■明恵 夢を生きる<河合隼雄>講談社α文庫 20160811
明恵は、華厳宗の中興の祖で、南方熊楠の世界観にも影響を与えた。19歳から亡くなる1年前まで夢を記録しつづけたことでも知られる。生も死もすべてのものが一体となっていると考える華厳経の世界と、夢を記すことの間にどんなつながりがあるのか。夢分析の専門家がどう解き明かすのか興味を持って読むことにした。
徹底した合理主義者でありながら、予知夢のような現象も受けとめ、超越的な力を認めながらもそれに溺れない。夢分析をする者は強力な合理性を身につけたうえで、あえて非合理の世界と向き合う姿勢をもつことが必要だという。それはユングと明恵、さらには熊楠に共通する態度だ。
夢は毎晩のように見るが、記憶するのは難しい。ましてや記録しつづけることは常人には不可能だ。一方、夢記録にのめりこみすぎることも「無意識の力が強すぎて意識的な制御をこえている場合があり、危険を伴うことも」あるという。私の知人も夢を記録していたが、線が細く、ちょっと精神的な危うさをもったいた。
そのことを、明恵もユングもよく自覚していた。合理と非合理のバランスをとる力がぬきんでていた。
西洋では啓蒙主義の時代から夢判断は迷信だとされたが、それに異を唱えたのがフロイトだった。さらに夢そのものを重視したユングは、「意識」は、巨大な氷山の海面にあらわれたほんの一部にすぎない、ととらえ、海面下にある無意識を重視したようだ。制度や思想としてあらわれる上部構造よりも「下部構造」を重視したマルクスの唯物論ともつながる。
天皇から武士へと権力がうつる大変革時代の鎌倉時代は、1世紀足らずのあいだに、法然や親鸞、道元、日蓮、一遍などの名僧があらわれた。上流社会のものであった仏教が、民衆に根を下ろした。
鎌倉の名僧たちは、仏教における一面を切り取って、尖鋭なイデオロギー的教義を打ち出して独自の宗派を形成した。善悪・正邪を判断する基準を示すことで、多くの人を惹きつけた。
親鸞と同じ年の明恵には、鎌倉仏教の旗手たちほどの輝きがない。
仏教は本来、「正しいもの」以外を切り捨てるイデオロギーではなく、すべてを包み込むコスモロジー的な性質をもつのではないか、というのが明恵の立場だという。
イデオロギー的な親鸞らの思想は、教義として鮮明だから、明治以降の思想にも合致した。明恵の思想は近代になって失われたが、現代はコスモロジーが再評価され、空海への関心が高まっている。「明恵の評価は急激に変化するのではないか」と筆者は書いた。予想通り、熊楠とともに明恵が再評価されつつある。
現在の湯浅町にある苅磨の嶋(苅藻島)あてに明恵は手紙を書いた。島のような無生物に対しても、意志が通じる相手のように扱い、「自然に接し、自然の心を知ることができたときは、今更別に経典を読む必要もない」と主張した。生と死、生物と無生物を区別することに疑問を呈した熊楠と軌を一にしている。
自然と一体になると、ときに「超能力」も発揮する。明恵もまた、多くのテレパシーの記述を残している。近代科学では理解できなかった「無意識」を研究したユングも、そうしたテレパシーを肯定的にとらえている。
華厳経(仏教)の世界では、あるひとつのものの存在に全宇宙が参与しており、ある特定のものがそれだけで個として存在することはあり得ないと考える。そこには生死も本質的な違いではないし、遠くの世界のことを感知することもあり得ないことではないのだ。
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▽79 鎌倉時代、法然、親鸞、道元、日蓮などの名僧が次々に現れ、お互いに影響し合ったり、批判、攻撃しあったりして……すぐに思い起こしたのは、今世紀の初頭に、フロイト、アドラー、ユングという3人の巨人が「無意識の発見」の仕事に力を尽くしてゆく過程であった。
▽80 鎌倉時代 有史以来の大変革。それと呼応するように、1世紀たらずの間に、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍が活躍する。政権が天皇から武士へと移ってゆく流れに沿うように、それまでは天皇をとりまく上流社会のものであったと考えられる仏教が、はっきりと民衆の心のレベルにまで根を下ろした−−それだけにそれにふさわしい変貌を必要としたが−−時代であった。
▽83 明恵23歳のとき、神護寺を出て、紀州栖原の白上の峰にこもる。(〓どこ?)
▽86 親鸞と同じ年に生まれる。仏教に対する考えは正反対。
▽89 明恵の父は平重国につかえていた武士、母は紀州有田郡一体に勢力を持っていた湯浅宗重の娘。
▽95 明恵は40歳のとき、「摧邪輪」を著し法然を激しく批判。
▽100 鎌倉時代に次々と現れた祖師たちは、仏教における一面を切り取って、尖鋭なイデオロギー的教義を打ち出して独自の宗派を形成していったと言うことができる。「これは正しい」ということは「これ以外は誤り」ということになりがちであり、きわめて明白な主張が可能になり、多くの人を惹きつけることになる。イデオロギーは善悪、正邪を判断する明確な規準を与える。…人間や世界の存在は、存在そのものは善悪とか正邪とかをこえているのではないか。仏教こそは、もともとそのような存在そのものを踏まえて出現してきた宗教ではなかろうか。したがって、仏教は本来イデオロギー的ではなくコスモロジー的な性質を強くもっている。
コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り捨てる力をもっている。(〓親鸞法然はイデオロギー、明恵はコスモロジー、という位置づけか〓)
▽102 イデオロギーよりコスモロジーへの変換が現代において生じつつあると思われるので、明恵に対する評価は急激に変化するのではないかと推察される。そのような動きは、これまで鎌倉時代の祖師たちよりも一般に注目されなかった空海に対して、急激な関心が高まってきたことにも示されている。(〓なるほど〓)
▽104 山本七平 北条泰時の貞永式目は、一種の「革命」ともいうべきものだが、その思想的支柱として明恵が存在した。
我が国の新仏教の祖師たちが、イデオロギー的にラディカルなのに対して、明恵はコスモロジー的にラディカルであったと言えるだろう。
▽118 日本文化における母性原理の優位性。母性原理は「包む」機能を主とし、父性原理は「切る」機能を主とする。
…いろいろと分割し、分類するから言語表現が可能になるのであり、言葉に頼って説明しようとするかぎり、ある程度の父性原理の使用は避けられない。
…西洋における父性原理の強さを支えるものとしてキリスト教が存在する。唯一の男性神は父性原理の体現者である。
…日本の男性は、母なるものとの結びつきがあまりに強い…日本の男性は、結婚しても相手の女性を妻としてではなく「お母ちゃん」にしてしまうことが多い。日本の男性のおこなう「浮気」は、二人の女性に対する葛藤としてではなく、しばしば母親の目を盗んでおこなう子どものいたずらのようなものとして体験されるのである。
▽132 我が国においては、身体と心という分離がそれほど明確ではなく、両者を包括する「み」という概念が存在する。
…霊と肉とが明確に分離され、肉が蔑視される文化の中で、ユングは地下に「肉の神」が存在することを夢に見たし、明恵は、身体も心もひとつとして考えられる文化の中で、すべてを包含する母なるものを「切断」する夢を見たのである。両者ともにその文化に対して、大きい課題を背負っていたことを、幼少時の夢が明確に告げていた。(〓ユングと明恵の類似)
▽134 自分で考えてもわからなかったことが夢の中で解決されることは時に生じるものである。(麻薬の効能とビートルズ〓)
▽142 錬金術では、人間の個性化の過程が、金をつくりだす化学的過程に投影されて述べられている。
▽144 夢の中で自分の死を見ることは、ごく稀にではあるが体験することである。多くの場合は死の寸前にめざめるのだが、市と言うことが深い意味をもつときは、死ぬところまで夢に見るものである。人生における急激な変化と対応していることが多い。
▽152 テレパシーのように、夢で遠くのこを見る…深い無意識層にまで下降すると、このようなことがよく生じると、現在の深層心理学では考えられている(熊楠の超能力のようなものは、心理学で認められている?〓)
▽161 明恵は23歳のときに神護寺を出て紀州の白上の峰にうつった。26歳で高雄に帰るまでこの草庵に住む。
明恵は、捨身の象徴的な成就の後に、母胎への回帰を体験し、…彼がいっそう成長してゆくには、そこから出て行くこと。いわば再生の過程が必要であり、その過程のハイライトとして、自らの耳を切るという行為があった。
…母胎内への回帰 母なるものは、温かく包む側面と、飲み込んでしまう恐ろしい側面とがある。母胎内への回忌はプラスイメージだけではない。
…周囲の僧を見ると、世俗の生活を満喫していいるとしか思えない。明恵の嘆きと怒りは深く…
…母なるものの世界にひたりきるような生き方をしていたのだが、ここでその世界を出て、父なるものの世界とも接触する必要が生じてきた。父性性の強さを獲得するために白上の峰での荒行が必要だった。自己去勢の行為として耳の切断。
▽179 明恵は仏教の世界観、ユングは現代人の自然科学の知識の上に立っているので、描写は異なるが、両者ともに「この世」からはるかに離れた地点にまで上昇した経験をもったのである。
▽188 白上の草庵でひたすら孤高の地位を保った彼が、だんだんと人々と接触し、その教えをひろめていくための準備段階が、内的にすすめられていたことを、夢の内容からうかがえる。
…白上から高雄にもどるが、また白上に移り、山間の筏立というところに住む〓。
▽193 インドに渡ることを断念。34歳のとき、後鳥羽院から高山寺の地を授かる。
▽201 苅磨の嶋(苅藻島)への手紙を書く。自然に接し、自然の心を知ることができたときは、今更別に経典を読む必要もない、という。
▽209 明恵が春日明神の神託により天竺渡航を注視した1203年は、歴史家によってインド仏教滅亡の年とされている。イスラム教徒がインドを席巻し、仏教教学の中心であったビクラマシラー寺院を破壊し、インドの仏教は絶えてしまったとされる。
▽219 夢に何かの前兆を見たり、春日明神の降霊現象が見られたり、「そんなことって本当にあるのか」と言いたいことが次々に生じている。…明恵の「合理性」は現代人でも及ばないような高さをもっている。…昔の信じがたい「お話」としてよりは、まず事実として受けとめて論じるのが妥当と思われる。
▽221 明恵とテレパシー テレパシー現象は時に生じるようである。顕著な例としては、エマニュエル・スウェーデンボリがストックホルムの火事を、遠く離れたゴッテンベルクから「見た」例があげられる。…カントはこれが正確な記述であることを確かめることができたと。
…明恵に関する多くのテレパシーの記述は、すべて信頼していいのではないかと思われる。明恵自身が自分のテレパシーなどの体験をほとんど評価していない。奇跡を信仰の証として用いたりしていない。むしろその逆。
▽225 仏陀が弟子たちと山に登っていたとき、、向こう側で山火事が起きた。仏陀は「君たちは山が燃えているとのみ思うのか、燃えているんは山だけではない、君たちのそれを視る眼も、燃えている…」
仏陀が語っている意識は、主・客の分離以前のものであり、そこでは山が燃えるとともに、それを見るものも、一切が燃える。ものとこころが分離される以前の意識。
…近代意識にのみ頼ると、テレパシーや夢の予示的機能などは迷信とされる。だが、近代意識に対する反省が、ノイローゼの治療ということから生じてきた、フロイトによる無意識の発見、および無意識の重要性という指摘という形になって現れてきた。
▽229 西洋近代の意識は、高く高く構築されてゆき、気づいたときそれは地面から離れたものとなってしまっていて、そこに疎外や孤独の問題が生じたり、自然破壊へとつながっていったりする欠点をもっている。東洋の意識は、深く深く沈潜してゆき、ふと気づいたら地上に戻れなくなってしまって、地上の明るさを忘れた、途方もなく曖昧なものになる危険性をもっている。
…自と他、ものとこころ、などの区別を鮮明にし、合理性や論理的整合性の高い意識をつくりあげてyくのが、西洋に生じた意識の確立である。そのような観点からすると、「意識閾を下げる」ことによって無意識の活動が強くなると言えるし、東洋的な考えによると、訓練によってより深い意識へと到達してゆくと、むしろ、自と他、ものとこころなどの境界が曖昧になり、共時的現象を認知しやすい状態になるということができる。
▽230 明恵の素晴らしいところは、きわめて深い意識体験をしつつ、一方では通常の意識も強くて、当時には稀なほどの合理性をそなえていたということである。…もともと通常の意識の弱い人などは、深い意識体験が生じるときがある。そのときに、それにとらわれてしまうと、それはきわめてファナティックなものになったり、病的な感じの強いものになる。(〓心理学者ならではのバランス)
…不可思議な現象を周囲の人が騒ぎ立てるのを、彼ができるかぎりおさえようとしている。宗教的奇跡にかんして、これだけ覚めた意識をもっていた人はきわめて少ない。
▽235(山で修行したいという弟子に対して)一人で修行するとなにひとつ邪魔立てされずに便利のように思われるが、実は知らず知らず時間のゆとりのあるのにごまかされて、怠け怠ってしまう危険性がある。…のんびりと石の上に寝転がっているのを修行であると錯覚していると大変なことになる、と明恵はいう(会社員かフリーターかの選択〓)
▽242 われわれは何か新しいものを得たとき、それによって失ったものについて無意識のことが案外多い。新しいものを得たのに、心がはずまないどころか、逆にうっとうしい気持ちになったりすることがあるのはこのためである。昇進したり、家を新築したりしたときに鬱病になったり、中には自殺したりする人があるのは、このような心のメカニズムによっていることが多い。
われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、園は以後に置いて失われたものに対する悲しみとの、両者を共にしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。
(〓なるほど。憂鬱を受けとめることが大事なのだ。たしかにマンションを買ったときや車を買ったときは憂鬱感があった。カネがなくても幸せに暮らせていた自分から離れていく憂鬱感だったのか)
▽243 明恵にとって、高山寺の土地を後鳥羽院より受け取ることは、彼の生き方を根本的に変えることになり、大変な覚悟が必要だったろう。「法師くさい」のが嫌だといって23歳で神護寺を出た彼が、約10年を経て、神護寺の別所を院より賜ってすむことになる。
▽250 明恵は「後生を助かろうとしているのではなく、この世にあるべきようにあろうとする」ことが大切であると明言している。これは当時急激に力を得てきた法然の考えに対するアンチテーゼとして提出されたものと思われる。したがって、これに続いて、現世のことはどうあっても後生だけ助かればいいなどと説いている経典はない、と言い切っているのである。
▽255「摧邪輪」 他宗に対してきわめて柔軟だったが、法然の「選択集」に対しては激しい攻撃を加えた。それは法然−親鸞の創始した宗派がいかに画期的なものであったかを示している。新たな時代と風土にふさわしい装い。
…明恵はあくまで釈尊の説いた仏教に還ることを理想としていた。
法然に対する批判は、菩提心を捨てる過失、聖道門を群賊に譬える過失の2点がもっとも大きい。
▽274 極端な女性忌避の傾向を持つ仏教が最初に日本にもたらされたとき、本邦最初の出家が女性たちであったという事実は…日本の土着信仰においては、神のよりましとなるのが女性であったという理由からだろう。このことは、仏教がはじめはその呪術的な面が重んじられた事実を反映していると思われる。
…大乗仏教が日本に渡来するときに、日本に古来からある地母神的な母性崇拝がその受け入れに一役買ったので、わが国の仏教においては、母性の尊重ということが強く前面に押し出されてきた。
▽293 承久の乱 わが国の歴史において「革命的」。それまで日本を支配していた律令制度に代わるものとして、「貞永式目」を制定した。…明治憲法にいたるまで、長期にわたってわが国を支える有効な「法」として活用されることになった。貞永式目の原理的背景として明恵上人が存在したという山本七平の指摘。明恵の説く「あるべきやうわ」の本質が「貞永式目」の中に生かされ、のちのちまで日本人の生活の中に生きてきた。
同年に生まれた親鸞。仏教者としては対立的であったとさえ考えられる。死後、親鸞の教えは現代に見られるように日本中に広がった。明恵の教えは、現代においてその流れをくむものはきわめて少なく、宗派としては成立しなかったと言っていいだろう。…しかし、…日本人の考え方の根本に、明恵が大きい影響を与えてきたという事実は、注目すべきことだと思われる。
▽322 僧として戒を守るためには女性を拒否しなければならないし、一方でそれは仏の女性的側面を拒否することになる。この葛藤に対して、おそらく万人共通の「正しい」選択というのはないのではなかろうか。人間にとって可能なことは、自分にとって「これだ」と思うことに全存在をかけてコミットすると同時に、その選択にともなって失うものについて十分意識することではなかろうか。
いかに決断し、いかにその意味を知るか、ということ。この選択で、明恵は戒をとり、親鸞は逆の選択をした。
▽331…性欲を感じないとか抑圧しきるのが素晴らしいのではなく、それを感じつつ、いかにそれと直面していったか、に重要な点があると思う。そのような大きい問題の場合、人間の意志の力のみでは対処できないと、明恵は考えたのではないだろうか。
▽335 親鸞の教えが宗教界において強い影響を与えたのに対して、明恵の考えは、日本人の日常的倫理に強い影響を与えた。
…明恵は人解的に魅力ある人だが、人間損座そのものがコスモロジカルに意義あるものとなったとしても、自分の考えを尖鋭な「教義」として伝えることはできなかった。親鸞の立場は、伝統的な日本人の心性にマッチするところがあるし「教義」として提示しやすいということがあった。
…明治になって西洋流の学問が強くなると、教義として鮮明な−−といっても、それは西洋流の教義とまったく異なるところに意義があるのだが−−親鸞が宗教史の前面に出てきて、明恵はその場を失ってしまった。
…現代においては、知のパラダイムの変換がさまざまに意図されているし、日本人が西洋の文化との対決を迫られていることを考えると、明恵の意味について考えることは、現在における課題でもあると思われる。
▽346 臨死体験の共通点。「光の生命」とでも名づけるべき不思議な光明に出会う体験が報告されている。…明恵は禅中にしばしば「臨死体験」と類似の体験を持ち、このような「光明」に接することが会ったのではないか。
▽354 華厳経 中村元が「この経典は複雑であり、また茫洋としてつかみどころがない。しかしはっきりわからないままでも心して読んでいくうちに、何か途方もなく大きな、大海原のようなブッダの悟りが、ひたひたとわれわれの心にも打ちよせてくるのを感じる」と述べている。
▽355 ・事法界 ・理法界 ・理事無礙法界 ・事事無礙法界 の4種の法界の体系に組織化。
「事法界」においてはものとものとの区別がある。AをBから区別し、Bとは異なる何かであらしめる存在論的原理を、仏教の術語では「自性」という。ところが「理法界」においては、ものの区別がなくなるので「自性」が否定され、自性は「妄念」にすぎぬものになってしまう。一切が無自性で虚空のようなものであることが、くりかえし説かれる。
この絶対的に空化された世界は、何もないという意味での無や空ではなく、「無」と「有」の微妙な両義性をはらんでいる。「無限の存在可能性である『理』は、一種の力動的、形而上的創造力として、永遠に、不断に、いたるところ、無数の現象的形態に自己分節していく。空や理のこのような現れ方を、華厳哲学の術語で性起と呼ぶ。
「理」は「事」のなかに透入して、「事」そのものであり、「事」は「理」を体現して、結局は「理」そのもの。理と事は互いに…自在無礙。これを「理事無礙」という。
そもそも無自性とされた「事」が、どうして個々別々のものとして存在しうるのか。これを説明するために「事事無礙」の法界が必要となる。Aはそれ自身は無自性だが、B,C…との関係性においてそれはAと考えられる。全体関連性を無視しては一物の存在も考えることができない。(5円玉の穴はまわりとの関係において「ある」。構造主義やソシュールの言語学〓を先取り)
▽359 あるひとつのものの存在に全宇宙が参与しているのであり、ある特定のものがそれだけで個として存在することは絶対にあり得ず「つねにすべてのものが、同時に、全体的に提起するのです。事物のこのような存在実相を、華厳哲学は『縁起』といいます」
A、B、Cという異なるものがあるとする。そのどれもが、同じ無限数の存在論的構成要素からなっている。そこにABCの差がどうして生じるかというと、無限の構成要素の中のどれかひとつが「有力」であるとき、残りの要素は「無力」の状態になると考えられる。(すべてのなかにすべてが含まれる。生も死もない…)
(個体発生が系統発生をくりかえすことにもつながる?〓必要がないのに、鳥や魚…の要素を持って生まれる)
▽360 …「無力」の要素は見えないといっても、それは普通の人間の場合。両方が見える人を井筒は「複眼の士」と呼ぶ。
…夢で会った黒犬を見て「この犬を年来飼っていたのだ」と明恵は直覚する。すべての人はその中に黒犬を飼っているのだが、それに気づく人と気づかない人とがいるだけ。「無力」の要素の存在に気づくこと。
(安藤が病院で、紀伊半島の水害への想像力を働かせていた〓見えないものを見た? 熊楠につながるテレパシーのようなもの)
▽362 ある人がいかに死んでゆくかということは、その人の生き方を反映するものだ…人の死んでいく姿はその人の人生の多くのことや、その本質について物語っているように思える。
…遺言をさだめ、仏道をとき、臨終の儀をおこない…
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