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トウガラシの世界史<山本紀夫>

■トウガラシの世界史<山本紀夫>中公新書 20160815
コロンブスが米大陸からトウガラシをもってこなかったら、インドのカレーはあんなに辛くなく、キムチももっとタンパクで、麻婆豆腐もマイルドだった。トウガラシは世界中の味覚を変えてしまった。どんな経緯で世界の味覚革命が広がったのか、知りたいと思った。
トウガラシは、ペルー中部山岳地帯では紀元前8000年ごろ、メキシコでも紀元前7000年ごろには利用されていた。インゲン豆とともに、米大陸でもっとも古くから栽培された植物だった。アマゾン流域の先住民の主食はマニオク(キャッサバ)で、有毒マニオクの毒汁のなかにトウガラシと蟻、魚などを一緒に長期間煮込んだトウガラシのソースが不可欠だった。
メキシコや中央アメリカで栽培されているトウガラシの大半は、ピーマンからハバネロまで、植物学的には同じアンヌーム種で、世界中で栽培されているトウガラシも、ほとんどがこれだという。野生のトウガラシは本来辛いものだったが、栽培するなかで辛くない品種を選びだしてきた。
旧大陸ではトウガラシ「発見」前は、コショウが主要な香辛料だった。輸入しなければならないコショウは高嶺の花だったが、トウガラシはスペインでも容易に栽培できたから16世紀半ばには栽培が広がった。
イタリアのカラブリアは、トウガラシを使う料理で有名で、トウガラシの博物館もある。ハンガリーはパプリカの原産地で、カロチャにはトウガラシ博物館もある。パプリカ抜きのハンガリー料理は考えられないほどだ。代表的料理グヤーシュなどが登場する以前のハンガリー料理はキャベツ料理だった。
アフリカへの普及は奴隷貿易によるものだった。当時ニューギニア原産のサトウキビは、欧州ではきわめて高価だった。ポルトガルやスペイン人が西アフリカ沖合の島でサトウキビを生産しはじめた。さらにアメリカ大陸でも栽培をはじめ、イギリスやポルトガル、オランダも加わった。深刻な労働力不足を奴隷で補った。奴隷貿易をとおして、トウモロコシもマニオク(キャッサバ)もトウガラシもアフリカに導入された。
ポルトガル人は、丁子(クローブ)や肉桂(シナモン)、コショウなどの香辛料を求めてインドに向かった。ある船が誤ってブラジルのベルナンブコ(レシフェ)にたどりついてトウガラシに出会ったらしい。
トウガラシを載せた船はインドのゴアに到達し、トウガラシはベルナンブコ・ペッパーの名で知られるようになる。インド料理にトウガラシが加えられたのは16世紀だった。その以前は、コショウによって辛みがつけられていた。
ネパールのシェルパ族は、もとは在来のソバや麦が主作物だったが、19世紀ころに導入されたジャガイモが主食になり、トウガラシは欠かせない食材になった。朝食はチベット由来のツァンパ(麦こがし)とバター茶をとるが、昼食や夕食は圧倒的にジャガイモを食べているという。
さらにブータン料理は世界一辛い食事とされている。トウガラシをスパイスではなく「野菜」としてとらえ、それ自体を「食べる」。外界との物流が限られていたため、ブータンではインドのスパイスは知られていない。現地で栽培できるトウガラシに依存するようになった。
インドネシアは、西側はスパイスやトウガラシをたっぷり使うが、東へ行くほど単純な味付けになり、ニューギニア高地はトウガラシもスパイスも使わない。
中国の四川料理は、1920年代に中国を訪れた言語学者の後藤朝太郎は「四川料理の如きに至っては野菜料理の特色を表して、野菜が主となり、日本人の口に大層合っている」と記し、辛いというイメージはなかった。石毛直道氏も「四川料理全体のなかでは辛みのある料理はむしろ少数派である。とくに、高級な宴席料理になると、辛さをひかえるのがふつうだ」とする。四川でトウガラシがさかんに使われるようになったのは、せいぜい100年前のことらしい。
トウガラシがない高麗時代のキムチは、野菜類のほか、香辛料はニンニクやショウガなどが中心だった。色づけには、各種の果物が使われた。同時期にトウガラシが入ってきた日本では、トウガラシは広まらなかったのに、なぜ朝鮮半島には普及したのか。
朝鮮半島も日本も、肉食文化は、仏教伝来で殺生が禁じられて中断された。日本では明治維新までそれがつづいた。だが朝鮮半島では、1231年にモンゴル族に占領されることで肉食が復活した。肉食とともにコショウを日本から輸入するようになる。コショウは高価だったため、栽培が容易で安価なトウガラシがコショウにとってかわった。
日本では、トウガラシの強烈な辛さは日本料理にあわず、七味唐辛子の一味として加えられた。江戸時代の初期には、うどんの薬味はコショウだった。七味唐辛子を使うようになったのは江戸時代後半になってからだ。江戸時代半ばから、現在のような細く切ったソバ「そば切り」が、江戸で圧倒的な人気を誇るようになった。その薬味に七味唐辛子が欠かせないものとなった。
明治5年の「西洋料理指南」に出てくるカレー料理の作り方では、肉のかわりに、魚やエビ、カエルまで入れているが、スパイスはネギやショウガで、トウガラシは使っていない。明治19年の「洋食独案内」でトウガラシが登場し、急速にカレーライスが普及した。
それでも戦前はトウガラシ生産量は少なかった。急増のきっかけは昭和25年からの朝鮮戦争だった。韓国軍向けのトウガラシをアメリカが日本で買いつけた。栃木や茨城、香川などでさかんに栽培され、アメリカやスリランカなどにも輸出された。昭和30年代には栃木、茨城は全国の生産量の80%を占めた。
だが高度成長とともに急減し、昭和40年代後半には輸出国から輸入国に転じた。

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▽2 コロンブスの第1回の航海だけでも、マニオク(キャッサバ)、ヒョウタン、タバコ、トウモロコシ、ワタ、カボチャなどを記録した。
▽6 はじめに征服された島嶼地方ではアヒと呼ばれ、クスコのケチュア語ではウチュ、メヒコではチリ。
▽13 アマゾン流域の先住民のほとんどは焼畑農耕民であり、主食は有毒のマニオクであるが、これにはトゥクピーの名前で知られるトウガラシのソースが不可欠。そのソースは有毒マニオクの毒汁のなかにトウガラシとともに蟻、魚などを一緒に入れて長期間煮込んだもので、これを魚屋動物の肉につけて食べるほか、マニオクからつくられるカサーベという薄焼きのパンにつけて食べることもある。
▽15 メキシコや中央アメリカで栽培されているトウガラシのほとんどは、植物学的には同じ種。極小のチレ・ペキンもこぶし大のピーマンもハバネーロ、同一のアンヌーム種。…現在、世界中で広く栽培利用されているトウガラシも、ほとんどがこのアンヌーム種。残りの3種はアメリカ大陸以外ではあまり知られることのない、知られざるトウガラシなのである。
…バッカートゥム種は、ペルーからボリビアにかけての中央アンデスの山麓地帯。
…チャイネンセ種は、アマゾン流域を中心に南アメリカで。
▽26 トウガラシ 辛さは動物から身を守るため。鳥はその辛さを感じないのか。鳥の薬になるだけでなく、ニワトリは好んでトウガラシをついばむ。…鳥に食べられたトウガラシは発芽率がきわめて高くなる。
▽29 野生のトウガラシは本来辛いもので、栽培するなかでじょじょに辛くない品種を選びだしたのであろう。
▽49 野生種には栽培種が失ってしまった香りや風味、強烈な辛みがある。…
▽55 人間の保護なしで生育がむずかしいところでは、多年生から一年生への変化もじょじょに起こった。メキシコや中央アンデスでは雨期と乾期があり、潅漑でもしない限り、乾期の植物栽培は難しい場所が少なくない。このような環境で保護をやめれば、トウガラシは生育を止める。このくりかえしが一年生への変化を促進したと考えられる。
▽60 トウガラシはコショウよりも辛い。16世紀半ばにはスペインのいたるところで栽培されるようになった。当時高嶺の花だったコショウとちがって、スペインの環境に適して容易に栽培できたからだろう。
▽62 欧州では、トマトやジャガイモも、「毒がある」などとなかなか普及しなかった。ジャガイモは、ドイツの国民食になっているが、ドイツに普及したのは19世紀半ばになってから。
…ドイツ、オランダ、スイス、イギリス、アイルランドではトウガラシはほとんど使われていない。
…一イタリアは例外。
▽65 イタリアのディアマンテのトウガラシ・アカデミー「アカデミア・イタリアーナ・デル・ペペロンチーノ」。
1992年の「500年」の年、カラブリアでは「辛い500年」というイベントをした。イタリアではカラブリアといえばトウガラシというほど。…アカデミーは全国に3000人の会員がいて、国内90カ所に支部がある。東京にも支部(カラブリア料理のレストラン)がある〓。
…トウガラシの博物館も。…トウガラシ入りの石鹸やリキュール、チョコレート、トウガラシのソースなど。
▽73 ハンガリー パプリカの原産地。カロチャにはトウガラシの博物館。
アルベルト・セント・ジェルジ博士。トウガラシの薬としての価値を科学的に証明してノーベル生理学・医学賞。壊血病の治療に有効なビタミンC。柑橘類から分離しようとしたが、簡単に酸化して消えてしまう。それまでイギリス海軍は、壊血病予防のためライムを大量に積み込んで水兵にライムジュースを飲ませていた。ジェルジ博士は、パプリカを試すと、オレンジやレモンの5,6倍のビタミンCを含んでいた。
▽86 ハンガリーの代表的料理グヤーシュ。パプリカ抜きのハンガリー料理は考えられないほど。…ハンガリーのパプリカは辛みよりも主として色づけと風味のために使われているようだ。グヤーシュなどのハンガリー料理が成立したのは19世紀後半から20世紀にかけて。…グヤーシュが登場する以前のハンガリー料理といえば、キャベツ料理だった。
▽93 1500年、バスコダガマの新航路発見をうけてインドに向かったポルトガル艦隊が意図せずにブラジル東部に到達した。…トウガラシは必ずしもヨーロッパを経由することなく、ポルトガル人の手によって、ブラジルから直接アジアやアフリカに伝わったとも考えられる。
▽95 サトウキビはニューギニア原産で、欧州ではきわめて高価だった。15世紀、ポルトガル人が西アフリカ沖合のマデイラ諸島やカーボベルデ諸島などでサトウキビを生産し、地中海産の砂糖を市場から駆逐。スペイン人もカナリア諸島で栽培をはじめ、アメリカ大陸でも栽培をはじめた。イギリスやポルトガル、オランダも加わった。…深刻な労働力不足を奴隷で補った。
奴隷貿易をとおして、トウモロコシがアフリカに導入される。マイニオク(キャッサバ)も。このときにおそらくトウガラシも。
▽111 西アフリカは、主作物はヤムイモだった。そのせいか、中南米原産のマニオクもよく食べられている。
▽115 ポルトガル人は、丁子(クローブ)や肉桂(シナモン)、コショウなどの香辛料を求めてインドに向かった。それだけにベルナンブコ(レシフェ)で見つけたトウガラシにも関心をもったに違いない。…トウガラシを載せた船はインドの西海岸にあるゴアに到達。トウガラシはその地でベルナンブコ・ペッパーのなで知られるようになる。
▽118 インド料理にトウガラシが加えられたのは16世紀。もともとインドは「スパイス王国」で多種多様な香辛料が使われた。そういうインドであれば、トウガラシも容易に受け入れられたのではないか。
…トウガラシがくる前は、コショウによって辛みがつけられていた。
▽125 ネパール・カトマンズの旧都パタン。秋、道路にも広場にも赤いトウガラシが広げられる。
…漬け物はインドではアチャールと呼ばれるが、この言葉はペルシャ語からの借用。この言葉はポルトガル語をへて日本語にも入り「アチャラ漬け」または「アジャラ漬け」になったそうだ。
▽128 シェルパ族 高地だから主食はジャガイモ。もともとは在来のソバや麦が主作物だったが、19世紀ころに導入されたジャガイモにとってかわられた。ジャガイモ中心の食事でもトウガラシは欠かせない。
…彼らの朝食はチベット由来のツァンパ(麦こがし)とバター茶。しかし昼食や夕食は圧倒的にジャガイモ。
▽131 ブータンは世界一辛い食事にちがいない。
…ブータン人はトウガラシをスパイスではなく「野菜」としてとらえている。それ自体を「食べる」。…ありとあらゆるものにトウガラシが用いられる、のだろうだ。
…ブータンは外界との物流が限られていたため、香辛料としては、もっぱらブータンでも栽培できるトウガラシに依存するようになったと考えられる。インドの多様なスパイスのほとんどはブータンでは知られていない。
▽136 インドネシア インドの影響の強い西の方はスパイスやトウガラシをたっぷり使うが、東へ行くほど単純な味付けになってゆく。ニューギニア高地にいたってはトウガラシもスパイスもほとんど使わない。
大部分の人口が集中する、西部から中部にかけての稲作が比較的盛んな地域では、トウガラシは日常に欠くことができない存在になっている。
▽147 1920年代に中国を訪れた言語学者の後藤朝太郎「四川料理の如きに至っては野菜料理の特色を表して、野菜が主となり、日本人の口に大層合っているのである」 当時、四川料理には辛いというイメージがまったくなかったことがうかがえる。
石毛氏も
四川料理全体のなかでは辛みのある料理はむしろ少数派である。とくに、高級な宴席料理になると、辛さをひかえるのがふつうだ。
…四川でトウガラシがさかんに使われるようになったのは、せいぜい100年ぐらい前のことと推定できるが…
▽163 日本から朝鮮半島にトウガラシが伝わったという説。
高麗時代のキムチは、野菜類のほかに、香辛料としてニンニクやショウガなどが中心だった。キムチの色づけには、各種の果物が使われたようだ。
…日本では、キムチどころか、トウガラシは七味唐辛子の一味くらいにしか使われない。朝鮮半島との差はどうして生まれたのか。
朝鮮半島に最初に定着したメック族は、中央アジア系の牧畜を主とする民族。焼き肉も、そのルーツは遠く中央アジアの遊牧民族の生活にあるようだ。この伝統は4世紀ごろ、仏教が伝来して動物の殺生が禁じられて中断される。日本でも千年以上にわたって明治維新まで殺生禁止の時代がつづく。
しかし朝鮮半島では、1231年にモンゴル族が押し寄せて高麗王朝はその属国になった。モンゴル族は食用のため多数の牛馬を導入し、1276年には済州島で大々的に放牧するようになった。これによって肉食が復活することになった。
…肉食文化が浸透するとともに、コショウの輸入が増える。その輸入元は日本だった。オランダ船で琉球国をへて日本にもってこられていた。肉食が禁じられていた日本ではコショウの使い道があまりなかった。
朝鮮半島では、牛豚だけでなく、馬や犬、鳥、内臓も食用としていた。
コショウは高価だったため、栽培が容易で安価なトウガラシがコショウにとってかわった。
▽187 トウガラシの強烈な辛さは日本料理にはあわないから、七味唐辛子の一味として加える方法が考えられた。
▽196 江戸時代の初期には、トウガラシはうどんの薬味としても使われていなかった。うどんにはコショウが使われていた。うどんに七味唐辛子を加えるようになったのは、江戸時代後半になってからだそうだ。最初のころはうどんではなく、そうめんにトウガラシを入れて食べていたのだとされる。
…コショウからトウガラシへの転換が起きた理由。醬油やかつお節が江戸中期以降に製造がはじまり、一般にも普及した。うどんのつゆもあっさりしたかつお節だしの醤油味が普及したので、コショウの風味があわなくなったと考えられる。もうひとつ考えられるのはコショウが高価だったから。
ソバの普及。江戸時代半ばすぎ、そば切り、つまり現在のような細く切ったソバが一般化する。江戸ではソバが圧倒的な人気を誇るようになった。その薬味に七味唐辛子が欠かせないものとなった。
▽199 明治5年の「西洋料理指南」 日本初と思われるカレー料理の作り方が出ている。…肉のかわりに、魚やエビ、カエルまで入れているが、ジャガイモもなく、ネギやショウガがスパイスとして使われていて、トウガラシもない。
明治19年に書かれた「洋食独案内」になって、ようやくトウガラシが登場してくる。このあと、急速にカレーライスは普及していった。
…戦前のトウガラシの生産量はさほど多くはなかったが…大きな変化を与えたのが昭和25年からはじまった朝鮮戦争だった。トウガラシがなければ韓国軍兵士の士気があがらず、アメリカが日本産のトウガラシを買いつけることになった。〓
栃木県、茨城県、香川県などでさかんに栽培され、アメリカやスリランカなどにも輸出された。昭和30年代には栃木、茨城は全国の生産量の80%を占めるようになった。栃木では戦前の200~300町歩の10倍、2000町歩まで広がった。
…だが高度成長とともに急減。昭和40年代後半んは輸出国から輸入国に転じた。
▽205 2011年7月、向日市には「京都激辛商店街」が発足〓。舞鶴市でもトウガラシによる町おこしイベントが2011年からはじまった。トウガラシ生産がさかんな加佐地区で夏におこなわれる「万願寺祭り」。
▽215 京大農学部 探検部が派遣したアンデス栽培植物調査隊の一員としてアンデス地帯を踏査。

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