を組んで天皇陛下万歳を叫んだりもした。……恒に左翼運動の敗北に起因する虚無感。……清濁併せのむ。新橋の芸者衆からは「月さま」と呼ばれてかなりモテていた。
若月に清廉潔白な「赤ひげ」のイメージを抱いて佐久病院に来る若い研修医たちは、彼のなかに俗物の破片を見つけるとたちまち失望してしまう。
▽67
▽75 1年間の拘留。「企図しての活動に連携したる疑いのある者は死刑に処す」という治安維持法の項を読んで目の前が真っ暗になった。これでは逃れるすべがない。こんなひどい法律を誰が作ったのか。留置場で最も恐いのはカイセン。このダニにたからると、体中の皮膚がかゆくなり、皮膚炎になり、感染をおこし、敗血症になったり、腎臓をやられたりして死に至る。三木清も戸坂潤も、それがもとで死んでいた。
▽80 若月の赴任先が信州の佐久だったのは幸運だった。佐久の人たちは情よりも理念を重んじる傾向が強く、唯物論者の若月が行動を起こすには最適だった。
上州人は情で動くが、日本の中のドイツとも言われる信州人はどこまでも理念を優先する。
山の中の農家のお婆さんが読んでいる本が「中央公論」だった、といった話がそもありなんと語り継がれるのが信州という土地。若月の新しい医療理念に基づく啓蒙活動を受け入れるだけの資質が農民の側にもあった。
▽90 病院のすぐそばに警察署があり、若月は夕方になると署長の奥さんから夕食の誘いの電話をもらった。特高でもあった署長はアカの疑いのある若月を監視していたのだ。……若月は思想至上主義。会って楽しければその人物の思想信条は問わない。
敗戦後、特高だった署長は戦争犯罪人としてパージを受ける。「あんたは県の戦争犯罪委員会のトップとは左翼の関係者どうしだから、なんとか口をきいてもらえないだろうか」署長に哀願された若月は実際に口をきいてやった。
▽95 戦後直後の農村の衛生状況 回虫を排出したことのある人は30%。サントニンが入手困難で「虫下し」がかけられなかった。虫垂の中にもはいりこんで、虫垂を切るといっしょに虫体を切断したこともしばしばだった。
民間療法からヒントを得て、麦わらの煎じ汁をつくったりした。麦わらはよい結果が得られたから、大釜で麦わらを煮詰め、「サクニン」と名づけ、小中学生らに集団的に飲ませた。
(〓伝統的な知恵から学ぶ)
動物性脂肪をとらないのに、農民に胆石患者が多い。開腹していると、胆嚢や胆道からでてきたのは、石ではなく回虫だった。
農村には農村特有の疾患がある。「農村医学」の必要性。
▽100 脳卒中患者のリハビリを目的とした温泉病院を設立(現在の鹿教湯病院)
現在は、農村医学というものの実態が見えなくなっているが、住民の困っている医療上の問題をきめ細かく取り上げて研究する若月の姿勢には、若い医師たちも学ぶところが多いのでは。
娯楽に飢えていた村人には「医療演劇」が大いに受けた。(〓地区診断では幻灯)
末期の胃ガン患者や高血圧など、病院に来ていない潜在患者の多さに驚く。>>出張診療 ヘルススクリーニングへ
▽107 レッドパージ 県農業会本部は「組合解散しなければ病院を閉鎖する」と通告。組合は「若月組合長を後任の院長にむかえること……」と決議し、病院閉鎖反対闘争。
▽109 昭和22年、佐久病院は、戦後の日本では最初の患者給食を始めた。若月は往診のかたちをとって白衣姿で農村に入り、ヤミ米を買った。〓農民組合の人たちと連携して野菜の計画栽培をしてもらい、給食の質と量を確保した。のちに厚生省が患者給食の保険点数を算出するために佐久病院に見学に来たほど、時代の先を読んだものだった。
白衣姿でたくましくヤミ米を買い付ける若月。行動を重んじる知識人であり、机上の空論を嫌う。
昭和23年、共産党への集団入党を勧められた。野辺山を基地として革命を起こせばソ連か中国が必ず助けにくる、と。しかし入党しなかった。自分はあくまでも後衛に徹するべきだと考えたからでもあり、従業員に思想を押しつけるのが嫌だったからでもある。
農協幹部には保守派が多かったから、アカい佐久病院への風当たりは強かった。多くの非民主的な要求を突きつけてきたが、若月たちはすべてつっぱね、従業員組合の自治を守った。
……分院派との対立
▽123 先斗町で豪遊。勘定5万円に驚く。若月は仲間を先に帰し、一人居残って主人に詰め寄った。「おれは東京のヤクザだが、この勘定はでたらめじゃねえか」 3万2千円で手を打つことに。仲間の医者たちは本物のヤクザが来るのではないかとヒヤヒヤしながら待っていた。若月は芝居がかったことが大好きであるし、怒ると確かにヤクザのようなすごみもみせる。……昭和28,9年頃、若月は病院内で「おばけごっこ」をして職員をおどしては楽しんでいた。根が臆病だからこそ、こういうことをすれば相手が怖がるな、と想像できる。
▽126 農村医学会 私たちの学問は「学問のための学問」ではない。あくまで農民の生活をよくし、その生産を増進させ、その生命を守るための学問であり研究である。==「四国の老人福祉学会」
貧しく不潔な「地域」全体のレベルアップをなし遂げようとした。
検診を全村民に行い、しかも住民が自主的に健康を守ろうとする意識が湧くような健康管理方式を確立したいと考えた。検診を定期的に行うだけでなく、その結果を記録にとどめて経過を継続的に管理する。そこに「健康台帳」の発想がでてきた。八千穂村の全村健康管理とは、15歳以上の全村民の健康台帳をつくり、年1回の検診と予防医学的啓蒙活動をおこなうものだった。
佐久病院は、農村の健康管理活動を先駆的に実施。八千穂村の全村健康管理は佐久病院の顔のような事業になっていった。八千穂村の1人あたりの国民健康保険の総医療費は減少した。予防が治療に勝ることを実証した。
〓地区診断や沢内村
▽140 が、毎年の検診には内外から批判がでてくる。学園闘争を経験してはいってきた若手医師らから反発の動き。
若月は、八千穂村検診活動の拒否はしない、ビラ活動は組合の承認なしにはやってはならない、という契約書をつくり「パージ」
……平成になっても検診活動に参加する若い医師たちの不満は残っている。
▽173 農村医科大学構想 政府首脳が「若月のところはアカだから、農村医科大学はつくらせるな」と横やり。政府が同じような趣旨の「自治医科大」を設立。
▽194 在宅ケアのような地域医療こそが佐久病院の出発点なのであるが、全病院的なバックアップがあるとは言えない状況である。専門分科によるセクト主義、官僚主義が幅をきかせ始めている兆候もある。
平成に入って、それまで経験したことのなかった赤字経営に陥っている。若月はことあるごとに経費削減を口にする。
▽202 規模が大きいくせに小回りがきく。これこそが佐久病院の誇れる点だと思い続けてきたが、確信がもてなくなってきた。もっと専門分科すればもっとい病院になると思っていたのに、結果は皮肉にも、もっとよい病院を、とみんなを結びつけていた団結力さえ弱める結果になってしまった。
▽205 〓タイ農村の巡回診療。胃癌の患者に「すぐに入院させるように」と告げたが、ノーマネー、といって寂しそうに笑うだけ。三日分のアスピリンを手にして何度も手を合わせながら草原に消えていった。……昭和20年に若月が見た農村風景もこれと似たようなものだったのではないだろうか。貧しいタイの農村を前にして絶望感しか抱けなかった私は、これとおなじような状況の戦後の信州の農村で、文字どおり「病気とたたかった」若月のバイタリティーに素直に脱帽した。〓〓(愛媛の農村も。沢内村も同じ。今よりはるかに絶望的状況だった。そこで「あきらめ」に流されなかった強靭さ)
▽202 佐久病院に集まる医師たちに対して若月は、入る者は拒まず、去る者は追わずの基本姿勢を持ち続けている。梁山泊の主の態度に変化はないのだが、入ってくる連中の器が年々小ぶりになってきているのが今の佐久病院の医局の現状である。
「村で病気とたたかう」
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