筑摩書房 20080528
魯迅を日本に紹介したことで知られる中国文学者の半生を、鶴見独特の転向論の切り口でえがいている。同じ切り口でえがいた柳宗悦の評伝のほうがわかりやすいが、こちらもおもしろかった。
竹内はニヒルで口下手だった。消極的な理由から中国文学を選択し、中国文学者の立場から米英との戦争にも「協力」を表明した。中国に対する戦争には批判的だったが、強者である米英に宣戦したことを評価したのだった。
だが、「大東亜文学者大会」には竹内が主宰する「中国文学研究会」は不参加を決め、さらには会を解散してしまう。中国文学を蔑視することに怒りを感じたからだった。
対米英戦争を積極的に評価し、戦後も社会の変遷を見誤るなど、歴史をみつめる誤りのない目があるわけではなかった。だが彼のなかでの論理は一貫していた。
戦後、多くの知識人は思想的に大転換・大転向をとげる。米軍は間接占領をする都合上、戦中の責任は軍部とそれに結託した一部指導者にあり、国民は被害者であるという考え方をとり、知識人の多くもそれにならった。
竹内は、戦争に協力した自分、まちがいを何度もおかす自分を真正面から見つめつづけ、国民のひとりとして自ら大東亜戦争をになおうとした事実を、言論の基礎においた。
「国民」という言葉を多用し、国民である自分を徹底的に見ることで、国境を越えようとする。「外」から転向などを批判するのではなく、内側からどうもがくか、という視点を徹底する。そこに竹内の独自性とすごみがあるという。
————-以下覚え書き—————-
▽259 これまでの日本論が、伝統の美化に集中したり、伝統の否定に集中したりしがちだったのに対して、竹内の日本伝統論は、負の遺産を負の遺産として捨てないことから、生きる姿勢を示す。
日中戦争から大東亜戦争への長い年月、日本人は、国家(実は時の政府)にしたがうことが道徳だと信じていたから、たたかう相手のもつ道徳について考えをめぐらすことがなかった。
▽260 日本は目前の話題に集中してとりくんで効果をあげた。中国人は長い時間において現在をとらえ、日本人は短い時間において現在をとらえる。
▽261 竹内の生まれた長野県臼田町 千曲川べりに佐久病院がある。農村医学の中心地。そばの町とむすびついて市になろうとしない〓現在は?
▽296 文化の深さは、蓄積の量ではなく、それが現在あらわれる抵抗の量によって測られるということ、北京市民、あるいは中国民衆の目に見えぬ抵抗が、どんなに大きかったかということ。そのことを日本人がいまも十分に気づいていないこと。
▽313 大東亜戦争と吾等の決意
アメリカに対してはゆずりながら、弱く貧しい中国に対しては強気に出てそこから利権をうばうという大正以来の日本国の流儀に対して嫌悪をもっていたのが、米英蘭にたちむかうというはっきりした姿勢を日本がとったことに対して、一挙に賛成の立場にかわる。
自分が国民のひとりとして進んで大東亜戦争をになおうとした事実を、戦後の言論の基礎においた。
敗戦によって、米軍はわずかの兵力をもってする間接占領の都合上、戦中の責任は軍部とそれに結託した一部指導者にあり、国民は被害者であるという考え方をとり、言論人、知識人はそれをうけいれた。そのわくは、米軍占領の終了後も、ながく知識人に影響をのこした。竹内の活動をきわだたせたのは、この戦争を、国民は進んでたたかったという事実をしっかりと目の前において筆をすすめたことにある。
▽324 魯迅の墓は壊された。……日本軍占領下にあっては、魯迅は死しても辱められていたのであった。
竹内は、魯迅の、政治から文学を守ろうとする姿勢に共感を示す。
……革命に役立つ文学だけが文学だという主張が公然と行われた。それに対して魯迅は反発した。この事情は晩年の「救国」の場合でも同様であった。(革命を戦争におきかえることが可能)
▽328
▽332 「民主主義とは何か」とたずねられ、明治維新の「五ケ条の御誓文」にさかのぼって民主主義を定義した。……明治以後の新しい日本をおこすにあたって、明治天皇といえどもはじめからいばってかまえていたのではなく、まだおさない自分をたすけてくれ、と軍人たちにうったえている。ここには、竹内が高度成長期に入る日本で、右翼左翼をこえて明治維新100年を民間の側から主催したいという心のむきの水源があり、明治国家をつくる運動は、できあがった明治国家(その国家にとらえられた大正昭和の国民)よりも大きいという判断につらなる。竹内は日本国民として、中国のより高い道徳意識に脱帽するとともに、自分は日本国民の隅にいるひとりとして、明治国家をつくる水源にさかのぼって自分を洗いなおしたいと考えた。
▽340 (太宰は軍国主義にからめとられなかった希有な存在だが)近くにせまる日本の敗戦を気配として感じるなかで、太宰は、日本をあわれに思う感情がたかまってゆき、その中で、敗戦をせおう国民が天皇に対して保ちつづける忠誠を、美しいものとしてだきとろうとした。それは、敗戦をさかいとして天皇への讃美を口にする太宰へと接続する。
▽347 マルクス主義者を含めて近代主義者たちは、血ぬられた民族主義をよけて通った。自分を被害者と規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自己の責任外の出来事とした。「日本ロマン派」を黙殺することが、正しいとされた。しかし、日本ロマン派を倒したものは、かれらではなく外の血からなのである。
▽355 安保 新しい政治を目指した幕末のさまざまな個人の中には、自分が生き残って権力を奪取してその頂点に立つという見込みなどなしに働いて倒れた人びとがいた。それらの個人がつくり出した運動の流れをうけつぐものとして、安保強行採決反対の運動があったと竹内には感じられた。国会抗議にでかけた数十万の人びとのなかには、自民支持の人が多くあり、共産党、社会党、新左翼の人たちの枠をはるかに超えていた。あの戦争を指揮した閣僚が総理大臣となって日本を戦争に巻き込むおそれのある措置にむけ強行採決した。戦争体験を持つ人が日本人の半ば以上であり、その人たちの中に戦争指導者としての岸信介の姿が焼き付けられていた。
▽364 竹内の文章の魅力は、自分を消して状況を見るという見方をとらず、自分のいる状況から離れずに文章を書いたことにある。〓 「一木一草に天皇制がある」。天皇制に捉えられた状況の中にいて天皇制にあらがう。失敗の中から力を汲み取る方法を示し、自分の、日本国民の、人類の生き続ける道を指さす。
▽368
信信信信 マルクス主義を信じ一歩もひかない、という態度
疑疑亦信 疑いな自分の信念を守る、という態度
言而当知也 自分の立場をはっきり言葉にするという西欧文化
黙而当亦知也 黙っていることも認める
それぞれの上が知識人より。下の2つのせめぎあいのなかで文章を書きつづける竹内のような評論家があらわれると、現代知識人のなかできわだつことになる。この流儀は西欧思想の正統からはなれる。
▽380 大東亜戦争についても、中国革命以後の行く末についても自分の予見が不十分だったという自己認定。自分の予測がどれくらいはずれたかを、繰り返し測って認める。さらにその錯誤の認識をふくめて、元の自分の予測の中になにがしかの真実がふくまれていたその部分だけをふるいにかけてそれを守る。その判断を支える冷静さと勇気の組み合わせに私は感動する。
▽423 守田志郎 〓近代社会では、伝統的共同体は破壊されるとの学説(いわゆる大塚久雄学説)を実証的に否定して、日本現代農業において「共同体」の役割が大きいことを主張した。
▽434 久野収 「平和の論理と戦争の論理」 負けることの意味を考え続けた。負けをかみしめたことで、久野さんは負けをものともしないしなやかな姿勢ができた〓
負けを後始末する運動を優先したため、久野さんは本を書けなくなった。45歳まで1冊も書いていない。
コメント