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久妙寺に生きて <永井民枝>

20080609

古くから伝わる行事や言い伝えは、ムラで生きていくための知恵にあふれている。たとえば、川を神聖なものと考えて、小便をしたり汚いものを流すのは昔はタブーだった。今はそういうタブーがなくなり、ゴミだらけになった。田植えがはじまって「おさんばいおろし」があるまでは、カニやドジョウをとったらいけない、というルールも、資源保護など意味があったのだろう。
年頭には集落のみんながあつまって、神仏にお供えをして、1年のことを語り合い、会食をする。信仰と集落の絆づくりと、ムラの民主主義を機能させる役割をはたしていた。
そういう伝統が今も息づいているのは、ここが「門前町」だからかもしれない。寺という象徴があり、集まる場がある。門前町というのは実は、ムラの自立や福祉を考えるうえで大切な社会資源なのかもしれない。
一方、農村には男尊女卑のような封建的な習慣もある。
農家に嫁いできた筆者は、家計簿の記入をつうじて、自分と義母の小遣いをつくり、夫からの精神的な自立をはかる。集落の出役の賃金における男女差別の解消にもとりくむ。農家の女性が作文を発表しあう集まりにも参加する。そんななかで、経営の多角化をはかり、夫と一緒に専業でつづけられる農業を実現する。
戦後民主主義的な「表現」をとおして個人と集団の自立をはかる思想と、伝統的なムラの知恵が、久妙寺という門前町の農村に住む筆者の周囲で豊かに融合している。
でも、そうして営々と築いてきたムラに、高度成長、減反、農産物輸入自由化といった荒波が押し寄せる。減反対策にともない乳牛をはじめた人は、乳価下落で外に働きにでて過労死する。国の言うがままに選択的拡大路線にのった農民はさらに悲惨だった。農家の跡取りはいなくなる。営々とつづいていた集落の行事や知恵はどんどんなくなっていく。筆者のいる久妙寺はそんななかで今にいたるまで昔ながらの姿を残す貴重なムラである。
仲間とのネットワークによる知恵(生活改善や農業の工夫)と、昔ながらの知恵を駆使して、すさまじい逆風のなかを、けっしてあきらめることなく、「さだめ」に屈することなく生き抜く。時代の残酷さ故に、筆者の生き様は美しい。今後の農村の生き抜くための知恵にあふれていると思った。
------覚え書きなど-----
▽〓農村に伝わる数々の行事。わずらわしい、ということで排除して、「効率」を重視する社会ができてきた。マヤの先住民族社会では、「わずらわしい」伝統行事をとおしてマヤとしてのアイデンティティと文化を何百年も継続してきた。。プロテスタントは効率の名のもとにそうした伝統行事を排除し、マヤの人々を土地からきりはなし、「経済」のなかにほうりこむ。日本では高度成長が「プロテスタント」の役割をはたしたのだろう。高度経済成長という宗教改革によって、日本の農民は土地の呪縛から解放され、根っこを失った。その後には「カネ」の嵐が待っていた、という構図。

▽14 稲葉峯雄の序 「草の根に生きる」の読書会を「つくし会」でしたのが出会い。以来40年のつきあい。人間らしく生きるという意味と軌跡が、一字一句つづられている。土と共に一鍬一鍬耕されたいのちの言葉。部落の名と共に、日本の母なる農村が後世に生きる最高の遺産であり指針になる。
▽31 初観音 旧暦1月18日 見せ物小屋がたち、屋台がならび……
▽36 ドンドラ 小川で口をすすぎ顔を洗い、川水を引いた庭池で鍋を洗い、釜についた米は鯉や鮒がたべた。川は神聖なものとして小便をしたり、汚いものを洗ったり流したりしないことが掟。
▽37 田植えが始まると、おさんばいおろし。カニやドジョウやフナはこの日からとってもよいことに。
信仰心の薄れと機械農業になり、助け合いも神仏へのけいけんな祈りも影をひそめた。村を挙げての祈り即農休日もなくなった。私たちの村で僅かに「総さんばいあげ」の行事が残っているのは不思議なくらい。昔とちがってその日は必ず日曜日。
▽44 「ほのぎ」 大字の下の地名。今は耕作台帳でもほのぎが消えて番地と面積のみになっている。
▽47 麦価を低くおさえ、アメリカから輸入。麦価安と長雨で麦作をやめた。麦まきも麦踏みも麦秋も消える。
▽52 地祝いはん 年明けの鍬おろしの行事 旧暦1月11日 豊作を願う。
▽55 お亥の子はん 旧暦10月 外は冷たい風がふく。この日がコタツの炉開きの日になる。早朝、餅を蒸した火を取り、はじめてコタツに入れる。
▽58 お日待ち 年頭の慣習。12軒に案内をだし、「日天様」の掛け軸を寺で借りて床の間にかけ、もちをつき丸め、お神酒、お米、果物……をそなえて日暮れを待つ。くるわ全員が集まったところで会食がはじまり、村の決めごとの予備として組内の意見のとりまとめ、役員の選出など、よもやま話に花が咲く。院家さまの到着で儀式に入る。神仏混交の行事。〓〓門前町が絆をつむぐ例?
農にまつわる行事が私たちの農村では数多く残されている。
▽65 農作業、育児、家事などおわり、家族が寝静まってから自分の時間。新聞や本を読み、未来の生活設計表をつくり、子供の成長ぶりを記録し……。昭和36年にNHKラジオモニターに採用。ラジオを聴きながら、ちらしの裏などにメモして、夜にレポートを書く。
▽67 昭和38年から家計簿・経営簿の記入をはじめる。集計することで、今までの経営では行き詰まることに気がつく。夫が外へ働きにでていたのでは、いつまでたっても他産業と肩をならべられないことがわかった。
周年家族が一緒に働け、収益をあげるためにはどうしたらいいか。葉たばこを拡大する。一年中、夫と共に仕事ができるうれしさ。
政府は選択的拡大とかで、専業を奨励したいたが、私たちはあえて複合経営を選んだ。お天道様が空いて。どれかひとつ悪くなってもあとのもので経営がなりたつように。(〓ペルーのジャガイモ。百姓か農「業」か)
米の生産調整で転作を余儀なくされ、自殺者もでた。我が家はレンコンを増やすと共に、施設園芸のキュウリに昭和46年に切り替える。
▽75
▽77 家計簿 記帳のない生活は港を離れた船が大海で羅針盤をもたないも同然。
▽98 昭和20年代は「愛媛農業」という月刊誌で勉強。40年ごろから「日本農業新聞」。女の投稿欄「女の階段」。それにあわせて全国各地に回覧ノートのグループが誕生し、愛媛県でも46年に「いよじ」を結成した。以来35年、ノートはまわりつづけている。〓
▽115 「農業年金を私たち農婦にも」 〓農業年金は崩壊した?〓
▽121 200年前 肥料は山野の柴や草だった。3キロはなれた山まで村総出で草刈りにいった。入会山の権利を得るため、庄屋の息子ら2人は当時の禁をおかして松山藩主に直訴。それによってこの村も入会山の権利を獲得した。2人は犠牲になった。村の救世主。
▽123 農村の嫁不足。若い人が就農できる条件作りが先決ではないか。婦人にも農業者年金を。
▽128 農家の女性の存在すら無視した農地の「生前一括贈与」の法律。……長年記帳をつづけた自信をもとに、夫婦で働いて得た財産を均等にする。不動産は不利なため、現金を貯蓄や年金保険などにかえていく。妻名義の額が多くなり、老後の経済的自立に見通しがついた。
▽135 戦中戦後は保有米まで取り上げられ、ひたすら増産に励んだ結果は減反政策。昨年(平成5年)の米騒動は緊急輸入米をやすやすと許す羽目になり、ウルグアイラウンド合意への道を早めた。見かけだけの補助金政策など望まない。時の政府に振り回され続けたわれわれが、本物の百姓かそうでないかを、ここらで見極めねばなるまい。
▽148 せめて法律で認められている、夫婦20年たてば共有財産、夫の死後は2分の1の財産が、また新しい法律では3分の2が相続できることを胸に刻みましょう。ゆめゆめ財産放棄などはしないように。当然の権利として法律を活用することが、老後を支える手だてだと思います。……小遣い要求、小遣い捻出は当然の権利。……結婚して16年目に両親から世渡り(財布)を譲られました。そのときから記帳を始めました。記帳をすれば今度は義母が不自由な目をすることはわかっていました。そこで母と私の貯金の口座を設けたのです。家の中で公認されたへそくり作戦。農地などの不動産を持たない義母は、貯金の中身が少しずつふくらんで、心豊かな暮らしをしています。(〓個の解放)
▽155 田植え前の井手さらえ(水路の草や土砂をとり除く作業)。男も女も作業内容はかわらないのに、賃金(弁当代)は女性は男性の7割。かえることを提案したら翌年から同じに。
▽161 昭和24年に長男誕生。明治生まれの両親と戦後の民主主義教育を受けて育つ我が子の板挟み。同じ悩みをもつ親があつまって「つくし会」が生まれる。毎月1回、だれかを招いて話をきき、懇談し、語りあう。長年の夢だったプール建設の口火を切ったり、上水道設置の予備の水質調査に取り組んだり、国民栄養調査の中心で働いたり。つくし会の一員であることによって、社会に目を向けることを覚え、生きてゆく指針を教えられた。グループの学習の中で「男女平等」の意識に目覚めはじめたのは昭和30年代も終わりのころ。自分たちの子は「男らしく、女らしく」ではなく「人間らしく」育てよう……と話しあう。
▽173 農業改良普及員、生活改良普及員の削減問題。(s55) 普及員は、各農家を自転車で走りまわり指導した。切っても切れないつながり。生活改良普及員は、台所改善にはじまり食生活改善、健康管理、グループ作りと幅広い活動を展開した。施設園芸も、技術指導はもとより、ハウス病の措置を、保健所などと連携をとってとりくんでくれている。国の農業軽視によって、農民間の気持ちをバラバラにさせた行政の責任は重い。そのなかで、普及員は、地域農業振興対策としての営農指導やグループ作りの名手であり、地域内での人と人との心の接着剤でもある。
▽176 「井手さらえ」村中総出で水路のそうじ。午後は村中が仕事を休んで田植え前の休息をとる。その日は農家も非農家も1戸に1人はかならず出役した。
今は雑草が生い茂り、それを刈り上げたあと、鍬でさらえる。ごみだらけ。水はぬるぬるして悪臭をはなつ。
昔は川は神聖なものとされていて、汚物を捨てたり小便をしようものなら「お水神様のバチが当たる」と叱られたものだ。米のとぎ汁も、それを流す嫁は所帯持ちが悪いと言われ、入浴後の風呂の水も一度肥だめにため、肥やしにして麦などに施した。
水洗トイレの水も流す。水洗トイレを使う人に金を出させ、川掃除をする人には高い日当を払うという地域も。川下では1万円の日当を払っても人夫が集まらないという。
昔は「井手さらえ」はまつりごとであった。「春休み」という名称がつけられたのだが……
▽185 川の堤防が切れる 80歳の父によれば「この川は切れるのが当然だ」という。そのまま自然に流せば中山川へと合流する。それを途中から曲げて川をつくった。それは冬場の失対事業だった。堤防をつくるときはもちろん、堤防が切れればおかみの指図で修復作業が進められ、百姓のふところが少しは潤ったのだとか。老父はこの川を「外道川」と呼んでいる。
▽199 昭和46年 2,3年前まで「米を増産せよ」と百姓のしりをたたいた。その同じ指導者が今度は「米を作るな」と言う。小百姓に40アール減産の割り当てだと町からの指示。反当何俵供出の割当指示はついこの間のこと。政府はよっぽど割当がお好き。「米作りに米を作るなと言うことは、死ねということと同じだ」
▽208 高度成長前は、農繁期以外はのんびりしていた。正月や盆、お祭りなど朝からゆっくりできた。今は、男は農外収入を求めて外で働き、女は内職でてんてこまい。昼間家には若い人がいないという現状で、村では夜の会合さえ人の集まりが悪くなり、村の機能も動き難くなった。
井戸端会議は農村の女達の社交の場であった。あぜ道は話し合いの場だった。井戸がなくなり、田んぼはトラクターがうなるようになり、女達の社交の場は完全に奪われた。人のことに無関心になり、自分さえよければという風潮が強くなったように思う。
▽210 過労死した農家。 乳牛を導入し順風満帆だった。が、飼料高騰と乳価低迷、さらに米の減反。専業農家の彼を農外収入にかりたてた。なれない土方仕事へ。驚くほど安い賃金。乳牛をまかされた妻は2人分の仕事と家事をすることになりダウン寸前に。乳牛を全部てばなし、2人とも外へでて働くようになった。……そして彼は死亡。(〓個人の経営努力をすべてふっとばす農政の転換〓)
▽229
▽242 内子の知的農村塾に呼ばれる。「百姓」と自称する理由 「金儲けだけの農業ではあまりにも悲しい。百姓百品、何でも耕して作る。生きる原点は百姓だ。私はこの言葉が好きだから」
全日写連で写真を撮る
▽253 義母には集落内にたくさんの友達がいて、訪ねてくれたり散歩の途中で話したりしてくれる。月二回集会所の老人の部屋で開かれる「すみれ会」(同年輩10人ほどのグループ)にも参加。

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