光文社新書 20080105
社会学といえば、かつては理論的枠組みとかなんとか敷居が高いイメージがあった。最近は逆に統計調査のような無味乾燥なものが主流をしめている。どちらも好きになれない。「定型」にきりとられた新聞やテレビの「ニュース」にたいする違和感ににている。
高齢者が苦しんでいるという文章を書こうとすると、苦しんでいる部分だけを切りとって表現する。でも、その人はそれ以外の部分ではもっとずっと豊かな生活を送っているかもしれない。自分の思考の枠に現実をあてはめてばかりでは、視野狭窄におちいってしまう。
この本の著者の立場は、そのどちらでもない。理論化・抽象化によって大事なものが抜け落ちるのではないか、という問題意識をもち、人間の総体をとらえ、「普通」の奥にひそむものを暴こうとする。エスノグラフィーという用語ははじめて知ったが、こんな先生に学生時代に出会えていたら、研究者になるのもよかったろうなあと思える。
聞き書きに近いが、それだけでもない。聞き書きをする研究者や記者自身が対象の「語り」にあたえる影響や、研究することが、研究者自身の内面におよぼす影響、あるいはその相互作用を重視する。近代合理主義・客観主義を批判する現代思想の成果が、一見素朴にみえる研究スタイルにもりこまれているという。なるほど。
研究対象にどうやって入りこむのか、どうやって調査するのか……という具体例もおもしろく役立ちそう。
--「普通であること」に私が少しでも居直っているとすれば、それを反省し、「普通であること」を疑い、どう変革すれば相手の「生きられた」世界と繋がることができるかを模索する。常に自分の中に「風穴」をあけておき、自分を「危うさ」に直面させておく--
「弱さ」の強さ。「普通」の虚構をはがすこと。筆者の生き方とやさしさが上記の一文に表現されていると思った。
--------要約・抜粋--------
▽内田隆三「社会学を学ぶ」(ちくま新書) 抽象概念を駆使
山口昌弘の本 佐藤俊樹「不平等社会日本」(中公新書) 時代の先端を読み切る
三浦展「下流社会」(光文社新書) 統計駆使
▽マスメディア 理解不能な他者を日常から「切り出し」「遠ざける」役割をはたす。それではダメ。以前もまして他者との出会い、交流、つながりを求めているのでは。社会学は、こうした他者との繋がりや関係のありようを読み解く。
▽普通、社会学的調査研究では、使用する概念を設定し、定義を明らかにし、論理的に現象を説明しようとする。研究者は、上空から俯瞰する。一方、「生きられた経験・語り」に出会いたいと思うとき、調べるものは、対象の人々が生きる現実に降り立とうとする。この時研究者は、学問世界に安住することはできない。
▽「はいりこむ」実践は、アメリカ社会学のシカゴ学派から。エスノグラフィー
▽「暴走族のエスノグラフィー」佐藤郁哉 カメラをぶらさげて現れたのは、上手な姿の見せ方だった。
▽老人施設へ 研修者・ボランティアとして。「はいりこみ」自らの体がどう反応し、意識がどう変化するのか。調査者は常に状況から影響を受けている。
「小山のおうち」 お年寄りに認知症は怖くないと説明し、まず物忘れをする姿を自らが認め、「いま、ここ」から「ひと」としての暮らしを新たにつくりあげるように促す。それまでの研修で身につけた作法を、認知症の人々から一つ一つ問い直されていく。
▽巻町の住民投票
▽小児ガン病棟の子供たち
▽「はいりこむ」営みは、確実に「はいりこむ」本人を変貌させる。その変貌を読み解くこともまた、調べるべき重要な部分。
▽「大衆演劇への旅」鵜飼正樹 劇団メンバーと歩くのさえ恥ずかしかったのが、女の子に卑猥な声をかけ、パンチパーマをかけ……日常での微細な変貌……大衆演劇という世界と「わたし」がいかにせめぎあっていたかを語る「わたし語り」。……「適度な距離を保って批判的に鑑賞するインテリとはいったい何だろう……知識は一見人を自由にするように見えて、実は人を抑圧するのかもしれない……」(〓レヴィ=ストロース)
▽「なりきろうとし続ける」営み。役柄と自分の存在の間にある距離や隙間こそ、社会学が世の中を調べるうえで読み解くべき基本的な対象なのである。
▽滋賀県の被差別部落の生活文化史。近江文化の隠されてきた一面。「生活戦略としての語り--部落からの文化発信」
▽p156 自らの理論枠にあう語りだけを、聴き取った内容から取り出して使う研究者がいる。……「聞き取る」という営みのなかで、相手の語りから、影響を受け、聞き手の具体的な問題への関心、理論枠、仮説などが変動していくのが醍醐味。
▽p158 識字の力〓 大阪の同和地区 障害者解放センター、牛乳パック回収、母娘サポート、高齢者サポート……このつながりの重要なひとつが、識字学級に通う人々のネットワーク。……過去の体験が文字で語られ、綴られることを通して、その意味が「いま、ここ」という現在で相対化されていく。自分の姿や毎日の暮らしが識字体験をとおして相対化できたとき、文集の語りに非連続とでもいえる変化がおこる。「文字を識る」ことで「おのれ」に目覚め、「おのれ」と同じ「うちら」がいることに目覚めていく。さらに全国に、全世界にいることを知り、「おのれ」と同じ「わたしたち」がいることに目覚める。識字は、参加者1人1人の生活世界が量的、質的に拡がっていく営み。
▽「普通であること」に居直らない。
▽池田小学校事件。犯人の様子についての子供へのテレビインタビュー。子供の解答でただ1つ共通していたのは、「金髪やった」。ニュースを報道する側が、子供のコメントを聞いた瞬間、これは使えると思ったのではないか。なんとかして「事件のわけ」をにおわせたい。「金髪」は、男が「普通ではない」ことを示すかすかな痕跡だったのではないか。
「普通であること」 理解不能なできごとと出会ったとき、それを自らの日常生活世界から「くくり出す」ために用いる装置。ただ、その「普通」はいわば「空洞」である。
▽障害者フォビア 銭湯で障害をもった子に出会ったときにドキリとする違和感。「普通」に呪縛されている自分の姿。銭湯の日常を、障害者とともにすごす「方法」「人々の社会学」を持ちあわせなかった私の姿。日常のさまざまな場面で、他者としての障害者と出会える実践的処方を体系的にもちあわせていない私たちの姿。「適切な」関係をつくりあげるうえで生きた想像力を十分に発揮できていない姿。……自分から「すきま」を埋めようと一歩踏み出さないかぎり、「すきま」からもれ出てくる闇に、私たちは戸惑い、不安になるだろう。フォビアとは、戸惑いを回避したい、という思いこみがつくりだし、とりあえず「すきま」に蓋をしようとあがく「虚構の感情」といえるだろう。
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