MENU

日記をつづるということ 国民教育装置とその逸脱-西川祐子

■日記をつづるということ 国民教育装置とその逸脱<西川祐子>吉川弘文館 20160711
 日記を史料として用いるためには、日記の通読「つづけ読み」と同時に、事実確認のために他の日記の併読「ならべ読み」をする必要がある。「つづけ読み」と「ならべ読み」を駆使することで、近代の日記が、日記をつづる主体の性別役割や職業意識、内面を構築し、死地へ赴く兵士や、夫や子どもを戦地へ送り出す女性をつくりあげる国民教育装置としての機能を果たしたことを明らかにする。
 さらに家計簿と主婦日記を読み進めると、貯蓄という名目で各家庭から吸い上げられる資本と、勤務時間や学校の時間という名目で集められる時間が驚くほど巨大であることが浮き彫りになり、農村から都市への人口移動や植民地進出、戦争経済進出にいたる巨大な物語が見えてきたという。

 筆者は、「家」家族から「家庭家族」へ、さらに個人がバラバラな家族へと向かうのにともない、その容器としての住まいが伝統的な家から「茶の間のある家」、さらに「LDK」…へと変化する様子を研究してきた。日記は、空間を流れる時間の管理という意味があり、家族や住まいの変遷と同じ問題の表裏であるという。
 かつての「家」制度の家長は家業と家事全体の管理し、日記は「家」のありかたをつづっていた。茶の間のある家に住む「家庭」制度の家長は住居の管理と、日記と家計簿による家族の時間管理や財産管理を妻の手にゆだねた。1920年代に主婦日記が大量に販売されるのは、男性は企業勤め、女性は専業主婦という近代的な性別役割分業の成立を意味した。
 20世紀前半、旧制高等学校や中学、大学で「青春」を謳歌できた青年たちが「内面」を発見し、「内面の日記」が記されるようになる。群衆のなかでの孤独を知る近代の、都市的な文化の産物だった。
 一方、「西南戦争」のころから、軍隊手帳が記されはじめる。軍国主義とともに、子どもに対する日記教育も徹底した。戦時中の多くの国民学校・中学校・女学校では、日記帳の提出が義務づけられた。戦時下の日記帳はラジオや新聞報道から得た情報を書き写すことで、それらを身体化していく役割を持つ国民統合の手段だった。当時の日記を読むと、総力戦が、人と物質を根こそぎ動員してゆくさまをつぶさにたどることができるという。
 1950年代、生活綴方や生活記録が一世を風靡した。川村湊は「作文のなかの大日本帝国」で、戦中の作文教育が、自発的に「満州」開拓民として大陸に行くことを促し、自発的な「作文」こそが支配の道具となることを教師は知りながら無防備だったと批判した。日記を記し、くりかえし読み、さらに書きつづけることによって自己変革がなされるということが、軍国主義教育でも戦後の生活綴方でも示されていたという。
 戦後の1946年に日記帳の出版は20万部にのぼったのは、日記が奨励されたことを示している。46年6月号の「婦人之友」は、「家計簿をつけとおす同盟」を呼びかけ、集計したデータから費目別、年齢別の平均数値を示し、自分の家計を平均値と比較できるようにした。家計簿をつけとおす気力は持ち家願望とむすびつき、借家住まいから社宅住まいを経て、郊外に持ち家率を上昇させていった。
 20世紀前半は、青春という特権的な時間的余裕と個室を得て「内面の日記」を記す層は限られていたが、戦後復興とともに、個人の日記をつづる時間と場所を獲得する層が増えていく。個室がなくても、鍵のかかる学習机の普及も内面の日記の普及に手を貸したのだろう。それは私の実感としてもわかる。
 子どもは個室で日記をつけることができる一方で、夜間しか滞在しない夫には個室がないから、日記帳は次第に肌身につける手帳へと統一されたとも推測している。
 ブログなどのネット日誌の執筆者は、自分と他者の日記を「くらべ読み」している。そこから、近代とは異なる時間と空間の認識が生まれ、記録のあり方も変化し、新たな連帯が生まれる可能性もあるという。

====================
▽10 1999年に「女性の日記から学ぶ会」(島利栄代表)という発足して間がなかった日記帳を保存・解読するグループと出会い、さらに「日本日記クラブ」(小谷信子)という当時すでに30年以上つづいていた日記をつづる人たちの集まりに紹介された。
…2006年にはそれぞれ創立40周年と10周年を迎えた二つのグループが共催して「庶民の日記展」を開催した。その展示に協力することで、日記研究の「野外調査」をしめくくることができた。
▽13 近代家族の研究、その容器としての住まいモデルの変遷をたどる住まい論と、その地つづきのような都市論を考えてきた。長い間、日記論とは平行するが別のテーマであると思い込んでいた。ところがそうではなく近代における空間の生産と管理、空間を流れる時間の管理という表裏一体の問題を考えてきたのではなかったか。ブログの時代には、近代とは異なる時間と空間の認識が生まれ、記録のあり方も変化するという予感がある。
▽13 先行研究を参照し…自分に残されている課題、切り口、方法の自覚をようやくもつことができたときには、約10年の時間が経過していた。
▽16「内面の日記の創出」旧制高校の教養主義と精神主義から日記文化が形成されてゆくことに注目する。内面の自由という観念は、同時代のもっとも特権的な青年集団において発生する。内面の日記は、もっとも私的な秘匿する日記であるにもかかわらず、集団のなかで形成されるという矛盾的性格を有する。
▽戦争へ向かう国民統合が、日記帳日記を一つの手段にしたと同じく、日記帳日記が廃墟のなかで個人と集団とを戦後再編成するために力を発揮したところを見る。
▽25 アンネの日記 鍵のついた日記帳は、集団生活においてはとくに、自分だけの時間と空間の象徴だった。そして隠れ家が暴かれると、強制収容所に日記帳をたずさえてゆくことはできなかった。
…キティと名づけられた架空の読者が設定されていた。読ませるテキストの成立には、架空の友人キティに呼びかけ、訴えかける文体の力が大きいと思われる(読者がいること〓)
▽夢の上人と呼ばれる明恵の「夢記」 鴨下信一は、夢日記は現実日記よりも逆に正直であると述べているが、一理ある。
学校での日記 提出義務が苦痛だった学生もいれば、それを機に日記をはじめたひとも。
▽41 わたし自身は、樋口一葉の一人称で記述する「私語り 樋口一葉」を書いた。主人公の内在的視座に潜り込むようにして伝記を書く実験だった。
▽47 主婦日記が大量に製造・販売されるのは1920年代。その発売は、男性は企業勤め人、女性は専業主夫という近代的な性別役割分業の成立を意味しよう。
▽77 日記帳出版の老舗で、現在も日記帳の大手のひとつ博文館新社。1895年発行の「懐中日記」と翌年の「当用日記」からはじまっており…日本の商品史のなかでは現在も市場にある商品のうち3番目に古いという。もっとも古い消費品はカルピスとみなされている。〓
▽83 1872年以後、明治政府は太陽暦を採用したが、生活レベルでは、暦の一斉の統一が実現したわけではなかった。一世一元が定められたのは明治以後、紀元暦もまた1872年以後伝播である。明治の日記帳には、元号暦と紀元暦のほか西暦および清国暦、さらに韓暦が併記されていることがめずらしくなかった。
▽102 「家庭」家族によって構成される新中間層が増えると、「家」というよりは「家庭」をひきいる新しいタイプの家長の多くは、家庭の日記と家計簿を記す役割と権限を、全面的に妻にゆずりわたした。
…「家」制度の家長は家業と家事全体の総管轄をおこなっていたのに、「家庭」制度の新家長は住居という課内領域空間の管理と、日記と家計簿を通しての家族の時間管理、さらには財産管理を妻の手にゆだねた。
…家庭は「家」にくらべて経営体の性格が薄くなったこと、「家」制度の経営体としての性格はおそらく日本型経営の会社側に移り、会社と会社員の関係は日本型の場合は近代的契約関係だけでは説明しがたい部分をもっている。
…家計簿 「雇い人たちへの諸給料」 明治20年のこの時期、給料生活者の家計といえども使用人を多数かかえていることがうかがわれる。
▽119 主婦の友社による年度版家計簿の出版開始が昭和大恐慌の年から。主婦の友社はその時期に売り上げをのばしていった。
▽121 澤地久枝は、日記と家計簿を生涯つけとおしたひとだが、「おそらく日本中が金銭の出入りを記録できなかった時期がある。戦争末期から敗戦後にかけての統制経済の時代のことだ。どのように収入を得、どのように、いくら主食となる米麦、さつまいもなどを買ったのか。売買の現場や現物を背負って運ぶところを警官に見つかれば、品物の没収だけではすまなかった。各家庭ごとにそれぞれ『法』を犯し、ひたすら生きのびようとした月日がある。家計簿など、つけるべくもない」。主婦の友社の「模範家計簿」刊行中断がちょうどその時期にあたる。
▽129 日記をつづることを教育手段とした「自己形成」、社会性をもった規律正しい自己を形成せよ、という叱咤激励は近代の早い時期にはじまった。教育手段としての日記は教師の検閲の下にあり、子どもにとっては家庭もまた衆人環視の環境であった。
▽134 内面の日記は集団のなかに安住しているひとの日記ではない。群衆のなかの孤独を知る近代の、基本的には都市的な文化の産物である。
▽144 岩波茂雄、阿部次郎、安倍能成は藤村操の「巖頭の感」を伝説化して広めることで、「煩悶の時代」を青年たちが哲学や文学の書を読みふける「教養の時代」に転じることに成功した。…明治期の「社会的に多大な関心を持った前時代」は、菅野須賀子・幸徳秋水などの大逆事件をもって弾圧された。
▽150 20世紀前半に「青春」を謳歌できた青年たちが「内面」を発見していった。旧制高等学校、中学校、専門学校、大学などの空間とそこですごす時間が「内面」を育てた。そこからは日記をつづるという個人的習慣と集団の慣習をふくむ一種の文化が育った。
▽152 死刑判決を受けた菅野須賀子の日記。判決から7日後に死刑執行。日記は司法省に秘匿され、戦後の混乱期に発見されるまで知られることがなかった。
▽156「青鞜」200人の女性が参加。最盛期は5000部。高等女学校、女子大学を卒業した女性がようやく層として存在するようになり、社員あるいは読者として「青鞜」を支えることができたのであった。
▽186 軍隊手帳の起源は「西南戦争」までさかのぼる。
…ワシントンの国立公文書館が日本人兵士の残した日記帳が最も多く現存する機関であることはまちがいなさそう〓
…「オーストラリア戦争記念館」。日本軍兵士たちの日記 AJRP(豪日研究プロジェクト)が資料整理とデータ化をおこなっていた。…田村義一日記。
▽209 徴兵免除も猶予も、しだいに範囲がせばめられ…戦争末期には義勇兵役法が1945年6月23日に制定された。ここで後方業務中心ながら17歳から40歳の女性が兵役に服することが定められた。同時点での男性の兵役は15歳から60歳とされている。
▽213 未来の国民にたいする日記教育は周到に用意され、徹底しておこなわれた。戦時中の国民学校・中学校・女学校で教育を受けた世代は、夏休みだけでなく学期中も、個人日記帳の提出、当番による学級日誌の記入を義務づけられた記憶をもっている。
▽214 日記帳につづられた個々人の記録から、つまり底辺から読むとき、総力戦が人と物質を根こそぎ動員してゆく過程をよりつぶさにたどることができた。戦時中の女性たちは、結婚生産年齢を3年引き下げて人口を増加させるという政府の露骨な方針により、産めよ増やせよ、生命再生産任務を過酷に負わされる…
▽219 8月15日の日記 日本近代文学館は約50人の文学者の日記約千冊を所蔵している…日本近代に出版された日記帳がもっとも多種類保存されている公共施設。
▽225  ああ長い丸2カ年の間、しっかり頑張り立派に留守して家計簿をしっかりつけて、主人凱旋されたとき見て頂かうと楽しんで待っていた。話したい事ばかり、褒めて頂こうと待っていたのです。それが、なんで? 戦死されて日本は負けた、敗れたのです。残念です。可哀さうです。
 …個人の公にたいする抗議文となっている。戦時下の日記帳はラジオや新聞報道から情報を得るとともに、判断や情動をもメディアの集団指導にゆだね、日記に忠実に書き写すことによりそれらを身体化していった。だが、同時に日記を教えどおりに忠実に書きつづけることによって、教育が意図していなかったものを見、考え抜いてしまうことを山田幸子の日記は教えてくれる。
▽229 戦後 1946年に日記帳20万部。占領下の出版物のなかでは非常に多い。日記帳が奨励されたことを表す数字。
▽231 1950年代に実践された生活綴方や生活記録は、敗戦直後の主体性と自己同一性再編の苦闘の結果が、方法論として形をとったと言えるであろう。
〓川村湊 「作文のなかの大日本帝国」(岩波、2000年)で、戦後教育を受けた世代からする戦後教育批判を書いた。戦前の生活綴り方をひきついで戦後の生活綴り方運動の指導者となった国分一太郎について「戦時中の綴り方=作文教育の展開を無視することによって、戦前の生活綴り方運動と、戦後の「山びこ学校」との実践を結びつけ「綴り方教室」を乗り越えた「山びこ学校」を推奨することによって、そこに戦中と戦争とかすっぽり抜け落ちていることに気づこうともしなかった」と書く。戦中に作文教育は、生徒たちが自発的にたとえば「満州」開拓民として大陸雄飛に乗り出すことをすすめ…
「書かせる」ことによっての支配ということを、生活綴り方を指導する教師たちはほとんど自覚していなかった。綴り方、作文、感想文、反省文、自己批判文…自発的に書かれるべき「作文」こそが、もっとも支配の道具として有効であることを作文=綴り方の教師たちは知っていた。そしてそのことの無自覚さ、無防備さは、簡単に「自発的に文章を書くこと」を戦争の総動員体制に奉仕するものとしてしまったのである。
 川村は、戦争協力を批判しているだけでなく、戦後には戦後のイデオロギー教育があったことを、かつて授業を受けた生徒の立場から指摘している。
 …もう一つ、川村の作文教育批判には、書かせて読む教師と書かされる生徒の力関係が問題化されているのであるが、書き手が読み手であり、読む人もまた書くことをくり返しながら変わってゆく、生活記録運動に見られた相互の往復運動についての言及がない。「書く」だけでなく「読む」という行為の積極性が見落とされている。
▽237 「山びこ学校」に啓発されて、四日市の東亜紡績泊工場において、大人のための生活記録運動をはじめていた澤井余志郎とその仲間たち。
▽240 新田鉦三 占領軍から矢継ぎ早に出される教育方針に「カリキュラム」をはじめとするカタカナがならぶことに対する反感がおさえがたかったと語る。進駐軍が何の予告もなくジープを小学校に乗り付け、物置から銃剣術の防具が発見されたため、校長が辞任に追い込まれる。かと思えば、小学校でダンスの講習会があり、かつての武道の指導者がダンスの講師として指導に来て驚いたといった小事件もある。
▽243 自己変革は日記を記し、かつくりかえし読み、さらに書きつづけることによってなされていったことが自覚されている。
 新田は、教育基本法「改正」に個人名で声をあげて抗議した全国的にも数少ない例の一つである。敗戦後にやりなおすためには、自分で考え、行動することを重視した、と新田が語る戦後精神の一つの表れである。
▽244「婦人之友」は、1946年6月号で、「家計簿をつけとおす同盟をつくりませう」と呼びかけ…家計簿の数字を集計して、「速報」というコラム欄に費目別、家計簿記術者の年齢別の平均数値を発表。自分の家計を同盟員家計の平均値と比較できる。
(読者参加のシステムが当たり前で、生き生きと機能していた〓)
▽248 家計簿をつけとおす気力は、明日はよりよい生活があると願う気持ちからであったであろう。生活の質の向上は、持ち家願望とむすびついた。同盟発足当時は半数以上あった借家住まいが、その後、社宅住まいが最も多かった時期を経て、持ち家率を上昇させ、ついに80%近くの加入者が獲得しており、そのかわり通勤時間が1時間をゆうに越える長さとなり、住宅ローンの返済が家計を圧迫し…という様子を追跡している。
(うちは家計簿をつけていたのだろうか?〓)
 「主婦の友」は69年には72万部。7万5000となった時点で、2008年6月号をもって休刊となる。
▽257 他人に読ませない原則である内面の日記は、個人日記をつづることのできる時間と場所を確保した層からはじまった。20世紀前半には青春という特権的な時間的余裕と鍵のかかる個室を得た層は限られていた。しかし戦後復興とともに、時間と空間の条件を獲得する階層は厚みを増す。
(〓鍵のかかる学習机の思い出)
▽258 青木正美は、特異な日記研究家。古本業を営むかたわらで、古本とともに捨てられていた膨大な量の日記資料の読破と収集をおこなった。
▽261 青木の「青春日記」「二十歳の日記」 中学時代、映画館に行く目的は映画鑑賞だけではなく、若い女性を狙う痴漢行為。大胆に巧みになっていく。
(きらよしゆき?の小説もこっそり本屋で買って、ドキドキしていた。金瓶梅や紅楼夢もそのために買ったようなもの)
▽265 八木秋子(ウェブ上に相京範昭が履歴を掲載)〓
 子どもをつくったが家出、雑誌記者・新聞記者として自活。アナキスト運動に参加。農村青年社運動。治安維持法で入獄。転向者として「満州」へ。ボルシェビキだった永嶋暢子と友情を結んだ。
 戦後は母子寮などで働き、73歳担った1968年に生活保護を受けて4畳半のアパートで一人暮らしをはじめる。ここで、学園闘争世代の青年相京範昭とであい、76年に養育院に入居した翌年から、相京編集の個人通信「あるはなく」によって発言をはじめた。本格的な執筆を再開した当時、八木秋子は82歳だった。
▽268 新聞求人広告を出して、指圧をする。封筒の宛名書きの内職、病人介護…。
 人生を総括しようとしたとき、仕事を形煮した作品がないことに愕然とする。時は容赦なく過ぎてゆく。私だけが創造しうるうもの、その形はまだ判らず、見当もつかないが、とにかく私は書かねばならぬ。…(気持ちがとてもよくわかる〓)
▽271 内面の日記が人に見せられない日記となるのは、性に関する記述があることによる。内面の日記の重要なテーマが性である。
 …私は思う。日本の作家は老年に一つの構えを持っている。悟りをひけらかし、それに縋ろうとしている。…私は自分の終わりのない不安、心のたえぎるふるえ、動揺もこれも我がものとして受応するほかなく、投げだすわけには参らぬ。さらば、われ、わが障害を迷いと不安に貫かん。というわけだ。
…生活保護で四畳半の一室を確保したときの喜びは大きかった。この瞬間、空間だけでなく時間をも我がものにしたと意識している。自分のための空間と時間とは、自由と独立の別名であった。
 ああわたしは71歳をすぎ、老耄に入って、はじめて理想の生活をつかんだのである。
▽276 自伝あるいは自伝的小説を書こうとして、作品が生まれないという事実について日々書きつづったノートが「八木秋子日記」となった。日記帳は増えてゆくが自伝は作品に結晶しない。生活保護をうけながらつづけた誇り高い独居生活は、度重なる転落事故、骨折などの後に、都立養育院へ収容されることにより終わる。1976年、81歳だった。
 …個室のない養育院から脱走をくりかえす八木秋子の姿を見て、1970年代の青年たちは、八木秋子が何者であるかを彼女自身の口から語らせようとした。
 …秋子という日記作者は生涯の最後の瞬間に、戦後復興と高度経済成長に対する異議申し立てをした学園闘争世代の少数の人たちと出会うことにより、他人に見せないはずの内面の日記を自ら開示して、読者との交流の望みをはたす。
(孤独に、日記をつけることで、未来を生き抜いた、最後に救いがあった)
▽282「日本日記クラブ」は、小谷信子が朝日新聞の「ひととき」に投稿し掲載された「日記書きつづけて32年」を呼んだ人たちが集まって発足(1965年)「めいめいのその日の日記を一つに寄せてみる。人生の幻妙なマンダラがそこには織りなされるに違いない」という投稿を読んで、そのようなクラブをつくることに賛同する、あるいはまだ存在していない会への申し込みなどの手紙が新聞社をとおして小谷信子のもとにとどけられたのが「日記クラブ」の始まりだった。…手紙は107人に及び…開会当時の中心メンバーは40歳台から60歳台。日中戦争から太平洋戦争の戦時期とその戦後を日記によって記録した人々の集団だった。
▽286 高度経済成長が次第に大きく個々人の生活と社会全体を変化させる様は、後世にこの時代の日記を読み解く人たちによって明らかにされることだろう。
…日記クラブの機関紙「としつき」は、…ある1日の日記を全国の会員から募集している。全国各地、職業さまざまの人たちが書く同じ日の日記の「ならべ読み」は、会員に同時空間の広がりを感じさせ…同時代を生きるもの同士の共感を生むしかけとなっている。
▽291 近代の日記の枠組みが日々日記帳を開く無数の日記作者に呼びかけ、日記をつづる主体の性別役割、職業意識、さらには時間の意識、内面といわれるものの構築をなし、内心をおしころして死地へ赴くヘイし、夫や子どもを戦地へ送り出し自ら積極的に銃後を守る女性と子どもたちをつくりあげる。国民教育装置としての徹底度は、わたしの予想をはるかにこえた。
 家計簿と主婦日記を先導したいくつかの女性雑誌を通読するうちに、貯蓄という名目で各家庭から吸い上げられる資本と、会社へゆく時間、学校へゆく時間という名目で集められ束ねられる現在と未来の労働力の行方とが、空恐ろしいほど巨大な姿をとって浮かび上がる。家計簿や日記帳は慎ましい日々の賢明の営みを記録しているのであるが、そのすべてを「つづけ読み」「くらべ読み」して総合することができるなら、一国の農村地帯から工業地帯へ向かう人口移動、植民地進出、戦争経済進出にいたる巨大な物語がなまなましく浮上する。
▽295 八木秋子の日記の「つづけ読み」により、…子どもを置いた家出の後、非合法運動の挫折、友人を置き去りにして「満州」から引き揚げた戦争体験という前半生の物語におおいかぶさるようにして、戦後日本の復興の影で再び進行する貧富両極分解という、日記作者自身をも追いつめる次の社会変動の姿が浮かび上がる。
▽296 忠実な兵士の日記ほど、戦争の非合理を浮き彫りにする。日記が国民教育装置からもっとも大きく逸脱するのは、日記が持続されることによってなのである。
▽297 子どもは個室で日記をつけることができても、夜間しか滞在しない夫に個室空間がないとしたら、また会社へ通う通勤時間が延びるうえに残業が重なるとしたら、日記帳は次第に肌身につける手帳へと統一されるだろう。
▽301 インターネット日誌の執筆者はいわば自分と他者の日記の「くらべ読み」を実践している。そこから新たな連帯が生まれる可能性が模索されている。ネット日誌は、紙媒体よりも早く忘れられ、目の前から消える。これを蓄積し、共有の財産として未来の読者に引き継ぐ仕組みもまた開発されなければならないだろう。日記の力は持続にあるのだから。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次