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作業中)哲学の使い方<鷲田清一>

■哲学の使い方<鷲田清一>岩波新書 201412
▽性急に答えを出そうとするのではなくて、答えがまだでていないという無呼吸の状態にできるだけ長く持ちこたえられるような知的耐性を身につけること。…問うなかで、問いが解消するどころか、逆に増殖してゆくということ。まずは問いのなかに飛び込むこと。以降のプロセスを歩み抜く知的耐性は、問いを問いつづけるなかで初めてついてくる。「哲学のアンチマニュアル」
▽7 ヨーロッパでは、日本でのイメージと違って、存在論、形而上学、認識論以上に、社会哲学としての性格が濃厚である。人びとの社会生活をどうとらえ、どう運営してゆくかのその基本になる思想の吟味に力を注いだ。
▽8 フランスでは、上級公務員をめざす学生が行政大学院で学び、修了するときに、哲学論文の執筆を義務づけられている。公共のもの全体に目配りする「教養」という名の哲学の学修を教育の柱と考えるのであれば当然のこと。
▽10 神権や王権にかわって「人間の理性」を市民の武器としつつ、近代という時代を支えてきた。
▽26 わたしが自分の身体についてもっている情報は貧弱。自分の顔は見ることができない。ひとはじぶんの身体を、いわば目隠ししたまま経験するほかない。
病や痛みといった身体の現象も、ただ受動的に、襲われるがままになっているしかない。身体は「わたし」が制御できるものではない。ゆえに「わたし」にとってなによりも不安の源泉である。
わたしたちはじぶんの身体にかんしてはつねに部分的な経験した可能ではない。ばらばらの身体知覚は、ある一つの想像的な身体イメージをつぎめとしてたがいに連結されることではじめて、あるまとまった身体として了解されるといえる。(〓あたりまえがあたりまえではない)
▽29 身体は、物体として知覚されるより先に幻想されるもの。
▽36 「いる」と「ある」の違い。人や物の「存在の仕方」。「いる」は、動いてきてそこにある。そして次はどこかへ動いていくと考えられる存在。「ある」はそのままそこを動かない存在。「いる」は、「時間の流れの中の、ある時」としてとらえている。
▽44 人びとの欲望の立ち上がりかたに大きな変容が浮かび上がらせている。時間感覚の変容をともなう。時を未来から現在へと流れ来るものとしてではなく、現在か過去へ流れ去るものとして受けとめる感覚。「右肩上がりの時代」はそうではなかった。川上から流れてくるものをいちはやくつかむこと。川の流れを水が流れ来る方向に向かって眺めるスタンス。村上の「ラブ&ポップ」の女子高生は逆方向を見ている。足下の水が川下へ流れ去り、やがて消えてゆくのを眺めるというスタンス。リアルなものもやがて消えてゆくことに目をとめている。…流れ来るものを耐えず先取りするような時間感覚から、流れ去るものを流れ去るままに眺めるような時間感覚への変化を描写した村上龍。
「じぶんがたしかにここにいるということ」じたいに地崩れが起こりだしているのではないか。
▽50 フッサールは「いま」を、いまあるものと、未だないもの、もはやないもの、3つの契機がたがいに含みあい、溶けあうような現象としてとらえた。
時が流れる、というときのその移行性は、たえず滑り落ちてゆくこととつねに新しくあることとの二重性。現在が非現在へと移行することとして理解した。=「いま」をコアとして「時の流れ」を見るいわゆる現象学的時間論。
だが、現在が予期というかたちであらかじめ未来をのみこんでいるというよりも、むしろ、予期という形で描かれる未来はしばしばそれを裏切るかたちで、不意に訪れるのではないか。そうなると、「時の流れ」は「いま」という火床のなかで構成されるものではなく、構成不可能な根源的事実としか規定しようがない。「いま」に特権的な位置値があるというものではない。現象学の時間論はここでその限界に立ち至る。
▽56 激痛は、人を時間の一点に閉じ込める。傷むこの「いま」からその先へ、あるいは前へと思いを漂わせることができない。時が、いわば庭を失って点になる。激痛は人を「いま・ここ」に閉じ込める。希望や祈りも思い出も後悔も不可能にする。人としての尊厳そのものを損なってしまう。だからこそ緩和ケアが不可欠なのだと。(〓そこに痛みを引き離す意味がある。説明し表現する意味がある)
▽64 大事なことほどすぐには答えが出ない。複雑な現実を前にして、紡ぐべき思考というのは、わからないけれどもこれは大事だということを見いだし、そのことに、わからないまま正確に対処することだといってもいい。
わからないまま、正解がないままに正確に処するのがリアル社会では必要なのに、多くの人は、わかりやすい言葉、わかりやすい説明をもとめる。わからないものに取り囲まれて、息が詰まりそうになると、じぶんが置かれている状況をわかりやすい論理にくるんでしまおうとする。その論理に立てこもろうとする。わからないまま放置していることに耐えられないからだ。わかりやすい物語にすぐ飛びつく。
目下のじぶんの関心とはさしあたって接点のないような思考や表現にふれることが大事。じぶんの関心にはなかった別の補助線を建てることで、より客観的な価値の遠近法をじぶんのなかに組み込むことが大事。
▽78 哲学はどこまでも「メタ」という次元を含む。何かへの問いかけは、その問いそのものへの問いを内包していなければならない。その自己吟味が、哲学においては論理学であり、認識論であり、言語分析であった。そして「メタ」というのはどういう場所なのか。
▽82 20世紀の哲学的思考はみずからの媒体となるものへと関心を深めていった。「記号」「構造」「解釈」「パラダイム」「概念図式」など、思考と世界の間をつないでいるものが主題として浮上してきた。世界についての秘密のすべてが言語のうちにあるかのように。
裏返せばこれは危機の兆候だった。哲学はもはや世界についてじかに語ることをしなくなったからだ。語られた世界をしか問題としなくなったからだ。媒体に思考が向かうというのは、わたしたちの思考と世界とを媒介しているものを再編する必要をどこか感じているから。思考が世界をいまの言語ではうまく語りだせないと意識するようになっているということである。
▽85 哲学は、みずからがどこから語りだそうとしているかをもっとも執拗に問う学問の一つである。…哲学は当初、実践的だった。哲学は実践についても語るということではなく、哲学そのものが一つの実践と考えられていた。
ところが近代とともに、哲学は実践からもっとも遠いものになる。「知の知」という自己規定をみずからに与えることになり、学問の基礎、科学基礎論とかグランドセオリーのような性格のものに変容していったから。
…さまざまな実践との関連をそれ自身にとって副次的なものとみなす「純粋な」理論という理念のほうから、実践が「応用」という、いかにも矮小な逆規定を受けることになった。
▽108 相対主義 歴史・文化を超えての普遍的妥当する真理は存在しないことに。…相対主義に反対する人たちは、世界のさまざまな現象の背後に一定の「認知的普遍」を発見し、それからの偏差として、通約不可能性とを超えようとする。(構造主義にとっての「交換」〓)
▽118 諸科学の細分化、蛸壺化。科学が極端なまでに細分化されてきた現代では、専門研究者も、専門以外のことがらについては非研究者とおなじく素人といってよいから、専門家も先端的科学技術がもつ社会的影響については、あらかじめ確かな判断を下せない。
▽125 じぶんが無知である領域にまで発言するのは越権としてみずからに禁じる。「専門外ですので」と口を出さない。これを裏返せば「わたしの専門領域に口を出すな」という傲慢である。
(専門化=蛸壺化によってむしろ素人化している〓)
哲学とは知の「すべてに気をくばる」べき。異質な複数の知をつないでゆく機能が求められている。…ヨーロッパではこれが社会人としての必須のトレーニングとして位置づけられてきた。専門的知性とパラレルに働く「教養」=市民的知性。
▽130 博士号は、限られたある専門分野において精緻な研究をなしとげたことに対して授与されるものではない。それはある仮説を一定の科学研究の方法に則って推論・実証したことによって、以後いかなる主題においても同様の精緻な推論・実証ができるという、そのような技量の認定として授与されるものである。「専門ではありませんので」と言って斥けるのは博士として失格である。博士とは、いかなる未知の分野においてもそれに相応しい科学の方法を用いて確かな探求ができるという一般的能力に対して賦与される称号なのである。
▽132 哲学は、相互の分断がますます加速されてゆく科学の知を「客観性」とか「普遍性」といった抽象的な統一理念によってまとめるためではなく、それらを真の意味で協働させようとはたらくもの。
…教養とは、問題を複眼で見ること、いくつもの異なる視点から問題を照射することができると言うこと。
▽140 理論がそのままでは通用しない、そのような場所をひとはしばしば「現場」と呼んできた。…アカデミズム内部での「哲学研究」に身を縮めてきたこの国の哲学は、文献を「読む」ことに傾注し、時代を「みる」ことをなかば放棄してきた。
▽150 なんらかの問題が発生している現場は、予見しえないことが次々に怒る場所であり、一つの視点からあらかじめ見通すことのできないものである。そこでは、論じる前に、解釈する前に、まずは聴くことが必要となる。
多義的なものを多義的なままに「みる」には、みずからの専門的知見をいつでも棚上げにできる用意がなければならない。哲学はある種の武装解除からはじまる。すぐに一義的な答えを出さないということ。
(自分を捨てて白紙で聴く必要があるけれど、自分という中身がなければ自分を捨てることもできない〓)
▽153 哲学の言説はモノローグであってはいけない。だれかに向けて届けられ、その場にいる人とともに語りあわれるものであり、つまりは宛先をもつ。
▽158 哲学は、方法論をきちんと構築しておかないと分析をはじめてはならないという規則を、自己に対して過剰に厳格に強いてきた。方法主義こそ近代の理性がはまりこんでいた強固なオブセッションではなかったか。
▽161 エッセー〓 エッセーの行き方は方法的に非方法的である、とアドルノは表現している。
▽166 科学は仮説をたて、観察と検証を積みかさねる中で進化するが、これまでの理論の枠組みではどうしても説明できない現象がいくつか現れてくることがある。
徴候的な知。野性的な探索力。
▽176 何かが大きく変化しつつあるようだけれども、それが何かクリアにつかめない。そういうときに何かある言葉をそこへと投げ入れることでそのもやもやにある結晶作用とでもいうべきものが起こり、多くのことが腑に落ちるということがある。哲学はそれを概念でおこない、広告はそれをキャッチコピーでおこなってきたのではないか。(哲学と広告コピーの仕事は、つねに時代の根言語を探し求めるということにあったのでは)
見えているものから見えていないものを想像力でたぐり寄せる作法。
時代の大きな変容、それが何なのか、わからない…。そのもやもやを、一瞬にして結晶させるもの、それが哲学やコピーの言葉。時代はいつも、そうした言葉を求めてきた。
…時代の自己意識のそうした結晶作用を、哲学の場合は「概念創造」というかたちでおこなってきた。第二次世界大戦後の世界で、哲学者たちは「実存」「構造」「パラダイム」「差異」「複数性」などという概念を時代のなかに挿入してきた。
その結晶作用に感染して、ビジネス世界では「構造改革」「リストラ」「パラダイム・シフト」「水平思考」「差別化」といった業界語が生みだされた。哲学による概念の創造は、時代に先駆けて、その引き金を引いてきたことは「自由」「所有権」「自律」「システム」「共生」「多様性」といった概念の生成史のなかにも見てとれる。
▽185 エッセイ 「機敏で、日常的で、公共的で、つねに現場のいて…」という精神。随筆や試論から批評的断片までを含むエッセイ(試み)の精神こそ、いま哲学が取り戻さなければならない視線であり、息づかいなのでは。そのうえでエッセイを書くということについては、それを紡ぎだす文体というものについても鋭敏であることが重要になる。
…エッセイを書くにあたって重要なのは、見なれたものをまるではじめて見るかのように見ること。その眼にはそれにふさわしい文体があるはずだろう。(特派員の目〓)
…ある文体を思考の神経とすることではじめて見えてくる世界がある。職人芸とでもいうべきある表現スタイルによってのみ近づける位相がある。
…本来、哲学が通常の文法や話法で表現しきれないものにふれたとき、新造語が編み出される。(形而上学、といった訳語・新造語をつくるのにはすさまじい緊張感のある思考の跡があった。その跡をたどると、日本人が哲学を受け入れた過程まで見えてくるかもしれない〓)
▽188 「哲学カフェ」という集いを開いてきた。
▽193 哲学カフェの3つのルール。たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない。人の話は最初から最後まできちんと聴く。他人の著書や意見を引きあいに出して長々と演説しない。
…院生たちは、寺院で「絵」を素材にアートカフェをはじめたり、子育て真っ最中の若いお母さんたちのカフェを開いたり
…震災のあと仙台で「震災」をテーマに30数回、哲学カフェを開いてきた卒業生も。
…哲学カフェは、問題の解決ではなく、問いの発見、問いの更新を試みるもの。参加者がみずから立てた問いを、対話のなかで書き換えていく。その書き換えのプロセスをシェアするというところに、哲学カフェの意味の大半があるといってもよい。
▽198 ディベイトでは、いかに相手の考えの破綻をあらわにすることにばかり心を砕く。それは、異なる考えにふれることでじぶんが変わるという「対話」の対極にある。
…対話は、他人と同じ考えになるためにするのではない。語り合うほど他人とじぶんの違いより微細にわかるようになること、それが対話だ。「わかりあえない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くこと。(よしかわとの会話。わかるほどに溝は深くなる。ぜったいわかりあえる。その努力をしないからだ、という議論。ツルとの会話で培われたものの反作用〓)
▽203 どんな不条理な問いを立てても受け容れられること、答えがありえないような問いを立てても撥ねつけられないこと、人をいらつかせるどんな発言をしても、あるいはうまく表現できなくてぼそぼそとつぶやくだけでもかならず応答があることが重要だ(応答をするのが難しいのだが〓)。議論の応酬よりもまずは他の声に耳を傾けること。及び腰の人にうまく発言のチャンスを与えること。対話のなかで問題の所在をさぐっていくこと。
…だれの発言も逸らさないで、全体をファシリテートするというのは、難しいし、度胸がいる。ファシリテーターは哲学の研究者である必要はないが、これまで哲学者のさまざまな問題設定や議論にある程度通じていれば、どんな予想外の問いが発せられても、虚をつかれて動転することは少ない。思考のパターンをいくつか知っていると、議論の途中で、いま問題がどういう位相に来ているかの大まかな位置確定ができるし…。
…おなじ時代を生きる者どうしが、都市のなかにこじ開けられたエア/ポケットのような場で、問題をシェアしているという感覚をもてることに重要な意味がある。…市民それぞれの視点の多様性が保証されており、そうでありながら「対象の同一性」が成り立っていること(問題のシェア)が大切。この二つをデモクラシーの基本とするならば、哲学カフェはデモクラシーのレッスンということになる。(朝日の改革の行方〓グループ化=「個人」相手だけではダメ。グループをつくる稲葉の取り組み)
▽220 松川絵里は、大学院生のときから10年間、3歳児までの子をもつお母さんたちの育児サークルで哲学カフェを開いてきた。ベビーシッターさんに子どもを預かってもらい、ひととき「お母さん」という立場を離れて、別の視点からじぶんたちの言葉やふるまいを見なおす時間をもてるよう工夫してきた。「ママ友」って。
(稲葉の取り組み〓)
▽224 日本の大学での哲学教育は「研究」へと方向づけられており、「哲学を使う」訓練がおろそかになっている。
▽227「じゃあ、そうした肺活量を鍛えるにはどうしたらいいんですか」という声が聞こえてきそうだ。そういうすぐに解答を求める気性こそが問題。ぐずぐずしていて煮え切らないことをすぐに「主体性」の欠如と考える気性。
(どうやったら女の子と会話できるようになる? という問いと似ている。ネタ帳をつくり、カードを使い…とやってもダメ。「語るべき自分」がなければ語れるわけがない。ましてや聴くことはできない)
ここで忌避されているのは、あれこれとぐずぐず思い迷う時間。すぐに答えを出さずに、じぶんをニュートラルに漂わせていられる場所である。(ボのありかた)
…「ぐずぐず」と思い悩むことは、わたしたちが手放してはならない権利の一つである。問題を前にしてじぶんの意思を決める前に十分な時間的猶予を与えられる権利であるといってもよい。
…じぶんでもよく問題がつかめないときに、それについてもっと多くの情報を得るための時間、あるいは他人の助言や専門家のセカンド・オピニオンを得るための時間、じぶんが言いよどんでいることや迷っていることを他の人によく聴いてもらえる時間、そのなかでやがて決定を下せるようになるまで、思い悩むそのプロセス(読書会のありかた)
▽230 西欧社会は「普通の人」を市民として、鍛えるために哲学教育をしてきた。日本の哲学は「普通の人」を鍛えるものとしてほとんどなんの役割も果たしていない。そこに日本における哲学の病理があったと思う。
▽233 専門家への信頼の根はいつの時代も、学舎がその知性をじぶんの利益のために使っていないというところにある。なのに、このたびの震災対応において、政治家・官僚も…工学研究者も、みずからの職務にひたすら「忠実」な行動しかしなかった。その知性を「私的」に使用した。
▽234 哲学的対話がめざすのは合意ではない。問題の所在を探ること、問いが書き換えられていくプロセスそのものをシェアすることにある。そのときに重要なのが「対等な立場で」ということ。
▽239 「みえていはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」とは、詩人の長田弘の言葉だが、「てつがく」についてもたぶんおなじことがいえる。
▽241 わたし(たち)の存在は、他の人たちとの関係のなかで保たれるものである。そうした関係から外されると消えてゆくものである。だから、わたしがわたしでありつづけるためには、わたしがわたしとして消え入りそうなまさにそのときに、だれかに引き留められるのでなければならない。

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