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旅する力 深夜特急ノート<沢木耕太郎>

■旅する力 深夜特急ノート<沢木耕太郎>新潮文庫 平成23年 20151223

小学生のとき、わずか20分のバスに乗ってまちに出るのが大冒険だった。駅の近くの本屋やプラモデル屋はわくわくする空間だった。中学のとき、千葉県の犬吠埼まで3人で旅したときは大旅行の気分だった。

小5か小6のころ、「旅行会」をつくって、最初はブルートレインで阿蘇に行こう、それは無理だから伊豆下田の「さくら」という民宿に泊まろう…と計画し、泊まりは難しいから小山遊園地に行こうとなり、それも実現できず自転車で行ける大宮公園になった……ことも思い出した。旅は実現しなかったが、顔をつきあわせて、時刻表をめくって旅行プランをつくるのは楽しかった。

沢木もそんな子ども時代を送っている。中学生のとき、はじめて泊まりがけの一人旅に出た。

僕はいつだったろう? 高1のとき、泊まりがけで鈍行列車に乗って友人と2人で福島を旅した。高2の夏の北海道旅行は3人で2週間かけた。たぶんこの前後に、青春18切符で、新潟方面か大垣行きの夜行鈍行に乗ったのがはじめての一人の泊まり旅だったのだろう。

筆者が26歳で深夜特急の旅に出た当時、多くの長期旅行者は船でナホトカにわたり、シベリア鉄道でヨーロッパに入り、陸路でインドを目指した。僕の高校時代の恩師は授業でそんな旅の話をしてくれてわくわくしながら聞いたが、先生がたどったルートは当時のはやりだったのだ。沢木は逆ルートを選び、すべてバスで行くことにした。

まずは香港。重慶大厦に滞在した。ガイドブックもなく、ほっつき歩いた。

言葉はまず、一から十までの数字を覚える。さらに、いくら、なに、どこ、いつ、こんにちは、ありがとう、さようなら……という7つの言葉を覚えれば、なんとか切り抜けられるとわかったという。僕もまったく同じ語彙を覚えるようにしていた。それだけ覚えると、旅の楽しさが1ランク上がるのような気がした。

新しい土地に着いたらまっさきに、市場を見つけて丹念にほっつき歩き、いろいろなものを食べてみる。檀一雄が「風浪の旅」にそう書いていたそうだ。僕もそんな旅をしていたが、そういう旅の仕方は、檀一雄が旅した当時はほとんどなかったという。

ガイドブックのない旅には目的地がない。迷い歩く過程そのものが旅なのだ。

 

「こちらから話せるようなことをなにひとつ持っていない。いつか、自分にも、人がおもしろがって聞いてくれるような話のタネを手に入れることができるだろうか…」と沢木は旅に出る前に思っていた。レベルはちがうけど、僕も「語るべき自分がないからもてない」と思っていた。そして1年の旅から帰ったとき、ちょっとだけおもしろい話ができるかもしれない、という自信がついたというのも同じだった。

さらに、旅に出る直前の躊躇とおそれの感覚もこわいほど同じだった。

旅を通じて感じたこと、考えたことは非常に似ているのだけど、それを他人にわかる形に表現する能力が大きく隔たっていた。それが致命的なのだけど。

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▽48 大学は長洲ゼミ。卒業してまもなくライターに

▽55 「儀式」ゴルファーの尾崎の人生と「日米対抗ゴルフ」を、交互に描いていくという手法。自分のスタイル、文体を手に入れた。勝負の世界を描くこと、同世代のヒーローを描くことというジャンルも手に入れた。

(文体の大切さ)

▽82 読売の今村新之介の主催する研究会へ。そこには、本田靖春や磯崎新も来ていた。

▽101

▽122 荷物を詰めたザックを背負い、貴重品を入れたショルダーバッグを肩にかける。このスタイル現在にいたるまで基本的には変わっていない。

▽135 重慶大厦に長期滞在した。

▽194 インドでは、巻き込まれるようにして旅ははじまっていく。ところがヨーロッパでは、乗り合いバスに乗るというごく単純なことが難しくなる。街を歩いていても、声をかけられることもない。…冬のヨーロッパは、自分で旅を創りだすのに向いていない土地であり季節であった。

▽229 旅に出る前、…自分、こちらから話せるようなことをなにひとつ持っていない。いつか、自分にも、人がおもしろがって聞いてくれるような「話のタネ」を手に入れることができるだろうか…。旅から帰ると、少しは楽しんでもらえそうな素材をひとつは持てるようになった。そのことは人と対応するときの私をかなり自由にしてくれたように思う。

▽231 自分はどこでも生きていくことができるという思いは、どこにいてもここは仮の場所なのではないかという意識を生むことになってしまった(失ったもの〓)

▽239 シャープな短編を連ねていき、それが緩やかにつながると、ひとつの首飾りのような長編になっている。私が最初に夢見た紀行文とはそういうものだった。だが、それが書ける文体を私はまだ持っていなかった。(〓うーん)

▽258 どうして10年も前のことが書けると思ったのか。ひとつは金銭出納帳のようなノート。反対のページに記されている心覚えの単語や断章。さらに、航空書簡に記された膨大な数の手紙。3つを参照することで、当時のことが克明に再現できた。

▽266 漫画の世界はアクションからリアクションの時代に入った。梶原一騎の漫画は、主人公がアクションする…いまは「リアクション」の時代になっている。…どんな珍しい旅をしようと、その珍しさに頼っているような紀行文はあまりおもしろくない。しかし、たとえどんなささやかな旅であっても、その人が訪れた土地やそこに住む人との関わりをどのように受けとめたか、反応したかがこまやかに書かれているものはおもしろい。紀行文も、生き生きとしたリアクションこそが必要なのだろう。

…「風」を受けて、自分のほほが感じる冷たさや暖かさを描くこと。「移動」というアクションによって切り開かれた風景、あるいは状況に、旅人がどうリアクションするか、それが紀行文の質を決定するのではないか。〓

▽288 「深夜特急」第三便を書き終えると、あの旅は生々しさは消えてしまった。そして遠くなっていってしまったのだ。そのとき、あの旅はひとつの死を迎えることになったのだろう。

▽292 20代前半の私には、すべてがおいしく感じられていたためか、なにがなんでも「おいしいもの」を食べたいという願望はなかった。食べるものがおいしいというのと、おいしいものを食べようとするというのはまったく違う二つのことなのだ。〓

…おいしいものを食べる、ではなくて、食べさせてもらったものがおいしかった、というにすぎなかった。深夜特急の旅に出たときも、まず、おなかを満たすこと、それもできるだけ安くおなかを満たすことがもっとも大事なことだった。必然的にその土地の人が食べている物を食べることにつながった。〓

…あの当時の私には、未経験という財産つきの若狭があったということなのだろう。未経験ということは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということであるからだ。…旅の適齢期。

▽305 旅の濃度が違うような気がする。若いときに比べると、風景も人もすべてが淡く流れていったような気がしてならない。

▽314 人が変わることができる機会というのが人生のうちにそう何度もあるわけではない。…危険はいっぱいあるけれど、困難はいっぱいあるけれど、旅に出て行った方がいい。

▽353 (旅に出る前)なんとなく行きたくないような気もするんです。「ぼくも旅に出る前はいつもそんな気持ちになる」

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