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久野収集Ⅱ 市民主義者として

■久野収集Ⅱ 市民主義者として<佐高信編>岩波書店 20160709
 1960年代から70年代の論文が多く、さすがにわかりにくい部分もあった。でも、国際連合とカント、さらにエラスムスといった思想家とのつながりなど、古い思想が現代の組織や運動にどうつながっているのかわかって新鮮だったし、ナショナリズムの危険性やその乗り越え方の模索は今こそ本気で考えなければならない課題だと感じた。
 一般に、民主主義プラス社会主義vs.ファシズム という構図で語られる第二次大戦は、ナショナリズム同士の戦争という側面が大きかったという指摘も新鮮だった。3グループのナショナリズムに第3世界解放を志向するナショナリズムが加わる、三つどもえ四つどもえの国家ナショナリズムのたたかいだったという。人々は、思想としての民主主義や社会主義、ファシズム、植民地解放のためだけでは戦争による死を運命として受け入れられるものではない。自国のナショナリズムがあったから受け入れることになったという。それだけナショナリズムの鎖は強力なのだ。
 40年も前に書いたものが、人民・大衆といった語彙の古さはあっても内容的にはいまにつながる。歴史を知り抜いた哲学者だから、何年経っても古くならないのだ。哲学を学ばなければ、自分の書いていることなどあっという間に古くなってしまうのだろう。考えてものを書いていかなければなるまい。

▽ジャーナリズム
 ジャーナリズムにおける近代とは「筆者・編集者が主導権を握らず、読者がイニシアチブをとって判断する時代」であり、読者がたんなるファンではなく、そのメディアを育てる強い意志を集団的に持って、その新聞、雑誌を支持してくれる姿勢が大切だという。
 久野たちが戦前につくった雑誌は、そうした雑誌をめざしていた。週刊金曜日もまた、それを受けつごうとしていた。朝日新聞の「ひととき」欄もそういった取り組みが成功した例のひとつだった。
 だが今、少なくとも既存メディアでは、読者の意見を過剰に忖度することはあっても、「集団的に」読者が支持してくれるという形はない。個々人がアトム化してグループを形成することが困難になっている。
 既存のメディアという形が時代遅れになってきているのか。だとしたら、読者が主体的にかかわる新メディアはどこに生まれてくるのだろう。
 久野は、投書欄と編集後記のおもしろさが、雑誌のおもしろさをはかる尺度になるという。「噂の真相」はそれがおもしろく、「金曜日の投書はあまりいただけない」という。「『もっと風刺やユーモアやアイロニーを持て』という投書があったが、投書子その人がもっと風刺とユーモアとアイロニーを持って書けばもっとよかった」と皮肉るところが久野らしい。
 投書欄での表現の技術を互いに磨くには、編集後記の内容を磨くのが近道なのだという。

▽ワイマール崩壊
 世界一民主的な憲法をもったワイマール共和国がなぜナチス政権を生みだしてしまったのかをテーマにした論文も興味深かった。
 経済の疲弊に苦しむ大衆は、それを戦争のせいにはせず、敗戦によって押しつけられた講和条約のせいにしてしまった。
 「誰かにしてやられた」という感覚が広まり、裏切り者がストライキや経済的急迫化であおったのだという伝説を生みだした。若手軍人たちは秘密結社を組織し「裏切り者」と決めつけたユダヤ人や社会主義者、連合国協力派を暗殺してまわった。ユダヤ人ラテナウをはじめとする民主主義者たちは、戦勝国に祖国を売り渡した裏切り者として暗殺された。
 インフレや外国軍隊の占領、天文学的数字の賠償、経済恐慌は、ワイマール体制のせいではないが、「ワイマールがだめだから」という、左右両翼からの猛烈な宣伝にさらされた。ワイマール支持政党による政権のたらい回しや汚職も油をそそいだ。
 戦争に勝てなかった帝政ドイツもだめなら、外国産の民主主義であるワイマール新体制もだめだという実感を育てた。共産主義と社会民主主義の失敗も加わって、ナショナリズムと伝統の両方を生かす社会主義への熱望が下層中産階級を中心に広まっていった。 ヒトラーは「ナショナリズムを生かした社会主義」「社会主義を生かしたナショナリズム」というスローガンで国民大衆をあおった。
 西欧でもっとも強力な共産党と社民党を擁していたが、ドイツのマルクス主義者は、国民大衆が経済的基礎の破壊によって左翼化しながら、権威主義的な一般社会の精神構造によって右翼化するという矛盾を軽視し、一方のナチズムはその矛盾を徹底的に利用したのだという。
 中産階級は、一方で権威に服従しながら、他方で権威を代表し、権威を笠にきる行動をとりがちだ。「自分より上」「自分より下」という意識が強く、嫉妬や排他、競争の激情にとりまかれ連帯することができない。このように連帯意識がない中産階級を統一するのは、権威主義的指導のイデオロギーしかない。権威に自己を同化させることによって、経済的条件のみじめさのコンペンセイションをえるという。
 下層中産階級を支持基盤としたナチスのことを語っているのだけど、プライドばかり高い中産階級で構成する現代日本の会社組織や、橋下元知事のような権威と自己を同化して他者を攻撃して気分をさっぱりさせる人々のありかたと共通のものを感じる。

▽転向 思想を守る
 大学院時代に「日中戦争を拡大しない方がよい」と表現して治安維持法違反で捕まった。「思想犯保護監察所」に入るのを拒むと、、週1回無予告に特高が来て、2日以上の旅行は警察に届け、行く先にはまたそこの特高が調べに来た。
 おそろしい警察国家を身をもって体験したが、そうした弾圧の強さよりも、その弾圧にみんなが喜んで賛同し、批判派を非国民扱いする習慣に対して大きなショックを受けた。昭和12年に投獄されたときは周囲にまだ抵抗する人々がいたが、14年に出獄したときは、ほとんど一人もいなくなっていた。大部分は自発的に転向していた。彼らのリベラリズムやマルクス主義の思想は、ただ上半身にまとう洋服にすぎなかったと思えたという。
 ファシズムへの逆転向について久野は、思想ではなく体質の問題で、下半身の体質がぶり返ってきたと考える。大正時代の左翼への転向も、左翼からナショナリズムへの逆転向も、戦後民主主義への転向も心情による転向だから、そこには、戦略的に自分の思想を守り、実現するということが欠けていた。
 思想を現実の生活のなかで生かすためには、学校をやめざるをえないときどうするかといった問題に対処する対策と技術をもたなければならない。三木清や古在由重、羽仁五郎らが強制されたのはそういう生活だった。どういう結婚をするか、子どもを生むか…という問題を座視して食えぬようになれば、転向へ追い込まれる結果になる。「生活がかかっている」という言い逃れの「なしくずし」転向を、思想でどう歯止めをかけるかという問題なのだという。
 これは、私たちの身近でも起きうる。「生活のため」が「左遷がいやだから」「書く職場にいたいから」「波風を立てたくないから」と、言うべきことを押さえてしまう。いや、本当に危ういのは「言うべきこと」が見えなくなることなのだろう。
 どこまで集団の規則に従うか、どこから先は譲れない一線として自分の身体を律するかという技術も必要になってくる。久野の場合は、思想犯保護監察所へは出頭せず、天皇陛下万歳とか戦争万歳という表現は絶対に書かないと決めていた。しかし肉体的には、隣組に放りこまれ、警防団に引き出され、戦争に協力させられていた。

□平和の論理
 憲法の平和主義は、平和を「安全」ととりちがえ、「安全」を「安全」保障と同視し、「安全」保障を軍事的安全保障に帰着させる「思考の惰性」ときっぱり手を切る決断を表現している。9条を踏みにじろうとしている政治家たちは、意図的に平和を「安全」と取り違えている。
 ルソーが「永久平和論批判」で評価したのは、戦争がおこなわれるのは、各国人民相互の間ではなく、国王や内閣相互の間なのだというサン=ピエールの視点であった。この視点は、エラスムス、ルソー、ベンサム、カントをつらぬき、近代ヨーロッパの平和理論の重要な前提になってきた。この前提が、現代ファシズムの企てる全体戦争の実践によって掘り崩されつつある点にこそ、実は現代の平和理論の最大の問題があるという。指導者が起こす戦争ではなく、国民が戦争へと指導者をつきあげてしまう、という流れは日本にもみられた。今もその危うさのなかにある。

□官僚制
 ウェーバーによれば、近代化という社会の合理化傾向は、経済面では資本主義化、政治面では官僚化としてあらわれる。官僚制に抵抗する社会集団は、政党、教団、学校、企業、各種組合など考えられたが、これらの集団も今や官僚化してしまった。
 国家権力は、行政の慣例的操作によって行使される。官僚制が人民の日常的生活を管理する。
 日本の中央集権官僚制は、織田信長が、宣教師を介して、アラゴンやカスティラの統一的絶対主義政権の官僚支配を学んだことからはじまり、それが江戸幕府に引き継がれ、明治政権でさらに強化された。
 官僚たちは、天下国家を担うのは、天皇に直属するわれわれ官僚であって、政党政治家ではないというプライドももっていた。ところが戦争中、軍部を中心とする政界・官界・財界との癒着が非常に深くなり、それが戦後、国会や委員会による外側からの民主化、内側からする労働組合による民主化が挫折すると同時に、大きく息を吹き返してしまった。
 「いま(1979)のままでは、たとえ革新側に政権が移っても、政策目標はよくても、それを実現するしかたはどうしても官僚主義になってしまう。政治権力だけによっては解決しえない問題があるということは自覚しておかなければならない」という指摘は官僚のサボタージュによって失敗した民主党政権の外交政策を予見していたかのようだ。
 企業の問題、家族の問題、官僚制の問題の三つから国家の民主化をはかることが大切だという。民主化は「政治」だけでは足りないのである。

▽企業社会
 「市民」とは「職業を通じて生活をたてている人間」であり、職業と生活の分離が必要だという。農民の後ろ向きな態度の背景には、仕事が生活から分離しないところにあると説く。社宅に住み、生活まで仕事に覆われている会社員もまた「市民」ではない。こんな企業丸抱えは、経済成長が止まり、生活水準の維持が不可能になったとき、人々は生活水準を守るために制度としての国家主義にひきずりこまれてしまう恐れがあると指摘した。
 だが何十年か前のこの指摘は甘かった。今では常勤雇用の「社畜」にさえなれない層が急増しているからだ。不安定雇用に苦しむ層はアトム化して、右翼的権威に容易に流されるようになってきている。

▽生活綴り方
 80年代以後は表現を通じて人間の変革を生みだす仕事が大事になってくると予想した。高度産業社会では、労働が機械化され、細分化されていくから、よほど編成替えをしないと、労働は人間の変革を生みだしにくいからだ。
 労働が無機化して、人間の成長を促しにくくなっているのは事実だが、労働現場での心の刺激なしに魅力的な作文を創造することなど可能なのだろうか。自然を相手にする農業には創作につながる無限の可能性があるが、工場労働では可能性が狭まる。さらに孤独なパート労働のなかでどんな創作を生み出せるのだろう。「ひととき」を見ていても、半世紀の間で表現の力の弱体化が顕著だ。
 労働を離れてなお、生き生きした表現を楽しむ場をどう創造したらよいのだろう。

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□市民主義の成立
▽4 ジャーナリズムにおける近代とは「筆者・編集者が主導権を握らず、読者がイニシアチブをとって判断する時代」。経済の仕組みにおいても、近代とは、生産者よりも消費者が優位になる市場の成立である。(今は、消費者が圧倒的な数を占め、生産者が見えない。しかも消費者はアトム化〓)
 読者がたんなるファンではなく、そのメディアを育てる強い意志を集団的に持って、その新聞、雑誌を指示してくれる姿勢が大切。(「集団的に」が困難に〓)
…投書欄と編集後記がとりわけおもしろいのが「噂の真相」。この二つがおもしろいかどうかが、雑誌のおもしろさをはかる尺度になる。
 週刊金曜日の当初はあまりいただけない。怒り方、喜び方、批判の仕方のスタイルがマンネリ化しては危険だろう。「もっと風刺やユーモアやアイロニーを持て」という投書があったが、投書子その人がもっと風刺とユーモアとアイロニーを持って書けばもっとよかった。
…投書欄での表現の技術を互いに磨くには、編集後記の内容を磨くのが近道なのだが…みんな真面目な後記を書きすぎる。読者の、ある側面や自分のスタイルを皮肉ったり、自己表現はこうするんですよ、とお手本を見せるような文章を読ませてもらいたい。
 …雑誌は「余裕の空間と時間」が芯にならねばならない。
▽8 「もうからないのが当然だ」「自己犠牲しかない」と思い込んでいる人びとに限って、最後になって「大きな赤字になりそうなのでなんとか頼む」と言い出す。「君たち、やるときには資金調達の工夫も」と言いたくなる。
▽13 京都大学大学院の学生だった僕は「日中戦争を拡大しない方がよい」と口にし、文字に書いて治安維持法違反で捕まり、懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。(治安維持法違反の対象が大きく拡大されている。共産主義でもないのに)
 僕や武谷三男のように、「思想犯保護監察所」に入るのを遠慮した人間には、週1回、無予告に特高が来るし、2日以上の旅行は警察に届け、行く先にはまたそこの特高が調べに来るありさまだった。…敗戦を6日後に控えた8月9日になってさえ、当時の内務省保安課長は全国の県警察に「戦争終結の場合は、左翼、宗教的異端、内鮮、その他に対して非常措置をおこなう準備をしておけ」と打電している。その内容は各県警察部長会議で口頭で伝えられて記録には残っていない。秘密御前会議で幸福を決定した後の話なのだから、そらおそろしい。
▽18 「金曜日」について。大切な力点は「読者が極端な少数意見を押しつけない態度」「編集部が読者にこびない態度」。読者諸君と編集部がお互いに自立性をもちながら、ともに「週刊金曜日」を成長させていく視点…。
▽20 2年間獄中に押し込められた。いちばん閉口したのは、弾圧する軍国政府側の強さよりも、その弾圧に日本人みんなが喜んで賛同し、批判派を非国民扱いする習慣に対してであった。
▽41 近代は倫理に代わって科学技術が倫理の代行をしてきた。これが世界史的に見た旧倫理の崩壊の特色。人間が自分の欲望を倫理によって方向付けるのではなく、科学技術によって大きく満足させるという方向が支配した場合に、これまでの倫理はあまり有力ではなくなります。たとえば、生産、交換、分配、消費には平等的正義が貫徹されなければならぬと言う倫理は、まず分配されるパイそのものを大きく増やす科学技術によって乗り越えられた。
 …欲望はいくらでも肥大し、充足されていきます。…良い悪いはあとに回したらよろしい、という、科学技術の持っている価値中立的態度が、先進資本主義国では支配しています。
▽50 60年安保。防衛庁長官の加藤君や労働大臣の山口君らは、おざなりではなく実に熱心に参加していた。その人びとは60年安保の問題を今どう考えているのか。
…56 自民党の内部からさえ河野一郎や三木武夫といった有力な不参加者をたくさん出すような強行採決をした。(〓それだけ自民党は多様な人材がいた)
▽57 経済成長には、日本人の勤勉さ、聡明さ、教育の普及とかいろいろな原因があげられていますが、日本人が勤勉だったとしても、戦前はあれほどの貧困しか生み出せなかった。聡明だったとしても、戦前・戦中は一種の盲目的、一方向的聡明にとじこめられていた。…戦後、日本人の勤勉な賢さがこれだけ実ったのは、市民的自由のおかげである。
▽60 林達夫さんの妹の、すえ子さんなども、戦争反対のために、ほとんど地下にもぐって闘って、獄死と同じ状態で亡くなった。洛北消費組合を最後まで守った井上礼子さん、鶴見君が「現代日本の思想」で書いた安賀君子さん、そういう人々はだいたい、22,3歳で亡くなった。…男性の場合、だんだん条件闘争的態度になっていく。女性の場合は、度しがたい、許しがたいという結論になれば、子どもの問題もあるし、情動の問題もあって、無条件的態度を貫く。
…戦後も、乙骨淑子、柴田道子は、深い怒りを胸に秘めたまま若くして亡くなりました。彼女たちの生き方を掘り起こすことによって…無名な人々のけなげな伝統を、どういう風に掘り起こすか。
(樺美智子の意味、戦前からの流れ)
▽66「市民」の定義 職業を通じて生活をたてている人間。職業と生活の分離が必要。…日本の農民の勤勉さと日本の農業の後ろ向き的性格の秘密は、仕事が職業化されて、生活から分離しないところにあるといってよい。
(社畜は「市民」ではない〓)
▽75 自民党代議士は毎晩、各所に小集会を持って、けんめいな努力をかたむけている。反対派はほとんどなんのみるべき活動もしていない。(〓今も。自民の政治家も甘くなっている)
▽77 
▽81 ゲッペルズらは、歴史のなかに働く経験と理性の教訓をてんでみとめようとはしない。彼らが保守主義とは似ても似つかぬニヒリストであるのは、現在と未来に暴行を加え、歴史という時計の針を止めるどころか、逆にもどすという不可能な野望にかられるからである。(橋下〓的)
▽86 ドイツ国民は、大戦を悲劇とは感じたが、自己の生活態度の敗北、価値体系の欠陥とは感じなかった。…彼らは、いっさいの災厄を戦争のせいにはせずに、敗戦と、押しつけられた講和条約のせいにしてしまった。戦争に勝ちさえすれば、まったくちがっていたのだという感覚がドイツ国民を深くとらえた。
 誰かにしてやられた、という感覚は深いルサンチマンの感情を生みだし、それが、うしろから裏切り者がストライキや経済的急迫化で刺し殺したのだという短刀伝説を生みだし、少壮軍人や下士官たちは、秘密結社を組織し、自分勝手に裏切り者ときめこんだユダヤ人、社会主義者、連合国協力派の代表を暗殺してまわった。
 ルサンチマンは講和条約締結者にも向けられる。ユダヤ人ラテナウをはじめとするドイツの民主主義者たちは、戦勝国の連合した「かけひき」に祖国を売り渡した裏切り者として暗殺される。
▽91 国民大衆にとって、ワイマールはパンをくれるどころか、やっと手に入れたパンをくり返し取りあげかねない体制だと感じられた。インフレ、外国軍隊の占領、天文学的数字の賠償、経済恐慌は、ワイマール体制のせいではなかった。にもかかわらず、ワイマールがだめだから、こうなるのだという、左右両翼からの猛烈な宣伝、とくにナチズムの宣伝は予想外の力を持った。ワイマール体制を変えなければ何をやってもだめだという実感。
…ワイマール支持政党による政権のたらい回しや汚職の連続ははげしい油をそそぎ、ナチスと共産党は、国民大衆のこの実感を左右両翼から組織して、挟撃した。
▽94 ワイマールを破壊した最初の元凶は、ワイマール民主主義によるドイツの解放と独立を約束しながら、講和、賠償、軍事占領、インフレ、恐慌の悪循環にドイツを追い込み、ラテナウ、シュトレーゼマンその他の民主主義勢力を背後から刺し殺した連合国政府の背信であった。
…戦争に勝てなかった帝政ドイツもだめなら、ワイマール新体制(外国産の新しい民主主義)もだめだという実感を育てた。共産主義と社会民主主義の失敗がつけくわわり、大衆のナショナリズムとドイツの伝統の両方を生かすような社会主義がほしいという熱望が、国民をとらえはじめた。そのもっとも強い担い手は、下層中産階級だった。
 ヒトラーは「ナショナリズムを生かした社会主義」「社会主義を生かしたナショナリズム」というスローガンで国民大衆を操縦した。
▽96 資本主義諸国で最強の共産党と社会民主党の勢力を持ち、知識水準の高さを誇ったドイツが、なぜほとんどみるべき組織的抵抗もなしにヒトラーの軍門にくだったのか。32年11月、ナチス政権獲得直前の総選挙でさえ、ナチスの1150万票に対し、社会民主党は730万票、共産党は600万票をえて、支持者はすこしも減少していない。それどころか共産党は、33年3月、ヒトラー政権獲得直後の総選挙は、国会炎上事件をでっちあげ、ありとあらゆる暴行、脅迫、妨害を共産党に加えたのにかかわらず、共産党は500万票を確保した。
▽101 共産党はワイマールを指示する社会民主党をファシズムより先にたたく方針を立て…
…ドイツのマルクス主義が自己の「凍り付いた思考様式」の故に軽視し、ナチズムが徹底的に利用した現実とは、ドイツの国民大衆が、経済的基礎の破壊によって左翼化しながら、精神構造の引力によって右翼化するという矛盾。(今の日本は、むしろ中間組織の衰退が、経済的困窮にあるのに、右翼化をもたらしているのでは)
…ドイツの国民大衆は、経済的条件に直接的に支配されて革命化せざるを得ない。しかし同時に、ドイツの一般的社会的イデオロギー、典型的な意味での権威主義的、非民主主義的イデオロギーに間接的に支配されて反動的傾向を断ち切ることができない。
…俗流マルクス主義は、政治心理学という武器を持たなかったためにまったく失敗した。
▽114 中産階級 一方で権威に服従しながら、他方で権威を代表し、権威を笠にきる行動様式を自分のものとする。…上下の意識に立って、嫉妬、排他、競争の激情にとりまかれたアトムとして存在する。このように連帯意識を疎外した彼を統一するイデオロギーは、権威主義的指導のイデオロギー以外にはありえない。この権威に自己を同化さすことによって、経済的条件のみじめさのコンペンセイションをえる。
(どこかの会社のよう〓)
▽116 目に見え、手に触れうるごときより大なるもの、より高きもの、貴族、家族、民族…への自己同化の感覚と行動の角度から、ファシズムの一つ一つのイデオロギーを中産階級の価値意識のユートピア化として、明らかにすることが可能になる。この価値意識こそは、啓蒙時代の嫡子であった個人主義と、それを裏返した俗流マルクス主義が、ともすれば見のがし、軽視した盲点であった。(「美しい日本」などの感覚)
▽132 第二次大戦はナショナリズム同士の戦争だった側面が見えてくる。ソ連も社会主義的ナショナリズム。第3世界解放と独立を志向するナショナリズムが介入し、…国家ナショナリズムのあいだの三つどもえ、四つどもえのたたかいであった。
 …人々は、思想的民主主義や、社会主義や、ファシズムや、植民地解放のためだけに死んだのではない。それだけではなく、自国のナショナリズムのために死んだ。戦争が正しいか正しくないかを反省するに先立って、それを「運命」として受け入れさせている何かがあり、それが国家ナショナリズムだというのです。
▽135 拡大、重罰化される治安維持法。1941年の改正では「予防拘禁」が追加された。
▽138 ぼくは西陣警察署の留置場で、ノミとしらみとナンキンムシで顔と体をはれあがらせ、身体全体をボリボリかきながら、膝を抱えて窓越しに聞こえてくる、南京陥落を祝う歌声をじっと聞いていました。
▽164 支配者と大衆の矛盾の調和を図ろうという吉野作造らの考え方が有力化するなかで、文化とか教育における社会主義への新しい動きは、そうした妥協的政治形態、外見的立憲性を越ええない大正デモクラシーの政治的改革のなまぬるさに絶望して過激化していった。ナショナリズムを内側から克服しないまま、外側の大衆が全部天皇制ナショナリズムに支配されているというきびしい現実を飛び越えて、インターナショナリズム、あるいは階級闘争の方へ進んでしまったという事情。
 つまり1925年代から30年代初期の共産主義への転向のしかたが、のちに過激ナショナリズムへの逆転向生みだす深い素地を持っていた。
▽165 …資本主義の一般的危機という状況の存在そのものが共産主義的思想を必然にしてくるんだし、その革命的思想はソ連モデルを学習すればよく、状況の急迫が深まるほど…革命を必然にするだろうという、いわば状況もたれかかりのオプティミズムが良心的教師や思想家、知識人を支配していた。
▽169 当時の左翼の組織運動にしても、上からの指導、中央中心、内外の差別という日本型ナショナリズムの特色に、組織の原理から運動の原理まで、全部無意識的にひたりきっていた事実。
▽171 ぼくの驚きだったのは、12年の暮れにつかまって14年の暮れに出てきたら、状況が一変していた。昭和12年には、まだいろいろなしかたで戦争に抵抗したり批判したりする勢力が各所にあった。14年暮れには、…大部分は自発的に転向し、自分の体質へ先祖返りしていた。彼らがよっていたリベラリズムとか、マルクス主義の思想原理は、ただ上半身にまとう洋服にすぎなかったという感じを受けた。
▽174…ファシズムへの逆転向を、僕は、思想じゃない、体質の問題だと言いたい。下半身の体質がぶり返ってきた。無意識的領域が意識の領域をひっくり返した。
▽183 初期の左翼への転向も、左翼からナショナリズムへの逆転向も、戦後民主主義への転向も、日本の場合、はなはだ心情的。その点では、日本浪漫派的だといわれてもしかたない。心情による転向だから、そこに抜けているのは、思想のポリティックというか、生活の技術、タクティックです。レトリックを使うとか、タクティックを使って自分の思想を守り、実現するという方法が悪い駆け引きとして軽蔑され、したがって欠乏していた。たいへん純粋な心情の方向付けだというふうに考えこむ思想上の心情主義が支配していた。
 思想をほんとうに現実の生活のなかで生かすという方向をとれば、…一生涯どのような生活をしていくかという問題も出てくる。いつ学校をやめなければならなくなるか、そのときどうするかといった問題に、対策と技術をもっていなければならない。三木清や古在由重、羽仁五郎らが強制されたのはそういう生活だった。
 妻とどういう結婚をするか、子どもを産むのかどうか…そういう問題をボヤッとやっていて、食えぬようになれば、転校へ追い込まれる結果になる。
 …どこまで集団の規則に従うか、どこから先はあくまで譲れない一線として自分の身体を律するかという技術も必要になってくる。
 ぼくの場合…思想犯保護監察所へは出頭しない。天皇陛下万歳とか戦争万歳という表現は絶対に書かない。しかし肉体的には戦争に協力させられている。実際の生活では、隣組に放りこまれ、警防団に引き出されたりする。
▽188 「生活がかかっている」という言いのがれの「なしくずし」転向を、思想によってどう歯止めをかけるかという問題だと思う。

□市民の論理と平和の論理
▽194 もっとも根深い「思考の惰性」は、平和を「安全」ととりちがえ、自国の「安全」保障をおいもとめつづける国策によって、平和をねがいながら、戦争をまねきよせる先入見である。
 憲法の平和主義は、平和を「安全」ととりちがえ、「安全」を「安全」保障と同視し、「安全」保障を軍事的安全保障に帰着させる「思考の惰性」ときっぱり手を切る決断を表現している。
▽207「平和」とはなにか。
▽213 戦争主義の反対が平和主義という、否定概念をつかった消極的定義。
▽227 ソ連との話し合いの道を選ばず、易々と再軍備と徴兵制度に踏み切ったドイツ人にくらべる時、日本人のたくましさは明らかだ。…日本とドイツのファシズムが荒れ狂って、第二次大戦を起こさなければ、共産主義を信奉する国家は十中八九、現在でもソ連1国にとどまったであろう。
▽233 平和運動は政党政派をこえた立場に出ていくよりも、まず政党政派以前の立場にさかのぼってはじめられなければならない。一致の可能性は、政党政派の主義主張の妥協的調節である前に、庶民としての立場の共通から生じるのである。
▽241 絶対平和論 クェーカーは、めいめいの国に徴兵令が敷かれるたびに、徴兵令のしかれていない国々に移民しなければならなかった。それを可能にしたのは、庶民としての誠実と勤勉だった。プロシアやロシアの大森林には、クェーカーによって開拓された地域が非常に多い。彼らは身をもって、戦争が最大の浪費であり、平和が最大の収穫である実例を教示している。
▽エラスムスとカント
▽270 ヨーロッパ近代の民族的主権国家とは、戦争を主要ビジネスとする巨大経営体だといってもいいすぎではない。「富国強兵」とは、戦争ビジネス作戦に勝ち抜くための国家の経営戦略以外以外の意味をほとんどもっていないのである。
▽276 ルソーが「永久平和論批判」で評価したのは、戦争がおこなわれるのは、各国人民相互の間ではなく、国王や内閣相互の間なのだというサン=ピエールの視点であった。この視点は、エラスムス、ルソー、ベンサム、カントをつらぬき、近代ヨーロッパの平和理論の重要な前提になっている。
 しかし、この前提が、現代ファシズムの企てる全体戦争の理論と実践によって、いちおう掘り崩されつつある点にこそ、実は現代の平和理論の最大の問題がひそんでいる。(国民がつきあげてしまう戦争〓)

□市民哲学の実践
▽283 官僚制 ウェーバーによれば、近代化という社会のどうすることもできない合理化傾向は、経済面では資本主義化、政治面では官僚化としてあらわれる。二つは近代的合理化のシャム双生児的推進力である。
▽285 官僚制に抵抗する社会集団は、政党、教団、学校、企業、各種組合など考えられた。しかしこれらの集団もいまでは官僚制の侵入を受け官僚化し…官僚制による腐蝕を阻止しているのは、いまでは家庭と政治的被支配層の総体である人民という二つになってしまった。
▽289 国家権力は国会での演説や君主の布告によって行使されるのではなく、行政の慣例的操作によって行使される。人民の日常的生活を管理するのは官僚制だという結果になる。役人は公開的任用試験によって任用され、サラリーや年金での優遇、昇進、専門的訓練、分業、管轄の分化、上下の秩序がその特色となる。
▽290 日本の中央集権官僚制は、織田政権の時から始まるといわれる。宣教師を介して、アラゴンのフェルナンドとカスティラのイサベラの統一的絶対主義政権の官僚支配を学び、中央集権的封建制を作りだし、それが江戸幕府に引き継がれ、明治政権の中央集権体制でさらに強化された。
 …天下国家を担うのは、天皇に直属するわれわれ官僚であって、政党政治家ではないのだという意識ももっていた。ところがこの意識が、軍部官僚の支配下、太平洋戦争中にはダメになってしまった。戦後官僚の悪化や腐敗はすべて戦争中にはじまっている。戦争過程のなかで、軍部を中心とする政界・官界・財界との癒着が非常に深くなった。それが戦後、官僚制の国会や委員会による外側からの民主化、内側からする労働組合による民主化が挫折すると同時に、大きく息を吹き返してしまった。
…革命をやるのも大いに必要だが、みんなが自分を内側で縛っている慣習を変えるような努力をしていけば、慣習を法文化し、邦文を慣習化して支配をつづけている官僚を戸惑わせる結果になり、そこから新しい活路が開けてくると思われる。
 小さい趣味からはじまって職業内容に至るまで、いろいろな側面で官僚支配を出しぬくことである。それはつまるところ自分の問題である。
▽314 欧米では一流の企業指導者や政治家が、自分の内面を吐露した「メモワール」や「回想」を書き、出版する習慣があり、人生案内に役立っている。日本で盛んなのは功成り名を遂げた大企業家の自慢話ーそれでもないよりはましーか、収入の高い、安定した職業は今どの部門か、それにはどんな準備がいるかという「ハウツー」ものばかりである。
▽316 いま必要なのは、冒険を人生の最高の徳目にたかめる倫理なのだが…
 旧制の高校制度は、大学とは一応切れていて、3年の期間を6年間も留年し、落第する連中がかなりいて、勝手な書物を読んだり、行動したりする時間があった。無駄な時間と空間をもち、それを利用して価値の選択をまえもって考えることがある程度許されていた。
▽323 制度を固定的なものととらえるのではなく、制度の前提をあらため、制度そのものを改革していこうとする考えをもつことが大切。夢見る力を失わずに、同期や同窓の仲間などと集まって、企業を自分たちの気持ちに合った物にするようなプランを持ち寄って話し合うような機会を、是非とももつべきである。企業の壁を内側から少しずつでも外側に開いて新しい芽を育てていく努力を怠ってはならない〓
▽324 高度な生活水準は企業まるがかえによってのみ実現されるような形式をつくる。住宅施設やレジャー施設のすみずみまで企業におぶさって成立している。こんな企業丸抱えは、社会主義国の国家丸抱えを除いて、他のどこにもない。技術革新による付加価値の増殖を通じて生活水準の安定が実現されている間はいいが、ひとたびそれが不可能になった場合、人々は生活水準を守るために、イデオロギーとしてではなく、制度としての国家主義にひきずりこまれてしまう。(〓いまは社畜にさえなれない不安定)
 …生活の合理主義とは、生活をどれだけ簡素化し、かつ充実させるかである。
▽331 社会教育は学校教育とぜんぜんちがうということ。教師が教えるんじゃなくて、問題を投げかけて共通に提出される問題を一緒に「考える」教育なんです。
▽333 70年代を通じて、小田原の勝又グループの憲法学習にもとづく新しい生活形成運動や、枚方の婦人グループの「数の歴史」の学習、「六・三」グループの神戸弁を押し通した学習など、濃密な学習もふえてはきています。
▽335 中井正一。尾道で青年運動、文化運動、図書館運動でたいへんな努力をしている。地方では話すテーマはしぼって最大限三つ、いちばんいいのは二つ。その上大切なのはそのテーマにふさわしい模範実例をえらぶこと。その実例を考え出すにはひと月もふた月もかける。簡単に考え出した実例では、違う方向から反証を出されたら、もういっぺんに農民の信用はなくなる。「封建制」の特色を学術用語でしゃべったら自分には関係ないと思われる。中井はその本質を「縄張り根性」「みてくれ根性」「ぬけがけ根性」といいかえ…書斎で本を読むよりずっと苦労の多い努力で…
▽338 生活綴り方運動は良い蓄積をもっている。80年代以後は表現を通じて人間の変革を生みだす仕事が大事になってくると思う。高度産業社会では、労働が機械化され、細分化されていくから、よほど編成替えをしないと、労働は新しい人間を生みだしにくい。人間の変革を生みだしにくい。
 表現の領域を通じて人間は人間になっていくという自覚が必要で、労働の過程よりも表現の過程で人間形成が補足されなければだめだと思っています。
(〓うーん、生産から離れ、表現すべき内容がとぼしくなっていないか)
▽344 いま(1979)のままでは、たとえ革新側に政権が移っても、政策目標はよくても、それを実現するしかたはどうしても官僚主義になってしまう。政治権力だけによっては解決しえない問題があるということは自覚しておかなければならない。
 そのためにも、企業の問題、家族の問題、官僚制の問題、この三つから攻めていって国家の民主化をはかるということが大切なんですね。
▽348 道徳問題の底辺には、理念(イデア)、行動律(モラル・コード)、モデル(模範的人物)、エトス(無意識的好悪感覚)の四つがひそんでいる。
▽362解説(佐高と対談) 60年安保を、人民大衆の革命前夜の段階だと分析した人々もいたが、どうもちがう。この人たちは革命にのためにきたのじゃないんじゃないか。そこで、この人たちが運動を継続できるような方法なり、様式なりを考えておかなければいけないというので、市民主義もなにも、まだ言葉にされていないときに、あえて、「市民主義の成立」を執筆した。
 …「市民」というのは革命的な方からは、なんかうさんくさいものとしてみられていたのですね。

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