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ジャガイモのきた道–文明・飢饉・戦争 <山本紀夫>

岩波新書 20080603

穀物じゃないと文明はできない、と言われてきた。麦や米などの穀物は貯蔵できるから、富の蓄積になる。多くの人口も養える。それに対して芋は、単位面積あたりの収穫量は多いけど、水分が多いから貯蔵がきかない。だから、文明の発祥には穀物が不可欠だ、という。
ところがよくよく調べると、インカ文明はアンデスの高地に発生し、トウモロコシには適さない。そこでの主食はジャガイモであり、毒抜きをして乾燥させたチューニョを開発することで貯蔵を可能にしていた。
野生のジャガイモは芋は小さく、有毒でそのままでは食用にできない。じょじょに品種を改良してきた。でもアンデスでは昔ながらの生産性のあがらない種もいまだに栽培している。それはリスクヘッジの意味があった。単一の品種に集中すれば、病気によわいジャガイモは一気に壊滅してしまう可能性があるからだ。事実、アイルランドでは、ある単一の品種のジャガイモに完全に依存していたため、大飢饉をひきおこすことになった。
ジャガイモはヨーロッパを経由して、ネパールのシェルパの村の主食にもなった。日本にも江戸時代にもたらされ、北海道をはじめとした東日本で明治以後に一気に広まった。飢饉がそのきっかけだった。
芋のありがたみがよくわかる。と、同時に、アンデス原産のひとつの作物が、世界の多くの人びとの食生活をかえたことに驚きを禁じ得ない。でもよく考えればトマトもナスも南米産だ。トマトのない時代のイタリア料理って、どんな味だったのだろう。「食」のグローバリゼーションははるか昔からすすんでいたのであり、「伝統料理」ったって、どこまでさかのぼれるか怪しいもんなんだろうな。

——–覚書・抜粋———
▽18 毒抜きをして乾燥したイモ「チューニョ」。元のイモにくらべて重量も大きさも半分から3分の1くらいの小さなコルク状。貯蔵できるし、軽いから交易品としても重宝がられる。
▽54 世界的にみてもイモ類を長期保存できるよう加工する技術はアンデス以外ではほとんど開発されなかった。
トウモロコシは、チチャという酒をつくる材料だった。主食としてのジャガイモ、儀礼的な作物としてのトウモロコシ。
▽63 ヨーロッパではまずスペインへ。フランスやイギリス、ドイツなどヨーロッパ北部に広がった。トウモロコシはイタリアやギリシャ、ユーゴなど南部に広がった。米大陸からジャガイモとトウモロコシという食料をえたことでヨーロッパは大幅な人口増が可能となり、それが歴史をかえともいえる。
▽73 しばらくは家畜の飼料か、せいぜい貧民の救荒作物だった。1770年代初頭の大飢饉。穀物は壊滅的だったが、ジャガイモは影響をうけなかった。18世紀末ごろからドイツ各地で栽培が急速に広がる。
1785年のブレーメンの貧民施設での1週間の食事では、昼食はバター付き黒パン、夕食は粗挽きソバの粥とバター付き黒パンで、ジャガイモは日曜の昼食に1回でてくるだけ。19世紀半ば、1842年の貧民施設での食事ではジャガイモが毎日登場し、1人あたり1回1000グラムと多く、それを昼も夜も食べる日さえある。18世紀末から19世紀半ばまでに、食事の中心は穀物のカユからジャガイモに転換したことがわかる。
1850年のドイツでの年間1人あたりのジャガイモ消費量は120キロ。1890年代には250キロから300キロに達して、ドイツ人にとっての「国民食」といえるほどになった。
▽78 イギリス 当初は貧民の食べ物、労働者階級の食べ物。1860年ごろのロンドンの街頭では「ホット・ポテト」の売店が登場。
フィッシュアンドチップスの普及も1860年代以降。汽船によるトロール漁法で魚が大量にとれるようになったこと、冷凍技術と鉄道による輸送手段の確立による。産業革命の象徴。

▽84 アイルランド 18世紀半ば頃には、ジャガイモがほとんど唯一の食糧といってもよい位置を占める。「1年のうち10カ月はジャガイモとミルクだけで過ごし、残りの2カ月はジャガイモと塩だけ食べている」という記録があるほど。ジャガイモ栽培拡大とともに人口急増。1754年に320万人だったのが1845年には820万人に。
1846年 疫病で9割がやられ餓死者が続出。1851年にようやく下火に。この大飢饉で100万人の人口が失われたとされる。棺桶も墓もまにあわず、遺体はまとめて埋葬された。
▽92 ジャガイモに依存しすぎて、代替作物がなかった。品種も1種類だけ。ジャガイモは塊茎によって増えるいわゆるクローンであるため、単一品種栽培は、遺伝的多様性を失わせる。病気が発生すればいっせいに被害にあう。
アイルランド人口は、1911年の時点で440万人に激減。1845年の半分。1990年の時点でも人口350万人にとどまる。農村労働力が不足したため、耕作地にかわり、やがて放牧地が大勢を占めるようになる。いまだに飢饉の後遺症から立ち直っていないのではないか、という印象。
▽108 ヒマラヤのシェルパ 朝食はツァンパ(麦焦がし)。朝食以外の食材は新しいもが多い。その代表がジャガイモやトウモロコシ。
チャンは、大麦やシコクビエを材料にしてきたが、いまではしばしばトウモロコシからもつくる。
夜に食べる料理のおもな材料はジャガイモ。
▽115 昔、野生の里芋のなかまのナンミトワやテンナンショウを利用。毒抜きが必要。これらを食べないですむようになったのは、ジャガイモの普及によるようだ。ジャガイモは20-30年ほど前から普及。
▽119 ネパール政府は1969年に登山を解禁。登山者がおしかける。シェルパは山岳ガイドとして現金収入を得る。その現金で牛を購入し、家畜の頭数を増やす。家畜増加は肥料を供給することになり、その堆肥によって、単位面積あたりの収量があがる。こうなったときに生産性の高いジャガイモ品種も導入された。
▽124 日本には江戸時代後期にはジャガイモについての記述が見られるようになる。長崎から北海道へ。
▽129 蘭学者の高野長英は、「救荒二物考」のなかでジャガイモ栽培の促進をはかった。二物とは、気候不順でもよく育つソバと暴風雨に強く栽培も容易なジャガイモのこと。
▽132 江戸時代半ばから後期に各地で栽培がはじまる。同じ米大陸原産のサツマイモは主として西日本に普及。ジャガイモは東日本に普及。北海道以外では、飛騨、甲斐、上野、羽後、陸前などで早くから栽培が始まった。
▽143 青森 カンナカケイモと凍みイモ カンナカケイモは状態がよければ数十年の貯蔵に耐える。このようにでんぷんをとって、それで団子や餅などを作って食べられるように保存した。

▽147 カレー 明治5年の「西洋料理指南」では、肉のかわりに魚や海老、蛙までいれているが、ジャガイモはなく、野菜は葱や生姜がスパイスとして使われているのみ。明治31年の「日用百科全集」になってようやくジャガイモが登場する。
背景には、文明開化とともに肉食が普及したことも見逃せない。ジャガイモは肉と一緒に調理されてはじめて、淡泊な味を生かした料理法が出現した。「肉じゃが」も明治時代には普及するようになった。大正時代になると「コロッケ」
▽169 中央アンデス 大きな高度差を利用して、高地部で家畜飼育やジャガイモ栽培、低地部ではトウモロコシや儀礼にかかせないコカを栽培。
▽179 中央アンデス高地 高い生産性よりも収量は低くても安定的な収穫をもとめた。中央アンデスは、地球上の高地のなかでもっとも多数の人口を擁する地域だが、大規模な飢饉もおきていない。
アイルランドのジャガイモ大飢饉との比較。アンデスのジャガイモ栽培は、さまざまな品種をうえて、二重三重にリスクを回避する策が講じられている。
▽181  ただし生産性は低い。安定性をもとめれば収量が低くなり、高い生産性をもとめれば収穫に対する危険性が増すジレンマ。
大きな高度差があるから労働も厳しい。山岳部から都市部への人口移動。
現在では交通が便利になり、ジャガイモの在来種のかなりが姿を消し、販売用の改良品種が増えているという。

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