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鶴見俊輔集2 先行者たち

■鶴見俊輔集2 先行者たち 筑摩書房1991年 20160306
 プラグマティズムとは、実用主義とか現実主義とか、その場その場で対処する考え方という程度にしか思っていなかった。
 デューイについての文章を読んで、場当たり的に思えたプラグマティズムの歴史的な意味が理解できた。
 哲学を体系として考える代表はドイツ観念論であり、ナチスや天皇制と親和性をもち、マルクス主義にもつながる。一方、デューイに代表されるプラグマティズムは、体系としてのドイツ観念論に対抗して、哲学を方法として考えるのだという。

 デューイの哲学は、それぞれの社会の状況のなかから問題をさがしあて、その状況のなかで問題と取り組む方法をさぐるものだった。既存の観念によりかからず、状況そのものからつねに新しく出発するというもので、ドイツ観念論に対抗する存在だった。
 カントは理想の世界を物の世界よりもすぐれたものと考え、ヘーゲルらは、国家の実像とその歴史的展開によってカント哲学の空白をうめた。国家の活動が絶対的精神のあらわれであるという確信をドイツ国民はもつことになり、ドイツ観念論が知的なものから情緒的なものに移しかえられてヒトラーにつながった。
 日本の幕末の洋学者は、哲学に対して体系性よりも実用に関心をもったが、明治中期以降、方法から体系へと関心の対象が変わった。
 デューイは、デモクラシーの高揚期に来日したが、天皇制思想と、その理論上の支えになったドイツ観念論によって、彼の影響は日本からしめだされた。デューイと交流した日本の自由主義者たちは、その後10年もせずに、軍国主義のなかで別の思想家になっていった。
 一方、中国においては、デューイの思想は学生たちの抗日運動に影響を与えた。
 孔子や孟子、荀子の思想は、理論にたいする実践の優位を説いた。近代中国に受け入れられた西欧思想がプラグマティズムとマルクス主義しかないのは、いずれも実践を重視する思想だからという。ふたつのうちマルクス主義が勝利して、プラグマティストは台湾へ逃げることになった。
 デューイは78歳のとき、トロツキー証言を聞くためにメキシコへ出かけた。ソ連訪問時はソ連を評価したが、トロツキー聴問によって恐怖政治の存在を認めるようになった。NY市立大の教授に任命されたラッセルが、婚前交渉や同性愛を認める著作のゆえに任命に反対する訴訟が起きた際には、デューイを委員長とする文化自由委員会はラッセルを守った。
 第二次大戦では、当初は戦争にまきこまれるべきではないと考えたが、ナチスがポーランドに侵入すると態度を変え、真珠湾が攻撃の際には米国の戦争参加を支援した。
 デューイは、それぞれの具体的問題についての判断にかかわりつづけた。

 純粋の形式の論理学は、コンピューターや人工衛星などに役立つが、科学の部品となって目的を問うことなく、原爆にも戦争にも利用される。一方、人間の経験につねにひきもどされるデューイ風の論理学は、論理そのものの暴走を防ぐ意味がある。
 デューイ哲学の主題は、探求の論理(方法論)だから、もうろくしたとしても、生きている限り探求はつづく。もうろくした段階における探求の論理は何でありうるかということ自体が、デューイの論理学の対象であり得た。鶴見の生き方もそれにならっている。もうろく自体を豊かな世界として対象化して描いていた。

□ハクスリー
 日本の普通の人の習慣のなかには、個々のものをゆっくり見て、それに託して考えるところがある。生花にも茶の湯にも俳句にも。抽象概念との一体化ではなく、個々の者の今の個別の状況を一つの抜け穴として、さらにむこうにぬけてゆく。
 「すばらしい世界」は、大戦後の高度成長下の日本によくあてはまる。それにおしつぶされそうになって、しかし今も残っている日本文化があること、それが世界の再設計への努力に何かの役を果たし得ることに、晩年のハスクリーは眼を向けていたという。その日本文化は、今や世界農業遺産の一部などにしか残っていない。その現状を考えざるを得ない。

□オルテガ
 イギリスからフランス、ドイツに手本を求めた認識の学は、一神教に裏打ちされ、正しい答えは一つであるという考え方だった。その流儀が日本にも入って明治国家の上下の秩序に裏打ちされた。疑うことからはじめて、問題を立て、その答えをさがすという、ルネサンス以後のヨーロッパの学問の方法は、明治以降の学校制度に痕跡を残さなかった。懐疑の方法が入ってこなかったから、既成の学問の学習が能率的になされたという面もあった。
 国家目的に対する懐疑は、義務教育や師範学校で学ばれることはなく、満州事変後には禁止事項になった。必勝の信念が要求され、「もし日本国が負けるとしたら」という思考を追放した。
 戦前からの連続性を保つ文部省の指導下に学校がおかれているために、問題を自らたて、その答えを探すという訓練は、戦後教育に入ってこなかった。

□欧州の小国
 サンマリノ、アンドーラ、モナコ、リヒテンシュタインなどの国は、大国のすきまにあるということをてこにして、むしろヨーロッパ性がドイツやイギリスよりも強い。
 アフリカの突端にあり、文化上アフリカにならず、ユダヤ人、ギリシア人、アフリカ人の共存の場となったアレクサンドリアは、違う宗派に属する人びとがともに一つの問題をたてる場となった。神と人間の間にある第三のものとしての知恵への関心が、アレクサンドリアの哲学の共通傾向であり、それがヨーロッパの思想の中心をつくった。
 大国ではなくその周縁にある小国にこそ、新しい何かが生まれる場がある。そこに着目する鶴見の視点の確かさがわかる。

□柳田国男
 柳田は教育勅語にたいしても距離をもっていた。1930年にも「教育勅語は立派なものであるが、ただ郷土教育のことに一言も言及がないのは遺憾である」と述べて、自宅に憲兵の訪問をうけたという。
 柳田は思想に対して、日常生活に根ざし、日常生活における判断と行動に役立つものであることを重んじた。彼の文章は、日常生活の状況についての判断や、そこで必要とされる行動について論じた。抽象名詞よりも普通名詞、名詞よりも動詞が論文の要の役をになった。

□柳宗悦
 李朝の壺を見て、名のある人が作ったんじゃない、どうしてできたのだろう、と考えたことから、日本にもそういうものがないかと考え、民芸の発見につながった。だから、日本のものの美しさを賞賛しても、日本固有の美という話にはならない。
 大津絵は、代々受けつがれるもので、型が定まっていて、オリジナリティも何もない。でも、村全体がみんな一緒になってわーっとつくっているときに、ある種の活力が生まれる。それも柳は評価する。
 ハイチやニカラグアの農民たちの素朴画や、グアテマラのウィピルもまたオリジナリティはないが、先祖代々受けつがれた意匠故の豊かさがあるのではないか。「アート」というのは必ずしもオリジナリティを必要としないのではないか。

□小泉八雲
 八雲は、日本人は口論や怒鳴りあいをしないと観察した。言葉を無駄にしない。部屋には畳だけでなにも置かない。余白の中から力をとりだしている、と評価した。
 そういう日本人はすでに失われてしまった。ドナルド・キーンが学生時代に伊勢の遷宮を見た時は沈黙があった。20年後に行ったら、儀式の山場だけ沈黙があったが、それが終わるとざわざわとなった。わずか20年の間に、昔の大事なものが失われてしまった。

□中野重治
 大正時代の東大新人会には、世界史の法則は理解しているという気負いがあった。中野はその運動にくみしながら、世界史の法則を自分たちが握っているという考え方に疑いをもった。その疑いを保ちながらも、新人会のめざした民衆の解放に与して書きつづけることが彼の道筋だった。
 どんなに消そうとしても、自分の暮らしを支えている日常の思想は残る。そこからくりかえし出発することを、中野はその文章のなかでつづけた。このことが、古風なように見えて、今も彼が新しいという根拠であるという。
 イデオロギー的な流行は、すぐにすたれてしまうが、根っこのような日常の思想は古びることはない。中野のすごさは、イデオロギー的な運動に参加しながらも耐えず根っこにかえることを忘れなかったから……と言ったらよいのだろうか。

□花田清輝
 桑原武夫が柳田国男に「明治の学者には素朴だがつよいところがあるのに反し、それ以後の学者はどこか弱い感じがするのはなぜか」と質問した。柳田は「それは孝行という考えがなくなったからだ」「明治初期に生まれた学者は孝行だけは疑わなかった。故郷に学問成就を待ちわびている父母のことは夢にも忘れなかった。人間には誰しも怠け心があり…そのとき目頭に浮かぶのが自分の学資をつむぎだそうとする老いたる母の糸車で、それは現実的な、生きた『もの』である。ところが、私たち以後の人々は、学問は何のためにするのか…真理のため、世界文化のため、国家のため、などというだろうが、それらは要するに『もの』ではなくて、宙に浮いた観念にすぎない。一たび嵐が吹きあれると、そんなハイカラな観念など吹き飛ばされてしまう」
 柳田学は、明治の思想のなかの生きた根をとらえようと努力してきた。「母の糸車」といった根があるがゆえに、日独伊枢軸賛成という方向には柳田はいかなかった。柳田は「糸車」のような生ける記号を持って生きる人と、死んだ記号(抽象的な記号)だけを持つ人を区別した。
 安保までの三島由紀夫の作品を花田は評価したが、最後に三島が時代の流れに乗って一気に走り始めると同調しなかった。「時代に対して一人でかろうじて立っているというときは、何事かができるときです。けれども、時代という巨人の肩の上に乗ったときは恐ろしい。かなり早く進んでいくんだけれども、自分の力で進んでいるんじゃない。俺の思想もよく世の中で行われるようになってきたな、と思ったら、大馬鹿者だ」
 「言論の自由」という観念もまた、ハイカラな観念でしかないんだろう。竹中労のように、自ら自由な言論を展開した人間は、抽象的な言論の自由ではなく、具体的な体験をもつ。「言論の自由」という言葉は安易に振りまわすべきではないのだろう。

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□デューイ
▽4 大正年間に日本に滞在し講義をした。彼の来日の記憶が保たれていないのは、彼が叙勲を断ったことと、日本の中国政策を批判したことにかかわりがある。それ以上に、デューイの哲学が米国の国境をこえにくいということから来る。デューイの哲学は、それぞれの社会の現在の状況のなかから問題をさがしあて、その状況のなかで問題と取り組む方法への呼びかけ。
▽6 その著作活動は、戦争の追放とか、スターリンのおこなった不当なトロツキー裁判を批判することなど…そのような実践活動の出発点となったのは、つねに新しく経験のなかから出発して考えるという努力であった。
…デューイのプラグマティズムの核心は、先入見によりかかった区分をこわしては、くりかえし経験から新しく考えなおす試みである。考えはじめる前に、完成された幾個かの観念によりかからずに、考えはじめる状況そのものからつねに新しく出発するというその流儀にある(11)
▽8 幕末の洋学者は、哲学にも、体系性よりも実用に関心をもち、実用できる思想のもとをなす方法とは何かを主にして、西洋哲学を考えたが、明治中期以降、哲学への関心の持ち方は、方法から体系へと一変した。
▽34 もともとプラグマティズムには、この社会に生きる普通の人びとの哲学を表現するという側面がある。哲学が大学教授の仕事になっていった20世紀前半の米国において、普通人の哲学という側面をデューイはほかの同時代の哲学者にまして代表した人といえる。
▽48 「ひとつの抗議」という裁判記録。西川祐子というフランス舞楽研究者について、阪大が任用するつもりであることをしらせて、もとの帝塚山学院大学からの退職を求め、その後に阪大が任用決定を白紙に戻したので、西川は職を失ったという事件。大阪大学を訴えて裁判に勝った。
▽50 デューイほどに、自分の哲学の主張を、教育という実権の場を得てためす機会を持った哲学者は、世界全体にいなかった。
▽60 カントは理想の世界を物の世界よりもすぐれたものとする。しかしその具体的な内容を論じないで、形式についてのみ論じた。あとをついだフィヒテとヘーゲルは、国家の実像とその歴史的展開ならびに使命によって、カント哲学の空白をうめた。
…ドイツ国家の活動が、絶対的精神のあらわれであるという確信を、ドイツ国民はもつこととなった。
▽62 ヒトラーはドイツ国民に訴えるのに、ドイツ国民がドイツ国民としての「世界観」をもつことをもってした。ドイツ国民に根を張っているドイツ観念論の伝統を活用しようとしたものにほかならない。ヒトラーによれば、ドイツ人以外の、フランス人、イギリス人、アメリカ人は、民族国家としてのひとつの「世界観」をもっていない故にダメなのである。カントにはじまるドイツ観念論の内実が、知的なものから情緒的なものに移しかえられている。
▽66 大学に資金を出している実業家が気に入らない教授が免職される。…戦時下の学問の自由への圧迫。
▽72 日本にも関心。階級対立をやわらかにおさえる力として、天皇制があり、これは、初等教育制度をとおして、国民の心にひろくうえつけられている。天皇制は、ずるがしこくて影響力の強い反動思想であり、これに対して日本の自由主義はたたかわねばならないと、デューイは主張した。
…天皇は旭日章を授与するという内意をつたえたが、これを辞退した。
▽74 支那に行ってみると、日本で聞いたことは、多くは、嘘かあるいは非常に潤色した話であることがわかってきたのです。…騙されていたのかと気がつくと、急に腹が立ってきたのでした。…
貧富の差のない田舎町に育ったデューイに、1920年の東京は、けたちがいの生活水準の差のつよい印象をのこした。このために、デューイをとりまいてもてなす、英語を話す日本の知識人の人道主義と自由主義に信用をおけなかった。その不信の念が、中国に行ってから見聞によって裏づけられた。
…デューイの来日は、デモクラシーの高揚期にあたっていたが、デューイ哲学の影響は、知識人をふくめて日本人の日常心理までを規定する天皇制思想と、その理論上の支えをあたえるドイツ観念論哲学とによって、ほぼ完全に日本からしめだされた。
…デューイをとりまいた日本の自由主義者たちは、その後10年を待たずして、軍国主義のなかで別の思想家に変容していき、デューイとのあいだの思想上の化合物は消えてなくなったが、中国においては…学生たちの抗日運動が、日本の帝国主義にたいする長期抵抗を準備する。デューイをむかえたかつての中国人米国留学生たちには、この抵抗運動の口火をきっただけで、戦列から外れてゆくものもあったが、その後、長期間にわたってつづく、文化革命と政治革命の運動の幕を開けたのだった。
▽85 中国知識人のあいだでマルクス主義の影響力がつよまるにつれて、胡適はデューイとともに批判の的となり…
▽87 理論にたいする実践の優位という考え方は、孔子にあきらかにあらわれており、孟子、荀子にさらにあきらか。この点で、アリストテレスが理論を実践の上においたのと対照をなす。
…近代中国に受け入れられた、あるいは消化された西欧思想は、おそらくふたつしかない。(デューイの)プラグマティズムとマルクス主義。いずれも実践をたいへん重視する思想だからです。ふたつのうちマルクス主義が勝利して、プラグマティスとは台湾へ逃げる。…社会的実践からはなれた理論をきびしく排除しようとする価値理念がつよく生きているのを示している(だからドイツ観念論ははやらなかった〓)
▽90 北京大学はデューイに名誉博士の学位を送り、「第二の孔子」と呼んだ。半世紀後の中国に毛沢東の指導下に孔子批判の運動がおき、それに先だってデューイ批判がおこなわれ、両者はともに倒された。
…中国人の日本批判にデューイが同情を示したことは、同時代の米国人に刺激をあたえた。米国の自由主義知識人の多くは、このころから中国人の抗日運動に共感をもつようになっていく…
▽91 多くの社会活動と自分を結びつけた。…デューイは改革の側にたちつづけて、しかもつねに、おだやかな改革派として活動した人。
▽96 第一次大戦以後の長い期間にわたって、第三党が必要だという信念をかえなかった。デューイの思想の影響をうけたニューディール時代が来た1932年以後も、デューイはこの考え方をかえようとはしなかった。
…トロツキー証言を聞くためにメキシコへ。78歳だった。…ソビエト訪問の時に得た印象は、メキシコでのトロツキー聴問によってかわっていった。ソビエトの可能性を否定するというのではないが、ここに現に恐怖政治があるという事実を認めるという方向にである。
▽100 ラッセルがNY市立大の教授に任命されたとき、婚前交渉や試験結婚、自慰と同性愛とを認めるラッセルの著作のゆえに、任命に反対する訴訟が起きた。デューイを委員長とする文化自由委員会は、ラッセル攻撃に反対する最初の団体の一つとなった。
▽115 第二次大戦については、当初は戦争にまきこまれるべきではないと考えたが、ナチスドイツがポーランドに侵入すると態度をかえた。全体主義国家をひろげることを許すべきではないとし…真珠湾が攻撃をうけたとき、彼は米国の戦争参加を支援した。
▽ 1946年再婚。87歳。新妻は42歳だった。
▽140 倫理 先例は、黙ってそれにしたがうためにあるのではなく、使われるべきものとしてある。先例は、現状を分析するための道具として役立てられるべきである。
…デューイは、それぞれの具体的問題についての判断にかかわりつづけた。
…(絶対的な規準をおく倫理ではなく、その場その場で正しいことを判断する動的な倫理のありかた〓)
▽144 教育 暗誦が初等教育の重要な仕事だったが、それは教師からのいっぽうてきなおしつけだ。それをかえてゆき、子ども自分にとって関心のもてることについて報告するという方向に向ける。
…道徳と宗教は、それまでの教育方法はダメ。道徳上の説教をきくことは、こどもに、口先だけ立派なことを言うようにさせるかもしれないけれども、それは道徳的行動とあまりかわりがない。道徳性は、習慣と行動に根ざしてはじめて育つものであり、学校でのおたがいのつきあい、教師と生徒とのつきあいのなかでそだってゆく。教えたり、ならったりという状況そのものが道徳教育である(「学校と社会」=道徳強制の今〓)
…教師がお互いの間に民主主義を築くことが教育を活気あるものにする。(現在の日本のありかた〓)
▽147 「もっとも広い意味での教育は生命のこの社会的連続の手段なのである」 人間の経験の連続が教育をとおして実現される。…教師の世代の経験から、生徒の世代への経験へと、経験がのびてゆく。その過程として教育はとらえられている。(〓教条適に教えるのではなく、経験の受け継ぎ。バトンタッチ。だから全人間的になる?)
▽158 純粋の形式の論理学は、コンピューターや人工衛星などにも役立っているのに対して、経験を手放さないデューイの論理学はどんな役にたつのか。経験から切りはなされた論理計算の技術として追求される論理学は、巨大科学の部品となって、大きな予算のついた研究の目的を問うことなく使われていく。原爆にも戦争にも…。人間の経験につねにひきもどされて刻々とあらためて反省されるデューイ風の論理学は、…人間の行動としてつねに見ていくことをとおして論理そのものの自動的な暴走をふせぐ。科学そのものが、それ自身として手放すことのできない道徳的性格を自覚することによって、科学者の日常生活、人間の日常生活、生物の歴史のなかで、自分の現在の作業の意味をあらいだしてゆく。
▽179 マルクス主義はロマン的な絶対主義のかわりに、科学と科学的法則が獲得しつつあった威光とにもっとよく調和するほかの型の絶対主義を展開した。…歴史の法則は革命的行動のための法則となるにいたった。
…デューイの批判は、現存のマルクス主義にむけられたものであり、今後可能な道をとざすものではない。批判の対象はソビエトにおける官許マルクス主義であり、それに連動して、哲学上のあらゆる問題について決断する傾向にあった当時の米国共産党とその同調者のマルクス主義だった。(スターリンの粛正の事実が明るみに出るのはデューイの死後のこと)
▽185 独ソ不可侵条約は、米国内のマルクス主義者の多くにソ連に対する不信をよびおこし、共産党からの離脱がおこった。
▽194 「民主主義的な目的はそれを実現するために、民主主義的方法を要求するということである。今日、全体主義的方法は新しい扮装のもとに、われわれに提供されており、われわれにとって、無階級社会における自由と平等という究極の目的に役立つということを主張するものともなっているし、全体主義と戦うために、全体主義体制の採用をば勧奨している。(民主集中制批判〓=官僚をつくりだす組織)
▽197 宗教的なもの デューイにとって大切なのは、さまざまな宗派のなかに、また宗教宗派のなかにくみいれられていないさまざまな体験のなかにもあらわれている「宗教的なもの」である。
…一つの宗教とは、特定の信仰と実践とを持った団体を意味する。それに反して「宗教的」という形容詞は、いかなる制度や習慣をも、信仰の組織的体系をも意味しない。
…さまざまな宗教のなかに、いや、それよりもひろく人間の経験のなかにひそむ、宗教的質をさがしだして示すことに、自分の仕事をかぎる。既成宗教のもつ非宗教性にたいして、あらがってゆく、新しい態度がある。
「宗教には、本来、人間経験の、部分的な移り変わりやすい出来事に、全体的見通しをあたえる力がある。…もし、純粋な全体的見透しを持ち来すものがあれば、それがなんであろうと、それは宗教的なものであるといわなければならない」
▽208 日本のようにダーウィンの進化論が、ルソーの民約論への訣別の踏み板として使われる場合もあった。自然淘汰論を、国家間の優勝劣敗の闘争を正当化する論拠とした加藤弘之の著作があらわれた。(〓〓そういう見方も…)
▽210 デューイ哲学の主題は、探求の論理である。もうろくをしたところにも、生きているかぎり探求はある。もうろくした段階における探求の論理は何でありうるかということそれ自身が、デューイの論理学の対象であり得た。それは、自分には精密な分析能力がおとろえたから、もはや哲学から引退するというような辞意表明を許す種類の主題ではない。(〓ひとつもふたつも上から俯瞰する視点。もうろくが意味をもつあり方の探求)
▽211 デューイはいばらない人、目立たない人。
▽214 大衆という観念を最初にもちこんだのは、スペインの哲学者ホセ・イ・オルテガ。20世紀に入ってからの大衆文化の登場によって、19世紀までのヨーロッパの教養人の文化がその洗練の機会をうしない、文化全体の変容がおこることを指摘した。
▽220 デューイの教育上の著作への関心が日本の教育学者の間にたかまった。成城学園、玉川学園などの創立をもたらした自由な教育への動きは、デューイの教育思想への関心を高めた。
▽222 清水幾多郎 思考や観念が最初に来るのではなく、最初に来るのは生活で、そこでの問題の発生、その解決の必要から思考や観念が生まれるのである。プラグマティズムはこの見方を貫いている。普通の人間は、無理をせず入っていける、私たちの常識を少し精緻厳密にした、健康な哲学であると思う。…しかし…大恐慌から大戦にいたる飢餓および暴力の10年間は、マルクス主義、実存主義、分析哲学を迎え入れ、楽天的なプラグマティズムを裏口から追い出した。同じような飢餓と暴力との支配する日本で、私は、追い出されたプラグマティズムに一種の救済を見いだしていた。
▽226 久野収 つねに現状況のなかで考え、そこにある選択の幅についての自分のえらばないほうへの目配りを忘れずに、しかもどれか一つをえらぶ作業をつづけてゆくようにと言う〓。
▽227 自分からえらぶ道は一つであるとしても、それをめぐって、自分の支持しうる選択の幅がもっとおおくあることを忘れないことが大切である。その幅を状況のなかでつねに新しくとらえなおすことが、デューイの言う探求の論理学だろう。

□二人の哲学者 デューイと菅季治の場合
▽247 たがいの心に近づく方法をもたず、そういう努力をする元気さえももたないことが多い。
…男は、女にたいして、はなすべきことばをもたない。友人同士のあいだにあってさえ、やがて職場をことにし、年月をへだてて再会するときには、もはや前のように話のはずまなくなっている自分たちをみいだす。
(人間観察の鋭さ。現代の問題意識と同じ。でではどうすればよいのか、という研究をしなければならない、という問題設定のしかたも。地に足がついて、しかも問題の本質をみきわめている。でもその解答を得られるのかというと…)
▽250 …コミュニケーションとディスコミニケーション…わかるようでわからん。菅が国会で質問攻めにあい、コミュニケーションの道を一方的に絶たれて自殺にいたるエピソードは刺激的だが。

□ハヴェロック・エリス
▽人生は舞踏である
▽こういう民間の学者は、イギリスでもなくては考えられない。大きな公開図書館があるから、民間の者でも自由に好きな本を読める。エリスは財産家でないし…図書館の本に頼って仕事をしていたようだ。図書館の本だけにたよって研究できる学者などは、日本では考えられない。
▽305 …平等な夫婦関係を求め…妻は発狂してしまい…今の人間関係に不満を持つ者は、現存の秩序のなかで小アナーキイ、人工的小環境をつくろうとする。そかしそれは大社会環境の圧力のなかにあって、まことに弱い不確実な存在だ。エリス夫婦の場合においてさえ、もろくもくずれてしまった…
しかし、さまざまなホコロビにもかかわらず、生涯の終わりに彼の書き残した言葉は、人生の芸術家にふさわしい美しさを持っている。
…もう一度この人生をくりかえそうとは欲しないけれども、それにもかかわらず、全体として今これを眺めるようになってみると、私は、喜びをもって、ほとんどうっとりとさえしてこれに眺めいるのだ。

□ハクスリー
▽327 宗教がひとつの光にみちびかれながらさらに自由に枝分かれしてゆたかになる、という直感が、私にとっては、オルダス・ハスクリーの著作の魅力である。
…日本の普通の人の習慣のなかには、個々のものをゆっくり見て、それに託して考えるところがある。生花にも茶の湯にも俳句にも。抽象概念との一体化ではなく、個々の者の今の個別の状況を一つの抜け穴として、さらにむこうにぬけてゆく。
▽329 「すばらしい世界」は、大戦後の高度成長下の日本によくあてはまる。それにおしつぶされそうになって、しかし今ものこっている日本文化があること、それが世界の再設計への努力に何かの役を果たし得ることに、晩年のハスクリーは眼を向けていた(〓その日本文化は、今や世界農業遺産の一部などにしか残っていない。残りかすになってしまった)

□オルテガ
▽331 イギリスから、次にフランス、やがてドイツに手本を求めた認識の学は、正しい答えは一つであるという考え方で、キリスト教という一神教に裏打ちされている流儀が日本にも入ってきて、明治国家の上下の秩序に裏打ちされるものとなった。疑うことからはじめて、問題を立て、その答えをさがすという、ルネサンス以後のヨーロッパの学問の方法は、明治に入ってからの日本の学校制度に痕跡を残さなかった。懐疑の方法が痕跡を残さなかったゆえに、ヨーロッパの既成の学問の学習がヨーロッパ諸国におけるよりも日本において能率的に速くなされた。
…国家目的に対する懐疑は、義務教育や教師養成課程としての師範学校ではとりあげられることはなく、それは満州事変を起点とする非常時の機運のなかで、完全に禁止事項になった。戦時下には必勝の信念が要求され、もし日本国が負けることがあるとしたらという条件法の思考を、人生観・社会観の領域から追放することを当然とした。
…戦後お、戦前との連続性を保つ文部省の官僚の指導下に学校がおかれ続けているために、問題をみずからたてて、その答えを探すという訓練は、小・中・高の教育に入ってくることはなかった。採点しやすいような○×式の問題…これまた明治以来の
一つの問題には一つの正しい答えがあるという前提をうしろだてとしてすすめられている。
…懐疑をみずからの起点とし、みずから問題をたてる場所は、日本の教育制度のなかにはない。
▽336 ブルガリアは、カトリックの国なのに自殺が多い。…
…ハンガリーだけが、ヨーロッパの中の孤立した空間ではない。サンマリノ、アンドーラ、モナコ、リヒテンシュタインなどがあるが、それらは国が小さいだけで、大国のすきまにあるということをてこにして、むしろヨーロッパ性が両ドイツやイギリスよりも強いように見える。(〓小国=辺境からの鶴見の視点)
…ジプシー 放浪性を千年にわたって身につけ、諸国内にわかれて暮らし…その不服従のゆえに、ナチス・ドイツによって多数が虐殺された。(〓日本の木地師は似ている? それゆえに差別された? 常民ではない周縁から日本を見たら…)
…ユダヤ人 日本は日露戦争で借金をするうえで、ユダヤ人の力を借りたが、そういう事実はかくされ、ナチス・ドイツにならってユダヤ人排斥運動が強くおこり、戦後もふたたびおこった。イスラエル政治がパレスチナ難民をつくりだすという、アラブ対イスラエルの軍事対立と結びついて、反ユダヤ思想がひとつの潮流として動いている。
▽340 アフリカの突端にあり、文化上アフリカにならず、ユダヤ人、ギリシア人、アフリカ人の共存の場となったアレクサンドリア。違う宗派に属する人びとがともに一つの問題をたて、その問題ととりくむ場となった。その場でたてられた問題と、それに対して与えた解答(複数)とが、ヨーロッパ思想の特徴をなす思考法のもととなった。
…神と人間のあいだにおかれた第三のものとしての智慧への関心が、アレクサンドリアの哲学の共通傾向であり、ヨーロッパの思想の中心をつくる。
▽343 オーウェル。インドやビルマからじょじょに撤退していくイギリス人の方針を先取りする姿勢が見られる。植民地の人たちについての無知の自覚をもつイギリス人の政治思想がある。同時代の日本人がさまざまの植民地政策の失敗にもかかわらず達成できなかった視野がそこにひらけていった。ヨーロッパの普遍思想を日本の官僚・支配層がまねたまなびかたと、ヨーロッパの支配層のもった普遍思想のちがいがここにある。(〓懐疑の有無のちがいか?〓)
▽345 ソ連の政治的正統に対してポーランド人を守ったのは、カソリック教会の宗教的正統だった。
▽349 ヨーロッパはふたつの大戦をへて、ヨーロッパ自身の思想の多元的起源に目覚めた。キリスト教の成立に異教がかかわり、キリスト教の内部にたとえばマリア信仰という形で異教が生きていることに今では多くのヨーロッパ人は気づいている。
(マリア思想=異教。なるほど。だからマヤとも融合しやすい?)
日本は、疑いから再出発するというヨーロッパの方法をうけつがず、ヨーロッパが普遍思想をほかに押しつけるという方法をうけついだ。…日本の場合、明治以前の各地の慣習を重んじてそこから、現代の国家秩序を考えなおすべきなのだが、日本では国家の決めたこと普遍的なものとして受け入れて、その前提にたって、各種の知識をすすめるというやり方が教育の規準になってきた。
現代のヨーロッパと対面して、日本が、みずからいだく偏見(複数)をほりおこし、偏見として認めて、それを疑いのなかで磨きあげる道を見出すならば、明治国家成立以来の日本の学校教育がヨーロッパから学んだのとちがう道がひらける。
(〓地方の多様性の再発見。近代以前のものの価値)

□イシャウッド
▽どの戦争も、平和を目的とした。「戦争をなくすための戦争」(第一次大戦の米国政府のかけごえ)、「東洋平和のための戦争」(中日戦争の時の日本の流行歌の言葉)

□バーリン
▽361 決定論を信じているなら、約束に遅れた人を非難できないはずだ。遅れることは、宇宙のはじめからきまっていたのだから。人間を道徳上非難するということは、決定論を信じる立場と両立しない。
バーリンの「カール・マルクス」は、同時代のソ連の哲学者がスターリンに最高の哲学者としての位置を与えていたが、それに影響されることなく、自分の言葉で読み解き…。
プロシアの大づかみな形而上学に対して、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ヴィーンをよりどころとする学者たち、マッハ、フロイト、バウハウスの建築家、ヴィーン学派の論理学者たちは、いずれも個々の現象の明晰な分析から出発した。ネイミアは、「政治構造」を書くとき、同時代に議席を占めたひとりひとりの議員についての資料をあつめた。
ネイミヤはバーリンに、歴史の中でも思想家はつまらぬもので、それはひとりのユダヤ人がもう一人のユダヤ人からぬすむ犯罪史にすぎない(ネイミアもバーリンもマルクスもフロイトもユダヤ人)と語った。
▽367 ソ連の女性知識人「私たちのように歴史と社会の法則をすでに発見したマルクス主義者にとって、思想の自由を話すなどということがどうして必要なのでしょうか。まちがう自由は自由ではありません」とバーリンに言った。

□柳田国男
▽374 教育勅語にたいしても、距離をもって対した。戦前の1930年にも「教育勅語は立派なものであるが、ただ郷土教育のことに一言も言及がないのは遺憾であるという意味のこと」をのべ、東京の自宅に憲兵の訪問をうけたという。
…柳田は思想について、その発想が日常生活に根ざしていること、日常生活についての状況をよくとらえた判断に役だつこと、その判断にもとづいて行動できるような性格のものであることを重んじた。…抽象名詞でくくって要約し、その構造連関を示す法則命題によって論文を結ぶという形をとらないことも、この思想観からきている。
…日常生活の道具や出来事から説きおこし、日常生活の状況についての判断、状況が必要とする行動に終わるというその文体。抽象名詞よりも普通名詞、そしてしばしば名詞よりも動詞が、論文の要の役をになう。
▽378 柳田の文章は、生活の中で見える物事にもどして理解できるようなわかりやすさをもっている。しかしそのわかりやすさは、日常生活の内部の物や出来事とおなじくらいにわかりにくいとも言えるので、日常生活をこえて明晰に定義される要素に置きかえることのできるような性格のものではない。この生活そのものが、そのもっとも単純な形においてさえ謎であることを、柳田は忘れることはなく、そのゆえに彼の著作は、民衆の日常生活を記述した平板な学問のように見えても、文学としての奥行きをうしなうことはなかった。

□柳宗悦
▽379 京都に来てから柳さんの片腕になったのは寿岳文章さん。柳さんは学閥から自由。民芸運動に集まるのは眼の人たち。ものを見る見方の合性によって自然に集まってくるという珍しい組織です。
▽382 白樺派のなかで、ほとんど一行も軍国主義賛美の文章を書かなかったのは、落第生で放蕩者の里見弴と柳さんだけ。あとの人は何らかの形で軍国主義と妥協している。柳さんは戦争中に「今は、職人の腕が落ちるときだから大変だ」と。
▽385 李朝の壺を見て、名のある人が作ったんじゃない、どうしてできたのだろう、ということから、反転して、日本にもないかという問題になった。それが民芸の発見となった。だから、日本のものの美しさを賞賛しても、日本固有の美というふうな話に全然ならない。
…朝鮮人の国を、日本がとったということに対する一種の恥の意識、国辱として感じる精神を柳さんはもっていた。そうすると、朝鮮のその壺の白というのが悲哀の美としてとらえられる。
▽387 大津絵。一つの村で、70歳のおばあさんが描いているものを、5歳の子が、おばあさんの手助けをしようとして同じ模様を描いていく。型が定まっている。オリジナリティも何もあったものではない。それが活力に満ちていて、何か大変おもしろい美学的な問題を出している。
…大津絵は村全体がみんな一緒になってわーっとつくっているときに、ある種の活力が生まれる。
(〓ハイチの絵、ニカラグアの素朴画、あるいはグアテマラのウィピルとの共通点は)
▽388 転用のエネルギー 茶の湯のはじまりに転用があったことを柳さんは重視した。飯を食う茶碗だったものを…もとの脈絡から離れて転用していく。
柳さんにとっては、繕いもまたひとつの芸術。飾り物だったら、きずのままでもいいけど、茶碗だったら繕わなきゃいけない、見事な繕いができることが、重大な芸術の分野になるという考え方。西洋哲学史でいう美学というもののなかでは、取り上げられなかった問題。
▽391 小泉八雲。松江の貧乏士族とであい、嫁さんの家族全員を自分の親類にして引き取る。貧しいなかで、お互い助けあっている人たちの気風というのが見えてくる。ぞんざいさから自由。
…日本人は口論とか怒鳴りあいをしないと八雲は思った.言葉を無駄にしない。静寂のなかから活力を得る。部屋のなかには畳だけでなにも置かない。。花が生けてある。余白の中から力をとりだしている、と評価している。
こういう力は、八雲やタゴールのときは民衆文化のなかにあったけど、失われていく。ドナルド・キーンが学生時代に伊勢の遷宮を見た時は、沈黙があった。それから20年後に行ったら、儀式の山場だけ沈黙があって、そこが終わるとざわざわ。20年間で重大なことが起きている。高度成長期へのインデクスです。

□中野重治
▽404  大正時代の東大新人会には、もはや世界史の法則は自分たちには分かっているという気負いがあった。その運動に若いころくみしながら、世界史の法則を自分たちが握っているというその考え方を、日本人の上においかぶせてゆくゆきかたにうたがいをもった。そのうたがいは、彼の書くもののなかに常に保たれている。そのうたがいを保ち、(同時に新人会のめざした民衆の解放の方向にくみすることをやめずに)書きつづけることが彼の道筋だった。
…どんなに消そうとしても、自分の暮らしを支えている自分の日常の思想は残る。そこからくりかえし出発することを、中野はその文章のなかでつづけた。このことが、古風なように見えて、今も彼が新しいという根拠であると、私は思う。

□花田清輝
▽413 桑原武夫が柳田国男に「明治の学者とそれ以後の学者とのあいだには大きな断絶があり、前者には素朴だがつよいところがあるのに反し、後者は知識が深くなったにもかかわらず、どこか弱い感じがするのはなぜか」と質問した。柳田は「それは孝行という考えがなくなったからだ」「明治初期に生まれた学者は、忠義はともかく、孝行ということだけは疑わなかった。東京にいても故郷に学問成就を待ちわびている父母のことは夢にも忘れることができなかった。人間には誰しも怠け心があり…そのとき目頭に浮かぶのが自分の学資をつむぎだそうとする老いたる母の糸車で、それは現実的な、生きた『もの』である。ところが、私たち以後の人々は、学問は何のためにするのか…真理のため、世界文化のため、国家のため、などというだろうが、それらは要するに『もの』ではなくて、宙に浮いた観念にすぎない。一たび嵐が吹きあれると、そんなハイカラな観念など吹き飛ばされてしまう」 大将の学問をやった人たちが、昭和の軍国主義下にひっくりかえった。日本の学問の転向の根をよくとらえている。
柳田学というのは、そのように、明治の思想のなかの生きた根を、保守的ななりにとらえようと努力してきた。根をもっているゆえに、日独伊枢軸賛成とかいう方向には柳田国男はいかない力を持っている。「母の糸車」という考え方は、状況のなかに置かれてゴムまりのようにバウンドするものなんです。
生ける記号を内に持って、それによって生きようとしている人と、死んだ記号だけを持って、進歩的、あるいは左翼的である人を区別するわけです。それは右翼・左翼という区分けを超える区分。
安保までのミシマの作品を花田は肯定的に評価している。最後に、三島が時代の翼の上に乗って、うわあっなってくるときからは決して同調しない。
時代に対して一人でかろうじて立っているというときは、何事かができるときです。だけれども、時代という巨人の肩の上に乗ったときは恐ろしい。かなり早く進んでいくんだけれども、自分の力で進んでいるんじゃない。俺の思想もよく世の中で行われるようになってきたな、と思ったら、大馬鹿者だ。

□竹内好

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