■日本の食文化史 旧石器時代から現代まで<石毛直道> 岩波書店 20160822
2013年、「和食・日本人の伝統的な食文化」が、ユネスコ無形文化遺産に登録された。その和食の起源から現代への流れを外国人にわかるように紹介している。外国人にわかるということは、素人の日本人にも理解できるということだ。
筆者は一般の時代区分と異なり、「稲作以前」「日本的食文化の形成期」…と分け、江戸時代を「食文化の完成期」と位置づける。戦後、日本の家庭料理が洋風化・中国化したといわれるが、和食文化を徹底的に調べた目からは、欧米や中国起源の料理が、日本化したと考えるべきであり、外来の要素を日本的に変形することで、伝統的な食事を再編成していったと考えられるという。
土器ができる前は「石焼き料理」だった。新潟の粟島では、小魚を串に刺して焚き火で焼き、それを樹皮製の漆塗り弁当箱のワッパに入れて水をそそぎ、熱した石を入れて沸騰させ、味噌をとかす「ワッパ煮」という形で残っている。
縄文時代に人口が急増したのは、ドングリやトチの実、クリ、クルミを活用して生産性が急上昇したからだ。クヌギの実の1反あたりの生産量はイネの8分の1に達し、狩猟対象動物だったイノシシの500倍だった。土器があるから、貝を煮て身だけをとりだして乾燥させ、保存食にできるようになった。ドングリ類を食べるようになると、定着的集落が形成された。
モンスーン・アジアで、単位面積あたりの収量が最大なのがイネだ。カロリー源としてだけでなく、タンパク源としてもすぐれていた。紀元前後に鉄製の農工具が普及して貯水池や潅漑水路をつくることが可能になり、低湿地以外にも水田を広げられるようになった。紀元前後の人口は縄文時代の最大人口の2倍の60万人。紀元前2世紀ごろから紀元元年ごろまでの200年で、人口は3倍に増加した。これ以上の人口増は、19世紀から現代までに5倍になった以外には例がない。世界的に人口が急増するのは、農業の開始期と産業革命の時期であることが知られている。
日本でも以前は肉食をしていたが、コメの生産量増大で、平野部から野生動物が姿を消し、肉を食べない生活に慣れた。肉食を禁じる仏教の浸透が可能になり、肉食がタブー視されるようになった。同様に仏教の影響を受けた朝鮮半島で焼き肉が食べられるのは、元(モンゴル)による占領があったからだという。
古代の日本の食事は手づかみだった。箸の使用の最初の証拠は8世紀の平城京跡から出土しているが、役所の宴会などでは箸を利用したが、自宅では手づかみだった。箸の文化では食事にナイフを使わないから、料理の段階で切り刻まなければならない。だから「まな板」が必需品になった。
室町から戦国時代にかけての「変動の時代」は、多くの日本人が海外に進出し、新大陸原産の作物が伝来した。東南アジアから薬品扱いだった貴重な砂糖が入るようになって、甘い菓子類が生まれた。蒸留技術がタイから沖縄に導入されて「泡盛」がつくられ、日本本土に伝えられて「焼酎」となった。サツマイモはスペイン人が新大陸からルソンにもたらし、1605年に琉球王朝の使節が福建省から持ち帰り、沖縄各地で栽培されるようになった。南九州や豊後水道周辺地帯、対馬、瀬戸内海島嶼部などで栽培され、食物から摂取するエネルギーの60%以上がサツマイモで占められる地域も生まれた。17世紀初頭から18世紀中頃にかけて、琉球の人口が10万人から20万人に増加したのはサツマイモによるものだった。南米原産のインゲン豆や落花生も、中国を経由して伝えられた。タルトやカステラ、飛竜頭といった言葉も当時のポルトガル語に由来する。
民衆の普段の食事は、一汁三菜あるいは一汁二菜だった。上流階級の宴では、汁と副食物の数が増え、複数の膳をならべる宴会料理を「本膳料理」といった。室町時代に発達し、民衆にも浸透し、20世紀前半までこの系譜をひく会席料理があらたまった宴会の料理形式とされた。
本膳料理は見た目はよいが、冷めた料理が多く、おいしさは劣った。そこで生まれたのが、茶の湯における食事「懐石料理」だった。品数は少なくても実質的なおいしさを追求した。それが後に、江戸時代における非公式でくだけた形式の宴会料理である「会席料理」をつくりあげる原動力になった。
鎖国体制完成から幕末までの「伝統的な食文化の完成期」は、日本人が「伝統的」と考える食べ物にたいする価値観や料理法、食事方法が完成された。
都市では市民社会が形成され、当初は関西が先進地だったが、「江戸前」としてソバやテンプラ、にぎりずしなど、江戸独特の食文化も生まれた。19世紀前半の江戸は、おそらく世界で飲食店がもっとも密集していた都市だった。
それまで味噌味が主体だったのが、18世紀に都市部で醬油が主流になり、200年以上の歳月をかけて、料理の味は味噌味から醤油味へと変化した。都市の味が農村に普及する過程だった。みそが1950年代まで地方の農家でつくられ、能登などに魚醤が残ったのは、都市の味である醬油の普及圏からはずれていたからなのだろう。生魚の食べ方が、生魚を酢や味噌と薬味で味つけしたナマスから刺し身に変化したのも、醬油の普及と関係していた。江戸時代に普及した「握りずし」「テンプラ」「照り焼き」はいずれも醬油を使った。
鰹節は、戦国時代には保存食として小刀で削って食べた。江戸時代になって、煮たカツオを天日乾燥させたうえで、煙でいぶす焙乾とカビつけの技術が適用され、カビでタンパク質がアミノ酸に分解してうまみと香気が増した。小魚類を塩水で煮てから天日乾燥する「煮干し」の普及によって、だしをとって味噌汁をつくることが普通になった。
明治になると肉食が復活する。日本人の体格が貧弱なのは肉や乳製品を食べないからだと言われ、肉やミルクを飲むことが文明人の資格だとされた。「洋食屋」では、欧米の醬油としてウスターソースをどの料理にもかけた。カツレツは、テンプラのように揚げることでトンカツになった。トンカツ屋の後を追って串カツ屋が大正12年に神戸に生まれた。カキフライとエビフライも、トンカツづくりの技術を適用した、日本起源の洋食だった。ハーシュド・ビーフを飯にかけた「ハヤシライス」やオムレツ、コロッケも日本で生まれた。カレーはインドから来たのではなく、イギリスで考案された既製品のカレーパウダーを使用する料理が導入された。1910年代になると、「カレーそば」「カレーうどん」「カツカレー」が出現した。現在ターメリックの消費量は、インドについで、日本が世界2位だという。
東京の牛鍋は、牛肉とネギ、豆腐を、だしと醬油、みりん、酒などを配合した「割りした」で煮た料理だが、関西のすき焼きは「割りした」を使用せず、まず肉を焼き、さまざまな野菜をいれて、醬油、砂糖、酒、みりんなどの調味料をかけて煮て、生卵をつけて食べた。関東大震災で東京が壊滅したあと、関西風の料理店が東京に進出し、割りしたで煮るのは同じだが、多種類の野菜をいれ、生卵をつけて食べるようになった。牛鍋という名称は消え、関東でもスキヤキとよばれるようになった。
中国料理は、日清戦争で中国蔑視の風潮が強まって「前近代的で不衛生な食べもの」とみなされた。都市に中国料理店が多数出現するのは第一次世界大戦が終了したころからだった。朝鮮料理への偏見はさらに強く、日本人客を対象にした朝鮮料理店が生まれ烏のは戦後だった。
戦後は米の消費量がへりつづけた。主食中心の伝統的な食事から副食を多く食べるパターンに変化した。パンによって米の消費量が減少したのではなく、副食物の比率が増大し、そのぶん主食の米の消費量が減ったのだという。
その他、今はあたりまえになっている文化や伝統が、それが誕生するには理由と経緯があり、それほど古い話ではないことがよくわかる。また、つい最近まで伝わっていたのに、失われてしまった価値観や伝統が多いことにも気づかされた。
たとえば…琉球の宮廷が、中国と薩摩で料理人を修行させることで、沖縄料理が生まれた…主食と副食という構成はアジア圏のもので、欧州では主食副食にあたる概念はない…菜切り包丁と出刃包丁、刺身包丁の3種類が台所では必需品とされた…16世紀までは民衆の飲みものは飯を炊いた後に釜底に残った焦げ飯に湯を注いだものだった…酒は1980年代に吟醸酒が流行するまでは原則としてあたためて飲むものだった…ごはんと汁はおかわり自由で、おかずばかり食べるのはあさましい「おかず食い」と非難された…。
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□稲作以前
▽6 旧石器時代 「石焼き料理」。土器や鍋を利用する調理法が普及した後も残存し、新潟県の粟島では、漁民がつり上げた小魚を串に刺して、焚き火で焼き、それを円筒形の樹皮製の漆塗り弁当箱のワッパに入れて水をそそぐ。そこに熱した石ころを入れて沸騰させ、味噌をとかすとみそ汁ができる。「ワッパ煮」
▽9 堅果類の生産性はきわめて高い。クヌギの実の1反あたりの生産量は65キロで、イネを水田耕作した場合の8分の1に達し、当時の一般的な狩猟対象動物だったイノシシの500倍にあたる。
▽12 縄文時代、ヒョウタンも見つかっている(〓原産地はどこ?)
▽13 主要な狩猟動物はシカとイノシシ。イヌは狩猟の伴侶として大切に扱われたが、農業を開始した弥生時代になると、食用に供するようにもなった。
▽ 海産資源の一人あたりの消費量は、モルディブとアイスランドに次いで、日本は世界第3位。
▽15 ドングリ類をたべるようになると、定着的集落が形成される。狩猟採集社会としては例外的に人口密度の高い社会をつくりあげ、30人から100人くらいの集落が点在した。
□稲作社会の成立
▽19 モンスーン・アジアで、単位面積あたりの収量が最大なのがイネ。…イネは、カロリー源としてだけでなく、タンパク源としてもすぐれている。
▽20 かつて日本の農民は、農繁期には1日に1.5キロの米を食べることもめずらしくなかった。
…タンパク質の大部分も米から摂取する。じゅうぶんなコメさえ確保できれば、食料問題の大半が解決できる。
▽27 紀元前後の人口は60万人。これは縄文時代の最大人口の2倍。紀元前2世紀ごろから紀元元年ごろまでの200年で、人口は3倍に増加した。(鉄器の導入)
ほかには、19世紀から現代までに人口が5倍になった以外には例がない。
世界的に見て、人口が急増する時期は、農業の開始期と、産業革命の時期であることが知られている。
▽31 東アジアと東南アジアでは、米飯は味つけせず、水だけで料理したプレーン・ライス。インドから西側は、油脂をつかったピラフやパエリヤといった料理法が主流。このような料理がおこなわれる地域は、乳製品を利用する地域と一致する。バターやバターオイル、オリーブ油を使うことがおおく、そのような料理体系が米の料理にも結合しているのである。
…プレーン・ライス地帯である東アジアと東南アジアは非牧畜圏。米を主要なタンパク源ともする地域では、大量の米を食べる。そのためには味がついてないほうが多く食べられる。
▽33 炊き干し法の炊飯は、日本のほか、フィリピン、中国の長江流域など。朝鮮半島は、伝統的に「湯取り法」だったが、現在は炊き干し法も普及。日本で発明された自動炊飯器の普及で、東アジア、東南アジア諸国の家庭でも、現在では炊き干し法の米飯に親しむようになった。
▽34 古墳時代である5世紀以降、須恵器でつくられた蒸し器の「甑」が発見されるようになる。なぜ古墳時代から平安時代まで強飯が好まれたのか。
▽35 本当の玄米を伝統的に常食する民族は現在のアジアに存在しない。炊く前に20時間ぐらい吸水させ、長時間加熱しなければならず、燃料費がかさむ。経済的効率からいっても玄米を毎日食べることはなかったはず。…玄米の消化吸収率はいちじるしく悪い。
▽38 19世紀後半にワインづくりの技術がヨーロッパから伝えられるまでは、日本には果実を発酵させてつくる酒造の伝統はなかった。
…世界的に、酒造は農業社会において発達するもの。
…口噛み酒は、中南米と東アジア、東南アジアに存在した。中南米ではトウモロコシやマニオク(キャッサバ)から、チチャという酒がつくられた。中国の北方民族や南部の少数民族、現代のカンボジアで、米を原料とする口噛み酒がつくられた。(中米だけじゃなかった〓)
…アジアで口噛み酒の記録があるのは、中国文明の辺境地帯。中国文明で発達したコウジを利用する酒造法が普及する以前の技術が辺境地帯に残存したと考えてよいだろう。
…モヤシ酒 ユーラシア大陸の西側とアフリカでは、穀物に吸水させて発芽させたモヤシの糖化酵素を利用した酒造り。麦芽でつくるビールがその代表。
東アジアにも、米や小麦を発芽させて飴をつくる伝統はあった。
▽43 17世紀以降、サツマイモの蒸留酒の芋焼酎がつくられるようになる。
▽塩辛、調味料、なれずしについては石毛の別の本にくわしい。
▽水田漁業で、一度にたくさんとれるからそれを塩で漬けた。そこから魚醬油や塩辛が生まれた。もとは淡水魚の加工ではじまったが、今は海の魚を原料とするのが普通になった。…魚醬油の製造が商業化され、大量の原料が得られる海の魚に依存するようになった。
□日本的食文化お形成期
中国文明において形成された食に関する文化を吸収して日本的に変化させ、独自の食文化を築いた時期。…10世紀までは、中国や朝鮮半島の食べ物や食事の慣習を輸入し、模倣することにつとめた時期であり…
▽60 ベトナム語を表記するチュノムは14世紀初めにできたが、20世紀初頭までは漢字が公式の文字であり、チュノムは民衆の文字までには発展せず、一般のベトナム人が読み書きできるようになったのは、西欧の宣教師がつくったラテン文字を元にした現在の文字体系が普及してからのことだ。
▽63 宮廷では、「中国の衣服」という意味の唐衣がもちいられたが、一般の民衆の衣服はもっと粗末だが、帰納的で労働に適したデザインのものだった。このふたつの系統の服が、長い時間をかけて、変形して、中世の終わりになると、現在の和服の原型ができあがった。
▽64 朝鮮半島。仏教によって一時忘れ去られていた肉料理も、元の支配下で復活。モンゴルの肉の料理法が導入された。「ブルコギ(焼き肉)」もそのような外来の料理法に起源をもつと考えられる。
▽65 日本では、天武天皇が最初の肉食禁止令を制定した。しかし、当時のもっとも重要な食肉資源であるシカとイノシシの食用を禁じていないし、5種類の動物(牛、馬、犬、猿、鶏)に限って、特定の期間だけ食用を禁じている。
…サルは縄文時代から食用にされていたが、狩猟対象としては重要ではなかった。神の使者とみなす地方もあり、たんなる食料としてではなく、薬用の効果を期待して食べた。鶏も、神の使者とされ、ペット的な性格をそなえた聖なる鳥、目覚まし時計、闘鶏用として飼っていた。鶏肉だけでなく、江戸時代以前は卵を食べることも避けられたようだ。
▽68 10世紀になると、僧侶と貴族、都市民の間では獣肉食を罪悪視する風習が成立していた。その後、仏教が田舎の民衆にまで浸透すると、輪廻の観念とほ乳類の肉食をタブー視することが結合して…
…動物性タンパク源は、主として魚に限られることになり、日本人にとってのごちそうは魚となり、魚料理が日本料理の王座を占めるようになった。
▽71 牧畜民の主要な食料は、肉ではなく乳。屠畜の対象は去勢オスと乳を出さなくなったメスに限定し、なるべく殺さずに繁殖させ、乳の量を増大させた。
▽74 耕地面積の拡大によって、平野部から野生動物が姿を消し、肉を日常的に食べられない生活に慣れるようになった。だから、肉食を禁じる宗教的イデオロギーを浸透させることが可能になった。
▽75 文武4年には宮廷が命令して「蘇」をつくらせたという記録。「乳を10分の1に煮つめると蘇ができる」。…加熱して表面にできる膜をくりかえしすくいだして得られた乳皮が蘇である、という。現在モンゴルでウルムとよばれる乳製品とおなじである。
…牛乳や蘇を食べたのは宮廷貴族など、ごくかぎられた人だった。12世紀以降、貴族社会の没落によって、忘れられた食品となった。
▽77 かつては麺類、豆腐をハレの日の食品とする農村も多かった。水車製粉や畜力製粉が発達していなかったから、農家では手回しの石臼で製粉をした。豆腐つくるには、吸水させた大豆をすりつぶすことからはじめなくてはならない。だからハレの日の食品とした。
(グアテマラの粉ひきの労力)
伝統的な日本人の生活のなかで、ハレの日が1年に20~30日さだめられていた。
▽79 雑煮は、中国南部、朝鮮半島にも。おとそを飲むのは中国から伝わった習慣だが、現在の中国では消滅してしまった。
七草粥は、七種類の野菜を入れたスープを食べる中国の習慣に起源する。
七夕にそうめん。中国の習慣。この季節におこなわれていた小麦の収穫祭と結合したと考えられる。
▽82 箸。3世紀の魏志倭人伝には「手食す」と記されている。日本で箸の使用の最初の証拠は、8世紀の奈良時代の平城京跡から出土しているが、住宅地域からは出てこない。宮廷や役所の宴会、役所から支給される食事のときに箸を利用したが、自宅では手づかみで食べていた。
匙。文明の中心であった中国北部では、小麦が導入されて粉食されるようになるまでは、主食はアワ・キビの飯であり、米食でもインディカ種をたべたので、匙を用いた。のちに、粘りけのおおいジャポニカ種の米を食べる長江下流域の人々が明王朝をつくったので、箸をもちいて米飯を食べることが中国全土に普及した。
…箸と匙をセットで使用する中国の古い習慣をのこすのが朝鮮半島。飯とスープ、水キムチのような汁気の多い漬け物を匙で食べ、箸は副食物をつまむためにもちいられる。ヨーロッパのように、すべての食器は膳に置いたまま使用し、…飯椀や汁椀を手でもちあげて食べる日本人の食事作法は「乞食の食べ方」と評される。
箸と匙で食事するには、つまみあげたり、匙にのせたりできるよう、小さなサイズに料理される必要がある。最初に材料を小さく刻むことが東アジアの料理の特色のひとつとなり、そのための道具として「まな板」が台所の必需品となった。…
▽87 中国では、中央アジアを経由して、イス、テーブルを利用する生活様式が導入され、唐代に普及しはじめる。テーブルをかこんで食事するようになると、すべての食べ物を一人前ずつ分配する配膳法から、飯と汁は一人ずつの椀に分配するが、その他の副食物は共用の大皿や大鉢に入れて、箸を直接のばして食べる方法に変化した。
▽90 テンプラは、ポルトガル人がもたらした料理法である可能性が高い。19世紀になるまで、江戸の市街では、串に刺して揚げたテンプラが道端の露店で売られ、庶民の食べ物として好まれた。
▽92 日本の伝統的宴会は、公的秩序を重んじる飲酒である前半部がおわってから、座をかえて無礼講の二次会となる。その原型が、平安時代にすでに成立している。(〓日本独特の文化だったとは)
▽96 麺類は中国が起源。パスタも、中国からシルクロード経由で伝播した。…南西アジア原産のコムギが中国の華北平野で栽培されるようになるのは戦国時代(紀元前403〜221年)。…麺類は、椀状の食器に入れたスープの具を箸で食べる古代中国の食習慣が生みだした。
▽98 うどん、ソバといった「切り麺」はソーメンとちがって一般の家庭でもつくることができる。この技術は唐代に成立。日本の文献にウドンと思われる食品が記載されるのは14世紀中頃であり、それが普及するのは15世紀になってから。
麺棒で小麦粉をのばすための台は完全な平面でなければならない。15世紀になって台鉋と製材用の縦挽きの大鋸が普及したことが切り麺普及の背景にある。
ウドンづくりの技術をそば粉に応用して16世紀から「そば切り」がつくられるようになった。それまでは、ソバは粒のまま粥やそば飯に炊くか、そば粉で「そばがき」や「そばもち」をつくって食べていた。
…畑作地帯が多い東日本ではそば切りが好まれる一方で、水田でイネを収穫したあとの裏作としてコムギを栽培することが可能な西日本の人々はウドンを好むようになった。
□変動の時代(16世紀から17世紀前半)
▽101 中世の商人や手工業者たちは、神社や寺院をパトロンとして、独占的な権益を保護してもらうかわりに利益の一部を納入するギルドである「座」という組織をつくっていた。動乱の時代になると、謝辞の特権が大名によって縮小され、パトロンが没落し、大名は排他的な座をきらって、自由な営業を歓迎することになる。…さらに、全国規模で商品の大量輸送がなされるようになり、その決済に為替がもちいられるようになった。
▽103 鎖国政策が徹底するまでの、17世紀初めの30年間に出国した日本人の延べ人数は10万人以上。この頃は、それまでの歴史のなかで、日本人がもっとも海外に進出した時代だった。
…カボチャ、サツマイモ、トウガラシ、タバコなどの新大陸原産の作物が栽培されるようになった。砂糖は中国から輸入されていたが、貴重品であり、薬品としてつかわれていた。東南アジアとの交易がさかんになると、大量に砂糖が輸入され、甘い菓子類がつくられるようになる。
…蒸留技術がタイから沖縄に導入され、蒸留酒の「泡盛」がつくられるようになり、日本本土に伝えられて「焼酎」となる。ヨーロッパ人がもってきたブドウ酒の味も知られるようになった。
▽104 「茶の湯」が成立。献立、サービスの順序、盛りつけや食器の美学、食事作法などの形式ができあがり、現在にまで受けつがれてきた。
▽105 815年に嵯峨天皇が茶を飲んだのが、最古の喫茶の記録。嵯峨天皇は京都に周辺に茶樹を植えさせた。当時の茶は発酵をともなう製法。そのにおいが日本人の嗜好にあわず定着しなかったという説も。
…約300年の中断ののち、禅僧・栄西が栽培はじめた。抹茶の導入。
▽107 14,5世紀、産地の異なる茶を飲み比べて産地をあてる「闘茶」が流行。新興大名たちは闘茶を愛好し、中国から輸入した豪華な美術品を多数飾り立てた。
絢爛な闘茶にタイして、より内面的・精神的な美学を喫茶の場にもちこもうとする動きが15世紀後半からはじまる。16世紀になると、貿易港だった堺の裕福な市民の支持を得て…「佗茶」と称されることに。
…世俗的な政治、宗教、家族の愚痴や、金もうけの話などをすることは、茶室ではタブー。非日常的空間で精神をリフレッシュさせ、ふたたび世俗的な世界にかえっていく。
▽110 茶室の建築は数寄屋造りという建築様式を生みだした。茶室の庭は現在の日本庭園の様式に大きな影響をあたえている。花の生け方は生け花のあらたな様式をうみ、茶を点てる道具や茶碗は、金工、漆芸、陶芸の発達を促進した。
▽112 キリスト教に改宗した人々は、仏教や神道のタブーから解放され、イエズス会の神父と一緒に肉を食べるようになる。
…鎖国にさきだって、幕府はキリスト教を禁止する政令を1612年に発令した。キリスト教徒的な風習を排除する政策もとられ、まず禁止されたのが、牛肉を食べることと、パンを食べることだった。
当時長崎には中国船もおおくやってきていたが、中国人は牛肉を食べる風習はなく、ブタ、ニワトリ、アヒルを食べたが、中国人の肉食は禁令の対象外だった。
▽114 ガンモドキ(ヒリョウズ、ヒロウス)の語源は、油で揚げハチミツなどをつけて食べるポルトガルのfilhses、スペイン語のfillosに由来する。菓子に限らず、油で揚げた料理の一群をさす名称に転じ、豆腐料理の名前になった。
テンプラは、ポルトガル語で調理を意味するtemperoに語源を考える説と、temporaという宗教用語に語源を考える説がある。3,6,9,12月の最初の水金土曜をtemporaといい、肉を食べずに魚を食べる習慣がある。宣教師が油で揚げた魚を食べていたので、それをテンプラというようになったという説。
…南蛮料理。ニワトリをダイコンと一緒に水煮してから、その骨をとりさってスープにもどし、酒と塩,あるいは味噌で調味し、ニンニクやネギ、キノコをいれて食べる料理。この料理が長崎から福岡に伝わり、変形して、福岡の名物料理である「水炊き」になったという。
…アチャラ漬けはかつては「南蛮漬け」ともよあれた。ペルシャ語のacharが語源で、ポルトガル語にはいり、日本に伝えられたものだとされる。
…カステラは、イベリア半島のカスティリャ地方のケーキという意味のポルトガル語に由来。料理にオーブンを使用しない日本では、大きな鉄鍋を炭火の上に置き、鉄製の蓋の上にも炭火をのせ、上下から熱してカステラを焼くように工夫した。
タルトはポルトガル語のtartaが語源。ポルトガルの砂糖菓子であるconfeito alfeloa carameloは、金平糖、有平糖、カルメラという名称で伝わっている。
▽116 新大陸原産の作物。もっとも重要なものがサツマイモ。スペイン人が新大陸からルソンにもたらし、1593年に中国の福建省に伝えられた。1605年に琉球王朝の使節が福建省から持ち帰り、沖縄の各地で栽培されるようになった。いっぽう、平戸のイギリス東インド会社の商館長が沖縄からサツマイモをとりよせてつくったのが、内地における栽培のはじまり。
水田耕作に適さない地理的条件の場所…沖縄、南九州、豊後水道周辺地帯、対馬、瀬戸内海島嶼部などで栽培され…食物から摂取するエネルギーの60%以上がサツマイモで占められる地域もある。
▽117 トウガラシ以前は、輸入品のコショウがもちいられた。江戸時代前半までは、麺類にはコショウの粉をふりかけていた。…肉や油脂を食べない日本人にとって、トウガラシは強烈すぎるスパイスとかんじられた。1970年代になって、肉の消費量が増加するのと歩調をあわせて、消費量がのびるようになった。
…インゲン豆は、南米原産のものが中国に伝えられ、黄檗宗の禅を日本に普及するためにやってきた中国僧・隠元がもってきたので、隠元豆とよばれると信じられているが、実際に隠元がもたらしたのは別種の豆だったようだ。
南米原産のラッカセイも、中国を経由して18世紀はじめに日本に伝えられた。
▽119 12,3世紀…1回に食べる米飯をいちどに盛りつける習慣があり「高盛飯」になっている。(能登のもっそう飯などもこの流れか?)
▽120 本膳料理。漆器をもちいるのが原則。都会の裕福な商人の池、田舎の地主の家の倉には、50客用、30客用などの漆器の膳と食器のセットが保存されていた。(めいめい膳の伝統と、本膳料理が輪島塗などの隆盛をもたらした〓)
▽123 懐石料理の成立以来、陶磁器がよく使われるようになった。
中世によく使用されたのは木製の食器。秀吉の朝鮮半島侵略のさい、陶磁器づくりの職人を連行し、陶磁器生産が日本各地で開始された。陶磁器を食器としていちはやくとりいれたのが、茶の湯にかかわる人々だった。色鮮やかな絵が描かれた食器や真っ白く光る食器に、いかに美しく食べ物を盛りつけるかということに、懐石料理は力をそそいだ。…近世になり、陶芸が発達すると、日本の食器は、世界でいちばん多様な器形と色柄をもつものになった。
▽125 食事の回数。中世までは正式の食事は1日に2度だった。17世紀末までに全国がほとんど3食になってしまう。…植物油を使用する灯火が民衆の家屋に普及し、ロウソクの製造がなされるようになった。とくに都市では夜の生活が長くなり、2回の食事では足りずに、三食化したと考えられている。
自給自足経済が解体し、商品経済が全国に普及しはじめ、マニファクチャー制が導入され…日本の生産力の増大は、人々が長時間働くようになったことを意味する。1日の最後の食事の時間がおそくなり、日没後に食事をするのがめずらしくなくなり、正午前後にも食事をするようになり、1日に3度の食事が普通になったのだろう。
□伝統的な食文化の完成期(鎖国体制完成から幕末まで)
▽128 年貢を供出すると、自分たちが食べる米が足りず、野菜を混ぜたりムギや雑穀を混ぜたカテ飯や、サツマイモを常食としなければならなくなった。日本史上初めて、米を十分に食べられない稲作農家が出現した。いっぽう、現金経済に依存して生活する都市の町人たちは、武士の売る米を主食として、貧乏人でも米を常食としていた。
▽130 18世紀中頃の江戸、京都、大坂には、外食店が出現する。18世紀末の江戸の町には、おそらく当時の世界でもっとも飲食店の密度が高かった。
…日本では市民革命は起きなかったが、実際はブルジョワジーである商人と、貨幣経済のもとでの都市プロレタリアートである職人で構成される市民社会が18世紀の大都市で成立していた。
▽132 江戸の消費生活は、最初は大坂方面から輸送される消費物資に依存するところが多かった。醬油や酒、工芸品も上方の産物が上等とされた。醬油は後に千葉県で濃口醬油を生産するようになり、関西から輸入することはなくなったが、酒に関しては、20世紀終わりに地酒ブームが起きるまでは、東京でも「下り酒」の消費量が多かった〓
▽133 江戸前。にぎり寿司、そば、テンプラも、江戸の市民たちが育てた食べもの。18世紀後半からは、江戸が食文化のもう一つの中心地となった。
▽138 大宝律令に「くさ」「醤」「未醬」の名称があらわれる。…10世紀にもみそ汁が存在したが、中世の民衆は日常の食事にみそ汁を食べることはあまりしなかった。なめ味噌として食べる副食物としての用途と、味噌煮、味噌和えなどの調味料としての用途が多かった。みそ汁が普及するのは、戦国時代からのこと。
…16世紀になると醬油という名称が文献にあらわれる。醬油は工場のような機能をもつ蔵で生産され、商品として流通した。醬油の使用は、商品経済に依存して生活している都市民からはじまった。
(いしるが残る地域は、商品経済から離れていたから、ということか〓)
…18世紀になると、都市の料理は主に醬油で味付けされるようになる。味噌は、ほぼ味噌汁専用の食品になった。
…1950年代になるまで、味噌を自家製造する農家が多かった(阿蘇も)。…醬油造りは自家製造にむかない。大量の絞り粕は食べられないため、味噌に比べて原料の歩留まりが悪い醬油は農民にとってぜいたくな食品だった。…200年以上の歳月をかけて、日本の料理の味は味噌味から醤油味へと変化した。都市の味が農村に普及していく過程だった。〓
…生魚のたべかたが、生魚を酢や味噌と薬味で味つけしたナマスから刺し身に変化したのも、醬油の普及と関係する。
「握りずし」「テンプラ」「照り焼き」は江戸時代に普及したが、いずれも味つけに醬油を使っている。万能調味料。この調味料に依存しすぎて、新しい味覚をつくりあげる技術の開発にあまり意欲をしめさないようになった。料理人らが料理の理想としたのは、食品自体のもつ自然の味を、いかにそこなわずに食べさせるかであった。…いかによい素材を選択し、美しく切ったり、盛りつけたりするかという技術。
▽143 世界のなかで、外食店がもっとも古くから発達したのが中国。…日本でも、市民社会の成熟を基礎として外食産業が成立する。…フランスでは、フランス革命により貴族の雇い主を失った料理人たちが、都市で「レストラン」を開業するようになった。絶対王政が崩壊し、市民社会が成立することによって、料金を払う能力さえあれば、誰もが洗練された食事を享楽できるようになった。
▽144 「煮売茶屋」では、簡単な食事をとれた。…1657年の明暦の大火のあと、債権のために集まった労働者に食事を提供するためにできたのが煮売茶屋のはじまり。これが繁盛すると、酒を飲ませることを主な営業形態とする「居酒屋」が派生した。…明暦の大火までの半世紀のあいだ、文献記録に見るかぎりでは、外食のための施設はほとんど発達していない。
▽145 料理茶屋という本格的な料理屋は、まず、京都、大坂で1680年代に原型が成立した。料理茶屋の出現する以前、豊かな階層の人々の宴会は自宅でおこなわれた。本膳料理が主流。
…料理茶屋に起源をもつ料理技術が、最近まで継承されていたのが、高級料亭の料理人。
▽149 19世紀前半の江戸は、おそらく当時の世界でも飲食店がもっとも密集していた都市だった。
…江戸は、単身で生活する男性人口が多かった.江戸に1年間居住する武士のほとんどは単身赴任であった。商店の使用人の多くは地方出身者で、結婚するまでは勤務先の店のなかで寝る場所と食事を与えられて生活していた。
…1718年には、人口約53万人のうち39万人、すなわち73%が男性だった。これは町人対象の調査だから、武家や社寺、被差別階級を入れた総人口は100万人に達していたと推定される。18世紀当時、江戸は男のおおい街であった。男女比がほぼ同等になるのは幕末になってからのことだ。
▽156 各種レストランガイドが、18世紀終わりごろから出版されるようになる。ミシュランのガイドの1世紀以上前から。
▽160 17世紀末から18世紀初頭に、北前船の往来が頻繁になると、農業先進地帯だった関西では、魚油を抽出したあとのニシン粕を肥料に使用するようになり…
▽162 アイヌの食生活。 サケは多くとれる時期には主食として食べられた。冷凍したものを薄くスライスして火であぶり、半解凍の状態で塩をふりかける。これに起源をもつのが「ルイベ」で、「溶けた食べもの」というアイヌ語に由来する。
…野生植物で重要だったのはウバユリの鱗茎。つぶして水につけ、その溶液をザルで濾して放置するとデンプンが沈殿する。団子にしたり、粥に入れて食べた。
…もtもとの酒造法は「口噛み酒」…香辛料としてはギョウジャニンニク。
▽163 琉球 紀元前3世紀ごろから焼畑農業がおこなわれ、アワ、タロイモ(サトイモの仲間)、ヤムイモが栽培された。その後、大麦が栽培され、11世紀には稲作が導入された。
…琉球の商船は、中国から絹織物や陶磁器、日本からは刀剣や美術工芸品、朝鮮半島からは高価な薬用ニンジンと虎の皮、東南アジアからは象牙や香辛料、染料などを得て、これらの地域に流通させた。
1609年に島津家が琉球を征服。
▽168 琉球人にとって一番重要な家畜はブタだが、日常の食事ではなく祭祀のごちそう。脂肪や内臓、血液まで食べた。それにたいして本土では、明治以後も内臓は食用にされず、第二次大戦後に朝鮮焼き肉が流行してはじめて内臓を食べることが普及した。しかし今も血液を使用することはない。
▽サツマイモが中国から導入されたのは1605年。17世紀諸島の琉球の人口は約10万人だったが18世紀中頃には20万人に増加した。この増加を支えたのがサツマイモ。
20世紀になるまで、民衆の日常の食事は、ゆでたり蒸したりしたサツマイモと、魚や野菜、海藻を入れた味噌汁の二品で構成されているのが普通であり、米の飯を食べるのはときたまであった。
…薩摩の高官を接待するため、料理人を鹿児島におくって日本料理を学ばせ、冊封使の接待のため、料理人を中国に送って学ばせた。中国と日本の両方の影響を受けて形成された宮廷料理が、上流階級に普及した。
島津の征服後、那覇に設けられた遊郭は、料理屋を兼ねていた。ここで供される上等の料理が、家庭料理にも影響を与えた。江戸時代に成立し、現在まで受けつがれている古典的琉球料理は、中国と日本の両方の影響を受けながら、琉球の紀行や産物にあった独自のスタイルを形成した。…豚肉を使用し、ブタの脂肪によって重厚な味に仕立てあげることを好む料理は中国の影響。
…チャンプル インドネシアやマレーでは、かき混ぜることをchampurという。これが語源だろう。
…米の口噛み酒をつくっていたが、15世紀にシャムから蒸留酒製造技術が伝わり、それが「泡盛」になった。シャムから輸入したインディカ種の米を使用するのが普通で、…泡盛の製法が本土に伝えられて焼酎がつくられるようになった。〓
▽172 島津藩は、琉球の黒砂糖を日本本土におくることで利益を得るとともに、中国料理の材料としての昆布を中国に輸出させる役割を琉球王朝に担わせた。〓
□近代における変化
▽176 日清戦争で中国蔑視の風潮を強め、中国料理は「前近代的で不衛生な食べもの」とみなされた。都市に中国料理店が多数出現するのは第一次世界大戦が終了したころになってから。
朝鮮半島の料理への偏見はさらにつよかった。…朝鮮の女学校では家事の授業の際に、朝鮮人の女子生徒に日本料理を教えたほど。日本の都市に日本人の客を対象とする朝鮮料理店が開業するのは、昭和20年以降のことである。
▽177 大正8年、工業生産額が農業生産額を上まわり、農業国から工業国になった。人口は、明治5年の3500万人が、大正8年には5500万人に増えた。
▽178 現代人の食生活につながる大正デモクラシー下におけるあたらしい生活様式は、世界大恐慌で、新しい食の様式をになう中産階級が深刻な影響を受け…戦争の時代になると、食生活は大幅な後退をよぎなくされた。
▽180 昭和33年に発売された「チキンラーメン」。日本で発明された即席麺は、いまや世界的な商品になっている。
▽181 江戸幕府は宗教を統制下におき、世俗的行政が宗教的権威の上位に位置した。このような制度のもとで、肉食を禁じた仏教、神道ともに宗教的活力がよわまり、江戸後期になると肉食のタブーがゆるやかになった。
19世紀初頭になると、江戸市街にそれまで1軒しかなかった薬食い用の獣肉を売る店が増加し、イノシシ、シカ、キツネ、ウサギ、カワウソ、オオカミ、クマ、カモシカなどの肉が売られた。…だが一部の人が食べるにすぎなかった。
…彦根藩主は牛肉の味噌漬をつくらせ、それを「養生肉」と称して将軍や大名への贈り物にしていた。
…福沢諭吉は1854年に大坂で適塾に入学したが、「そのころ牛鍋を食わせるところはただ2軒であり、最下等の店だから、…町のゴロツキと、オランダの学問を学ぶ塾の学生ばかりが得意の常客だ…」。これが牛鍋屋に関する最初の記事。牛鍋とは、牛肉とネギを一緒に鍋にいれ、味噌あるいは醬油で煮た料理。薬食いのさいのシカ、イノシシの肉の料理法とおなじである。
▽183 戊辰戦争のさい、政府軍の負傷兵を西洋式に治療し、彼らに牛肉を食べさせた。医師が「生命を失っていいなら、食べなくてもよい」といったので、しかたなく食べはじめたが、…帰郷後、それぞれの土地で牛肉のうまさを宣伝した。
…海軍の栄養食として牛肉が採用され、海軍みずから屠畜をおこない…陸軍も兵士の食事に肉を採用し、日清・日露戦争では牛肉を醬油とショウガで日本料理風に味つけした「大和煮」の缶詰が兵士の携帯食料として大量に利用された。兵士たちが全国に肉食の習慣をひろめ、1950年頃まで大和煮はもっとも人気のある缶詰としての地位をたもっていた。
▽184 明治維新の2年前に東京で最初の牛鍋屋が開業。さいしょは嫌われていた。国策として西洋文明を積極的に導入しはじめると、つぎつぎ牛鍋屋が開業し、都市民の流行になった。
明治10年の東京には、558軒の牛肉をとりあつかう店があり、このころから、家庭で牛鍋をつくることが普及しはじめ、牛肉の代用品として安価な馬肉を、おなじような料理法で食べることもはじまった。これを東京では「さくら鍋」という。
▽187 …農民には家族のような存在の牛を食べることに抵抗感があった。…関西では日常料理の鍋が獣肉のケガレに汚染しないように、牛肉は農具のスキの金属部分で料理したので「スキヤキ」という名称になったという。
…20世紀前半に日本人が食用とした主要な肉は、牛肉、豚肉、鶏肉の3種類。…物資の輸送に水路が使えない木曽路での木曽駒の飼養がさかんだった長野県、北九州の炭坑で使用するウマを供給していた熊本県と、ほかの肉が買えない都市の下層民が馬肉を食べることもあった。(〓熊本の馬肉の文化のはじまり)
▽189 牛乳 育児用以外の用途としては、牛乳はもっぱら病人や虚弱体質の者の飲みものとみなされてきた。民衆が日常的に牛乳を飲むことが一般化したのは1950年代になってからである
…日本人にとって「バター臭い」は、どちらかというと悪臭とみなされた。乳製品のにおいに不快感を抱く傾向があった。
…1970年前後になって、国産のバターとチーズの生産量が急増するが、日本人の好むのはくせのないプロセスド・チーズであり、1980年代になるまで、ナチュラル・チーズは一部の人々が嗜好するにとどまっていた。
▽190 初期の西洋料理のレストランやホテルの食堂は非常に高価だった。1880年代後半になると、ホテルやレストランで西洋料理を習った日本人コックたちが「洋食屋」という都市の民衆を対象とする西洋料理店を開業しはじめた。
…米飯の味にあうように醬油をベースとした和風ソースが工夫され、おおくの場合、どんな料理にもウスターソースがかけられた。…油で加熱する料理では、カツレツなど本来は油で焼きつける料理も、洋食屋ではテンプラの手法で揚げる料理に変形されとんかつとなった。
…洋食店での主要な料理は「ライスカレー」、日本でつくられた「ハヤシライス」、チキンをもちいたピラフを変形して飯をトマトケチャップで炒めた「チキンライス」、「オムレツ」。カツレツの日本版の「トンカツ」、コロッケ、魚やエビの「フライ」
▽192 ライスカレーは、インドから伝播したのではなく、イギリスで考案された既製品のカレーパウダーを使用するアングロ・インディアン料理。…過程ではルーをつくるのを省略して、牛肉あるいは豚肉とジャガイモ、ニンジンなどの野菜を煮たものに塩とカレー粉をいれ、炒めない水溶きの小麦粉を加えてとろみをつけた。米飯の上にかけたものに、ウスターソースをかけ、福神漬けを添えて食べるようになった(〓大阪の有名な店)
…1910年代になると、「カレーそば」「カレーうどん」「カツカレー」が出現した。
…ターメリックの消費量は、インドについで、日本が世界2位である。
▽193 中華料理店 開国後の半世紀以上、中国料理は普及しなかった.1910年代になってから、大都市で中国料理がはやるようになった。
…もっとも人気のあった中国料理は「シナソバ」とよばれた豚肉や鶏ガラのスープを使用して、焼いて煮た豚肉の薄切りなどをのせ、コショウをふって食べる中国起源の麺料理。1910年代の終わりごろからは、大都市では夜食のシナソバの行商がさかんになったが、それはソバやウドンといった伝統的な麺類が、夜食用に行商で売られたという習慣の上にのったもの。…鳴門巻きと刻みネギはソバ、ウドンからシナソバに引っ越してきたもの。中国でシナソバとおなじ料理を見つけることはできない。一時は「中華ソバ」、現在は「ラーメン」とよばれ、日本の国民料理になっている。
…外来料理がつくられたのは、大都市における中流以上の階層の家庭においてである。1930年代、日本の人口の50%が農民だった。その食事は、肉を食べることはまれで、江戸時代の延長線上といえる伝統的な色彩の濃いものだった。
▽195 関東大震災。炭火や薪より都市ガスのほうが安全と考えられるようになって都市ガスが普及。都市の家庭では水道を利用するのが一般的になった。土間に流し台とかまどがあったのが、室内に台所をつくり、ガスコンロと水道の流し台をしつらえたものに変化した。
この頃から、一人前ずつに盛りわけられた、ちいさな膳での食事から、「ちゃぶ台」という脚が折りたためる4,5人用の円卓で食事することが一般的になる。
▽197 1920年代の都市の市民のあいだには、コーヒー、紅茶、ミルク、レモネード、ビール、ウイスキー、アイスクリーム、ビスケット、キャンディなどのあたらしい食品が定着しはじめていた。…大正デモクラシーの時代には、都市に喫茶店がおおく出現した。「ミルクホール」というミルクを飲ませて、安井ケーキを食べさせ、新聞や雑誌を備え付けた店は学生のあいだに人気があった。
コーヒーを家庭で飲むことはすくなかったが、緑茶のように入れることができる紅茶は家庭でも飲まれた。植民地の台湾から輸入する紅茶と砂糖が出まわったからでもある。
▽198 戦争の時代。1939年には、毎月1日が、「興亜奉公日」に制定されて、待合、酒場、料理店などで酒を売ることが禁止され…この日は一汁一菜の粗食が奨励された。サラリーマンや学童には「日の丸弁当」が奨励された。政府は国民の栄養は無視し、精神主義にもとづく食事を強要したのである。
…戦争末期には米の配給はほとんどなくなり、サツマイモの配給がおおかった。江戸時代に導入され、人口増加をもたらした作物であるサツマイモが、この時期、ふたたび活躍した。
▽207 日本の家庭料理が洋風化、あるいは中国化したというよりも、欧米起源や中国起源の料理が、日本化したと考えるべきだろう。外来の要素をうけいれて日本的に変形することによって、伝統的な食事を再編成していったのが、20世紀における日本人の食事の変化のプロセスと考えられるのである。
■日本人の食文化
□食卓で
▽212 食事は主食と副食のふたつのカテゴリーから構成されるという観念が、東アジア、東南アジアに共通し、米食圏では米飯を食べることが食事であるとされる。ヨーロッパ系の言語では、主食、副食にあたる概念はなさそう。パンは、食卓にならべられる食品のひとつにすぎない。
▽214 一般家庭では、果物や菓子は間食のさいに茶と一緒に食べるものとされ、食事にともなうものではなかった。しかし現在では、欧米の食事形式の影響で、デザートを食べる家庭が増加しつつある。
▽214 飯と一緒に食べられる副食物を「おかず」というのにたいして、酒を飲みながらつまむ副食物を「肴」とよぶ。肴は、語源的には「酒菜」に起源する。名称はちがっても、「おかず」と「さかな」はおなじ料理である。それは、酒と飯を同時に口にすることはしないからである。
▽218 幕末以後、ちゃぶ台が普及するまでの期間、箱膳=飯台形式の銘々膳が民衆の日常の食卓として全国的に使用された。
(ちゃぶ台の語源)
▽212 銘々膳の食事は、禁欲的で緊張関係を秘めていた。ちゃぶ台での食事はあたらしいイデオロギーになっていた。堺利彦にとっては、「平民主義の美しい家庭」を実現するための欠かすことのできない手段であった。
…だが、ちゃぶ台の使用によって、家族の団らんが実現したというわけではなく、大部分の家庭では、ちゃぶ台を使うようになっても、食事の時に黙々と食べるようにしつけられていた。
▽225 ちゃぶ台を使用するようになると、食器の管理は主婦の手に移り…近代的な衛生観念の普及とあいまって、ちゃぶ台を使用したほうが衛生的とみなされるようになった。水道が普及して、食器洗いが簡単になった都市からちゃぶ台が普及したのである。
▽227 経済成長は、副食物の種類を豊富にした。膳やちゃぶ台のスペースではせますぎるため、よりおおきなダイニング・テーブルの使用が普及する。
▽231 盛りつけの美学 日本庭園の哲学を食卓のうえに実現しようとしたのが、江戸時代後半以後の高級な日本料理だった。…食べる者から見たときに、皿の奥にあたる位置に刺し身の「つま」をうずたかく山型に盛りあげ、そこに樹木を象徴する緑色をしたシソの葉など野菜の小片をあしらう…左右対称形ではなく、左が高く、右が低い不等辺三角形の構図とする。
▽233 日本料理は伝統的な食器に、ハンバーグは洋皿に、中華麺はラーメン鉢に盛るといった具合に、…和洋中の食器をそろえた日本の台所は、世界でいちばん食器の種類がおおい家庭の台所となっている。
▽245 20世紀になると、世界でいちばん難しい調理であるといわれる「飯の炊き方」を簡便化しようという、さまざまな試みがなされる。都市ガスの普及によって、飯炊き専用の「ガスカマド」が考案された。…昭和30年に「自動式電気釜」が発売。
▽247 菜切り包丁は両刃だが、出刃包丁や刺身包丁は片刃である。欧米や中国の包丁が両刃であるのにたいして、片刃包丁が発達したのが和包丁の特色である。
…一般家庭にそなえるべき包丁とされていたのは、菜切り包丁、出刃包丁、刺身包丁の3種類で、台所の必需品とされた。家庭料理は女の仕事とされたが、大きな魚やニワトリを解体するのは男の役目であり、田舎や漁村では、男性が出刃包丁を使用する機会もあった。
▽251 江戸時代の宴席料理では、飯を食べるときに供されるものを「汁」とよび、飲酒にともなうものを「吸い物」とよんだ。
▽252 だし文化 ほ乳類や鳥類で汁物をつくることはなかった。そこで、鰹節や煮干し、コンブ、干し椎茸など、だし専用食品が発達した。…民衆の家庭料理においてだしを使用するようになったのは江戸時代以後のことであり、明治になってようやく常用されるようになったと考えられる。
▽253 ながいあいだ鰹節は、だし専用食品ではなく、そのまま食べる保存食品としてつくられた。戦国時代には兵糧としてもちいられ、小刀で削って食べられた。
江戸時代に、煮たカツオを天日乾燥させるだけでなく、煙でいぶす焙乾とカビつけの技術が適用される。表面にカビを培養すると、水分と脂肪分が減少し、タンパク質がさまざまなアミノ酸に分解する。独特のうまみと香気が増加し、長期間変質せずに保存できる、世界でいちばん堅い食品である鰹節が完成した。
「煮干し」小魚類を塩水で煮てから天日乾燥。…いちばん庶民的なだし食品である煮干しの普及によって、だしをとって味噌汁をつくることが普通になった。それ以前は、だしなしで味噌汁をつくる農家もおおかった。
江戸時代に蝦夷地開拓がはじまると、コンブは北海道の重要な産物とされ、北前船で大量のコンブが大坂に集荷され、そこから全国に流通した。集荷地であった京・大坂を中心に、室町時代末から江戸時代の高級料理に昆布だしが使用されるようになり、上方料理のコンブだし、江戸料理のカツオだしといわれた。
沖縄は中国に輸出するためのコンブの集荷地であったため、その消費量は全国一だった。しかし、肉食が禁じられてなかったので、だしは豚肉や鰹節でひき、コンブを利用するのは一般的ではなかった。
▽255 だし専用食品が普及する以前、「潮汁」のように魚介類や鳥類を一緒に煮ることで、うまみを抽出していた。禅宗など、動物性食品を口にすることが禁じられていた僧院での食事に、おいしさを付加するものとして、コンブやシイタケのうま味が認識されるようになったのではなかろうか。
▽だしをとることが発達した背景には、肉、油脂、強烈なスパイスを使用しなかった伝統的生活がある。動物のタンパク質や脂肪に富んだ食材は、水で煮るだけでも、アミノ酸や脂肪が溶けだしておいしくなる。だしを加えなくても、ビーフシチューはおいしい。
▽256 ヨーロッパの学者たちによって、人間が感じる味覚は、甘さ、塩辛さ、苦さ、酸っぱさの4種類であるとの説が提出されたが、日本の科学者たちはこれに異議を唱えた。だしのうま味がそれでは説明できないからである。…鰹節・煮干し・肉のうまみ成分はイノシン酸であり、シイタケのうま味成分がグアニル酸であることが、日本人科学者たちによってあきらかにされた。第五の味であることが証明された。…コンブのうま味成分のグルタミン酸と、鰹節のイノシン酸が相乗効果をあげ、昆布だしの10倍以上のうま味が感じられることも科学的に証明された。
▽258 現在における日本料理の店の実用的分類をしてみると、「料亭」「板前割烹」「専門店」「居酒屋」にわけることができる。専門店で一番多いのが、ソバ屋、うどん屋、すし屋。ラーメン屋やギョウザ屋、カレー屋も。
▽261 ヨーロッパや中国の料理に関する観念には「そのままでは食べられないものにたいして、人間が技術を駆使して食用可能なものに変化させる行為」といった主張が強い。日本料理に関する思想では、人工的技術は最小限にとどめ、なるべく自然に近い状態で食べるべき、ということが強調される。
▽263 生魚。太平洋諸島では、柑橘類の汁、ココナツミルク、海水や塩で味つけした生の魚肉を食べる習慣があるし、ペルーのセビチェも生魚の料理。中国では、古代から動物の肉や魚肉を細く切って酢を使用した調味料に和えて食べるナマス料理があったが、時代が降るにつれ、漢族は生物を食べないようになった。
▽264 魚のナマスと刺身が同義語として使用された時代を経て、江戸時代になると、現在と同様の刺身の食べ方が成立する。煎り酒、カラシ酢、ショウガ味噌などでも刺身を食べたが、醬油をつけて食べるのが主流になった。刺身に醬油をつける食べ方も都市民から流行するようになった。
ワサビは日本原産の野生植物だが、江戸時代に刺身が流行するようになると、供給が追いつかず、栽培化されるようになった。
▽266 握りずし 江戸の街で屋台で立ち食いする食べものとして発達。…関東大震災で焦土となった東京から、スシ職人が全国に散らばって、握りずし専門店を開店した。
…以前は、各地の都市には「サバズシ」「酒ズシ」「大坂ズシ」など、それぞれの地方名物を提供するすし屋もあった。店で食べるよりも、行事のさいに、家庭でつくることが多かった。
▽267 なれずし 琵琶湖のフナずし。1キロ前後の大型の魚は2年間ぐらい保存するとおいしくなった。
塩魚と米飯をまぜて、重石をしてから、数日から1カ月くらいのうちに食べるのが「生ナレズシ」。15世紀以後出現。この場合、飯はペースト状にならず、まだ粒状。米飯を捨てずに魚肉といっしょに食べる。生ナレの出現によって、スシは主食と副食があわさったスナック料理としての性格をそなえるようになった。
ナレズシが特定の漁期に集中して得られる魚の大量保存法としてつくられ、年間を通じて利用可能な保存食だったのにたいして、生ナレになると、祭りや宴会などで食べることを目的に少量つくられるようになる。保存食品ではなく、嗜好食品と化した。そこで、原料魚も一時期に大量に漁獲される魚にこだわることなく多様化し、さまざまな海の魚がもちいられるようになった。(〓能登のナレズシ)
▽269 スキヤキ 東京の牛鍋は、牛肉をネギ、豆腐と一緒に、だし、醬油、みりん、酒などを配合した「割りした」で煮た料理。関西のすき焼きは「割りした」を使用せず、まず肉を焼き、さまざまな野菜をいれて、醬油、砂糖、酒、みりんなどの調味料をかけて煮て、生卵をつけて食べた。
関東大震災で東京が壊滅状態になったあと、関西風の料理店が東京に進出した。割りしたで煮ることは変わりはないが、多種類の野菜をいれ、生卵をつけて食べるようになった。牛鍋という名称は死語と化し、関東でもスキヤキとよばれるようになった。
▽271 かつての鍋物料理は、個人単位の鍋を使用した。秋田の「しょっつる鍋」は、現在では、ひとつの土鍋を家族が囲んで食べるのが普通だが、かつては、1人1個の炭火をいれた小さなコンロと、鍋の役をするホタテ貝の貝殻が用意された。(〓能登のいしる鍋はだれがつくった? 貝殻を使いはじめたのは?)
▽272 豆腐 平均的日本人は毎日なんらかのかたちでダイズを食べている。…豆腐の製法は、現在の東アジアでは、酸や酵素ではなく、金属イオンの作用を利用した凝固剤である硫酸カルシウム(石膏)、あるいは「にがり」(主成分は塩化マグネシウム)をもちいて、豆乳をかためるのが一般的。日本では伝統的には「にがり」を使用したが、大戦中に、「にがり」にふくまれる金属マグネシウムが軍需用のジュラルミンの原料として統制物資にされたころから、「澄まし粉」という石膏を使用することになった。石膏で凝固させた豆腐は保水性がよく滑らかなので、日本人の嗜好に合致して定着した。
▽274 「にがり」塩化マグネシウムが主成分。塩を大きな稲わらの袋に入れて保存していたので、湿気を吸収して、袋から液体がしたたる。これをあつめてにがりとして使用した。
▽275 売れ残りの豆腐は、「油揚げ」「がんもどき(ヒリョウズ)」「焼き豆腐」などに加工した。
▽275 1183年、奈良の春日若宮神社の神職の日記に「唐符」という文字があらわれるのが、日本における豆腐の初出。中世における豆腐の製造と料理は仏教寺院で発達した。
▽276 納豆 稲わらに包んでおくと、稲わらに付着していた菌が繁殖して糸引き納豆ができる。20世紀はじめに、日本の科学者たちが納豆菌を分離し、製造業者に頒布するようになり、清潔で効率よく生産できるようになった。
▽278 19世紀以前は、刻んだり、すりつぶして、「納豆汁」にするのが食べ方の主流だった。…江戸市街で、朝食に手間をかけられない。手軽なおかずとして醬油をかけた納豆の食べ方が流行するようになった。
…1950年代まで、東京の市街では、毎朝、納豆の行商人の売り声が聞こえた(〓70年代でも聞こえた。いつなくなったのか)
▽281 精進料理 浄土真宗などは日本化したが、禅宗は日本化した仏教になることを拒否し、中国に僧侶を留学させ、中国から高僧を招聘しつづけた。中国の精進料理の技術も禅宗が伝えた。豆腐や湯葉の料理法や寺納豆など、禅宗の寺院から伝わったものがおおいと考えられる。
17世紀中頃に高僧の隠元が移住してきて、宇治に黄檗山萬福寺を開設した。隠元は中国風の精進料理の技術を伝えたといわれ、それを「普茶料理」という。ごま油をよく使用し、多くの材料を油炒めや揚げ物にし、水に溶いた澱粉を加えて、とろみをつけることも多い。
銘々膳の日本料理と異なり、大きな食卓を囲み、大皿に盛った料理を小皿に取り分けて会食した。
おなじように中国に起源する食事に、長崎で成立した日本化した中国料理である「シッポク(卓袱)料理」がある。
…精進料理では鰹節や魚によるだし汁は使えない。そこで、重要なのがコンブとシイタケである。中世以来、干しシイタケは日本から中国に輸出されて、中国の精進料理の重要な材料とされてきた。
…「料理をしないことを、料理の理想とする」日本料理のなかで、人工的なテクニックを必要とされるのが精進料理。技巧を凝らして、魚や肉料理の外観をつくり、味も似たものをつくりあげる。
▽285 テンプラとサツマ揚げ 島津藩が琉球に進出したとき「チギアギ(付け揚げ)」とよばれる魚のすり身の油揚げをもちかえり、鹿児島名物のサツマ揚げとなった。そこで、関東・東北ではサツマ揚げとよぶが、西日本と明治の開拓期に関西人がおおく移住した北海道では、サツマ揚げをテンプラとよぶことが多かった。幕末にサツマ揚げの仲間の食品をテンプラとよんでいた京都、大阪では、現在でもサツマ揚げをテンプラという高齢者がおおい。
…テンプラは江戸の街で発達した。箸を使用しないで食べられるように、竹串に刺して衣をつけて揚げた。大衆相手の食べものだった。
▽286 トンカツ 明治初期の西洋料理の本にカツレツが紹介されているが、20世紀にさしかかるころ、日本化した洋食として、ポークカツレツが東京の洋食店で流行。これは、深い揚げ鍋のなかで衣をつけた肉が泳ぐように揚げる料理に変化してしまった。トンカツという名称は、大正10年に新宿の「王ろじ」という店からはじまったという。
▽ トンカツ屋の後を追ってできたのが串カツ屋。大正12年、神戸に最初の串カツ専門店ができ、大阪を中心に流行した。
…名古屋周辺の、八丁味噌を使用したたれをかけた味噌カツも、トンカツの郷土料理化である。
…トンカツづくりの技術を適用した料理に、カキフライとエビフライがある。海外にはない日本起源の洋食。
▽289 江戸で成立した握りずしとテンプラ、江戸風のウナギ蒲焼きは全国制覇するようになる。いっぽう、すき焼きは関西から進出したもの。東京の料亭で供する高級料理のほとんどが、明治時代以後に関西の懐石料理の影響を強く受けたもの。カウンターごしに料理人と対話しながら食事のできる板前割烹店は、てっとりばやく、うまいものを食べさせる点が実質本意の大阪人にうけて、明治時代の大阪で流行しはじめ、関東大震災以後に東京に進出した。
▽290 ソバとウドン 江戸では濃口醬油にあうように、大量の鰹節を使用した「ソバつゆ」がつくられ、ウドンが優勢な関西では、薄口醬油とコンブだしの「ウドンつゆ」がもちいられた。中間の名古屋周辺では、幅広いキシメンを。八丁味噌で煮込んだものが好まれる。
▽ラーメン 塩のほかにアルカリ塩をとかした「かん水」で生地を練る。麺の弾力性が増し、しこしこした食感になる。
…敗戦後、旧満州や中国各地から引き揚げてきた人々が、ラーメン屋を各地で開業し、中国系の麺料理を普及させた。人々は栄養の高い食品に飢えていた。中国系の麺は、日本の麺よりも栄養に富む麺料理だと歓迎された。
▽292 昭和33年、世界で最初の即席麺である「チキンラーメン」が発売。これを開発した安藤百福宇治は昭和46年には「カップヌードル」を発明した。
▽299 菓子 日本書紀には、643年に移民してきた朝鮮半島の貴族が、養蜂を試みたが成功しなかったという記録が残されている。その後養蜂はほとんどおこなわれず、18世紀になると、農家の副業として養蜂がはじまったが、生産量は少なかった。明治政府が西洋種のミツバチと、その養蜂技術を導入してから、養蜂がさかんになり、一時は海外に輸出するほどだった。
伝統的な甘味料はアマズら(アマチャヅル)がある。ほかに古代の甘味料としては、米を発芽させた米モヤシからつくる「水飴」があったが、どちらも、庶民の口には入らなかった。
…16世紀、砂糖の輸入が増え、甘い菓子がつくられるようになり、「南蛮菓子」や「饅頭」などがつくられるようになる。鎖国後も、オランダ船や中国船がもたらす重要な物質のひとつが砂糖だった。17世紀になると、琉球や西南日本の温暖な地方でサトウキビ栽培がはじまる。砂糖の普及によって、都市には菓子の専門店が成立し…
▽301 茶 抹茶は民衆の飲みものにはならなかった。民衆のふだんの飲みものは、湯や水、あるいは飯を炊いたあと釜底に残った焦げ飯に湯を注いだものなどであった。
17世紀初めになると、葉茶を飲むことが普及する。農民たちは自家製の茶を飲むようになり、茶が国民飲料になった。
そうなると、八つ時(午後二時頃)の間食に、茶と菓子が供されるようになり、これを「おやつ」というようになった。
…20世紀前半までは、菓子を買って茶を飲むのは都会の民衆の風習であり、農民は塩辛い漬物や、ゆでたり焼いたりしたサツマイモやクリなど、自家製の軽食とともに茶を飲んだ。
▽302 酒と茶 1980年代に吟醸酒が流行するまでは、原則として酒はあたためて飲むものだった。…江戸時代の中頃になると、年中酒を温めて飲むことが一般化した。
…共飲 起源は古代の宗教的な飲酒。飲み回し、おなじ器の酒で酩酊することにより、宗教的な連帯感が強化されるのである。茶の湯で、おなじ茶碗をもちいて茶を飲み回すのは、飲酒の作法が茶にうけつがれたのである。
このような風習は、かつて、飲酒や喫茶が集団を単位としておこなわれていたことを物語る。…集団を単位として飲まれたものが、個人を単位として消費されることになったのは、江戸時代の都市においてであった。
□あとがき
1960年代の世界をまわて、日本食が世界性を獲得するのは困難だろうと考えた。世界のほとんどの地域で、肉や油脂、香辛料を多用した料理がごちそうとされている。…当時の日本の食文化の産物で世界性を獲得しつつあったのは、味の素、醬油、即席麺であった。
…わたしの予想はみごとにくつがえった。1970年代末に、ニューヨークとLAを拠点に、アメリカでスシ・ブームがおこった。…1980年代のフランスにおける日本食レストランは50店程度だったが、2011年には1500店になり…
…2013年には「和食・日本人の伝統的な食文化」が、ユネスコ無形文化遺産に登録された。
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外国人にわかるように突き放して説明しているのがよい
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